3話目
(椎菜)
信じられなかった。何かの作為としか思えなかった。
今まで何人かと付き合ってきたけれど、こんなよく分からない別れの切り出され方は初めてだった。
「椎菜。ごめん、急に電話して。少し話があってさ」
いつもよりも真剣な声のトーンだった。
「え……いきなりどうしたんですか? 何かあったんですか?」
いつもと違う、空気。雰囲気。それが何故か私を不安にさせた。
それから彼が続けた言葉は、私にとって信じられないものだった。
「椎菜、ごめん、俺と別れてくれ」
つい二時間前まで、電話で仲良く話していた。次のデートはお台場にしようとか、そんなことを話していた。それなのに。
「え、なんで? いきなりどうして?」
あまりに突然の報告に、私は思わず、大きな声を出してしまった。
そんな、何で、私何か悪いことした?
付き合ってから、彼とケンカしたことなんて一度もない。私はずっと、彼に合わせてきた。デートの時間も、心も、何もかも。
それは全部、モテている彼を私のもとに引き付けておくため。
それなのに何で、こんなの、おかしい。
「理由は……突然、好きな人が出来た、から。ごめんな、椎菜」
なにそれ、どういうこと? 通じないよ、そんな理屈。
怒鳴れなかった。彼に怒りをぶつけられなかった。
何故なら、その時の私には現実を素直に受け入れられなかったから。これはウソだ。何かのドッキリだと、そう思っていたから。
固まる私、声も出ない私をよそに、彼は「ごめんな」と、それだけ何回も言って、勝手に電話を切った。
まだ、何も解決していない。何で勝手に切ったの。
というか、何でこんなことになったの?
ふと、そう考えたとき、二時間前のあの映像が頭に浮かんだ。
「運を移動できる」そんな素っ頓狂なことを言っていた子供と、それを半ば信じていた瑛子。
あれがもし、本当だったら……
※
(瑛子)
今日は日直で、十七時近くまで教室に居残っていた。
外は野球部の叫び声と、吹奏楽部の金管楽器の音出しが重なって、静かな空間が好きな私には、少しだけ
苦痛だった。
でも、そんな苦痛跳ね飛ばすくらい、昨日と今日は幸せな二日間だった。
先輩と付き合って、その次の朝、一緒に登校して、一緒に話して。幸せだった。
昇降口から一歩先に出て、あたりを見渡すと、いつも見ていた景色が輝いて見えた。ああ、こんなにも綺麗なものだったんだ。
今日の放課後は、部活が忙しくて、一緒に帰れないみたいだけど、それもまた幸せだった。先輩に会えな
くて寂しいという、彼女だけが持てる気持ちを味わえたことが嬉しかったからだ。
だから今日の下校は、一人で返っているのに、とても楽しい。
こうなったのも、全部ミュータンのおかげ、なのかもしれない。
……
昨日、私と椎菜とミュータンと話した場所。そこに着いたとき、私は急に夢見心地から現実に戻された。
そこにいたのは、少ししょんぼりしているように見えるミュータンと、怒りを抑えきれないといった様子の椎菜。
「あれ、二人とも、どうしたの?」
私はあいさつ代わりにそう言った。しかし椎菜はその言葉を聞いている様子もなく、ズカズカと私に近づいてきた。
「瑛子! あんた昨日、何かあった? あったでしょ!」
とても、怒っていた。
そして、その瞬間に、私はミュータンが主張する「運の移動」というものが、本物の力だということに気づいた。
恐らく、私が先輩と付き合えたのは、運の移動が為されて、私にラッキーが移ったから。
恐らく、椎菜がこんなに怒っているのは、先輩が別れを切り出したから。
そうに違いない。
だとしたら、ここで真実は、言わない方が良い。
「いや、何にも無かったよ。寧ろ昨日は、自転車で転んで、今日はアンラッキーだなって、そう思ったくらい」
