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PW(ポール・ウォー)  作者: 材然素天
一章 旅立ち
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ヤエカの旅立ち

《白歴五十五年 〝白の本国(ホワイトセントラル)〟》


 ヤエカは重々しいドアの前で備え付けの鐘に手を掛けた。それはノッカーとして、中の人に訪問を知らせるための鐘であろう。

 包帯を巻いた右手で掴むと、指先に鋭い痛みを感じた。両手の中指の先端から持続的な痛みがあるのだ。

 手に力を込めた瞬間、その痛みが増したようだった。しかし、ヤエカは表情ひとつ変えずに構わず鐘を打った。

 部屋に面した通路に、思いのほか澄んだ音が響く。


「開いているよ」


 中から声が返ってくる。ヤエカは入室の許可と解釈した。

 慎重に扉を押し開ける。見かけと同じように重たい扉だった。手に力を込めるとやはり中指に痛みが奔る。

 黙礼をして入室すると、部屋が見渡せた。


 部屋は入り組んだ構造ではなく、直方体型だった。そのため扉を入ってすぐ部屋の内部が見渡せたのだ。しかし、シンプルなつくりであるにもかかわらず視界は随所で阻まれた。


 その原因はモノの量のせいであろう。

 部屋のサイズは申し分ないといえる。人間のスケールと比較すれば、一人で使用するには十分すぎるほどだ。棚などの収納場所も数多く設けられている。

 ただ、圧倒的にモノが多すぎるために、溢れた本や装飾がとっ散らかってしまっているようだった。


 そんな煩雑に散らばるモノの数々に目を遣りながら、ヤエカは部屋を奥に奥にと進んで行く。

 そうして部屋の最奥まで辿り着くと、褐色の青年がこの部屋の主しかりとした風格で長机の前に腰かけていた。


「指の痛みには慣れたかい?」


 褐色の彼は、ヤエカと目が合うなり、あいさつを交わす事もなくそう言った。

 彼は、ヤエカよりも五つか六つは年が上と思われる。だが、フランクな口調は年のせいというよりも彼の性格が由来してのことのように思われた。


 ヤエカは青年の問いに対して頷いて見せる。そして続くように包帯のまかれた自身の指に視線を置いた。その指からは今なお鋭い痛みが奔り続けている。

 しかし、慣れというものは痛みに対してもやはりあるらしく、今では表情を取り繕えるまでにはなっていた。


「お陰様で。何とか生きる事が出来ております。本当にありがとうございます。カカオリフィス様」

 ヤエカは深々と頭を垂れる。彼女にとって、この褐色の青年は命の恩人なのだ。

 一昨日、ヤエカはリュウセン(彼女の故郷である、白の勢力の属領)のとある洞くつで、生死の境をさまよった。


 見たこともない、おぞましい生き物に突如襲われたのだ。

 しかし、その生き物に直接的に傷をつけられたわけではない。ヤエカは弟のユミトと共にその生き物を撃退することには成功した。

 問題は撃退した後だった。

 その生き物の腹を裂いた時に、その腹から噴き出してきた得体のしれない液体にヤエカは触れてしまったのだ。その瞬間彼女は昏倒し、死に瀕する事態にまで陥った。


 そこをこの褐色の青年、カカオリフィスに救われたのである。

 ヤエカはその時に気を失っていたため助けられたという記憶そのものはないのだが、カカオリフィスが応急処置を施して、この白の本国(ホワイトセントラル)まで治療のために連れてきてくれたという話はすでに人づてに耳にしていた。


