この恋を忘れたとしても
■
「何かしら、これ」
作り付けの机。その引き出しの一番奥に隠すように置かれた小箱。
ベルベットでできた小箱を開くと、中には綺麗なペンダントが入っていた。
「なぜこのような物が、私の机に?」
手に取って、矯めつ眇めつ眺めてみても全く見覚えは無かった。
けれど、そのペンダントトップに飾られた美しい紅玉石が夕日を受けて輝く様を見ていると、何故だか胸の奥が切なく騒めいた。
全寮制であった学園生活も明日の卒業式を以て終わりとなる。
私は式が終わり次第、自領へと帰ることになっている。
辺境にある男爵家の令嬢が、王都の学園へ進学を許されただけでも凄いことだ。
普通は主家となる侯爵家の下へ行儀見習いへ出されて教育とするのが一般的だ。
私の地元だけでなく王都の学府へ行かせて貰えた男爵家の子女は私が初めてだと、会う人ごとに言われてきた。
「領地を発展させるお役に立てるかが、これからの私の課題ね」
法律も、土木も、農業技術も。
目についた領地を発展させる為に役立ちそうな授業はすべて受講した。
お陰で三年間の学園生活はすべて教室と図書室、そして質問しにいく教務室での記憶ばかりだ。
本を買って帰れるほどのお金もないので必死にノートへ書き写した。
お陰で寮を引き払うのもひと苦労だ。
「とはいっても、クラスメイトの令嬢みたいにドレスが詰めきれないより楽でしょうけれど」
地方の下級貴族家の令嬢は自分ひとりだったけれど、中央の高位貴族家であるならば令息だけでなく令嬢もたくさん在籍していた。
ただし淑女科と領地経営科がほとんどで、文官になるための普通科に在籍しているのは私を含めても令嬢は三人しかいなかった。
結局残りの二人とは最後まで仲良くなることは出来なかったが、それも仕方がないのだ。
平日は、放課後だろうと昼休みだろうと図書室で借りた参考書を書き写したり、教師へ質問に行ったりして忙しいし、休日に観劇に誘われたこともあるが、簡素すぎる部屋着にしかできないワンピースでは劇場に入れて貰うことはできない。迷惑を掛けてしまう。
「淑女科にいらっしゃる公爵令嬢からのお誘いを受けたのが、最初で最後の社交の思い出ね」
『制服でよろしいのよ』
『手土産なんて。お気になさらないで』
何度も届くお茶会への招待状へ、正直にお受けできない理由を書き記して白状すれば、そのすべてに答えが用意されていて、諦めと緊張と、ほんの少しの期待を胸に指定された時間に公爵家へと伺ってみれば、結果はもう散々だった。
『いやだ。制服しかないって本気で言っていらしたのね』
『先に申し出てくださればお古のドレスを恵んで差し上げたのに』
くすくす くすくす
『流行遅れのドレスでも、地味な貴女には似合わないかもしれませんけど』
『ご実家はドレスの一枚も仕立てることができませんのね』
『ご実家が貧乏だと苦労なさいますね』
『身の程知らずにも王都までやってくるなんて。ねぇ?』
『勉強するしかありませんわね』
『あらやだ。お勉強といっても……ホラ、いろいろおありだそうじゃありませんか』
くすくす くすくす
『それにしても手ぶらで来るなんて』
『きっと下位貴族の間ではマナーが違うのです。より平民に近いのでは』
『普段の食生活も平民並みに質素なのでしょう? 存分に味わっていかれるといいわ』
『食べなれない物を食べてお腹をこわされないようお気をつけあそばせ?』
『食器の音を立てるほど急いで食べなくても。誰も貴女の食べかけなど奪いませんことよ』
『がっついてらっしゃるのね』
くすくす くすくす
『周囲の迷惑など気になさらないのね』
『あさましい』
『貧乏人が』
『あの御方の傍に立とうなんて』
『地味で不細工の癖に』
『地位も名誉もなにも持ってない癖に』
『身の程知らず』
『あの御方の隣に立とうとするなんて』
『許 せ な い』
・
