撃墜五分前
ティクオンに迎撃される五分前、エファは西岸都市〝サイコ〟の近海を飛翔していた。もっとも、飛んでいる当の本人は、自分がどこにいるのかわかっていなかったようだが。
ブラフテールを飛び出してから、もう丸一日以上逃げ続けている。
相変わらずアドルフはぴったりと後ろを追って来ていた。結界を張って以降、彼はエファと一定の距離を保ち、それ以上は特にアクションを起こさなくなった。
……どうやら彼は、戦略を切り替えて、エファの体力が尽きるのを待つ事にしたらしい。
エファは、ある程度の頻度でクオルにマナを分け与えなくてはならない。そうしなくては結界を維持する事が出来ないのだ。
しかし、エファも無制限にマナを供給し続けられるというわけではない。
マナ増幅には副作用があるのだ。
増幅反応が起きている間は良い。しかし、反応が止まると、とたんに、疲労や疼痛に襲われる事になるのだ。そのため、連続してマナ増幅を起こせる回数には限りが出てくる。
そしてエファ達の目的地をアドルフは知っていた。
それは中立の地。
黒と白の両勢力の息のかからない自由の大地。しかし、その地に着くにはまだ距離があった。実のところそこは、このまま行けば、結界を維持できないくらいの距離なのだ。
しかし、エファには自分の体力配分を計算できるだけの経験がなかった。ゆえに彼女は、今の段階ではそれほど危機感を抱いていないといえる。
しかしアドルフは違った。
エファのような才能だけの小娘とは違い、彼には歴戦の経験があった。マナ増幅を多用するエファを見て、彼女たちの本来の目的地である中立の地にはたどり着けない事を見越していた。
だからこそ、彼はエファのスタミナ切れを待つようなまねをしていたのだ。
しかしそんなアドルフの目論見はつゆ知らず、エファは危機意識もなく飛翔していた。
そして、彼女の視界に、サイコの海岸線が見えてくる。そこが白の勢力下の街だとエファにもわかった。
エファにとって、白の勢力の日常の姿を見るのは初めての事だった。
彼女は白の勢力下の市街地エリアを見たことがなかったのだ。
その街の様子は、エファのイメージと違った。
敵地とは、こういうものなのだろうか、と思う。
街並みにはのどかな雰囲気が漂っており、自分の故郷のブラフテールとも大きな違いはないように思えた。
黒の勢力の人間が、四六時中、鎧に身を包んでいないのと同じように、白の勢力の人間にも戦場とは違う空間があり、そしてそこに住む人間にも違う側面があるのだ。
「クオル」
エファはその時クオルに声をかけた。
クオルは一瞬目だけをわずかに背後に動かし、エファに話を聞いていることを示した。
「私はまだ戦場でしか白の勢力の人間を見た事がない。だから私の記憶の中の彼らの顔はいつでも怖かったわ」
エファは海岸線を横目に見つめた。
「でもね、それはこちらも怖い顔で向き合っていたせいじゃないかしら。……だって、今見えるあの街はあんなにのどかで、私達の故郷とも変わりはないんですもの。真摯に向き合えば、白の勢力の人たちとだって、本当はわかり合えると私は思うの」
クオルは黙ってエファの言葉を聞いていた。
エファは続ける。
「私……白の勢力下のあの街に飛び込んでみようと思うの」
エファがそう言うと、クオルは相当驚いたようで、一瞬、思わず顔をエファの方に向けた。
《理由は?》
「話をするのよ。そして気持ちを示すの。こちらの本気の誠意が伝わればきっと相手も応えてくれるはずだわ。
アドルフさんに見せてあげましょうよ。勢力同士の壁なんてものは自分達で勝手に造り出していているだけの仮想的な物なんだって」
戦わない、クオルに戦わせない、そのためにエファは黒の勢力を飛び発った。
中立の地を目指すのはその根本的な目的のためだ。だから、もし戦わないので済むのであれば、何も中立の地に行く必要はないということになる。
エファは今こう考えた。もし白の勢力の人々と分かり合えるのであればそれが一番良いのではないか、と。
エファは白の勢力地の別の側面を目の当たりにし、考え直したのだ。
白と黒の勢力が相容れられないのは相互に敵意を抱いているからであり、こちらが温かい気持ちで向き合えば向こうも分かってくれるはずだと。
「あなたはどう思う? クオル」
エファはクオルにも意見を仰ぐ。
クオルは、エファとは違い自分達がおそらく中立の地まで結界を維持できないことに気が付いていた。このまま何もない海の上を漂っていてもアドルフから逃げきれないだろうことを知っていた。
そして、飛竜であるクオルは、エファほど情緒的に物事を見る事をしない。白の勢力に侵入した後、エファの言うように相手と分かり合えるとは思っていなかった。しかし、サイコに飛び込むという提案はあながち悪くないかもしれないと思う。