 カカオリフィスは無表情のまま視線を一度横に逸らした。そして一度咳払いをする。彼の目に、わずかに影が落ちた。


「……まず、君には自身の負った傷について知る必要があるね」

 カカオオリフィスは先ほどよりも声を低めてそういった。ヤエカは反射的に自らの中指に視線を置いた。

 一昨日負ったこの傷のことを、彼は言っているのだ。


 カカオリフィスは、おもむろに長机の上の一冊の本を手にした。

 しばらく、どこかのページを探すようにペラペラとめくっていった後、あるページで手を止めた。そして話を再開する。


「……ひょっとしたら、僕の第一声を聞いてぴんときたかも知れないけど、君の今感じている痛みは、一生涯引くことはない」


 残酷な宣告を、カカオリフィスは淡々と口にした。

 一生涯、ひくことのない痛み。

 今もヤエカを苛み続ける中指の痛みは、死ぬまで消えないという。

 十二歳という、まだうら若き少女に、その宣告がいかに重く響くかは想像に難くない。それが、激しい痛みを伴うモノであるとすればなおのことである。


 しかし、ヤエカは意外なことに、取り乱すこともなく静かに頷いた。頷く事ができたのである。

 彼女が、そのある意味いじらしいとも受けとれる平静な態度をとれた理由としては、彼女自身がすでに大方の心の準備を済ませていたことが大きかっただろう。

 ヤエカは予感としてうすうす感じ取っていたのだ。ひょっとしたら、この指の痛みは治らないのではないか、と。


 ヤエカはやわらぐ素振りの見えない指の痛みに違和感をおぼえていた。

 なぜなら、ここは白の本国(ホワイトセントラル)であり、彼女はそこで最先端の、魔法術を駆使した治療を受けたはずであるから。

 魔法術による治療は、普通の療養とはわけが違う。治るレベルの傷であれば、ある程度の即効性を持って癒すことができるはずなのだ。


 なのに、彼女の指の痛みは引く素振りすらみせていない。

 だからヤエカは、自分の傷は魔法術をもってしても直せないレベルの傷なのではないかと疑いを持ったのだ。

 そしてそこにきて、先ほど入室して早々のカカオリフィスの問いかけが決定打となった。


 彼は『痛みは引いたかい?』とではなく『痛みには慣れたかい?』とヤエカに尋ねた。それはつまり、どこか痛みが存在し続けていることを前提としたような口ぶりだろう。

 

 その言葉を聞いたときヤエカは悟ったのだ。自分の指はもう完治しないかもしれないと。

 そしてその時から、事実を受け入れる心の準備もすでに始めていた。カカオリフィスの宣告を平静のままで聞きいれられたのもそのためだ。


 カカオリフィスはしばし、観察するようにヤエカを見た。

 彼は、この先の事を今ヤエカに伝えるか迷っているのだ。なぜなら、これから先、彼がヤエカに伝えなくてはいけない事実は、より残酷さを増した内容であるから。

 彼女がその事実に耐えうるだけの胆力を持っているのか、あるいは病み上がりでもある彼女にそれだけの体力が今残っているのか、カカオリフィスは見極めなければならない。


 そして観察のすえ、カカオリフィスは、ヤエカのまなざしから彼女の芯の強さを見た。

 前の発言で彼があえて〝一生涯〟という強い言葉を使ったのには、彼女を試す意味も兼ねてあったのだ。それは、死ぬまで消えない痛みを認識させた上で、今現在彼女がどこまで受け入れられそうなのかを見るためだった。


 そして、それに対しヤエカは、運命さだめを完璧に受け入れているように見えた。少なくとも、カカオリフィスの目にはそう見えた。だから、彼はこの先の言葉を今この場で言うことにする。

 

「この先、痛みは指先だけにとどまらなくなる。……君の体を蝕む痛みは、この先徐々に広がっていくだろう」


 追い打ちをかけるような言葉を部屋に響かせた。

 一生涯痛みが続くという重荷を背負っただけでなく、その痛みはその領域を広げ、彼女の体を蝕んでいくというのだ。


 ゴクリ、と思わずヤエカは唾をのみこんだ。

 カカオリフィスは、ヤエカに緊張感が奔った事を横目で確認する。そして、少し読み違えたかもしれない、とわずかに後悔した。


 ヤエカは一見して運命(さだめ)を受け入れていたように見えた。だからカカオリフィスはさらにその先の残酷な現状を伝えようと思ったのだ。しかし、それは読み違いで、ヤエカは辛うじて表面上だけ取り繕っていただけなのかもしれない。


