声なき声
ヅーラ男爵が胸元から出したのは、端々がよれよれの一冊の手記だった。表紙には『ジャック・マゼラン』と記されている。
身動きの取れないマルセラの目の色が変わった。
「父上の手記! やはり貴様が! 返すのだ! それは貴様のような卑劣漢が持って良い物ではない!」
「ホホホッ! 返さな~い! この手記は素晴らしいわ! 前【冒険王】ジャック・マゼランの冒険団! 【カオス・フロンティア】が制覇した各国のカオスピアの地理、いまだ眠る遺物たちが詳細に記されているのよぉ! こいつの利用価値は未知数! 世界政府【ユートピア】すら出し抜ける! それを返せ? ありえな~い!?」
ヅーラ男爵はニィと粘着質に笑う。この男は世界政府や迷宮軍すら裏切って成り上がろうというのか。あまりにも大層な野望だ。しかし、それを可能にする力が手記に秘められているのも事実だとマルセラは知っている。
父親と自分の夢の証が悪用されることだけはあってはならない。かくなる上はこの場で、己の命と引き換えに処分する必要があるだろう。
男爵はそんなマルセラの考えを嘲笑う。
「なんてね、【サメノテ】」
バリバリバリッ! と古い紙と革の表紙が食い散らかされる。マルセラは夢破られる光景を胡乱な目で見つめることしかできなかった。
「……あ、ああ……あああっ!」
「ホホホッ、実はもうデータで保存済みなのよね。ほら、返してあげる」
枯れた花弁のようにはらはらと紙片が舞い、マルセラとヅーラ男爵の足元に散った。夢の欠片たちは塵となり、地面に積もり、風に巻かれ吹かれていく。マルセラはそれを眺めることしかできない無力さを呪った。父の遺志を継ぐこともできず、自らの意志を貫き通すことも叶わず、何が冒険者だろう。
「ホホッ、ホホホホホッ! その目、その心の支えがポキるところがみたかったのよォ!」
ここぞとばかりにマルセラをあざ笑うヅーラ男爵。品性を疑うレベルの下卑た笑みだ。
ーーパキャッ!
そんなヅーラ男爵の頭に高速回転のかかった小石がぶつかる。瞬間、基地内の空気がサーッと冷えていく。
小石を投げたのは喉を貫かれたはずの青年、風便の騎士エルメルだった。エルメルは何かを打ち出したあとのように、親指を立てていた。おそらく親指で弾いた石の礫を風のアーツで撃ち出し、ヅーラ男爵を狙撃したのだろう。
「支給品の回復薬をつかったのかしら? ちゃんと服用せずに薬液ぶっかけたせいで肌がただれてるじゃない。それにしてもあなたにアタイを撃つ勇気があったとはねぇ」
「…………」
無言で第ニ射を構えるエルメル。反旗の意志を示すには充分な行為だっただろう。彼の膝はがくがくと震えていたが、目は揺れずに男爵に狙いを定めていた。
しかし、わざわざ命を捨てるような行為をマルセラが許すはずがなかった。傷口が痛むのを堪えながら忠告する。
「き、騎士殿、逃げるのだ!」
せっかくの説得の言葉だったが、エルメルは首を振って否定した。彼の顔は恐怖に染まっていた。血の気は引いているし、唇は青くなって震えている。
「嫌だ!」
それはエルメル自身ではなく、彼の代名詞たる風のアーツ【エアメール】によるものだ。空気を振動させ自分の声を正確に再現している。それだけでアーツに天賦の才があることが分かる。
「純粋に冒険がしたいだけのマルセラさんのような冒険者をこんな目に……! 僕は……僕は……あんたが大っっっ嫌いだ! この、オカマ面男爵!」
男爵の背後で「ぷっ」と吹き出すような含み笑いが聞こえた。今までの男爵の横暴が不満となって溢れたのだろうか。どちらにせよ今の男爵の堪忍袋の緒をちぎるには十分すぎた。
「フー…………」
呆れた溜息の後、男爵は吠えた。
「エェェェェェルゥゥゥゥゥメェェェェェルゥゥゥゥゥ!!」
「ぐあッ!」
【サメノテ】に咥えられていたマルセラが地面に捨てられる。
ヅーラ男爵は怒号を撒き散らしながら、反逆の部下に突進した。血と暴力の恐怖を撒き散らす双頭の【サメノテ】で、今度こそエルメルの喉笛を食いちぎるつもりだろう。
「死にぬぁさい!!!」
「そうはさせない」
