炎を手繰る者
「(あと少し。もう少しなんだ)」
ユミトはさすがに汗だくになっていた。
魔法術士とのやり取りにはそうとう精神をすり減らされた。しかし逆に、それを超えた今は、彼らの前に立ちはだかる者はいない。
あと少し、森から離れられれば敵を振り切れるかもしれなかった。
ユミトにも希望が湧いてくる。
「エファ。もう少しで逃げ切れるから頑張ろう」
ユミトはエファと、そして自分自身を元気づける意味で希望を言葉にした。
彼の声掛けに対し、肩に担いだエファがわずかに動きを示す。どうにか頷きを返したつもりらしい。
彼女もユミトも気持ちは一つだった。
ぎりぎりの綱渡りのような状態だが、二人の気持ちによってかろうじて、希望への道は繋ぎとめられている。
「エファ。故郷まで君を連れて行く事が出来たら、僕の家族を紹介するよ」
叔父夫婦ならエファを匿う事に同意してくれる自信があった。彼らが、傷ついた無害な少女を前にして魔法術士に突き出すようなマネはしまいと、ユミトは信じていた。
喋る事は出来ないようだがわずかにエファは身じろぎする。
「僕の話は聞いているだけでいいからね」
エファが相槌を打つために貴重な体力を使うのは望ましくない。ただ話を聞いて気を紛らわし、少しでもこの先に希望を持ってくれればそれだけでユミトとしては十分だった。
「父さんも母さんもすぐにエファを気に入るはずさ。すぐにエファのことだって実の子供みたいに接すると思うよ。……まあ、そうなるとちょっと口うるさいくらいだからそれはそれで注意だけどね」
エファは、今度は黙っていた。ユミトが動かなくていいと言ったからだろう。意識はある様子なので聞いている事はわかった。
「信用できる友達にも君を紹介するよ。カイとキナツっていう幼馴染がいるんだ。この二人も絶対すぐ仲良くなれるから安心して。二人とも一つ年下なんだけど結構頼りになるやつらでさ……」
ユミトは短いエピソードを添えて二人の人柄を軽く説明した。二人とも誰とでもすぐに仲良くなれる性質なので心配はないだろう。
「……という具合に、騒がしい奴らだから、むしろエファの方が愛想を尽かさないかが心配かもしれない」
ユミトは一通り二人の説明を終えた。そして、そこからしばらく考え込んだようにユミトの口の動きは止まる。
しばし、雨が体を打つ音と、草を踏みつける湿った音だけが響いた。足を踏み出すたびに、草にへばり付いた滴が跳ねとび、弾けた。
「……実はもう一人、本当は紹介したかった人がいたんだけどね」
心を遥か遠くの地に馳せさせながら、ユミトはそう言った。
彼の脳裏に浮かんだのは、大人びた雰囲気の黒髪の少女……ヤエカだった。
三つ年上のはずの彼女は、記憶の中では彼と同じ歳のまま時が止まっていた。
「……その人はもうリュウセンにいないんだ。簡単には会えない場所に行ってしまった」
風にのせるようにユミトは小さくそう付け加える。
ヤエカはユミトを庇ったがために、白の本国に搬送される事態に陥ったのだ。
そこは、実距離こそそれほど離れていないが、相当な事がない限り、まず会いに行くことができない場所だった。だから、ユミトにとっては心理的にとても遠い場所のように感じられているのだ。
「白の本国に君を連れて行くわけにいかないから、残念ながら君に紹介することはできないけど……その人は、どんなときでも僕の中にいて、そしていつも僕に道を示してくれるんだ。今も、君を助けろって言ってくれている」
ヤエカがこの場にいたらどう行動していただろうか。
自分と同じ行動を取っただろうか。
ユミトはふとそう考えることが多かった。
そして同じ状況下でヤエカもやはり自分と同じ行動を取っただろうと確信が持てた時、そこでユミトは自分の行動が正しかったのだと思えるのだ。
記憶の中のヤエカはユミトの判断の基盤を作っている。そのため彼の中にヤエカがいなくなる事はないのだ。
そして、ユミトの中のヤエカは今こう言っている。
エファを助けろ、と。
ヤエカが、傷ついたエファを見捨てることを良しとするはずがないのだ。
彼女なら、たとえ敵国の人間であろうと、戦意もなく、むしろ傷つけあう事を嫌って母国を逃れてきたような少女を、惨たらしい運命に曝そうとはしないはずだ。
肩からはエファの熱が伝わってくる。
生きている彼女の灯のような熱。
絶えさせはしない。
