目覚めた少年
光も差さない牢の中でユミトは目を覚ます。
三方は壁に囲まれ、もう一方は鉄格子で塞がれている。窓は一つもなく、あるのは硬そうなベッドと小汚いトイレ、そして洗面所だけだった。
ここがどこなのかさっぱりわからない。どういう成り行きでこうなったのか思い出せなかった。
彼はわかる範囲から手繰りよせていこうと、順繰り記憶を思い起こしていくことにした。
「確か、魔法立学舎の合格が決まって、リュウセンを発ったんだったな……」
リュウセンを発つ際、最後にキナツとカイに会ったところまでははっきり覚えている。
「その後は……」
そこから先を思い出そうとしたとき、ズキリと側頭部に痛みが奔った。そしてその瞬間記憶の断片がフラッシュバックする。
蘇ったのは雨の音。そして自分の体や木々を打つ大粒の雨滴だった。
「そうだ……雨がひどくなったから、道を変えたんだ……」
次第に記憶が戻ってくる。
雨を警戒し、地盤の緩い山道は避けて、西岸都市〝サイコ〟を通過するルートを選んだ。そして、海岸線に沿った街道を進み行くことにしたのだ。
そこで見た景色を思い出す。街道からは、大海原と大空が臨めた。
晴れていればさぞや美しいのだろうと、少し残念に感じたのを思い出す。
そしてその直後だ。
記憶の中の空を、何かが駆け抜ける。
灰色の空を切り裂く、天色の影。まるで雲を割って、大空を垣間見せるかのように、その影は駆け抜けたのだ。
「!?」
思い出した瞬間、ユミトは、その翼の風圧が顔にぶつかったような衝撃に襲われる。
網膜に刻みこまれた映像は、今でも鮮明に映し出された。生命の美しさを体現したようなその美しき影は、みるみる近づいてくる。そしてその背には……
「エファ……ッ」
背に乗る少女を思い出した瞬間、ユミトの中にすべての記憶がフラッシュバックする。
濁流のように記憶が押し寄せた。
ティクオンの迎撃。
エファの捜索。
魔法術士からの逃走。
そしてヤエカとの対峙。
すべてが早回しにユミトの中で再現される。
彼はじっとりと汗をにじませながら、固いベッドから跳ね起きる。
じゃらりと、金属のすれ合う音が響いた。
ユミトはそこで初めて自分の手足に枷がはめられていることに気が付く。
引きちぎろうと力任せに引っ張ってみたが、びくともしなかった。
枷の素材が特別固いわけではない。
ユミトの手にいつものような力が入らないのだ。
「(マナを吸われている?)」
枷の他に、胸の位置に見た事もない装置が取り付けられていた。
装置は筒状の形をして、中に鉛色の球が収納されている。
そしてその筒から、根を張るように、細い脈がユミトの体内に絡み入っていた。
根のようなものは、規則的に脈打っている。まるで、その脈動に合わせ、ポンプでマナを吸い上げられているようだった。尋常でなく不快だ。
すぐに取り払ってしまいたいところだったが、完全に体と一体化してしまっていて外せなかった。
「クソッ!」
苛立ちに任せて壁を殴る。しかし、ヒビ一つ入らなかった。
体に力が入らない今、鉄格子を蹴破ることも壁に穴をあけることもできない。ユミトは捕えられたのだ。
ここがどこだか定かではない。しかし、ここが該当者を閉じ込めておくための設備であり、決して逃れられないように設計されているということは嫌でもわかった。
「エファはどうなったんだ……」
手の甲を額に当て、苦悶する。
あの時のエファはもうほとんど意識が混濁しかかっていた。ユミトがヤエカに昏倒させられた後、彼女に逃走できる余力があったとは到底思えない。
魔法術士の手に落ちたと考えるのが自然だろう。
だが、あの場ですぐにエファが殺されたとは考え辛かった。
彼女の身柄は簡単に扱って良いものではないはずなのだ。
ヤエカにエファの処分を決定する権限はないだろう。サイコで決定する事もできなかったはずだ。
エファの事は、もっと国の中枢の部分で、しかるべき審議の末に決められるべき案件なのだ。
したがって、一度は白の本国までエファを搬送し、その上で位の高い大魔法術士などの決定を煽らなければならなかったはずだ。
エファの審議はもう行われたのだろうか。
ユミトは不安に感じる。
彼は自分がどれだけ気絶していたのかわからない。ひょっとしたら、もうかなりの時間が経っているのかもしれないのだ。
彼の気絶していた期間如何によっては、もうすべての審議が決定して、エファの処分の執行まで行われてしまった可能性もある。
「僕は守りきれなかったんだ……」
ユミトは、己の無力を思い知り、歯を食いしばった。
自分の力が及ばなかったがばかりにエファは囚われたのだと、自責する。
胸に穴が開いたようだった。
エファがどうなったのかはわからない。しかし、どう考えても無傷で済んでいるはずはなかった。
殺されたかもしれないし、殺されるよりも悲惨な目にあっているかもしれない。
拷問にかけられるエファを想像すると、鈍痛が体の芯に響くようだった。
ユミトは二の腕に爪を立てる。
様々な事実が濁流のように流れ込み、その度にユミトの感情はかき乱された。
捕えられたエファ。そして、変わり果てたヤエカ。
衝撃的な事実の処理に追われ、彼の頭は擦り切れる寸前にあった。
「どうしてだよ……ヤエ姉」
殴られたこめかみには痛みが残留している。胸の、得体の知れない装置によってマナを吸収されているせいか、傷の回復も遅いようだった。
ヤエカの事はやはりショックだった。
ユミトはいつでもヤエカの後を追い、少しでも彼女に近づこうと努力してきた。ヤエカの在り方はユミトにとって目標だったのだ。
しかし、そんな彼女と衝突する事態となった。
かつて理想とした姉は、三年の空白を挟み、見る影もなく変容してしまっていたのだ。
あまりの出来事の連続に、ユミトは気が遠くなってくる。こめかみと胸の痛みに意識は揺さぶられた。
……カツンカツン。
その時、薄れてきた意識に渇いた音が飛び込んでくる。
足音だ。階段を下ってくる。
ユミトは、心ここに在らずとした虚ろな目を、牢の外へと向けた。すると……
「起きたようだね。困るよ、鉄格子を蹴ったりしたら」
聞き覚えのある声が聞こえて来た。だが、いつどこで聞いたのかは、すぐには思い出せない。
つかの間、声の主が誰であるのか、ユミトはとぼけかかった頭で考えた。しかし、彼が自力で答えを出す前に、声の主は姿を現す。
牢の前に立った人物は、褐色の肌の美青年だった。
やや厚ぼったい目の下には色気のあるほくろがある。
ダブったように鮮明でなかったユミトの視界が、一つに収束していった。そして、ピントが合ってくると、ユミトの表情は驚きに崩れていく。
そして、相手の正体が完全にわかると、ユミトは思わず呆けた声をあげた。
「カカオリフィス……様?」