「渡海」─琉球怪談─
今日もいる……。
もう何回みたのか数えるのも、ばかばかしい。
沖縄県海名村に沖縄の本土復帰直後に極小規模の半島を丸々デベロッパーが買い漁ったものを別の事業者が整備したホテルがある。半島ごと私有地であるためプライベートビーチを備えた宿として名をあげ、夏季シーズン中は多くの観光客がこのホテルを利用する。
俺はこの県内屈指の有名なホテルで、全国より半月ほど早い梅雨明けと同時にビーチ監視員のバイトを始めた。
沖縄の海は「第十一管区海上保安本部」が管轄している。その広大な海洋専有面積を管理するために全国でも最大規模の組織で、子供の頃、密着取材型のTV番組を見て憧れるようになった。今は地元の大学に通っているが、卒業したら海上保安庁へ入ることを目標にしている。小遣い稼ぎをしつつ、採用試験の履歴書にも書くことができるビーチ監視員の仕事は俺にとってはうってつけの仕事といえる。
沖縄のビーチは公共、私営ともに遊泳期間中はハブクラゲ侵入防止ネットが張られている。遊泳エリアが区切られているおかげで、ビーチ内での水難事故は他県に比べて少ない。そのためネット外で泳ごうとする人へスピーカーを用いて注意することが仕事の大半となっている。
昨年の夏も別のビーチで監視員のバイトをやっていたので慣れたものだが、今年は少し状況が違っていた。ビーチのど真ん中に海面から岩柱が突き出した拝所がある。沖縄にはいたるところにこういった拝所が存在し、沖縄ではユタと呼ばれる霊媒師のひと達が神様に祈りを捧げる場となっている。このビーチ内の拝所も昔から外礁に浮かんでいた岩場周辺を人工的にビーチ化したそうだ。親父が若い頃はこの辺りは神聖な場所として地元のひとは、むやみに立ち入らないようにしていたそうだ。
だからなのか、その岩柱の隣に女性の頭だけが海面から頭を覗かせ、沖の方を向いている。バイト仲間に聞いてもなにも視えないらしい。周囲の遊泳客も彼女が目に入っていない。ごく自然にマリンレジャーを楽しんでいる。
一ヵ月以上は観察しているが、ピクリとも動かない。最初は浮標かも? と考え、朝夕のハブクラゲネットの点検時に海の方から見てみたが、やはり人の顔だった。
彫りが深く南国美人と呼ぶにふさわしい。だがその表情は無機質で恐ろしく長い黒髪が海面に八方へ広がっている。とてもではないが、近づく勇気は俺にはない。チラチラと盗み見しても俺の存在に気が付いていないのか、ずっと沖の方を凝視している。
今日は8月13日で本土ではお盆にあたるが、例年、沖縄のお盆は「旧盆」と呼ばれ旧暦の7月13日から15日の期間を指す。全国のお盆とは毎年ズレることが多いが、今年はたまたま日付が重なった。
そして沖縄では旧暦7月8日あたりから旧盆が終わるまでは「海へ近づかない」。
一般家庭だけでなく、地元の漁師さん達もこれを守っている。俺も両親や祖父母からキツく言いつけられていたが、バイトなのでやむなくビーチに来ている。
まあ最近では、親世代でもこの迷信じみた話を気にすることなく、泳いだりする人も中にはいる。だが気にしている多くの人はビーチパーティーやBBQで海には行くが、海の中には入らないようにしている。
そんなしきたりがあるとは露知らず、本土から訪れている観光客は無邪気に泳いでいて、教えてあげたくなるが、そこはあくまで地元ルールである。せっかく沖縄の青い海を楽しみにして来ているお客さんの気分を害するのもどうかと思う。
夕方、ビーチ内へ遊泳終了のアナウンスが流れると、海水浴を楽しんでいた人たちが、次々と砂浜へ上がってホテルの手前にあるシャワールームへ向かっていく。
俺以外のビーチ監視員のふたりはハブクラゲネットの外側からボートを出して、陽が沈む前に破れたり、絡んでいないかの点検に出ている。ふとみると最後にまだ海から上がってきてないカップルがいたので手元にあるメガホンで呼びかける。
その途端、とぷん、と男性が海中に沈み姿がみえなくなった。この時間の潮の満ち引きの潮位からいけば、身長が150センチもあれば、溺れることはまずないはずなのに。大声で同僚を呼びながら、レスキューチューブのラインを肩に掛けて急行する。そこで不謹慎にも注意が逸れてしまった。
