ファミリーアパート
洗濯機が外にあるだけで、こんなに憂鬱になるとは。
玄関先のすぐ脇で、僕は太陽の圧倒的な存在感を背中で感じながら、汚れ物を中古の洗濯機に詰めていった。そうしているあいだにも、こめかみから汗が幾筋も伝う。今着ているTシャツも洗ってしまいたくなる。
社会人になって初めての一人暮らしは、想像よりも地味でしんどいものだった。学生のあいだは時間がありあまっていたし、身の回りのことは実家暮らしゆえにすべておんぶにだっこ。そんな箱入り息子を見かねたのは家族ではなく、現在進行形で付き合っている彼女だった。彼女は大学生から一人暮らしをしていて、人一倍自立心の強い女性だ。お互いに就職が決まって、浮かれながら「一緒に暮らそうか」と言った僕に、「それは嫌」ときっぱりノーを突きつけてきた春先は記憶に新しい。
「一人暮らししたことない人と一緒に暮らすのは、私にとってリスクが大きい」
なんと冷徹な、と最初は落胆したが、今となってはなんと賢明な、と感心するばかりだ。料理は自動的に作られるわけではないし、蛇口をひねっておかなければ洗濯機は動かないし、髪の毛は将来が心配になるほど抜け落ちて、埃と一緒に日々溜まっていく。そういう当たり前の事実に気づかないでいたら、僕はきっと彼女にとんでもなく無神経な発言を繰り返していただろう。
不吉な音でうなる洗濯機に、頑張れと心の中で念じて、部屋に引っこもうとドアノブに手をかけた。しかし、そのタイミングを見計らっていたかのように、隣の隣の部屋のドアが開いた。
「あら、おはよう。朝からえらいねえ」
ひょっこりと出てきた笑顔に、僕は後ずさりしながら「おはようございます」と小さく返して、あわてて部屋に飛びこんだ。なにか声をかけられた気がしたが、聞こえなかったふりをして勢いよくドアを閉める。狭い1Kの城で、大きく息を吐いてへたりこむ。
最近、アパートの住人がじわじわ距離を詰めてこようとするのだ。
数ある物件の中から【ファミリーアパート】を選んだ理由は、なるべく安くてなるべく職場へのアクセスがよいところ、というなんとも薄っぺらいものだった。
そのせいで1Kの1の部屋は圧迫感が半端ないわ、角部屋だけにある西側の窓からは西日が容赦なく差しこんでくるわ、収納が少なすぎるわの三重苦だった。Kのほうも玄関を開けてすぐに設けられているお粗末なものだったし、トイレが近すぎて料理をする気が失せた。暮らしてみなければわからないことだらけだが、暮らす前にあまりに考えなしだったのは否めない。
それでも社会人一年目の目まぐるしさのせいで、家にいる時間は限られた。朝早く出て、帰ってくるのは日付をまたぐかまたがないか。家にたどり着いたらベッドに直行するのみだ。根城の不満をなげくには、土日の積み重ねあってこそだ。だから不便さに気づくのも先延ばしできていた。
二階への階段が急だよなあ、と少しずつ不満を持つようになってきたある夜、ドアノブになにかぶら下がっているのが目に入った。
淡いブルーの紙袋だ。中を確認すると、パン、駄菓子、タッパー。タッパーの中身は、どうもちりめん山椒らしい。はさまっていたメモ用紙を引っぱりあげる。
【よかったら食べてネ】
名前は書いていなかった。見覚えのない字だった。
ふうむ、と首をひねりながらも鍵を差しこんでいると、隣の隣の部屋のドアが開いた。ひょっこりと出てきた笑顔が「あら、こんばんは」と挨拶してくる。あわてて会釈する。このアパートのほかの住人に遭遇したのは、このときが初めてだった。
「今、帰り? 大変だねえ」
小柄でショートカットの女性は、母親と同世代、いや、もっと上だ。初対面とは思えないフランクな口調とともに、ひょこひょことかわいらしい足取りで近づいてくる。僕は若干身構えた。紙袋の存在を認めたその女性はうなずく。
「それはねえ、佐東さんからの差し入れだよ」
「佐東さん?」
「そう、佐東さん」
佐東さんって誰だ、という疑問は、にこにこと絶えない笑顔の前で弾かれ、まだ少し冷たい夜風にさらわれてしまった。
「佐東さんお手製のねえ、ちりめん山椒」
「お手製?」
「そう。山椒多めに入れたからね、とってもぴりぴりするよ。それがまたいいの」