・
・
「うっ」
思わず、額に手を当て目を閉じた。
あのお茶会のことを思い出すだけで軽いめまいに襲われる。頭が痛くなるのもいつものことだ。
散々な目にあったので仕方がない事だと思う。正直トラウマだ。
けれど、思い出した言葉の中に、あまり記憶にないものが混ざっていたのは何故だろう。
「あの御方って、一体? どなたのことだろう」
なにか別の記憶でも混ざってしまったのだろうか。
観劇を愉しむ余裕はなかったけれど、それでも極稀に流行り物の恋愛小説を手に取ることくらいはあった。
……そういえば、私はいつ頃から、恋愛小説を読むようになったのかしら。
「痛っ」
お茶会のことを思い出した訳でもないのに頭痛がして、目を閉じた。
疲れがたまっているのかもしれない。
明日は馬車で長距離を移動しなければならないのだ。今日は早く休んだ方がいいのかも。
それでも、机の奥で見つけてしまった見覚えのない宝飾品をそのままにしておいては、落ち着いて寝れそうになどない。
寮母さんに届けておくのが最適だろうと思い、まずはその部屋へと立ち寄る。
けれど、いつもならいらっしゃる筈のその部屋には鍵が掛かっていて「本日は留守にします」と走り書きのメモが貼られていた。
「緊急の場合は、学園の用務員室へ、か」
しかし今回の相談は用務員さんにするのはなぜか躊躇われた。
学園の職員はすべて貴族籍にある方ばかりだ。用務員さんもそう。だが、なぜか私、というより下位貴族の生徒のことはあまりよく思われていない気がするので、話し掛けるのに躊躇してしまう。
「そうだ。学園の教務室には、まだどなたか先生がいらっしゃるかもしれないわ。そちらへ預けてこよう」
明日には、学園生ではなくなってしまう。
卒業式が終わり次第、自分は遠い領地へと帰らねばならないのだから、今日の内にもう一度、学園をゆっくりと目に焼き付けておくのも悪くないかもしれない。
私は制服に着替えるため部屋へ戻った。
■
コンコンコンコン。
四回ノックして、一拍置き、部屋の中から誰何する声がなければそのまま入って良し。
最近では自分以外には誰も守っていないのではないかと思われる教務室へ入る際のマナーを守って扉を開け、さっと略式のカッツィーを取る。
「失礼致します」
声を掛けつつ、相談を持ち掛けるのにふさわしい相手が誰かを目で探した。
しかし、そもそも教務室に残っていたのはひとりきりだった。
仕立ての良い服を着こなし、ぴしりと背筋を伸ばして夕日の差し込む窓辺に佇むその人の後ろ姿は、そのスタイルの良さも相まってまるで一幅の絵のようだ。
思わず見惚れる。
声を掛けて世界を壊してしまうことを恐れた。
それでも、ノックまでして部屋へ入って来た私に気が付かない訳もなく、先生がゆっくりとこちらを向いた。
視線が合った時、まるで世界がこのまま止まってくれればいいのにという願いが、頭に思い浮かんだ。
突然の不埒な想像を振り払うように、明るく声を掛ける。
「あぁ、よかった。ダルトン先生、実はご相談があるのです」
法学の授業で担当して戴いていたダルトン先生ならば、持ち主不明の高価な宝飾品を預けるのも安心だ。
私は、正直になにも包み隠すことなく、自分の机の中から出てきた物について話した。
「ということなのです。もしかしたら、私があの部屋に入居した三年前にはすでにあの机の中にあったのかもしれません。今日という日まで気付かずに、持ち主の方にはご心配をお掛けしてしまったかと」
自らの不明を恥じつつ、ペンダントが入った箱を掲げるようにして、目を伏せる。
そもそも三年もの間、自分の部屋にあったことに気が付かないなどあり得ないだろうと呆れられても仕方がない。
それでも、そのまま知らぬふりをする訳にもいかず、こうして恥を忍んで相談にきたのだ。
それなのに。なんで、ダルトン先生は何も言ってくれないのだろう?