 彼女はまだ、その先の話まで受け入れる心の余裕を持ち合わせていなかったかもしれなかった。

 そしてもしそうだとすれば、淡々と話を進めたことはカカオリフィスの失態という事になる。だが、もう言ってしまった事を引っ込めることはできない。


「……少し詳しい説明をしておこうか」

 そこで、彼は少し今言った情報について掘り下げる事とした。あまりに与える情報の密度が濃すぎたと彼なりに慮ってのことだ。

 客観的な説明と情報整理には、不安を和らげる効果がある。


 カカオリフィスは先ほど開いた本のページをヤエカに見えるようにした。

 そこには、人体のモデル図が描かれている。胸の真ん中に丸いものが描かれており、そこから管が体中に枝分かれして伸びているような図だった。


「この人体図の胸の位置に描かれているのが、御存じのことと思うがeバイタルだ」


 ヤエカは頷きながら、自らの知識と照合してみた。

 eバイタルとは胸の真ん中の位置に据え置かれている臓器。すなわちマナの生成に関わる、体内で最重要の器官のことだ。

 eバイタルは、ランティの光からマナを生み出す機能を持っている。


「……そして、このeバイタルで生成されたマナは、魔道管とよばれる管を通って体中の各部に運ばれるわけだね」

 カカオリフィスは手に持った本の挿絵の、枝別れした管の部分を指でなぞって見せた。


 マナとは魔道生命にとって活力そのもの。それが枯渇しては生きていく事が出来ない必要不可欠(エッセンシャル)な要素となる。

 そしてそのマナが体中に行き届くようにするには、eバイタルで生成されたマナを恒常的に体の各部に運ぶ必要があるのだ。


 体は一つの系として支え合って機能はしているが、基本的に細胞の一つ一つが別々に生きている。別々に生きる細胞が寄り集まって、機能を為す器官を形成しているのだ。

 だから、エネルギー源たるマナは細胞の隅まで行き渡らせる必要がある。

 そして、そのマナを送る通り道こそが、まさしく魔道管なのである。


「……一昨日君が受けたものは魔法線とよばれる破壊波で、それは、マナの通り道であるこの魔道管を破壊する作用を持つものなんだ」


 魔道管を破壊……。

 その言葉を聞いた瞬間、ヤエカは、ぞくりと寒気を感じた。肌からは冷や汗が噴き出す。

 指先の痛みは、この現象に起因するものなのだろう。

 たとえマナの生成を司るeバイタルが無傷でも、そこで生成したマナを体の各部位に供給できなければ意味がないのだ。

 マナの通り道である魔道管が破壊されれば、つくり出されたマナを送り届けることが出来ないので、マナの供給が滞った体の部位から死滅することになってしまう。


「魔法線による魔道管破壊は体の末梢部分から進行していく。指先から手、手から腕、腕から肩……とね。そして魔道管が破壊された箇所はマナの供給がなくなるから、順番に壊死していってしまう」


 びくり、とヤエカの肩が跳ね上がった。恐怖心が彼女の体を蹂躙していく。彼女は単純に怖かった。

 ついこの前までは、意識にのぼる事すらなかった死。その輪郭の薄ぼやけた概念が、急に現実にすさり寄ってきたのだ。


 彼女は意識してしまった。

 体の端から這い上がってくる死の行進を。

 ヤエカの指先はすでに強烈な痛みを発しながら黒ずみ始めている。そして、次第にその痛みすらも感じなくなっていくのだろう。そして、次の箇所が痛み始める。破壊がヤエカの体を殺しながら中心へと迫ってくるのだ。