もしかして、という疑念が頭をよぎって、おそるおそる鎌をかけてみる。
「結構なものを……ありがとうございます、佐東さん」
「どういたしまして」
やっぱりあなたが佐東さんなのか! 叫びたくなるのを、ぐっとこらえた。自分のことを苗字のさん付けで呼ぶ人との遭遇も初めてだった。
佐東さんは僕の動揺におかまいなしで、ひょこひょこ距離を詰めてくる。迫りくる笑顔は、相手を石化させる能力でも携えているのだろうか。近い、近い、異様に近い。
「このパンはねえ、あっちの大通りにできた新しいパン屋さんで買ったの。とっても美味しいんだよ。佐東さんのおすすめ」
「はあ、どうも。そうですか」
「お菓子はねえ、佐東さんのおやつのおすそ分けだよ。このおかきがおすすめ」
くくく、と佐東さんは小刻みに笑う。遠目で見ていた妖精のようなかわいらしさはどこへやら、近づけばなんだか妖怪のような不気味さがある。
「あの、なんでこれを僕に?」
名前も知らなかったし、会ったこともなかったのに。当然の疑問だと思ったが、佐東さんはどうしてそんなことを聞くんだ、とでも言いたげにほっぺたを風船のようにふくらませた。まるで子どもだ。
「もちろん家族だからだよ」
「家族?」
「同じアパートに住んでるんだから家族でしょ。本当はもっと早く差し入れしたかったけどね、あなた全然家にいなかったじゃない。ようやく落ち着いてきたのかな、と思ったからドアノブに掛けておいたんだよ」
隣の隣の部屋でも、僕が在宅かどうかわかるものなのだろうか。佐東さんはほっぺたの空気を抜いて、再びにこにこと微笑む。
まあ厚意には違いないし、近隣住民と面識を持っておくことは悪くはないだろう。住宅問題が発生したときに相談できるかもしれない。
そうプラスに捉えたものの、完璧な笑顔が少々恐ろしくて、「ありがとうございます。じゃあ」と早口で言って、部屋に入った。後ろ手でドアを閉めて鍵をかけてから、ゆっくり振りかえり、ドアスコープをのぞいてみた。
妖精のような妖怪のような子どものような中年女性が、無邪気に手を振っていた。それが住人たちと関わりはじめるきっかけだった。
ファミリーアパートは二階建ての全六戸。階段の脇には小さな掲示板がある。そこには町内会のお知らせや、詐欺の注意を促す啓発ポスターなどが貼られている。
さして目を留めないのが常だが、妙にけばけばしい色の紙が掲示してあることに気がついた。思わず二度見して、内容を確認する。印刷物かと思いきや、やたら達筆な手書きの文字が走っていた。
【隔週の美化活動を始めます。住人は必ず参加。清掃用具はこちらで用意します】
「うげえ」
思わず心の声が漏れてしまった。自然と肩が落ちる。
「若い人は嫌ですよねえ、やっぱり」
「ひっ」と情けないうめきとともに振りむくと、そこには中肉中背で地味な初老の男性がたたずんでいた。
「一〇一号室の田仲です。はじめましてですね」
あわてて僕も名乗ると「知ってますよ」と田仲さんは目を細めた。
「私はファミリーアパートの管理も請け負ってますから。実際、管理会社が町外だなんて不便でしょう。部屋の不具合とかがあれば相談してください。対応できることもあるかと思いますよ」
にっこりと笑いかけられたが、その笑顔が完璧すぎてたじろいでしまう。ただ、相談したいことなら山ほどあった。ベランダの手すりが古くて怖いだとか、鍵穴が錆びているだとか、トイレの水の流れがよくないだとか。
「例えば、あなたのお隣のお部屋。二〇二号室さん。夜中うるさくないですか?」
こちらが投げかけるまえに、田仲さんが具体例を提示してくる。一瞬不意をつかれて思考が停止したが、すぐに「いえ、特に大丈夫かと……」と回答する。僕が部屋に帰るのがかなり遅い時間だからなのか、そういった記憶はなかった。
その答えが不満だったのか、田仲さんはすっと笑みを引いた。唐突な真顔にばつが悪くなる。
「大丈夫ならいいんです。美化活動は朝九時から始めます。居住者とのコミュニケーションの場にもなりますし、楽しいと思いますよ。では、よろしくお願いします」