「先生?」
いつの間にかすぐ目の前まで来ていたダルトン先生が、差し出したてのひらの上からベルベットの小箱を取り上げた。
じっと箱を見つめ、問い質される。
「中身は? 見たのかい」
「え、はい。見事な紅玉石のペンダントが入っておりました」
あの紅玉石が、ダルトン先生の瞳によく似た色合いをしていると気が付く。
こんなに近くで見上げたのは初めてだったから、眼鏡の奥に隠れている瞳の色を意識したのは、初めてかもしれない。
──本当に?
「うっ」
「どうした? メグ、大丈夫か」
眩暈と頭痛に襲われ蹈鞴を踏んだ私を、先生の大きな手が支えてくれた。
大きくて、安心できる手だ。
──わたしは、この手を、知っている。
慌てて後ろへ下がる。
ガタンと音を立てて、後ろにあった教務机にぶつかって焦る。
「わたし……わたし、部屋へもどらないと」
今すぐにでも、教務室から出て寮の部屋へと戻らなくてはと焦る。
底なし沼に引き摺り込まれるような不安に震える身体を、あの大きな手が呼び止めた。
「ちゃんと答えろ。どうしたんだ、マーガレット・オリバー」
「駄目! 近寄らないで!」
「ひとつだけ。これだけでも答えて欲しい。そのペンダントに、見覚えは本当に無いんだね? 君には、必要がないという訳ではなく」
なぜそんなことを確かめる必要があるのかと思いつつ、素直に頷いた。
小遣いで買えるようなものではないし、実家にも買うお金などない。寄親である侯爵家なら買えるかもしれないが自分に買い与えてくれる理由はない。
もちろん、婚約者も恋人もいないマーガレットはそれを贈ってくれるような素敵な崇拝者も、いる訳がない。
──本当に?
「あたまが、いたいんです……なんで? なにか、たいせつなことを、おもいだせないの。思い出そうとすると、頭がいたくなって。眩暈もしてきて……なにも、かんがえられなくなる、の」
「メグ」
「ちかよらないで!」
「しかしっ」
「わたしのそばに、きてはだめ。皆が、不幸になってしまうから。ぜったいに、だめ」
昏くなっていく視界。私は自分が何を言っているのか理解しきれていないまま、口をついて出る言葉を止めることも出来ずに、その場へと頽れた。
■
思い出したくなどなかったのに。
──本当に?
思い出してはいけなかったのに。
あなたへの、この想いは、記憶の底に。
あのお茶会の席で、私にだけ出された色の違う紅茶。
ううん、あれは紅茶ですらなかった。
『あなたが、素直にそれを飲めば、これまでのあなたの行いについて不問にして差し上げるわ』
『おっしゃる意味が分かりません』
『いやね。頭が良い事だけが貴女の取柄なのでしょうに。聞き分けのない子は嫌いなの。貴女が受け入れないというなら、それでもいいわ。ただし』
パチン。公爵令嬢が手にした扇を音を立てて開く。
そうして口元を隠して目だけで微笑んだ。
『貴女のご実家が、どうなっても知りませんわよ?』
楽しそうに、歌うように。
美しい令嬢は、死の宣告をした。
『なんでですか!』
ガタン。思わず音を立てて椅子から立ち上がった私の肩を、公爵家の侍女たちが掴んで椅子へと強引に座り直させられた。
『ふふ。そんな風に睨みつけては駄目。その侍女たちは皆、我が家門の子爵家以上の令嬢たちよ? 貴女より爵位も上なの。弁えなさい』
黙って話の続きを促す。
『身の程知らずの男爵令嬢。確かに貴女はお勉強をしに王都へやってきたようね。きちんと勉学に励み、優秀な成績を収めた』
パチン、パチンと開け閉めされる扇の音が耳につく。
『そうして、図らずも、貴女は高位貴族の令息の心を手に入れる事まで成功してしまった』
『高位貴族、ですか?』
心当たりがなくて顔を何度も横に振る。
しかし、にこやかな表情のまま視線に怒りと憎しみを乗せて、公爵令嬢が私を射貫いた。