「そして、この破壊は、魔法線を受けてから速やかに進行し、通常は一日と見ずに絶命する」


 カカオリフィスはそう続けた。

 そのカカオリフィスの言葉に、ヤエカは疑問を抱く。

 今彼は確かに、一日と見ずに絶命する、といった。

 しかし、一日半以上経過したヤエカはいまだ生きているし、破壊の進行も指先だけにとどまっているのだ。これは現状と合致しない。


 その疑問を察したのか、カカオリフィスは頷いた。

「……君の疑問はわかるよ。君は今、『なぜ自分が生きているのか』と、こう思ったね? そしてその疑問に簡潔に答えようとするのなら、僕はたった一言こういえばいいだろう。魔法術、とね」


 魔法術……。

 大魔法術士と謳われる目の前の青年はそういった。ヤエカ自身は魔法術というものの存在こそ知っていても、その実態は何一つ知らない。だが、その得体の知れない魔法術とやらのおかげで、自分は今ここでこうして息をしているらしい。


「時間魔法術。陽性魔法術体系の中でも最高位にあるこの魔法術により、君の破壊の進行は遅延されている」


 本来一日ともたないはずの破壊を、魔法術によって遅めていると目の前の大魔法術士は言った。

 そのおかげでヤエカは生かされているのだと。そして、その命綱のような魔法術を誰が施してくれているのかというと、やはり目の前の、カカオリフィスという男なのだろう。


 ヤエカはまた深々と頭を下げた。その感謝は言葉にもならない。筆舌に尽くしがたき恩だ。

「頭を上げてくれ」

 カカオリフィスはそれだけ言った。

「確かに今、進行速度を激減させているのは僕の魔法術だ。しかし、僕が応急処置をするまでの間、破壊の進行を抑えていたのは、他でもない君自身の魔法術なんだよ?」


「私が……魔法術を?」

 おもわずヤエカは反芻していた。やり方どころか魔法術のなんたるかも知らない自分が最高位魔法術とやらを行使して自身を守ったというのはとても信じられる内容ではなかった。

 だが、カカオリフィスは即座に頷く。

「死の危機に瀕して、体が勝手にやったことだろうね。なんにせよ、君には才能があったということだよ。それが無かったら、今頃、破壊は肩のあたりまで進んでいたはずだ」


 ヤエカはしげしげと己の体をながめる。

 魔法線による破壊はヤエカ自身の肉体による精一杯の抵抗によってなんとか押し止められた。そして、その後、カカオリフィスの魔法術によってさらにその速度を激烈に減じられたために、破壊の進行はこの程度で済んでいるらしい。

 つまり、自分は本来もうとっくに命の期限が過ぎている身というわけなのだ。


「……では、私の死の運命(さだめ)はもう変えられないという事ですね?」


 ヤエカは虚ろげにそう呟いた。

 ただの傷のように、治癒はしないのだ。

 カカオリフィスは静かに頷く。


「ああ。君の命の期限は一昨日、あの洞窟で決まった」


 きっぱりと言い切った。会話をしながらヤエカを観察し、彼女には結論をぼかして先延ばしにするよりも、核心を語った方がためになると思ったのだろう。

 ヤエカは奥歯を噛み締めた。押し寄せる恐怖と悲壮に耐えるかの如く。


 カカオリフィスは再び目線を本へと移した。本を読むためではない。今のヤエカの表情は見てはいけないものだと思ったから、代わりに本を見たのだ。

 彼女の中で今どのような思考が渦巻いているのか、それは彼にはわからない。だが彼はその激情が収まるまで、この部屋を出るべきではないと思った。それだけはわかった。


 さも心配げに顔を窺う必要はない。慰めの声を掛ける必要もない。だが、彼女の前途を絶望に塗り替えた事実を共有する身として、その当事者として、この場を共有してやるくらいの義務はあると思ったのだ。


 だから、カカオリフィスは黙って本を読み進めながら待った。彼女が、頭の中で猛威を振るっているであろう思念を処理するまで。一人になっても、とりあえずは耐えられるくらいに気持ちが整うのを。