田仲さんは深々ときれいな角度でお辞儀してくる。この所作をされて、嫌ですとはなかなか言えない。「う、あ、はい」と絞りだすように返事をした。田仲さんは満足そうに笑顔を作りながら、一〇一号室へと消えていった。
彼女が久しぶりに「泊まりにいこうかな」とつぶやいた金曜の夜、僕は舞いあがってビールジョッキを必死に傾けた。仕事も徐々に体に染みついてきている。少なくとも彼女と会うために、前日残業をして当日早めに切りあげるくらいの調整はできるようになっていた。生ぬるい熱気に包まれたビアガーデンで、僕の頭は下心でいっぱいになる。
「明日、仕事休みだよね?」
「もちろん……あ」
「なに? 予定あるの?」
「予定っていうか、朝からアパートの美化活動があるんだ」
「なにそれ。委員会みたい……何時から?」
「九時から。まあすぐ終わると思うけど」
と、言い終わるか終わらないかのところで、彼女の顔色が変わるのを目撃してしまった。案の定「じゃあ、今日はやめとく」と、若干食い気味に彼女は断ってきた。いや、しかし、でも、とフォローの文言がいくつも思い浮かんだけれど、彼女がデザートのゼリーを取りに行く、と席を立ったところで話は終わった。断腸の思いで歯を食いしばった。
その悔しさは夜が明けても絶賛継続中だったようで、目覚ましを止めたときも僕はぎしぎしと歯ぎしりをしていた。寝癖も直さないまま、下だけジャージに履きかえて外に出た。朝からすでに太陽は活動している。まぶしさに目がなかなか開いてくれない。
階段を降りると、すでに住人は集まっているようだった。皆、談笑というよりは、ひそひそと声をひそめて密談をしている。わざと咳払いをしてから「おはようございます」と挨拶すると、住人たちは一斉にこちらを向いて『おはようございます』と声をそろえた。
初対面の人が二人いた。一人は佐東さんや田仲さんと同年代くらいの男性で、警戒心剥きだしに僕をぎょろりとにらみつけてくる。「高端です」と短くぶっきらぼうに言われ、田仲さんが「一〇二号室にお住まいの方ですよ」と補足説明してくれた。
もう一人はほかの三人に比べれば、まだ若い女性だった。化粧気のないきれいな顔立ちをしていて、「一〇三号室の涼木です」と愛想よく笑いかけてくれた。
「あれ? 二〇二号室の人はまだなんですか?」
田仲さんいわく、夜中うるさいという住人だ。隣でありながら顔を合わせたことはない。平均年齢高めの顔ぶれにどことなく居心地の悪い僕は、まだ見ぬ隣人に思いをはせた。四人はすっと顔を曇らせたが、管理人を自負する田仲さんがとりなしてくる。
「留守みたいなんですよ。もう何日も前から告知してるのに困りますね」
「若いやつ、若いやつは、そんなもんだ」
高端さんがつばを飛ばしながら毒づいた。若い人なのか、とこの場にいないことを残念に思うのと同時に、高端さんの幅広い怒りの対象に自分も含まれやしないかとひやひやした。それを見透かしたのか、涼木さんが高端さんをなだめる。
「若い人が全員そんなわけじゃないですよ」
「そうだねえ。佐東さんだって、気持ちは二十代だからね」
佐東さんの的外れなフォローには誰も乗っからないまま、美化活動が始まった。田仲さんが用意したほうき、バケツ、ブラシ、ホースが配られる。まずは各自の部屋の前の廊下を掃除することになった。
水は各自の部屋から汲んでくる。あらかた掃き掃除を終えたあと、バケツの水をばらまき、ブラシでがしがしとこすった。水をまくと、小さなゴミやこびりついた汚れが浮かんでくる。目に見えてきれいになっていくと、俄然力が入るもので、僕は気づけば熱心に廊下を磨いていた。
自分の部屋の前はもちろんだが、進めていくうちに二〇二号室の前も同様に注力していた。なぜって、隣の部屋の前はなんだか妙に汚れているのだ。夜だと素通りしていた部分も、朝の光を浴びればごまかせないくらい黒ずんでいる。ブラシを動かせば動かすほど、面白いくらい汚れが取れる。こすっていくうちに錆びた赤茶色がにじみだすと、急に勢いよく放水され、はねた水に目をつぶった。
「うわっ」
「あ、ごめんごめん。ちょっと水出しすぎたかな」
佐東さんがホースを片手に水をまいている。汚れた水は廊下の隅にある、小さな排水溝に吸いこまれていく。