『ダルトン先生は、わたくしの婚約者候補です。貴女のような木っ端地方貴族の男爵令嬢に心を奪われるなど、赦せるわけがないでしょう?』
『! ダルトン先生は、婚約者も恋人もいないと仰っていました。私は先生を信じます』
ぎゅっと、制服の下に身に着けてきたペンダントを握りしめた。
『なんて不敬な!』
周囲から上がる声を、公爵令嬢はその視線だけで諫める。
そうして、握りしめた手の中にあるペンダントまでを見透かすように軽く視線を合わせた後、鼻先で笑い飛ばした。
『ふん。そのような安物に興味はないわ。取り上げたりしないから安心なさって。私にとって安物でも、貴女にとっては高価でしょう。売ればすこしは慰謝料代わりになるのではなくって?』
『私はこれを売り払ったりしません。それで……私に、どうしろとおっしゃるのですか?』
『何度も言わせないで頂戴。私は貴女に、それを飲み干しなさいと言ったのよ』
それは、淀んだ池の水のような色をしていた。濁りきった汚水のよう。
『これを飲むと、どうなりますか?』
『別に死んだりしないわ。大丈夫。わたくしは優しいの。媚薬を飲ませて男たちの中に放り込んだりもしないわ。安心して飲んで頂戴』
比較として上げられた内容が、想定していたより非道で怯む。
それでも、私には飲まないという選択肢は用意されていなかった。
『飲んだら、私の家族……寄親の侯爵家にも手出しはされないとお約束いただけますか?』
『いいわね、用心深く内容をきちんと確認できる賢い子。わたくし、賢い子は好きよ。でも、ねぇ、ここで口約束をしたとして、貴女はそれで安心できるの?』
『……なにも、確認できないまま飲むより覚悟が決まり易いです』
『ホホホ。それはそうね。えぇ、そうでしょう。いいわ、約束して上げましょう。ここにいるわたくしのお友達たちにも手出しはさせないと。私のこの美しさとプライドに賭けて。貴女がそれを飲み干した暁には、貴女のご実家にも寄親の侯爵家にも手出し無用とさせましょう』
『そんな!』『それでいいのですか』
周囲から次々と上がる声を、令嬢は完璧に無視した。
ほっそりとした美しい手に、さぁ、と促されるままに。
私は、瀟洒なカップに注がれた、濁った泥水のようなものを、飲み干した。
視界が昏くなり、頭の中を直接手でかき混ぜられているような不快感に頭を押さえる。
『ふふ。本当に飲んだのね。凄いわ、貴女。わたくしには死んでも無理だわ。そうね、ご褒美に教えてあげる。貴女は死なないわ。お勉強に関する記憶も失ったりしない、筈よ。この辺りはよく分からないの。ごめんなさいね。貴女が確実に失うのは、ひとつだけ』
ずっと対面の席に座っていた公爵令嬢が、今はすぐ横に立っていた。
首元へと手が伸びてくる。
避けたいのに、身体が言うことを聞かない。
ぷちっ。小さな音を立てて、瀟洒なチェーンが奪われていく。
『う、ばわないって……いった、のに』
『大丈夫。これは、いつか見つかるように、返してあげる。私が貴女から奪うものはひとつだけ』
『?』
『あの御方への、恋心よ』
公爵令嬢が、美しい顔を歪めて、嗤った。
■
目が覚めたら、知らない天井が目に入った。
天蓋付きのベッドだ。
清潔なそこに寝かされていたらしい。
ゆっくりと起き上がると、胸元でシャラリと金属が擦れる音がした。
紅玉石が嵌ったトップを握り締めた。
なぜかそれは、てのひらの中に馴染んで、マーガレットの心を励ました。
そっとベッドから降りようとして、自分がやわらかな夜着に着替えさせられていることに気が付いて赤面した。
ベッドの上に掛けてあったガウンを掻き寄せ、羽織る。
四柱式のベッドの天蓋から覗いてみれば、大きな張り出し窓の前に、見知った人が立っていた。
開け放たれた窓の外には、バルコニーがあるのが見える。
月の灯りが照らすその場所は、まるで別の世界のようだった。