──いない。
いつもそこにいるはずの女性の幽霊が、こつ然と姿を消している。イヤな予感しかしない。人命救助に意識を戻して、男性が溺れて沈んでいる女性の元へ急行すると、女性は呆然と立ち尽くしていた。パニックになって、男性を助けようとして一緒に溺れるよりはマシだが、明らかに様子がおかしい。
「手が……」
近づいてきた俺にそう呟いた女性は顔が蒼ざめ、ガチガチと歯を嚙み鳴らしている。一気に潜行する。水中ゴーグルをつけているが、やや陽も沈みかけてているせいか、海中がはっきりみえない。
深い……。遊泳区域内なのにこんなところに深いところがあった? 水深が2メートル以上あるようにみえる。気のせいではない。たしかに深い。
理解した。それと同時にカラダじゅうの体温が下がるのを感じた。半透明の無数の夥しい手が砂底で男性の首を絞め、両手、両足を握りしめている。
まだ意識がある。必死にもがいているが、口からどんどん息が漏れ出ていて、かなり危ない状況にある。
男性の手首を掴んで無理やり引っ張り上げながら、反対の手でレスキューチューブに繋がっているラインを思いきり引っぱる。
ダメだ……。成人男性ふたり分の浮力を持つレスキューチューブでも引っ張り上げることができない。
「ゔっ」
後ろから首を絞められ、両手両足をそばの男性と同じように海底へ引きずり降ろされ、縫い付けられる。
──苦しい。
首を絞められているせいで、間違って海水を吸ってしまいパニックに陥る。
──むねかつ?
──宗勝なの?
頭の中に直接声が響く。海底から頭を出しているのは、あの女性の幽霊でまばたきもせずじろりと俺のことを見ている。宗勝……聞いたことがある名前に頭の中の記憶をたぐり寄せる。
この地方に伝わる本当にあった出来事が浮かんできた。
夫が海に琉球式小舟で漁に出て、急な嵐に見舞われ、帰らぬ人となり、妻が水難事故に効果があるとされる御願廻りをしたそうだ。だが何周、何十周と続けても戻らぬ夫を思うがあまり気が触れてしまった妻が、身投げしたと聞いたことがある。夫の名前は宗勝。そして妻の名前はマツ。
助けてくれるのか?
意識を失う前にみたのは、長い髪の毛を自在に操り隣の男性と俺のカラダを拘束している半透明の手を千切り、砕いていた。
それから一ヶ月以上が経った。
カップルの男性は女性とともに救助され、俺は相変わらずビーチ監視員の仕事を続けていた。
あの半透明の手のことをあとで冷静になってみると思い出した。あれは無縁霊と呼ばれるお盆に自分の帰る家が分からず、陸に上がれない霊達。海の中に入った生きている人間をあの世に連れて帰ろうとすると祖父から聞いたことがある。
沖縄のお盆は初日に後生と呼ばれるあの世から海を渡って霊がやってくると考えられている。霊たちに対し、お迎えのため、家主が住所を読み上げ、先祖霊の名を呼び、家に招き入れる。家の敷地の四隅には魔除けである「ゲーン」や「シバ」。門前や屋根の上にシーサーを置いて、悪霊……魔物を家の中に入れないようにするなど、いまだに昔ながらの言い伝えを大事にしている家が多い。
あの女性……マツは旧盆のあの水難事故の日までは沖の方を見ていたが、今はコチラをじっと見ている。口元にはわずかに笑みを浮かべていて、目つきが常人のそれではない。
旧盆にあの世から帰ってくるかもしれないと百年以上も待ち続けておかしくなってしまったのだろうか?
不気味すぎて、何度もこのバイトをやめようかと考えたが、不思議とそれをしなかった……。
なにが引き金になったのかわからない。今まで微動だにせずコチラを見ていたマツが動き出した。頭だけ海面から出ていたのに肩、腰、足と砂浜にあがるにつれて、その姿があらわになる。
ぴくりとも動けない……。マツが監視台のそばにいる俺に向かって声をかけた。
「今日で四十九日が終わったね」
四十九日って、いったい誰の?
あの水難事故では誰も死ななかったのに……。
「宗勝、行きましょう?」
マツが金縛りに遭っている俺の手を引く。
あれ? 俺の手が透けている……。
──思い出した。
あの時、マツは俺を助けようとしたんじゃない。
後生へ連れて逝こうと俺の首を……。