彼に愛されたい
かたりと物が落ちる音がして、目を開けた。
薄く目を開ければ、部屋はまだ薄暗く、夜は空けていない。それでも窓からはうっすらと白っぽくなっているから、明け方までもう少しといったところだろうか。
寝心地が悪いと思っていたら、どうやら机の上で寝てしまっていた。先ほどの音は、机の上にあったペンが床に落ちたようだ。
寝室に備え付けられた広めの机には沢山の書き損じた手紙が散らばっていた。その中に一枚だけ、色の違う手紙がある。
それを見て再び涙がこみあげてくる。
何度も何度も読み返した手紙。
今日の約束は取りやめたいと書かれた婚約者からの手紙だ。
この手紙、ここ3か月でもう10通目となる。彼はすでに成人して仕事をしているため、二人きりで一日一緒にいられる日は少ないのに、こうして悪気もなく断ってくる。先日は、とうとう夜会までエスコートを断られた。
その原因も分かっている。
「もう駄目かも」
心が限界だ。
何度もお願いしても、彼は彼女のことを切り離せない。言い訳は決まって、幼馴染の彼女が幸せな結婚ができるまで我慢してほしい。
でも、彼女は兄妹でも親族でも何でもない。
彼の両親の治めている伯爵家の領地の隣の伯爵家の令嬢。
他人だ。
わたしがこんなにも泣いているのに、彼はわたしよりも彼女が大切。
特に今日は特別な日。
わたしと彼が婚約した日なのだ。
毎年、時間がなくても、ほんの少しだけしか会えなくても、二人で次の1年もよろしくねと笑いあっていたのが遠い日のように思える。二人にとって特別な日にも彼女を優先するのだ。
もしかしたら約束を反故にされてしまうかも、という予感はしていた。
でも今日は二人にとって特別な日だから、と信じたい気持ちが大きかった。
机の上に置いてあった手紙を感情のまま手で払って乱暴に床に落とした。沢山の紙が宙を舞って床に落ちる。
落ちる涙をぬぐうことなく、紙が床に落ちるのを見ていた。床の上に散らばる手紙はわたしの気持ちのようだと自嘲気味に笑った。価値がないと言われているように思えた。
それでも願っている。
彼が元通りになってくれることを。
机の端に置いてある植木鉢に視線を向けた。鉢植えで育てていた種はわたしの願掛けに応えるように育っている。一つだけついている蕾は今にも花が咲きそうに膨らんでいた。
手を伸ばして鉢植えを抱えるようにして持った。いつものようにそっと望みを口にする。
「お願い、彼に愛されるわたしにしてちょうだい」
涙がぽたりと零れ落ちた。でも花は咲くことなく、そのまま。
気休めに渡された『奇跡の種』。それは奇跡を起こすためのものではなく、お守りのようなものなのだろう。
「願いを叶える花だと言われて育てたけど、無理よね」
小さく諦めの笑みを浮かべた。
短い時間だが朝になるまでちゃんと休んでから、お父さまに婚約破棄を伝えに行こう。すでに社交界でもわたしたちがぎくしゃくしているのは有名だ。夜会でさえ、婚約者であるわたしよりも彼女を優先したのだから、理由なんて言わなくともわかってくれる。
王家もすでに彼を見限っていた。それほど婚約者の態度は常識を外した、ひどい振る舞いだった。
政治的な理由で結ばれた婚約であったが、王太子の後見である侯爵家を蔑ろにするような相手との結婚は許されない。
王妃様の温情で、『奇跡の種』と言われた花が咲くまでの間は猶予をもらっていた。でも、大切な二人の思い出の日ですら、彼にとってもどうでもいいものになってしまった。
王家によって決められた婚約を軽く見られて、何もしないわけにはいかない。王家から取り消される前に、わたしから伝えなければいけないことだ。
11歳の時に婚約して6年。
理性では仕方がないと思えても、ゆっくりとした年月をかけて育てた彼への気持ちは簡単には消えてくれない。
鉢植えをそっと机の端に戻すと、わたしは寝台に潜り込んだ。冷たいシーツの感触に自分の体を抱きしめる。
今だけはすべてを忘れて眠ってしまいたかった。
体に違和感を覚えて目が覚めた。体を丸めて横向きに寝ていたのだが、手に変な感触がある。物凄く柔らかな毛が上掛けの中に入っているのだ。目を閉じたまま不思議に思って探っていたが、大きすぎるそのモフモフにぱちりと目を開ける。
上掛けをそっと取り除いた。
「きゃあああああああああ」
嘘、なんでこんな尻尾が?!
