風便の騎士
【海樹林マリングローブ】の冒険者ギルドを目指すラストたち。その一方で、海樹林周辺に駐屯する迷宮軍にも動きがあった。
威光を見せつけるように巨大に建設された迷宮軍の基地には、その象徴である軍旗がはためいている。己の尾を食む円環の蛇――ウロボロスが描かれた軍旗である。
現在、基地の作戦室には、迷宮軍リュウキュウ基地を統率する幹部とその部下がいた。座るパイプ椅子が小さく見えるほどの巨漢と彼の前に立つ背の低い青年。
巨漢が青年を睨みつける。
蛇に睨まれた蛙のように青年が縮み上がる。
「なんですってえ? もう一度言ってみなさい?」
迷宮軍幹部ヅーラ・ウニ男爵。迷宮軍が定めた爵位持ちであり、リュウキュウを統治する権限を持つ迷宮貴族の一人である。圧倒的武力を持ってカオスピアを統治する、現在の地球における権力者でもある。
金のティアラを頭に乗せるヅーラ男爵は、肩にかかる黒い髪を指ですいた。胸元は大胆に開けており、改造軍服を着ていることがすぐわかる。その襟元にはカサゴの鰭ようなトゲが付いていた。
そして、彼はムキムキだった。
彼。そうヅーラ男爵は生物学上は列記とした男である。ただ心が乙女に寄っている男というだけである。
「はい男爵。港町の詰め所から冒険者マルセラ・マゼランと下駄アロハの子供が脱走しました」
「誰がそんな萎える報告言えっつったのよっ!」
「いぎっ!」
ヅーラ男爵は報告した若葉色の髪の部下を殴った。部下は部屋の壁にたたきつけられた。唇から血が滴っている。口の中を切ったようだ。
「エルメル、あなた本当にアタイを舐め腐るのが好きみたいね。アタイのお気に入りとはいえ、良い気になってると串刺しにするわよ」
エルメルと呼ばれた青年は、身の危険を感じて震えあがった。
リュウキュウ基地内の最高位、ヅーラ男爵に目をつけられたら最後、どんな人間だろうと男爵の手によって串刺しの刑に処される。それはここの迷宮軍内では誰でも知っている事実である。まだニッポンが日本と呼ばれたころなら考えられないようなパワハラ上司であった。
「ひィ! 舐めるなんてとんでもないです! 自分、奴らの動向をチェックしてくるんでこれにて失礼します!」
脱兎のごとく作戦室を後にするエルメル。こんな訳の分からないトゲ男に逆らう勇気など青年にはなかったからだ。
「いてて……やってられない」
エルメルは仮説基地内でも人目のつかない場所に出た。重い重いため息をひとつ吐いたエルメルは、目を瞑り、両手を耳の後ろに着けた。静かに、基地内での騒音を遠ざけていくように耳を澄ませる。
エルメルの両手に目に見えないエネルギーが集まっていく。
――風の便りよ。
心の中で呪文を唱えた直後、エルメルの周囲の風向きが変わる。邪魔な音が乗る風をすべて排除し、自分の聴きたい場所からの風の音がエルメルに届く。
『見えてきたのだ。あの背が高く、アフロのような葉が生い茂っているところが【海樹林マリングローブ】なのだ』
『お〜、空飛ぶ魚がいっぱいだぁ! あれが海樹林?』
エルメルの耳が捉えたのは、海樹林の入口へと向かう二人組の会話だった。
この魔法の力はアーツと呼ばれていた。カオスピアが現れてから、現代科学の常識をぶち壊したモノの一つである。いつのまにか、カオスピアの住人が使うこの奇跡の技術を、地球人類も使えるようになっていた。
エルメルは特に風のアーツを得意としていた。というより風のアーツしか使えないというのが正しい。その適性の高さは随一で、リュウキュウ内で右に出るものがいないほどの才覚だった。
情報戦においてエルメルの風のアーツは強力なアドバンテージを持つ。それを見抜いたヅーラ男爵はエルメルを気に入り、迷宮軍に徴兵し、騎士爵位まで与えて取り立てたのだ。それも【風便】などという通り名まで付けられて。
そうして得た騎士という地位だったが、正直、エルメルは嬉しくなかった。給料は良いし、ヅーラ男爵からのパワハラ――と若干のセクハラ――を除けば、優遇されていると言ってもいい。しかし、エルメルは騎士という立場に満足していなかった。そもそも迷宮軍に入隊すること自体が想定外だった。
なぜなら彼は――。
「マルセラ・マゼラン! あの前【冒険王】の娘に生で会えるなんて! ああ、夢みたいだ……頼んだらサインもらえるかな……!」
なぜなら彼は、重度の冒険者オタクであったから。
そんなエルメルが迷宮軍に居続ける理由はただ一つ。
憧れの冒険者に会えるから、だけであった。