カラン、コロンと軽快に音を響かせて、一つの影が騎士と男爵の間に割って入る。
エルメルを噛み殺すはずだった【サメノテ】が乱入者の手で止められる。鉄すら噛み砕く【サメノテ】があっさり受け止められたことに、ヅーラ男爵は驚きを隠せなかった。
「あぁぁぁ~ん誰ぇ!?」
男爵が気持ち悪い喘ぎ声を上げる。
至極当然の質問に答えたのは、フラフラと立ち上がったマルセラだった。
「ラスト殿!」
「しばらく見ぬうちにまたボロ雑巾みたいになってんなマルセラ!」
そう、その影の主は、【海樹林マリングローブ】に向かったはずのラストだった。
ヅーラ男爵はラストの奇抜な格好を見て少し前の報告を思い出した。
「下駄アロハのガキ……!」
「ガキじゃない。ラストだ。しかし、お前の手はチクチクするな。奇天烈な怪腕め」
「それはお互い様でしょ!」
筋肉質に盛り上がった両腕と血管の浮き出た鮫の手が拮抗している。しかし、すぐにその均衡は崩れた。【サメノテ】の牙がラストの両手をグチャっとミンチにした。
背後のエルメルがぎょっとしていたが、ラストの身体について知っていたマルセラは苦い顔をしていた。
「ホホッ、不用意に【サメノテ】に触れるからよ! このままバラバラ、に……」
そう意気込むヅーラ男爵だったが、次の瞬間、体がピクリとも動かないことに気づく。視線だけ動かせば体中にピンク色の粘液が絡みついていた。
「き、きもっ! なにこれぇ!?」
「オーガの筋肉繊維を練り込んだスライムの粘液。生半可な力じゃ解けん」
「いや意味不明よっ!?」
「うるさいオカマだな」
ぶちん、と腕を自切してから、ラストは切れた腕を再生する。凄まじい回復力である。
ラストはヒステリックに叫ぶオカマを放置し、エルメルの手を引っ張ってマルセラの所に駆け寄る。マルセラは呆然としながらラストとエルメルを見つめた。
「ラスト殿、どうして……」
「エルメルの声が聞こえたんだ。『マルセラさんを助けて』って」
それは声の出せなかったエルメルが、決死で出したSOSの風の便り。ラストはそれを聞きつけ、急いでリュウキュウ基地まで戻ってきたのだ。
「それに」
下駄アロハの青年は口角を限界まで上げて笑う。ラストは荷物から一冊の手記を取り出し、少女に放る。
「この手記を奪ってもらうと約束したからな。俺は約束は必ず守る。たとえ相手が破ろうとしてもだ」
「ふっ、律儀な男なのだ……いいのである、ここはひとまず引こうではないか」
「承知した! エルメル、撤退するぞ!」
「はいっ、【ウィンドカーテン】!」
エルメルが風のアーツを地面に使い、土煙を巻き上げる。あっという間に撤退用の煙幕を作り出し、三人は迷宮軍の基地から逃走を始める。
「ちょっ、まちなさ~い!! このっ、必ず海の藻屑にしてやるわっ! 必ずよぉっ! 雑兵どもっ! 早くこのキモスライムをおほどきっ! ちくしょ~~~っ!」
ヅーラ男爵の悔し気な叫びを背に、三人は【海樹林マリングローブ】に向かって走り続ける。マルセラは
「もうすぐ……【海樹林マリングローブ】は目の前に!」
ラストが期待に満ちた笑みを浮かべる。
「ラスト殿」
「なんだ?」
「吾輩は、そなたと出会えたことを誇りに思う。もちろんエルメル殿との出会いもだ。さきの啖呵、惚れ惚れした。胸がすっとしたわ」
「いやぁ、マルセラさんに褒められるほどじゃないですよ……へへ」
憧れの冒険者から栄誉ある言葉を戴いたことで、エルメルは茹蛸になったように顔面を真っ赤にする。
そうこうしているうちに【海樹林マリングローブ】と外界との境界が迫る。半透膜のような魔力の壁に飛び込むその刹那、マルセラは両隣の二人の肩を寄せる。
「吾輩と共に……白紙の手記を埋めようではないか。世界の果てまでを記録し、踏破し、知らしめるのだ。吾輩たちの生きざまはここにあり、と!」
「そいつは最高だ、俺は乗った! お前もどうだエルメル!」
「え、ええ!? 僕も、いいんですか!?」
「当然なのだ! ほら、もう海樹林に入るぞ! エルメル殿も気を引きしめい!」
そして三人は新世界への壁を破った。




