直正、往生すっ
夜も更けた頃合い、駕籠を運ぶ大名行列は江戸の町を発って一路、東海道を西へ西へと進んでいた。行列を作る人々は誰もどこか顔に覇気がなく、後ろめたそうに下を向きながら歩いていた。
駕籠の中でも年若き男が一人、暗い面持ちで黙りこくって座っていた。
男はまだこの年十七の齢を刻んだばかりだが、その顔は既に為政者の風格をまとっていた。
面長な顔に髷を結った頭、真っ直ぐに通った鼻筋とキッと引き締めた唇。何より、暗闇でも光るその目は全てを見抜く鋭さを持ちながら、誰でも包むような温かさを併せ持ち、どこか人を惹きつける魅力を持っていた。
そんな彼は揺れる駕籠の中で座りながら腕を組み、眉を厳しげに傾けていた。
彼は出立前に起こっていたことを頭に反芻していた。江戸の町を発つ時の出来事が、出発してから数刻経った今なお彼の頭に渦巻いていた。
「決して忘れはしまい」
彼は心にそう誓っていた。
「あれほどの屈辱は生涯味わったことがない。この先の人生で決して忘れることはないだろう」
彼は、名を鍋島直正という。
一八三〇年、この年鍋島直正は十七歳にして、父鍋島斉直から跡を継ぎ、佐賀藩の第十代藩主となった。
この時、佐賀藩は長崎の警備を担当していたが二十年ほど前に起こったとある事件が原因で、その警備の負担がひどく重いものとなっていた。
加えて、2年前、後に<シーボルト台風>と呼ばれることとなる巨大な台風が佐賀藩に襲来し、甚大な被害をもたらしていた。その影響もあって人的にも財政的にも佐賀藩は非常にひっ迫しており、藩政の見直しは佐賀藩にとって喫緊の課題となっていた。
早い話が、佐賀藩はこの時、超が三つは付くほどの財政困難だったのである。
この状況にあって、直正は決して下を向いたりはしていなかった。江戸で学んだ西洋の先進的な技術を藩独自に取り入れ、必ずや佐賀藩の状況を好転させようと、気を吐いていたのだった。
しかし、江戸出立時のことだった。
出立時刻を過ぎても直正は江戸の藩邸を出ることができなかった。
佐賀藩の藩邸に江戸の商人たちが押し寄せ、佐賀藩の家臣たちに売掛金を支払うよう要求していたのである。だがこの時、佐賀藩邸の資金は既に枯渇しており、家臣たちに支度料を用意することもままならない状況だった。そのため、商人たちに売掛金の支払いもできない状況で江戸の出発を引き留められる騒動になってしまっていたのである。
結局、どうにか騒動が収まり、出立できたのは夜になってからとなってしまった。
江戸の町では、町人たちが口々に、
「商人たちもとんだ災難だったな」
「佐賀藩の新しい当主は十七だろ? 大丈夫か?」
と憐れみとも嘲りともつかない言葉を吐いていた。
この声は駕籠の中の直正にもしっかり聞こえ、直正は屈辱で歯を食いしばるしかなかった。
藩政のひっ迫は承知していたつもりだったが、ここまで悪化していたことに直正は激しく動揺した。
<添うて苦労は覚悟だけれど 添わぬ先からこの苦労>
江戸の町で聞いた都都逸がふと頭に浮かんで、しかし直正はすぐにそんな歌を頭から消した。
「そんな後ろ向きな歌を思い浮かべている場合じゃない。この悔しさを忘れず、一刻も早く佐賀藩を立て直さねばならぬ」
直正は改めてそう決意し、佐賀藩へと向かっていったのだった。
一八三五年、直正が江戸の町から佐賀藩に戻って早五年が経ったが、佐賀藩の立て直しは遅々として進まなかった。
この間、直正は何もせずにいたわけではない。むしろ佐賀藩に帰還した直正は、すぐに藩政の立て直しを図るべく、行動を起こした。
佐賀藩に戻った直正は、まず、佐賀藩の主要な役務である長崎警備の現状を確認しにいった。
佐賀藩は当時、幕府から日本で唯一西洋船が往来していた長崎港を、福岡藩と一年交代で警備する軍役を与えられていた。直正は佐賀藩の重要な役であるこの長崎警備の状況を視察しに行ったのである。
この視察において、直正は和蘭の技術力に圧倒された。
長崎港に投錨している和蘭の商船に直正は直に乗り込み、その技術の高さに驚かされた。