 静寂が続いた。無駄に多いモノたちも口をつぐんでいる。

 響くのは、カカオリフィスがページをめくる音だけになった。


「……私には弟がいます」


 やがて、ヤエカは喉を震わせた。

 カカオリフィスは、黙って視線を本からヤエカに戻した。

「両親は早死にしているので、今まで私は弟の一番近しい身内として彼を見守ってきたつもりでした。そして、これからもずっとそうするつもりでした」

 ヤエカの口調は虚しいほどに過去形の形をとっている。


「……弟の傍らに立っていられる時間に限りがあるなんて考えた事もありませんでした。私達を分かつ死は、考えにあがるほど近くにはないと思っていたのです」

 無念からか、わずかに彼女の語調が跳躍した。

 カカオリフィスも頷く。

 彼女が消沈するのも無理ない。ヤエカは生涯を終えるにはあまりにも若すぎるのだ。むしろ彼女の年齢を考えれば、これまでの人生はこれから様々な事を成し遂げるための下準備の期間ともみなせるほどの若さといえよう。それがまさかその下準備の期間で生涯を終えなくてはいけなくなると唐突に告げられて、どうして納得できようか?


「弟のことがやはり心残りです。私はおそらく弟が生きる時間の半分も寄り添えないのでしょうから……」

 ヤエカのまぶたがわずかに震えた。

 カカオリフィスは掛ける言葉を持たないのでただ黙って聞いていた。

 そのカカオリフィスに、ヤエカは頭を下げた。


「お願いします。どうか私に魔法術を教えてください」


「どういう考えからかな?」

 カカオリフィスは唐突気味なヤエカの言葉に短く尋ねた。

 その瞬間ヤエカの目がまっすぐに据わる。

「私がいなくなった後、弟の人生に陰りが出ないようにするためです。その可能性を可能な限り潰しておきたいのです。

 今私達の目の前には明確な障害がございます。黒の勢力との戦争です。もし戦争がこのまま続けば、私の死後、いつか弟を脅かすかもしれないのは明白な事。ですので……」

 ヤエカは目をつぶる。覚悟の刻印を脳裏に刻み込むかのように。

 そして目を開けた。


「……魔法術を修め、その上で争いを止めて見せます。私がこの手で、戦争を終結させてみせるのです」


 カカオリフィスはまっすぐにヤエカの目を見据えた。そしてその上で、

「どれだけ傲岸不遜なことを言っているのか、その自覚はあるのかな? 君が恐れ多くものたまった事は、誰も成し得ていないことだ。世に(ためし)を聞かないことを成すということが、いかに難儀なことかわかっているのかな?」

 彼には珍しい、かなり厳しい語調でそう言った。


 戦争の終結。

 それは、おいそれと口に出来るような生易しい言葉ではないのだ。

 幾重もの命を代償としても辿り着かない道だ。

 何十年何百年と、何百人何千人もの人間が同じ願望を持って、それでも成し得ていないことなのだ。

 それを、いまだ力を何も持たぬ一介の小娘の身で口にする。それがいかに身の程知らずな物言いであることか。


 しかし、それでもヤエカは黙ってうなずきを返した。承知の上で、それでもその遥か遠い目標に手を伸ばそうと言うのだ。

 息せき切って、血反吐を吐いて、駆け抜けて駆け抜けて駆け抜けたとしても、まだ地平の彼方に佇み続けるかもしれない目標に。彼女の覚悟はすでに固まっているのだ。

 死と対峙した少女の覚悟は揺るがなかった。


 カカオリフィスは本を閉じた。そして、立ち上がると、長机の前に移動して、ヤエカと直に向き合う。

「もし、君が本気でその道へ突き進む気なのなら……」

 まっすぐに、厳しさを教え込むように、カカオリフィスは険をたたえた目をヤエカへと向けた。


「君のこれからの道のりは、失い続ける旅路となるだろう。たくさんの血を流す事になる。屍の大地をこやして平和は芽吹くんだ。大切な人の未来を照らす代償に、君は己を削りぬくこととなる」