私はウソを言った。真っ赤な方便。
私がそう言うと、椎菜は何かおかしいな、と言った顔をして、私に突っかかるのを辞めた。
「そ、そうなんだ。ならいいんだけど」
「椎菜は? どうしたの? 昨日何かあったの?」
知っている。けど、知らないフリ。
だってそうしないと、バレてしまう。
「私、昨日先輩と別れた」
知ってます。先輩昨日、私に告ってきたから。
「私、振られちゃった。振られちゃったよぉ、グスッ……」
突然、涙を流す椎菜。どうやら、情緒不安定のようだ。
「昨日まで、う、凄い仲良かったのに、グズ、なんか突然好きな人ができたって。私、何にも悪いことし
てないのに! 何で、何でって考えたら、もしかしてミュータンのラッキーおすそ分けの奴がもしかして原因かもって、それで……!」
「そんな訳ないじゃん。椎菜、昨日言ってたよね。こんなのウソだって」
私は涙を流して悲しむ椎菜を抱き寄せ、よしよししながら、そう言った。
「そ、そうだけどぉ……!」
椎菜が、顔を上げる。そして私に向かって、目を真っ赤にした顔で言う。
「ラッキーを移動する石、次は私に頂戴!」
「あーごめん、今日それ持ってないんだ。ごめんね。でも明日渡すから、それまで待っててくれない?」
「明日!!?」
不安そうな声、表情で私を見つめる椎菜。
「何よ。まさか椎菜がそんなの信じてると思わなかったから、持ってこなかったんだよ。ごめんね」
笑顔を混ぜつつ、そう言った。
「じゃあ、また明日ね」
そして、逃げ。
その場から早々に立ち去ることで、墓穴を掘ることを防ぐ。
しかし修羅場は未だ、終わっていなかった。
椎菜から数弱メートルくらい離れた地点、そのくらいまで歩いた先に、ミュータンの姿があった。
「瑛子さん、何であなたは、嘘を吐いたでちゅか?」
単純な、興味の顔、知的好奇心旺盛な顔。鉛筆とノートを準備して、彼女は私にそう聞いた。
「昨日、確かに運の移動は起こり、そしてあなたは幸せな想いをし、椎菜さんは不幸になったはずでちゅ。なのに何故、まるで何も起こっていなかったかのように、嘘を吐くのでっちゅか?」
「あんた、それ椎菜に言いたいわけ?」
私が彼女からの問いに対して、最初に出た言葉がこれだった。
不正を指摘された時、早々に逆ギレ。私はいつから、こんなゆがんだ性格になってしまったのか。
「いや、そんなことをしたいわけではないでちゅ。あたいはただ、興味があるだけでっちゅ……人間の感情や、行動原理に」
それは、裏のなさそうな笑顔だった。私には一層そう見えた。鏡に映る私の表情とは、まるで違ったものだったから。
だから信じた。私は信じて、全てを話すことにした。
「そう、嘘。私が椎菜に言ったことは嘘。何でかって、それは私がもっと幸せになるため。あそこで全部バレて、玉を取られたら、今度は私に間違いなく不幸が訪れる。私は折角手にした今この幸せを無駄にしたくない。だから嘘を吐いた」
「そう、でちゅか、では今日は玉を使わないと、そう椎菜さんに言った。その言葉も、もしかして嘘でちゅか?」
純粋な表情で、そう問いてくる宇宙人の少女。彼女は私の全てを見透かして、あえてそう言っているのかもしれないと、そんなことを感じた。
「ええ、嘘よ。玉なら今私が持ってる」
そう言って私は、ポケットの中から玉を取り出し、それを握りしめる。
「幸せになれるチャンスがあるなら、私はいくらだって汚い人間になるわ」
まただ。昨日と同じく、また握りしめた手に力が入る。謎の力だ。これが恐らく、運の移動を可能にしている未知のエネルギーなのだろう。
「中澤椎菜からラッキーを三十%貰う!」