なぜなら、サイコに飛び込めば、もしそこまでアドルフが付いて来たとしても、敵はアドルフとエファを平等に攻撃してくるはずだから。
そのゴタゴタの中で、うまく敵を躱せれば、アドルフからも逃れられるかもしれないと考えたのだ。
もしここでアドルフを振り切る事が出来れば、結界を維持する必要もない。
それがかなわず、完全に振り切れなかったとしても、エファの体力を回復する時間さえ稼げれば、また空を飛び中立の地を目指す事も十分可能になるのだ。
このまま、何もない海上を彷徨っていてもアドルフを振り切ることはおそらく不可能。ならば、一か八か目の前の街に飛び込んだほうが、状況を変えられるかもしれないとクオルは考えた。
《いいわ、エファ。何が起きるかはわからないけれど、あの街に飛び込んでみましょう》
クオルは答えた。エファとは違う思考の道筋から、結果的に同じ結論を得た。
エファは頷く。
このやり取りのうちに、彼女たちは〝サイコ〟の方角に舵を切ったのであった。
一旦〝サイコ〟を素通りするようなそぶりを見せ、一気に旋回。
そしてありったけの速度を出して、アドルフを引き離した。
「なんと愚かな」
呟きを最後にアドルフは閉口する。
彼は、エファが飛び込もうとしている街が〝サイコ〟である事を知っていた。そして、そこにはティクオンが配備されているという事実も。
ゆえに、すぐにエファを追う事には躊躇した。彼は、自分がどのような立場にあるか自覚している。
黒の勢力での最高位……十二人の〝綜界賢者〟が一人、それが彼なのである。
アドルフ・バッハマンはその飛竜と共に、敵に名が知れている。
その自分がもし軽率に白の領地に押し入れば、いたずらに敵勢力を刺激してしまう事態になる、とアドルフは理解していた。
だから、〝サイコ〟に向かったエファをすぐさま追う事には躊躇してしまう。
しかし一方で、エファは黒の勢力にとって最重要の人物。このまま捨て置くわけには行かない存在なのだ。
この葛藤が、束の間アドルフの行動を鈍らせた。
そして、彼が二の足を踏んでいる間に、エファは敵に捕捉されてしまったのだった。
クオルは油断していた。街とはまだ少し距離があったためだ。
そして、エファに至っては、敵意を示さなければ攻撃してくることはないだろうとすら思っていた。しかし、それはあまりにも甘い考えだった。
彼女たちの視界の先で、黒いナニカが動く。
それは巨大でおぞましく、生理的な恐怖を覚えさせるナニカだった。それを見た瞬間、エファの脳の奥深くで、刻み込まれた原初の本能が告げた。
あれは危険だと。
頭の中でうるさいくらいのアラートが鳴り響いていた。クオルもエファもその黒いナニカが自らの生命を脅かす存在だと直感する。
その圧倒的で暴力的なまでの強烈な敵意を感じ、エファはここで初めて己の考えの甘さを感じた。目の前の黒いナニカ、あれはどんな手段を講じたとしても分かり合えるような存在ではないのだ。
しかし彼女たちが一瞬にして形成した危機意識も、ティクオンを前にすれば、何の役にも立たなかった。
危険なモノを危険だと理解しているかどうかは、危機回避の観点からみれば非常に重要なことだ。しかし、ティクオンの圧倒的な暴力を前に、その気構えなどは紙の防壁に等しかった。
次の瞬間、ティクオンの放った攻撃は、到底意識で追えない速度でエファたちに到達する。
それはまさしく一瞬。
意識のセルとセルの狭間に無理やりその攻撃をねじ込まれたように。次の瞬間にはもう攻撃を受けていた。
感じたのは強烈な熱さ。そしてすぐ横を駆け抜ける輝きの束の、驚異的なまでの輝度だけだった。
だが不幸中の幸いというべきか、結界のおかげで辛くも直撃だけは避けられたようである。
その神速とも言える攻撃に、クオルはエファよりも早く反応した。
彼女は攻撃に気が付いた瞬間に、真横を駆け抜けた光の束とエファとの間に自らの体を滑り込ませた。つまり、エファを庇ったのだ。
熱とそれに伴う突風で、エファとクオルは吹き飛ばされる。
エファはこの段階になってようやく認識が追いついた。そして、もうダメだと思った。黒いナニカ。とてつもない巨悪の化身に自らは葬られるのだと覚悟した。
しかし、彼女たちの命は首の皮一枚繋がる事となる。
それは他でもない、アドルフ・バッハマンのおかげである。
彼はエファにトドメを刺そうと照準するティクオンに一撃を穿った。それはティクオンを引きつける意図のものである。そしてその行動が功を奏し、エファたちは命を繋ぎとめたのであった。
しかし、いくらアドルフであっても、ティクオンを相手にしては、時間を稼ぐだけで精一杯であった。森に落ちたエファを手引きすることまでは出来ない。
おそらく、森には〝サイコ〟に常駐されている魔法術士が向かっているはずだ。
その敵を振り切れるかどうかは、エファ個人の力に託すしかなかった。