「すごいねえ。とってもきれいになったよ。佐東さん、感動しちゃった」
と、佐東さんははしゃぎながら褒めてくれる。「えらいえらい」と拍手までされると、気恥ずかしくなってくる。
廊下が終われば、階段、駐輪場、ごみ置き場と分担して掃除していった。思った以上に長丁場になり、気づけば昼の十二時をとうに回っていた。
しかし、目に留まるところが見違えるほどきれいになっていくのは気持ちよかった。涼木さんが振るまってくれた麦茶は、きんと冷えていて一気に飲みほした。「あー」と声を漏らす僕を見て、四人がうれしそうに笑う。
「頑張ってくれたねえ。佐東さん、とってもうれしい」
「本当よくやってくれました。ありがとうございます」
「麦茶よければもう一杯どうですか? お疲れ様です」
「若いやつにしては、あれだ。まあ、骨のあるほうだ」
ぶっきらぼうな高端さんからも認めてもらえたようで照れくさかった。四人は白い歯を見せて、それぞれの成果をたたえ合っている。
「皆さん、仲いいんですね」
そう言うと四人は目を丸くして、それから互いにうなずき合った。
「家族だからねえ」
「家族ですからね」
「家族ですもんね」
「おまえも家族だ」
今度は僕が目を丸くする番だった。高端さんが僕の肩を力強くたたく。涼木さんが僕の手から空のグラスを受けとる。田仲さんが僕の背中を押す。佐東さんが僕に笑う。
「じゃあお昼ご飯にしようね。佐東さん、昨日の夜から張りきって仕込んでおいたからね。特にあなた、若いんだからいっぱい食べてね」
佐東さんは森の妖精のように、皆を先導した。僕はふらふらと促され、二〇一号室へと迷いこんでいった。
美化活動の日をさかいに、住人たちとの距離は急速に縮まっていった。いや、正確に言えば勝手に縮められていった。
ほぼ毎日のように僕の部屋のドアノブには、佐東さんからのおすそ分けが掛けられるようになった。タッパーを洗って返すたびに、強引に部屋に入れられ、お茶をすすめられる。
田仲さんと高端さんは、休日になると僕の部屋を突撃訪問してくるようになった。田仲さんは「部屋で困ったことはないですか?」とやたら気にかけてくるし、高端さんはむっつりとしたまま「将棋でもやるか」と将棋盤セットを持ってきて居座ろうとする。
涼木さんとはアパートの敷地内だけでなく、スーパーやコンビニなどでよく遭遇した。そのたびここは野菜が高い、あの店員は態度が悪い、などと細かな情報をくれた。
住人たちとの関係が濃くなる一方で、彼女と過ごす時間はどんどん減っていった。ドライな彼女は、僕と住人たちとの状況を聞いて、アパートに行きたくないと言いだすのだ。
「家ってプライベートな空間でしょ。そこに必要以上に入ってくる人って苦手」
彼女がいるときなら、挨拶程度で済むとなだめたところで無駄だった。
「そういう人たちは、私がいてもおかまいなしに誘ってくると思う。ごめん、それは無理」
と、にべもない。そんな展開は僕だってごめんなのだが、十分考えられるケースだし、そこで断る勇気が自分にあるかと問われれば自信はない。
さらにファミリーアパート内の回覧板が実施されることになった。定期的な食事会やハイキングなどのイベント誘致のプリントがはさまれており、皆が【参加】にマルをつけている。おまけに謎のコメント欄が設けられていて、そこには交換日記よろしく、各自の近況などが綴られていた。
【皆の好物を入れたお弁当作るから、お楽しみにネ。佐東】
【サボテンが花を咲かせました。見にきてください。田仲】
【新しいカフェができましたね。皆で行きましょう。涼木】
【将棋大会で俺に勝ったら、今度一杯おごってやる。高端】
僕は頭をかきむしった。【不参加】にマルをつければいいだけなのだが、ここで輪を乱すのは悪い気がしたし、なにより今後ここで暮らしていくうえで支障が出ないかという心配が勝った。回覧板を確認しては嫌になって目の届かないところに置き、また見返しても答えが出ずにベッドの上で転がりまわった。
何度か不毛な繰り返しをしたのちに、僕ははたと気がついた。
――隣の部屋、二〇二号室の人はどうなってる?