「ダルトン先生」
「ハイライト公爵家の令嬢は、西方国の第六夫人となる為に出国されたよ」
西方国は、五年ほど前から交易が始まった国だ。
異国情緒のある美しい絹や象嵌技術に長けており、当時は邸の飾りつけを西方国風に煌びやかに飾り付けることがブームにもなった。
文化が花開く西方国。現王の治世は長く、御本人もかなりの高齢であると聞く。
そうしていくら豊かな国の国王の妻となろうとも、その六人目の妻ともなれば、愛妾と同じ扱いだろう。
「今回の件が、原因ですか」
思わず声が震える。
吹けば飛ぶような地方貴族、それも最下位となる男爵家の令嬢に嫌がらせをしただけにしては、あまりにも罰が大きい気がした。
もしそうだとしたならば、公爵家の恨みはマーガレット個人を超えて家にも及ぶかもしれない。
けれど、ダルトン先生はゆっくりと首を振った。
「いいや。彼女の婚姻は、交易が始まってすぐにそう決まった。わが国には未婚の王女はいないからね。王家の血筋を汲む彼の公爵家の令嬢が選ばれるのは当たり前のことだ。だが、それならばせめて成人するまではと公爵家たっての願いを陛下が聞き入れられ、相手方にもお待ちいただいていただけだ」
「でも、ダルトン先生はあの御方の婚約者だったのでは?」
「なんだそれは」
まるで苦いものでも口につっこまれたかのように、心の底から嫌そうな顔をした。
「私に婚約者はいない。生まれてこの方、一度も持ったことはない。君は、私が婚約者がいながら、君へそんな贈り物をするような男だと思ったのか。心外だ」
目を据わらせて睨まれる。
しかし、その目元はほんのりと朱く色づいていた。
思わずぽかんと見上げてしまう。
私の視線に気が付いたのか、ダルトン先生はふいっと横を向いて口調を固くした。
「ここから先は、君にだけは説明することを許可されている。が、他の誰にも口外しないと誓約を交わして貰わねば教えることはできない。それでも、彼女の動機や本当の罪状を知りたいかい?」
覚悟を決めてこくりと頷く。
ダルトン先生は、ため息をつくと誓約書を取り出した。
「まず、茶会の席で君が飲まされた薬は、通称『想い忘れ』と呼ばれている忘却薬だ。忘却といっても効果は限定されている。王家に伝わる秘薬で、恋心を消す効能があるそうだ。ちなみに今は、忘却薬に対して効果があるのかは微妙だというが、念の為の解毒作用のある薬を君は処方されている。この処置は王宮薬師によって正しく行われた。着替えさせたのも王宮侍女たちだ。安心したまえ。ただし、その……時間が経ってしまっているので、処置に効果があるかどうかはわからないらしい」
効果のない処置というのも気になるが、なによりもあのお茶会で飲まされた濁った汚水のようなものの効果に目を瞠った。
「恋心を、消す?」
何の為に? と思った瞬間、私を見つめるダルトン先生の視線に、身体の熱が上がった。
視線が絡む。
そうして私は、私が、誰への想いを消されてしまったのか、理解した。
「あの」
突然突きつけられた己の恋心に混乱する私に、先生が淡々と説明を続ける。
「王女の婚姻というものは、国の内外にかかわらず政略結婚が当たり前だ。政治的に安定させる為ならば、敵国にさえも嫁入りすることだってある。そんな運命を背負う王女が、自国内に想いを残さない為に作られたそうだ」
今回の公爵令嬢のように、ということだろうか。
誰もが夢見るように美しい公爵令嬢。
その婚姻が、献上品としてのものになるなど誰が想像しただろう。
「あの薬は、公爵令嬢が使う為に下賜された?」
「そういうことだ。それを、ただ下位貴族の令嬢が恋愛結婚をしそうだという噂を聞いただけで、邪魔をする為に使うなんて」
「……恋愛けっ」
思わず呟く。
「そうだ。君は、私が決死の覚悟で伝えた言葉も、覚えていないだろうが」
