第九十二話 ずっと自分の名前、カルメンだと思ってた?
いくら血の匂いを嗅いだからってここは日本。
異世界じゃない。
なので最初に考えられるのは事故だ。
でも、ドアの隙間が広がるにつれて血の匂いは強くなり、
菜穂さんも気づいて顔をしかめた。
同時に部屋の奥から床を叩くような、規則的な音。
ひどく身体の芯に響く音だ。
「菜穂さん、グローブ出して」
「え? コーイチ君、絶対に出すなって……
てかこれ血の匂い? 関谷さ~ん、大丈夫で──」
無警戒に入っていこうとする菜穂さんの腕を掴む。
なんかヤバい。
空気が似てるんだよ、森で処刑人とやり合ったときと。
「俺が見てくる、菜穂さんはここにいて」
「なんかヤバい感じ? 警察?」
「わからない。反応ないし、とりあえずスマホ出していつでも
通話できるようにしといて」
菜穂さんはグローブを俺に渡しつつ、スマホを構える。
なんで真昼間なのにこんなに薄暗いんだよ。
カーテン閉まってる?
靴は……脱がないでおこう。土足で失礼。
床を叩くような音は台所と居間を分ける引き戸の向こうから。
すりガラスに濃い色の液体が飛び散ってる。
無言で後ろの菜穂さんに合図。
引き戸のハンドルに手をかけてそっと引いてみた。
音をたてたくなかったけど、レールが古いのか。
ガタガタとうるさい。
でも中にいた連中はこっちを見もしなかった。
床に倒れた男性に、一組の男女が餅つきでもするみたいに
作業的に得物を振り下ろしていた。
ゴルフクラブとホームセンターに売ってる長柄のハンマー。
二人ともレインコート着てるんだよ。
それがほんとに何ていうか……たまらなく怖かった。
目の前の光景が計画されたもの、
理性の下に描かれたっていう事実が、俺の理性を蝕む。
倒れた男性の頭部は潰れて跡形もなくなってるのに、
こいつらはまだ殴り続けてる。
ゴルフクラブのヘッドが床を叩く固い音がうるさい。
けど、揺れた死体の腕が床を擦る音のほうが、
まるで助けを求めてるみたいで、耳にこびりついた。
思わず後ずさって、後ろにいる菜穂さんに背中がぶつかる。
「菜穂さん⁉ こっち来ちゃダメだ、逃げて!」
菜穂さんに声が届かない。呆然と立ち尽くしてる。
こんなものを見れば当たり前──
「杏奈?」
菜穂さんの一言で殴り続けてた男女の動きが止まった。
レインコートのフードで顔が隠れてて、ゴルフクラブを
振り上げた女が安奈さんかどうかなんてわからない。
菜穂さんが部屋に一歩踏み込もうとした瞬間、男のほうが
獣じみた素早さでハンマーをスイングする。
俺は菜穂さんを後ろに突き飛ばしながら、のけ反って避ける。
処刑人の剣を避けたときと一緒だ。
あれを見てなかったら頭潰れてたよ。
ハンマーは引き戸と壁を軽々と引き裂き、粉砕する。
片手で、長柄の端を持って、どうしてそんな力が出せる?
人間の膂力じゃない。
でもそれより驚いたのは、俺の動きだ。
ハンマーが目の前を通り過ぎると同時に前に踏み込んでた。
両の拳は握りしめて、グローブ内の砂状の鉛が固まってる。
岩みたいに固めた拳が肩から撃ち出されるように、
男の顔面にまっすぐ飛んでいった。
「うあああぁぁぁぁぁ‼」
叫んじゃってたよ。
だってこんなグローブで人の顔面を思い切り殴ったら、
重傷どころかヘタすれば死──
腹に大木でも突っ込んできたみたいだ。
男は殴られても怯まずに、ハンマーの柄で俺の腹を突いてきた。
吐き出した液体、胃液であってくれ。
血だったら内臓がやられてる。
喉が焼けて、加熱した空気みたいので胸が圧迫されて、
息ができなかった。
痛いっていうより苦しくて、筋肉も心臓もめちゃくちゃに
跳ね回って、膝をついてた。
「コーイチ君!」
菜穂さんが俺の名前を叫んだのが聞こえて、顔を上げた。
ゴルフクラブだ。
綺麗な弧を描いて俺の頭に吸い込まれそうだ。
菜穂さんが間に入らなかったら、俺も床に倒れてただろうな。
ヘッドより下の柄の部分だったけど、受け止めた菜穂さんの左腕は
踏みつけた枯れ枝みたいに曲がった。
ちくしょう……
なんで誰かが傷つくまで聞こえてこないんだ。
俺の腕の、犬の唸り声みたいな音。