隣人でありながら存在感がなくて、いや、その他の住人たちの存在感が強すぎて失念していた。最近は僕の帰宅時間もましになってきている。にもかかわらず、顔を合わせたこともなければ、生活音もまるで聞こえてこない。
回覧板は当然のように二〇二号室を飛ばして、僕のもとまで回ってきている。単純に留守だからスルーされているのだろうか。しかし、アパートの住人が家族だというならば、一人を仲間外れにするのはいかがなものか。
そこで僕は不参加の仲間が増えることを期待しつつ、回覧板を二〇二号室の郵便受けに差しこんだ。回覧板が半分ほど飲みこまれたところで、ガコンとつっかえる音がした。部屋の中からは、なんの気配もない。
土曜日の夕方五時半。まだまだ夜は遠くて、西日はまぶしかった。僕はまだ見ぬ隣人に判断をゆだね、自分の部屋に戻った。
日曜日の朝、隣から物音がして目が覚めた。時計を確認すると、まだ七時だった。隣人が朝帰りでもしたのだろうか、と寝ぼけながら考えたが、物音は静まるどころか大きくなる一方で、おまけに複数人の話し声が聞こえてきたところで完全に眠気は飛んだ。
ドアを開けて外に出ると、「あら、おはよう」という佐東さんの声が飛んできた。
「なんか隣から物音が……」
「今ねえ、皆で二〇二号室を整理してたんだよ」
「整理?」
「二〇二号室の人ね、蒸発しちゃったの」
寝起きだからか、佐東さんの発言が突拍子もなさすぎるからか、僕の頭はうまく回ってくれなかった。すると、二〇二号室の中から、おなじみのメンバーがぞろぞろと荷物を運びながら出てきた。
「おや、おはようございます。早起きですね」
「ちょうどいい。おまえ、一緒に手伝え」
「おはようございます。これ、ガレージセールとかできそうですね」
涼木さんの軽やかな提案に、ほかの三人が「ガレージセール?」と食いつく。
「若い方が見ても、これなんか魅力あるんじゃないですか?」
涼木さんは手に持っていた漫画本の表紙を、僕に向けてきた。それは今流行りの少年漫画で、大人買いすべきか迷っている作品だった。「全巻そろってましたよ」という情報に、確かに値打ちはあると同意してしまう。いや、それよりも。
「蒸発って、どうしたんですか?」
「実はですね、ずっと家に帰られた様子がなかったんです。正直、家賃の振込も滞っていたようで、管理会社から私に連絡がありました。二〇二号室の方――学生さんだったんですけどね、の親御さんに連絡を取ってみたんですが、携帯にかけてもつながらない。もともと大学にも真面目に通ってはおられなかったようで、遊び歩いてるんじゃないかと。親御さんも手を焼かれている状態でした。そのままアパートの解約、部屋の荷物廃棄を申し出てこられて……業者を呼ぶとはおっしゃってましたが、できるところは我々が請け負います、とこういうことでして」
よどみなく説明する田仲さんに、僕は「はあ、はあ」と間抜けな相づちを打つことしかできなかった。そんなやり取りはどうでもいいのか、佐東さんは「で、ガレージセールってなんなの?」と無邪気な眼差しを涼木さんに向けている。高端さんもまた、二〇二号室の掃除機を大事そうに抱えながら続きを待っている。
「不要なものをガレージや庭先に並べて売るんです。駐輪場あたりで開いたら楽しそうじゃないですか?」
「バザーみたいだねえ。そういうの佐東さん、好きだよ」
「この、この掃除機は俺がもらう」
「もちろん各自で欲しいものはもらっちゃっておいて。どうですか、田仲さん?」
「賛成ですよ。というより、私の意見なんかより皆さんの意見を……」
「田仲さんがOKなら、それで決まりだよ」
「田仲さんは大黒柱ですから」
「あら、高端さん。むくれないの」
「むくれてない」
「高端さんだって大黒柱ですよ」
「皆が皆、大事な家族の一員ですよ」
「さすが。そういうふうにまとめられるのが田仲さんだねえ」
和気あいあいとしゃべりながら、四人は二〇二号室に入っていった。玄関先にぽつんと残された僕に、高端さんは「早く来い」と手招きをしてくる。部屋に上がろうとしたが、玄関先で躊躇する。四人の靴だけでなく、ここの住人の履物が散乱していたのだ。
部屋はさらに雑然としていた。食い散らかしたカップ麺の容器、脱ぎっぱなしの衣服、口をしばったごみ袋、黄ばんだカーテン、ロックバンドのポスター。
