狐
「Nやん、狐憑きって有るじゃない? あれって今でも有るの? ってか、あれってなんなの?」
近年ではマイナーになった気がする、狐憑きについて聞いてみようと思った。
昔は精神病として蔵に監禁されたり、村八分にされたと聞くけれど。
情報化社会になった今では、ほぼ耳にしなくなった気がする。
「ん~、今でも有るし、今でも酷い扱いをされてると思うぞ? 減ってるか増えてるか、で言えば減ってるとは思うがな」
「ふ~ん、それで? 狐憑きって結局なんなの? って所を教えてよ」
私の問いにNやんは苦い顔をした後、考え込んでしまった。
知人伝いに厄介事の臭いがプンプンする相談が持ち込まれた。
“狐憑きの息子をどうにかしてくれ!”と言う物だった。
減少傾向にあるのだが。
さて、今回はどちらだろうか? そんな事を考えながら次の休日に件の家に赴いた。
閑静な住宅地、と言うか少し寂れ気味の町の一軒家に到着した。
活気の無さが町を灰色と言うか、景色を褪せさせている、そんな感覚に陥る。
「はじめまして。ご連絡いただいたNです」
インターホンを鳴らして名乗るとドアが開いた。
今回、俺が招かれた訳だが家人の視線の鋭さに辟易する。
「ようこそ、来ていただけて良かった。どうぞ中へ……」
家主なのだろう、中年の男性に招かれて玄関に足を踏み入れる。
微かに不快な臭いが鼻につく。
オカルトの臭いではなく、ゴミ屋敷のそれだった。
廊下の壁紙は傷だらけ、廊下の隅には埃が溜まっている。
数か月、掃除がされていないのが見て取れる。
男やもめの一人暮らしの俺の部屋の方がまだ綺麗なんだが、と呆れてしまう。
前もって聞いていた家族構成は夫妻と一人息子の三人住まい。
妻子の姿はまだ無い。
ソファーを進められて、促されるままに腰掛ける。
「今連れてきます」
体温の籠らない声で家主が席を立った。
十分程してから激しく抵抗する高校生くらいの子供を連れて父親が戻ってくる。
「お待たせしました、息子です」
そう紹介され、ジタバタと暴れる息子さんと向かいのソファーに揃って腰掛けた。
目の奥の眼で連れてこられた息子さんを見据える。
思春期特有の大人を忌避する気配はする物の、特に霊的な障りは見当たらない。
「で? あんたが親父の連れてきた詐欺師かよ」
敵意の籠った視線と棘の有る言葉が投げかけられてくる。
こっちはオカルトの類では無いのが一目で判る。
「さて? 特にお金は取っていないし、詐欺師には成らないと思うがね? そもそも、君に悪霊も狐も憑いてない訳だし」
「あ?」
「は?」
親子揃って疑問の声が上がる。
「どういう事ですか? 息子に何も憑いてない? こんなに変わってしまってるのに?」
「どう変わったかは私には分かりませんが、少なくとも変なモノは憑いていません。むしろ必死に抵抗している健全な息子さんだと思いますよ」
そう、この息子は必死に耐え、抵抗し、他者への対応がきつく成っているだけだと思えるのだ。
息子さんは俺の言葉に毒気を抜かれたのか、自身に異常がないと言われて安堵したのか動きを止めた。
真面目で、家族思いの息子なのだろう。
一つ大きくため息を吐いてから再び口を開く。
「それで、奥様は今どちらに?」
狐憑きだの、息子を見てくれだの言う割に、家族の問題なのに母親が姿を見せない。
こちらに問題が有る事を暗に匂わせる。
「妻は、息子が荒れてから塞ぎ込んで部屋に籠る様になりまして……」
父親の言葉に息子の方が何か言いたそうに顔を上げるが言葉にはせずに再び顔を伏せた。
「恐らくですが、それは逆だと思いますよ? 奥様の異変が先です。息子さんはそれに抵抗していただけだと思います。家族の事です、是非お連れください」
相談内容としては“息子をどうにかしてくれ”だった。
この時点でお役御免なのだが、このまま見殺しにするのは俺自身の流儀ではない。
ここは踏ん張って首を突っ込む事にする。
そう言うと父親は観念したのか、席を立って“連れてきます”と呟いてリビングを後にする。
「君も大変だったね。お母さんが、人が変わった様に成ったんじゃないか? 必死に耐えて、必死に抵抗して、父親から誤解されて。家の中に居場所なんか無かったろうに」
よく見ると裾や襟で見え隠れしているが痣や引っ掻き傷も有る。
若者を不憫に思い、率直な感想を述べた。
その言葉に気が抜けたのか、高校生の息子が声を殺して大粒の涙をこぼし始める。
良い子なんだろう、そう思うと母親をどうにかしないといけない。
決意を新たにすると天井からドタバタと音が始まった。
何か喚き声も聞こえてくる。