大きなふんわりした真っ白な尻尾を抱え込む。
わたしの悲鳴に扉がばんと乱暴に開いた。
「クローディア! どうした!?」
お父さまとお兄さまが血相を変えて飛び込んできた。丁度仕事に行くところだったのか、二人ともしっかりと外出着を着ていた。
「え?」
「あ?」
二人は茫然として寝台で丸くなっているわたしを見て固まる。
わたしはえぐえぐと泣いた。
「それは……」
「お父さま、お兄さま、どうしたらいいの?」
泣きながら縋りつくように見つめれば、お父さまが大股で近寄ってきた。強い力でがしっとわたしを抱きしめた。
「なんて可愛いんだ! ああ、その大きなふんわりした白いたれ耳、白い尻尾!」
「可愛い、可愛い!」
「え、耳?!」
尻尾だけでなく、耳まであるらしい。血の気が引くのを感じながら、そっと右手で頭に触れる。確かにふんわりした何かがある。
お兄さまは遠慮なくわたしの左耳を撫でまわした。お父さまは強く抱きしめたまま、わたしの尻尾の先を変な手つきで揉みこんでいる。
ぞわぞわした気持ち悪さに、わたしは再度悲鳴を上げた。
「お父さまもお兄さまもやめて! そんな変な触り方、しないで!」
さらに子供のように泣きわめけば、すぱーんといい音が響いた。
お兄さまとお父さまがどさりと鈍い音を立てて寝台の下に沈む。ようやく解放された尻尾を両腕に抱え込む。
「まったく、我が家の男どもは調教が必要かしら?」
鉄扇を持って立っていたのはお母さまだった。お母さまにわたしは涙目を向けた。
「お母さま! 助けてください!」
「ああ、可哀そうに」
お母さまは慈愛に満ちた笑みを浮かべて、すぐにわたしを温かく抱きしめてくれる。お母さまの暴力的なお胸に顔を埋めて、えぐえぐと泣いた。
「それにしても、とても可愛らしいわね。白い大きなたれ耳と大きな白い尻尾だなんて……。何の動物かしら?」
「……お母さま、今そこ気にするところじゃありません」
しばらくすると、存在を確認するように耳と尻尾を好き勝手に弄る。お父さまとお兄さまのようなかわいいものを愛でる触り方ではなく、本当に確認するような手つきだ。
「こうして触っていると感じるのでしょう? どんな感じ? むらむらしたり? ぞくりとしたり?」
「お母さま、言い方が卑猥です。触られると鳥肌が立って、とても気持ちが悪いです」
「ほほほ。クローディアはまだお子様だったわね」
そういう問題じゃないと思うのだが、わたしにはもうどうしていいかわからない。
涙も止まらないし、みっともないことに鼻水も出てきた。お母さまはハンカチでわたしの涙と鼻水を綺麗にしてくれる。
「さあ、泣き止みましょうね。お母さまがきちんとしてあげるから」
そう言いながら、男性の使用人にお父さまとお兄さまを連れ出すように指示した。引きずられるように二人を部屋の外へ出せば、次にやってきたのは3人の侍女だ。
「さあ、お嬢様」
「お仕度いたしましょう」
「こちらへどうぞ。その美しい毛並みを整えましょう」
そう言って、わきわきと指を動かしながら近づいてくる。彼女たちの視線はわたしの耳と尻尾に固定されていた。
「え?」
「折角素晴らしいものがついたのですから、全力でお嬢さまを可愛らしく見えるように整えさせてもらいます!」
「そうですとも!」
「ええ?」
なんだか嫌な予感がする。
わたしはお母さまの抱擁から逃れて、這うようにして寝台の隅っこに下がった。
「さあ、覚悟はいいかしら?」
お母さまの美しい笑みが恐ろしい。お母さまの美しい瞳が獲物を見つけた狩人のようにぎらぎらと輝く。
捕まっていはいけないという危険信号が脳内を駆け巡った。
「お嬢さま、怖くありませんから。力を抜いて、わたしたちに体を任せてください」
「隅々まで。お手入れさせていただきます」
予想もつかない恐ろしさにカタカタと体が震えてくる。
侍女たちの手が一斉に伸ばされて、わたしは再度悲鳴を上げた。