空鯨の章:序3
「ん?」
川で顔を洗っていると、急に辺りが陰になった。
顔を上げると、鯨が飛んでいた。
「サティア!」
声を掛ければ、川に入ってパチャパチャと足を遊ばせていた少女が顔を上げた。
彼女の所は陰になっていなかったが、空を指差せばすぐに気付いたようだった。
「お腹、大きい?」
「あぁ、随分低い所を飛んでるし、この乾季で出産する母親だろう」
やがて母鯨は飛んでいった。重そうな腹を抱えて、間も無く出産だろう。
荒原を川沿いに進み始めて2日が経っていた。
昼間の荒原は気温が高く、ちょっとした休憩時には川で汗を流して涼むのがこの2日間の定番となっていた。
サティアも冷える夜間こそ、ラマガイという厚手の民族衣装を着込むものの、昼間はラクタイという肌着のような薄手の服で活動している。
一方、大型草食獣のタダリはというと、一昨日の昼に暑さを考慮して毛を苅られていた。
年間を通して雪が見えるような場所ならば、マハトルカシャの長毛は確かに強力な防寒具となるだろうが、流石に30℃を超える日中では最早拷問だ。
すっかり短毛になって、毛の分だけ随分痩せたように見えるタダリだが、当の本人は全く気にせず水浴びをしていた。
川の中で横たわって全身で水の流れを受け止めながら、頭だけ動かして川岸に生えてる草を食んでいる。
・・・獣に言うのもなんだが、完全に休日のおっさんだった。
ふと東を見れば、時折空からキラキラと反射する光が見える。
「だいぶ集まってきてるみたいだな」
アレチトビクジラの体表は特殊な油で覆われ、太陽光の一部を反射する。
故にあの煌めきは、彼らが飛んでいる証拠なのだ。
この2日間で60頭以上のクジラが俺達を抜いて行った。
好奇心に目を輝かせる子供と、それを牽引する母親。
発情期に入り落ち着かない若い個体。
一体何年を生きたのか、傷だらけの巨体を悠然と揺らすオス。
そして見るからに重そうな腹をかかえたメス。
それらの全てが今、あの煌めきに紛れている。
「今日・・・は無理か。明日だな。明日の昼には湖に着ける筈だ」
・・・
返事が無い。
振り向くと、少女は川の中で屈んで何かを見ていた。
「・・・どうした?」
少女は何も言わず、ただこちらに手招きをしてくる。
近付いてみると、砂の色によく紛れる、前足が生えた魚のような生き物が居た。
「クロア、なにこれ?」
「・・・確かスケッチを見た気が」
あれはいつの事だったか・・・3年前、ムルシア王立調査隊のものだった筈。
砂に紛れる黄金色の体。後ろ足は無く、細長い体と小さめの前肢。
学名はまだ無いが、論文で暫定的には
「・・・"ラハルサイレン"」
「ラハルサイレン?」
確かそう呼ばれていた筈だ。
「サイレンてなに?」
「両生類って知ってるか?」
「・・・聞いたことはあるけど・・・」
クルエスト山脈には、殆ど両生類は生息していない。
特にニアフ族が居る高山地帯ではとても両生類が生息出来るような環境では無い。見た事が無いのも当然だろう。
「両生類っていうのは、こうやって水辺に住む奴らさ。
トカゲとかの爬虫類みたく鱗は持たないが形は似てる奴が居たり、魚でもないのにエラを持つ奴がいる。
その中でもサイレンってのは、尻尾を持っててトカゲに似てる連中の、更に後ろ足を持たない種類だよ」
「そ、そんないきものがいるんだ・・・」
「ただ・・・確かこいつは、本当のサイレンじゃ無いって言われてた筈だ」
「どういう事?」
「サイレンってのは、ずいぶん昔に後ろ足を無くしたって考えられてる。
だけどこのシア荒原地帯が出来たのは比較的最近だし、何よりコイツは、本来サイレンは後ろ足の痕跡を骨盤ごとほぼ完全に無くしてるのに、こいつは骨盤も後ろ足の痕跡もある。繁殖方法だって違う。
そして何より、この標高の高い荒原地帯に、後ろ足の無いサイレンが登って来れるとは考えにくいんだ」
そう。見た目こそサイレンに似ているが、詳しく見れば見る程似て非なるものと思えてくる。
「そうして論文の最後で暫定的に出されたものが、見た目が似ていて繁殖方法も合っているイモリ科、ラハルサイレンモドキって名前だな」
サティアがじっとラハルサイレンモドキを見つめている。
何か、例えばずっと探していた宝を不意に見付けてしまったかのような、その光景を必死に目に焼き付けるような、真剣な眼差し。
「クロア」
暫くして、漸くサティアが口を開いた。
「世界には、まだまだ私が見た事も無いような生き物が、私が想像もしなかったような生き物が沢山いるんだね」
「・・・あぁ」