寂しそうな声に、のぼせそうだった顔から血が下がっていく。
「そんな気まぐれに運命を踏みにじられるなど。私個人としてだけでなく、到底許されるべきではない」
気まぐれ。本当に、そんな理由だろうか。
彼女はそんなくだらない理由で、王家から下賜された秘薬を使ってしまったというのだろうか。
■
『わたくし、賢い子は好きよ』
公爵令嬢の、誇り高き声。
マーガレット個人の資質を見極めようとするように見つめる瞳も。
『ふふ。本当に飲んだのね。凄いわ、貴女。わたくしには死んでも無理だわ』
あの言葉の意味する所は。
あの声に、嘲りではなく、憧憬を感じたのは気のせいだろうか。
「あの、……本当に、ダルトン先生は、公爵令嬢の婚約者候補に、挙がった事すらないのですか?」
意を決して口にした問い掛けだったのに、ダルトン先生は心底嫌そうにそれを否定した。
「私は伯爵家のしがない三男だ。継ぐ爵位もなく、騎士になるほどの才能もなかった。だから必死で勉強に励み、幸運にも法学の資格を取ることができて王宮に勤めることが叶うも、こうして学園に派遣されて教師をするような出世とは縁遠い男だ。そんな男が、公爵令嬢の婚約者になど。候補ですら挙がる筈がない」
つらつらと説明を受ければ納得するしかなく、確かに選ばれる可能性はなさそうに聞こえる。
それでも、と私は思ってしまうのだ。
ダルトン先生の中にある真実と、公爵令嬢の心の中にある真実は、まるで違っていたのではないかと。
「プロポーズを受けてくれた筈の君から無視を受けるようになった時、どれだけ私がショックを受けたか。君にはわからないだろう。そのペンダントを受け取ってくれて嬉しかった。だからこそ、苦しかった。冷静になってみれば、歳が離れすぎているし、私は流行も、遊び方もよく知らない。勉強ばかりしてきた男の心を受け入れてくれる筈がなかったんだと」
「そんなことっ。先生は、素敵です。いつも姿勢が良くて、どんな生徒にも平等で。厳しいところもあるけど、それでも優しいところもちゃんとあって。それに、あっ」
ぎゅっと。つよく抱き締められた。
夕方会った時には、綺麗に撫でつけられていた髪が、今はぼさぼさになっていてマーガレットの頬を擽る。
「君は、あの薬を飲まされていなければ、今もずっと、私の傍にいてくれたと思っていいのだろうか」
「先生、その表現はあまりにも遠回りすぎませんか」
「好きだ。さきほどの解呪薬で解呪する処置の効果がでなかったとしても、もう一度君に好きになって貰えるように努力する。だから、どうか私のことを、もう一度視界に入れてくれないだろうか」
授業についていけずに質問にいけば、丁寧に言葉を噛み砕くように説明してくれる。優しく尊敬できる教師。最初はただそれだけだったのに。
誰に対しても紳士的な態度を崩さずにいる彼を、目で探すようになるまでそれほど時間を要さなかった。
仕立ての良いスーツを着こなす姿勢のよい姿が視界にあるだけで世界が明るく感じた。
あのお茶会の後だって。
いつの間にか、そうなっていた。
「私の実家の領地、すっごい田舎ですよ? 先生が勉強してきた知識は、寄親の侯爵家では引き立てられると思いますけど」
「その返事ならすでに一度している。問題ない」
「娯楽も少ないし」
「楽しみは作り出せばいいのだろう? 本は幾らでも取り寄せればいい。それ位の給金は貰っているし、貯めてある。本が増えたら領民に貸し出してもいい。勉強を教えるのも楽しそうだ」
「それに……」
「だいじょうぶだ。君がいてくれるなら、それだけで私は幸せなのだから」
この恋を忘れさせられようとも。
何度でも。
あなたがあなたでいる限り。
「私も、お慕いしております。何度忘れさせられようとも。何度でも、あなたを」
お付き合いありがとうございましたー!