時折父親の怒鳴り声まで混じってきた。
親が心配になったのだろう。
ソワソワし始めた所で声を掛ける。
まだまだ時間が掛かると判断して、先に息子のフォローをしておく事にする。
「今はお父さんに任せなさい、夫婦なのだからね。それよりも君だ。自覚は有るかな? 君自身も相当追い詰められて危なかったんだよ?」
そう言うと目を真っ赤にした息子が首を傾げた。
「これは私個人の見解なんだがね。精神疾患とは“心の怪我”だと思っている。防衛本能が他者との接し方を固く、悪い意味で攻撃的になる事が有る。自衛の為に人格を分けてしまう事も有る。解離性同一性障害、俗な言い方をすると二重人格と言うやつだね。君だってそうなる可能性が有った訳だ。そうならずに耐えていた。だから君は自分を誇って良い。よく頑張った」
そんなフォローと言うのか、メンタルケアをしている内に二階の音が騒々しくなっていく。
怒鳴り声と奇声、床を踏み鳴らす様な音まで混じりだした。
声の内容は聞き取れないが、相当に手古摺っているのを察する。
「これは行った方が良いかも知れないな……」
本音としては、自分の意思で降りてきてくれ、と思ったのだが難しかったらしい。
とは言え、無断で二階に上がり込む訳にもいかないので息子に頼んで案内をしてもらう。
埃が目に付く階段を上がり、怒声と奇声がする部屋に入った。
視界に入るのは必死に宥め、落ち着かせようとする夫と、ベッドの上で四つん這いで跳ね続ける妻らしき人物。
思わず盛大なため息が漏れる。
その動作は雪の上で跳ねる狐のそれだった。
雑霊より面倒な動物霊、それも狐か、と思うとげんなりする。
「落ち着いてください、多分耳に入っていないと思いますから」
旦那さんの方に声を掛けると怒りと悲しみがない交ぜになった顔をこちらに向けた。
自分の言葉が届かない事にやるせなく、そして憤りも感じているのだろうと思う。
「この場で何とかしましょう、仕方が無いですよ」
そう言うと旦那さんは無言で頷いてベッドから離れた。
さて、どうするか。
ただ言葉を投げかけても耳に入らない。
耳に入らないと言うよりも届かない、が正しいかも知れない。
既に自意識が抑え込まれている状態なのは見て取れる。
ここはまず俺の声を届かせなければ成らない。
どのみち一回は霊を大人しくさせないと声も届かない、と判断して旦那さんに先に声を掛けた。
「少しだけ荒っぽく見えますけど、怪我させたりはしないので。良いですか?」
「はい、お願いします。妻をお願いします」
悲痛な声で同意を得た所で方針が固まる。
少し手強いと感じた為に、奥さん自身の力も借りる方向でやってみる事にする。
呼吸を整えて丹田に力を集める。
集めた力を左手に移して、タイミングを合わせて跳ね続ける奥さんの頭を鷲掴みにする。
驚いたのだろう、暴れて腕に爪を立てて引っかかれた。
顔を顰めながら鬼子母神の印の右手の形で、掴んだ左手の甲を叩く。
鈍い衝撃が伝わったのか抵抗が止んだ所で口を開く。
「奥さん、俺の声が聞こえてるか? 聞こえてなくても聞け! あんたの今の様で旦那さんも息子さんも驚き泣いてる。子供を泣かす自身に怒りを感じるなら抵抗しろ! 力を貸してやる!」
そう声を張ると先ほどまで“キキキキ“と奇声を上げていたのが”ググググ“と唸り声に変わる。
その反応に“よし、届いた!”と判断して鬼子母神の真言を唱える。
三回。
足りない。
七回。
まだ足りない。
「良いか? 母親は子の為なら鬼にも神にも成れる、それが母親だ。あんたも母親ならここが頑張り所だ。息子さん、心根の優しい子じゃないか。良いか? 力を振り絞れ、そいつを撥ねつけろ」
もう一度三回。
続けて七回目。
まだ足りないなら値を上げるまで続けるしかない。
「……ソワカ」
何十回、もしかしたら三桁に届いたかも知れない。
それだけの数の真言で届いたのだろう。
掴んだ左手もどこから添えてるだけに成ったかも自分でも分からない。
正直に言えば精魂尽き果てた、と言いたくなる程に脱力していた。
終わった。
そう判断して真言を止める。
手を放して様子を見ると正座をし、手を合わせて涙を流す奥さんに気が付く。
その場を離れて旦那さんと息子さんに頷くと二人は駆け寄って家族三人で抱き合って、声を上げて泣き始めた。
居心地が悪いとは思わないが、場違い感が半端じゃない。
そう感じて、無言でその家を辞した。
「Nやん、格好良すぎない? それ」
「いや、単にいたたまれなかっただけだし、邪魔者感に負けただけだな」
そう苦笑してNやんは珈琲カップで顔を隠した。