まず当時の日本における一般的な船舶と比較しても、その大きさ、強度において和蘭船は圧倒的であった。加えて、商船に備え付けられていた大砲の類でさえ、当時の日本の装備を遥かに超える性能だった。
こういった西洋に対抗するためには日本はこれら西洋の先端技術を学び、それを取り入れねばならないと直正は考えていた。
そしてそれを真っ先に実践しなければならないのは、西洋の玄関口、長崎を警備する佐賀藩でなければならないと強く感じていたのである。
だが、当の佐賀藩の立て直しの進みは芳しくなかった。
まず佐賀藩の財政を立て直そうと、直正は家臣たちに質素倹約を呼びかける倹約令を発した。
佐賀藩の財源はほとんど借銀によって賄われている自転車操業状態だったため、直正は安定した年貢収入で藩政を運営できるようになるまで、粗衣粗食を呼びかけたのである。
直正自身も粗衣粗食を徹底し、家臣と食べるものは変わらず、着るものも質素なものを選び、財政改革に奔走していた。
しかし、古くからいる家臣たちからはこの政策は反発を食らうこととなった。
そもそも、佐賀藩の財政悪化の一因には、直正の先代藩主・鍋島斉直の隠居後の浪費もあり、古くからいる家臣はその贅沢な暮らしになれているため、質素倹約を主張する直正の改革とは相容れないものだったのである。
佐賀藩の立て直しを志した直正ではあったが、家臣たちの心はこれら旧態依然とした慣習に縛られ、古くからの老臣たちは直正の行動を疎ましく思ってすらいた。
このような状況では改革など起こせる余地もなく、直正の焦心とは裏腹に、佐賀藩の窮状は臨界点に達しようとしていた。
そんなある夜のことだった。
直正の居城である佐賀城の二の丸において火災が発生した。
火は一夜にして消し止められたものの、二の丸は全焼してしまった。当然佐賀藩にはそれを再建するだけの財源などなく、財政のひっ迫している佐賀藩にとってはこれは止めの一撃と言っていいほどの損失であった。
「もう佐賀藩は終わりだ……。ただでさえ藩政は火の車じゃというのに二の丸まで燃えてしまっては」
「こんな状況で藩を立て直すなど無理だ……」
家臣たちの誰もがうなだれて
焼け落ちた二の丸を見て、直正はしばし呆然と立ち尽くした。
本当に終わりなのか。
佐賀藩はこのまま立ち直ることはできないのか。
………………………………………………………………………………いや。
直正は、黒く燃え焦げ、まだわずかに煙を上げる燃え跡を前にして、
「ふっ、ふふふっ、ハーッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」
天高く、盛大な笑い声を上げた。
周囲にいた家臣たちは狼狽し、直正に近づいて様子を窺った。
「殿! ご乱心召されたか!? このようなことになって残念ではありまするが、殿が正気を保たねば……」
「何を言うか! 私は至って正気だ!」直正はそれに笑顔で応えた。
「この燃え跡を見よ! 何も残っていない! 二の丸は完全に焼失した。だが、これは天啓だ! 『古き慣習を捨て、新しき時代を見よ!』という天からの啓示に相違ない! 今この時こそ、佐賀藩が前に進むために、改革を実行する時だ! 今を逃しては佐賀藩に未来はないぞ! 我々は佐賀藩を、この日ノ本で一番の素晴らしいものにせねばならん! さあ、今すぐに取り掛かろう!! 嘆いて下を向いている暇などないぞ!」
その言葉どおりに、直正はここから「佐賀藩の天保改革」と呼ばれる数々の改革を断行していくこととなるのである。
歴史に「もし」があったなら。
この時、もしも二の丸が焼失することなく、直正の改革が遅れていたのなら、後にぺリー来航の折に幕府から依頼される大砲五〇門の準備ができなかったばかりか、その後のロシアのプリャーチン海軍中将を乗せた船の長崎来航において、日米の条約よりもさらに悪条件の条約を一方的に締結されることになったかもしれない。
だが、歴史にその「もし」はなく、そして歴史はそんな未来を許さなかったのだった。
この二の丸火災に端を発した直正の改革によって、佐賀藩はその後の日本に多大なる影響を及ぼし、後に「幕末最強」と謳われる藩へと成長を遂げることとなるのである。