蒸発してどのくらい時が経ったのかはわからないが、顔も名前も知らない誰かが生活をしていた痕跡が、生々しく残っている。
「これ、佐東さん、もらっちゃうよ」
「じゃあ私はこっちのDVDいただきます」
「俺、炊飯器。あとアイロン」
「高端さん、高価なものばかり狙いますね」
四人がどっと笑った。朝早くからこの人たちはよくしゃべり、よく笑う。だけど、騒音の苦情は出ない。ここは彼らの家だからだ。どれだけうるさくしても問題ないのだ。
「そういえば、回覧板」
田仲さんが郵便受けを指差す。そこには僕が差しこんでおいた、回覧板があった。
「ここは空き家です。回さなくて結構ですよ。確認したら、私のところへ戻してください」
僕はあわてて回覧板を抜き、そのまま外へ出た。「回覧板だけでいいんですかー?」という声が追いかけてきて、続いて再び笑い声が起こる。自分の部屋に駆けこんでも、隣室の彼らの声は聞こえた。
たまらず僕は家を飛びだした。敷地の外へ出ると、ファミリーアパートはよそよそしいくらい、冷たい建物に見えた。駅までがむしゃらに走った。すぐに息が切れ、心臓が痛みだすが、一分一秒でも早く、その場から離れたかった。彼らの笑い声が鼓膜に張りついて、何度も周りを見回す。そのたび不審者を警戒するような目つきに刺された。
オートロックの重厚なドアを開けて、久しぶりに出会った彼女の顔は他人のようだった。「どうしたの」と戸惑いながらも、僕の異変に気づいた彼女は部屋に入るよう促した。扉が閉まるやいなや、僕は彼女をきつく抱きしめていた。彼女の手が優しく、僕の背中で上下するのを確かに感じた。
「お世話になりました」
引っ越しを決めてからはすべてが転がるように進んでいった。彼女への二度目の「一緒に暮らそう」が、すんなりと受けいれられたのには驚いた。彼女はなかなか会えない僕との関係に不安を覚えはじめ、二人暮らしの物件をチェックするようになったという。
不動産屋を回り、内見を済ませて、逃げるように荷物をまとめだしたのは秋口のころだった。日中の暑さはしつこく残りつづけていたけれど、朝晩はひんやりとした空気を感じられる季節になっていた。
引っ越しを告げると、住人たちは皆一様に顔をしかめた。まだ半年程度しか経ってないじゃないか、なにか不便なところがあるのか、などと口々にまくしたてられたが、
「家族になりたい人がいます。その人と暮らします」
と宣言すると、誰もが黙りこんだ。その日から戸惑うくらい、彼らの干渉は止まった。回覧板も回ってこなくなり、顔を合わせてもそそくさと逃げられる。四人は変わらず行動を共にしているようだが、もう僕に声がかかることはなくなった。本当にあっけない幕切れだった。
拍子抜けした僕は、引っ越しの忙しさも相まって、じゃあこのままここにいてもいいのでは、と一瞬魔が差したりもした。だけど、そんな気の迷いを打ち砕くかのように、ある晩壁の向こう側から話し声が聞こえてきた。空っぽの隣室にいるのは、間違いなくあの四人だ。僕はそっと壁に耳を当てる。
「……新しい……家族……いいねえ」
「学生は……うるさい……ごめんですよ」
「あの子……いないみたいだし……よかったです」
「あんなやつは家族じゃない」
途切れ途切れに漏れ聞こえてくる中、高端さんの声は一番よく通る。
「うるさかったら、また埋めればいい」
ヒートアップした高端さんを、さすがにほかの三人がなだめている。気づかれるはずもないのに、僕はあわてて壁から離れて、息をひそめた。
なるべく家にいる時間を少なくしながら、引っ越し当日を迎えた。誰も見送りにくる気配はない。ファミリーアパートは廃墟みたいに静まりかえっていた。段ボールを抱える業者に「静かでいいとこっすね」と言われたくらいだ。僕は苦笑いを返した。
新しい家は二人入居可能なだけあって、ファミリーアパートより断然空間が広い。先に引っ越しを済ませていた彼女は「ようこそ」と言ってから「違う、おかえり」と訂正した。僕もお邪魔します、ではなく「ただいま」と家に上がった。今日から新しい暮らしが始まる。僕はようやく深く呼吸ができる気がした。
ふと見回すと、リビングの本棚に流行りの漫画全巻セットが並んでいて、僕はぎょっとした。二〇二号室で見た、あの作品だった。
「ここの駐車場でガレージセールやってたんだ。好きでしょ、それ」
一番近くにいた他人が、僕に向かってにっこりと微笑んだ。