 カカオリフィスはまっすぐに言った。そして彼の言葉は正鵠を射ている分、鋭利でもあった。

 だが、カカオリフィスは訳もなく厳しい言葉を使うわけではない。

 ヤエカは選択をする前に、その選択肢がどういうものなのかを知っておかなくてはならないのだ。わからせた上で選択させなければ、この先彼女は後悔することになる。

 だから、カカオリフィスは残酷な事実でも包み隠さずに言うのだ。

 青年は少女に厳しさを教え込む。


 しかし、ヤエカは一瞬たりともカカオリフィスから目を逸らさなかった。彼女は問題から目を逸らすことをしない性分なのだろう。

 カカオリフィスはそんな彼女の視線を受け止めながら、あえて一度肩の力を抜いて見せた。

「君の余生は短い。正直、自分の好きなようにした方がいいと僕は思うよ。そんな叶う見込みのほとんどない大望を抱いて己を酷使しても、志半ばで果ててしまえば、すべて水の泡になってしまうんだから」

 口調とは裏腹にカカオリフィスは眼光を強めてヤエカを見た。そして彼女の返答を促す。

 すると、黙っていた彼女は口を開いた。


「先ほどから私の意志を確認するようなことばかりおっしゃられていますが、私のほうの覚悟はもう固まっております。揺らぐ事はありません」


 ヤエカの口調に迷いはなかった。

 カカオリフィスが言った事はもうすでに認識したうえで、彼女の意志は出来上がっていたらしい。そして、さらにヤエカは続ける。


「私が伺いたいことは、カカオリフィス様の都合の方でございます。脆弱な小娘の師となる事は煩わしい事と察することが出来ます。ですから、カカオリフィス様が否といえば、私はこの申し出を取り下げます。しかし私はそれ以外の理由で選択を変えるつもりはございません」


 この返答には、カカオリフィスも面食らう。予想もしない返答だった。

 そして彼は自分のした、彼女を試すような質問が、いかに無意味であったかを悟った。

 彼女は、前に進む以外には満たされない人間なのだ。偽りの悦楽、間に合わせの愉悦を決して貪れない人間なのだ。


 死ぬまで進み続け、そして朽ち果てることも厭わない気概の持ち主。そんな人間に覚悟を問う事がいかに無意味なことか。

 慎重に事にあたっていたカカオリフィスもようやくヤエカの申し入れを受け入れる気になった。

 彼はもともと、ヤエカを弟子にする事自体に抵抗はなかったのだ。

 ヤエカには才能がある。それがどれほどまで大成するのか、むしろ将来が楽しみですらあった。


 しかし、同時にヤエカには時間がないのだ。そしてヤエカの嘆願はその少ない時間を無謀な目的に費やすという事にも繋がりかねない。

 だからカカオリフィスも、その願いを考え無しに聞き入れるわけにはいかなかった。彼女に、己の行おうとしている事はどういう事なのかを正しく認識させ、その上での彼女の選択を煽り、その意志の程を確かめる義務が自分にはあるとのだと彼は思っていた。


 しかしその手続きは、今回に限ってはほとんど必要なかったといえる。カカオリフィスがヤエカに言い聞かせた内容は、病状に関する部分以外はすべてヤエカも承知の上の事だった。少なくとも、覚悟に関する探りは必要なかった。


 彼女の覚悟は申し分なく固まっている。認識の齟齬から生まれたものではなかったのだ。

 ならば、カカオリフィスの側に、彼女の嘆願を拒否する理由はなかった。

 カカオリフィスは一歩進み出る。そして、


「君には素質がある。正直、君を育てあげる事は興味深いことだよ」


 カカオリフィスは右手を差し出した。

「ありがとうございます……」

 その手をヤエカは両手で握った。指先の痛みを気にせず、かたく握った。


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