「おめでとうでちゅ。ラッキーが三十%、移動したでっちゅ」
※
帰宅後、私と母が仲良くスイートポテトを作っている最中に、インターホンが鳴った。
「何かしら、瑛子、ちょっと出てきてくれる?」
「はーい!」
エプロンを取って、キッチンから飛び出し、インターホンの画面を映した私は、その先に映ったものを見て、思わず一歩、後ずさりしてしまった。
『瑛子。ママ、ごめん』
インターホン越しに、私達にそう言ってきたのは、数年前に蒸発した父その人だった。
私の夢は、中学生から変わらない。私のずっと描いていた想いは、家族みんながもう一度仲良くなって、楽しく暮らすことだった。
父が寝坊して、それを勢いよく母が起こして、きっちり学校へ行く準備ができている私と、忙しそうに食器を並べる母と、それを寝ぼけた目で見つめる父と、一緒にご飯をもう一度食べたいと思っていた。
幼いころ、父は私に母の自慢ばかりしていた。ママは可愛いだろう。優しいだろう。料理が上手だろうって。
私はそんな、母のことを自慢する父が好きだった。みんな仲良く生活していた時期が、恋しくてたまらなかった。
そんな未来が、遂に来たんだ。
普通の幸せを味わえる日が、私にも来たんだ。
※
(椎菜)
「ただいまー」
傷心気味の中、家に帰宅したら何か異質な空気を感じた。
重い、緊迫した空気。リビングへ続く扉を開けると、そこには父親と母親が対をなして座っていた。
テーブルの上には、離婚届。
「……あ、椎菜、帰ってきたのね」
聞こえたのは、生気のない母の声。
「ど、どうしたの、そんな暗い顔して。てかそれ、もしかして離婚届……?」
「この人、会社クビになったのよ。だから離婚するの」
母が、父の顔を指さして、そう言った。父は顔を上げず、私の方も見ず、何も言わない。
「え、クビ……! な、何で」
「それは、パパから聞きなさい」
冷たく、突き放すような声で、母は私にそう言った。
「パパ……どうしてなの?」
恐る恐る、聞く。
すると突然、父が立ち上がった。そして勢いよく私の両肩を掴み、涙ながらに私に向かって叫んだ。
「違う! 魔が差したんだ! 俺だってこんなことはしたくなかった! でも、生意気な若い女がいて……つい、つい無理矢理ッ……!!!」
その瞬間、頭が真っ白になった。
私は、大好きだった父親の顔が、突然醜悪な、腐った中年の顔に見えてしまった。
私にとって一番大切な家族が、今完全に、死んだ。
私は振り返る。玄関、誰もいない。でもその先、玄関の先。外に出て少し走れば、瑛子の家には着く。
もしかして、もしかして……
いや、そんな訳。でももし、これが全部、これが全部運を移動した結果なら。
返して、私の運。返して。
※
乱暴にドアを開けて、全速力で走り抜ける。
彼女のもと、瑛子のもとへと。
走っている途中に、どんどん浮かび上がる。私の家族の思い出。
小学生の時、父親の節分の鬼が怖すぎて、思わず泣いてしまったこと。
中学生の時、塾の費用をお父さんが全部お小遣いで払ってくれたこと。
ママとパパと、人生初の宅配ピザを頼んで、沢山騒いだこと。
走馬灯のように、駆け抜け、そして消える。
優しかった父の顔が、汚いレイプ魔の顔へと変わっていく。
「いやだよ。こんなの嫌だ」
そんなことを呟きながら、走っていると、その先に一人の見知った影が見えた。
「長崎、先輩……」
こんなところで、何を。
どうやら、電話をしているようだ。
気づかれないように、足を止めて、そっと耳を立ててみた。
「そっか、お父さん帰ってきたんだ。良かったね。瑛子」
「家族といっぱい遊んだら、今度俺にも構ってね、大好きだよ」
嘘。
本当だったの……?
「瑛子。私を騙したの……?」