殴られた腹に響いて全身が痛え。
射線に入らないように菜穂さんを抱き寄せる。
ゴルフクラブに手のひらを向け、ゴルフクラブをねじるように
手首を回して拳を握った。
ゴルフクラブがもつれた糸みたいに丸まる。
そのまま女の胸の中央にも手を向けるが……
…………
…………
……握れない。
潰せない。
男のほうは俺がどうするのか、じっと見ていたが、
俺が何もできないでいると小さく笑った。
俺のパンチで折れた鼻をつまんで直してる。
血があんなに出てるのに、平然と。
「……群道君、なの?」
俺の腕の中で菜穂さんが苦しそうに呻く。
俺が群道君の顔を知ってても、そんなにひしゃげた顔じゃ、
判別なんかできなかったろうな。
二人はつまらなそうに肩をすくめ、
そっちが玄関であるかのように窓に向かう。
「おい、待て!」
なんて口で言いつつも、追いかける気はゼロ。
三階の窓から悠然と飛び降りる二人を見送るだけだ。
そして安心してる。
頭を潰された遺体を目の前に。
同じ目に合わなくてよかったって。
「群道君……杏奈と群道君だったよね? なんで……
なんでこんなこと……」
「ごめん、俺にはわかんない。それより腕、どう?」
「くっそ痛い」
「無茶するなよ、盾になるなんて無謀すぎる」
「えへへ、とっさにね。前もずっとそうだったし。
私がタンク、コーイチ君がディーリング」
「は?」
「あ、ヤバ、すげーヒント出しちゃった。
……ていうかもうこれ答えだ」
菜穂さんが遺体を見ないように彼女の頭を胸に抱く。
警察が来るまで一歩も動けない、たぶん。
俺は頭が潰れてるのを見ても、平気だった。
別に見たくはないけど、見ても何も感じない。
こういうの、慣れたくないなあ……。
で、ぼんやりと見てたら頭の中でパンッていろいろ繋がった。
昔やってたWoW。戦闘中の音楽が菜穂さんの着信音。
よく一緒に組んでたタンク。
「カーマイン?」
「誰よ、それ⁉ 他にも付き合ってるタンクいたの?」
「いねえよ。俺、固定メンバーとしかやってないし。
カーマインだろ? あの赤い装備ばっか集めてた頭の悪い……」
「カルメンだよ! 間違えてるよ! 頭悪くないわ、
評判のメインタンクだったわ」
「いやカーマインだって。Carmine。
カルメンはCarmen」
菜穂さんが俺の胸に額をぐりぐり押し付けてる。
それって記憶辿ってるの?
「あ~~、予測変換使ってたから、間違えてたかも?」
「ずっと自分の名前、カルメンだと思ってた?」
急に腕の痛みが増したフリすんな。
いや、ほんとに痛いんだろうけども……。
菜穂さんは腕が折れてて、俺は腹から背中、それと腕も痛い。
エリン様の謎エネルギー使うと身体にダメージが来る。
グローブも内側から破れてボロボロ。
でもそんな状態で、遺体を目の前にして、俺たち笑ってる。
だってカルメンをカーマインだぜ?
「いくらヒント出してもわかんないわけだよ。
答えのほうが間違っちゃってるんだから。バカだわ、
そりゃーバカって言われるわ」
「俺はずっとセナコーだったからなあ」
「すぐにわかったよ。
コーイチ君もすぐにわかってくれると思ったのにな……」
「俺が薄情みたいに言うなよ」
「薄情だよ、カーマインがカルメンの打ち間違いってくらい
気づけよ~~」
「気づいたら逆に怖いって」
「うん、ま、なんにせよ、久しぶりだね、セナコー」
「ああ、また組めて嬉しいよ、カーマイン」
映画館の迷惑なカップルみたいに声を押し殺して笑って、
そのうち菜穂さんが小刻みに震えだす。
汗が冷たい。
菜穂さん、寒いんだ。
寒くて寒くて、たまらない。
「なんで……なんでこんなことになってるの?
何が起こってるの? ねえ、コーイチ君、私……」
「大丈夫だよ、言って」
「……怖い」
「うん」
「怖いよ、コーイチ君……」
俺がそうだったよ。
リディアにしがみついて泣いてた俺がそうだった。
気が済むまで泣かないと震えが止まらなかった。
俺も怖いけど、菜穂さんよりは怖くないと思うから……
今は俺の胸で、震えて泣いて。
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