運命に抗おうともがく儚い少女、その彼女が最後によるべとしたのが自分なのだ。
運命の激流に呑みこまれようとしている彼女を、最後のひとすくいで解き放つ事ができるかもしれない。それがユミトの手に掛かっているのだ。
「エファ、僕は絶対に君を逃がすからね」
ユミトは奮い立った。この、いつどうなってもしまってもおかしくない極限の状態だからこそ、ユミトは再度決意を胸に固める。
だが、その時、
「!?」
びくりっと、エファの体が震えた。
それはエファの体が強力な陽性のマナの反応を感じ取った結果であった。そして、エファが気配として感じ取った変化はすぐに、ユミトにも分かる現象として形を成す。
突如ユミトとエファの周りの叢に火がともった。
言うまでもない魔法術だ。雨を度外視し、草むらは燃え上がる。
「(魔法術士はどこにいる?)」
すぐさまユミトはこの魔法術を行使しているはずの術士を探す。
しかし、目視できる範囲に敵は見えなかった。そして、そうしている間にも、肌に感じる熱気は増していく。
煙く乾燥した空気があたりを満たしていった。炎は瞬く間に燃え広がり、二人を包囲せんと這い進みだす。
「くッ……」
ユミトは敵を視認する事を一旦あきらめ、とぐろを巻く炎の綻びを探した。そして、取り囲もうと伸びていく炎が円形に繋がってしまう前に、わずかな穴から辛くも飛び出た。
エファが息苦しそうにせき込む。
ユミトはすばやくエファの首に巻きつけていた風呂敷の切れ端をほどくと、それを彼女の鼻と口元に巻き直した。煙を吸わないようにするためだ。
そして、それまで肩に担ぐようにしていたが、なるべくエファを低い位置に置くために、膝と腰のあたりをもって抱え込むような持ち方に変えた。
包囲網からは間一髪逃れたが、炎は勢いを増して、大蛇のように、ユミトたちを丸のみしようと押し寄せてきた。
ユミトは横っ飛びで後方からの炎の突進をやり過ごす。
しかし今度は、炎が枝分かれし、複数岐の怪物のように多角的にユミト達に襲いかかってきた。
緩急を付けながら噛み付いてくる炎の牙を見極め、ギリギリのところでユミトは躱していく。
間を置かない、炎の波状攻撃。
蛇行しながら迫りくるいくつもの炎の追撃を身のこなし一つでユミトは凌いでいた。
そして躱しながら、ユミトはたえず敵の姿も同時に探っていた。躱すだけでは、いつかやられてしまう。
攻撃の大本である魔法術士をどうにかしない事には、助かる術はないのだ。
しかし、炎と煙によって視界が遮られ敵の姿は認められない。
するすると、ユミトは器用に猛火を躱していく。だんだん、躱す事にも慣れ始めていた。
そして、余裕が出てくると、ユミトはある事実に気が付く。
「(ひょっとして、誘導されているのか?)」
炎の追撃がうまい具合に速度を変えながら、自分の躱す方向をコントロールされているようなのだ。
しかし、たとえ敵にどんな思惑があろうとも、いまのユミトにはその炎を避ける以外に方法はなかった。
激しい動きに、エファもかなり息があがっている。しかし今はエファを気遣う余裕もなかった。気を抜けば二人とも丸焼けになってしまうのだ。
敵の誘導はやはり巧みで、焼き尽くしてもう焼けるものの無くなったエリアには決してユミト達を近づけさせないようにしていた。
かなりの使い手なのだろう。いち早くユミトたちの位置を特定したことも、この魔法術士の能力の現れだ。
そして、変局点が訪れた。
ユミトがすんでのところで炎の帯を躱した時、炎たちの動きが変わる。
おそらく、今の彼の動きで、敵が誘導したかった場所に辿り着いたという事なのだろう。
炎が壁のようになり、ユミト達の周り三方に立ちふさがった。正面の一方向だけ炎の壁がなく見渡せるような状態だ。
そして、その空いた正面に今一人の魔法術士が降りてきた。
そう、空から降ってきたのだ。
炎の操作は上空で行っていたらしい。たしかに、逃げるユミトたちを誘導するのなら俯瞰しながらでなくては難しいはずだ。
そんなことにも気が付けなかった自分にユミトは舌打ちしたい気分だった。敵が浮遊する術を持たないと思ってしまった固定観念が失態の原因だ。相手が魔法術士ならばそれくらいのことを想定して然るべきだというのに。
炎に囲まれ、退路を断たれた状態で、ユミトは魔法術士と対峙した。
戦闘になれば、見張りの魔法術士の時のようにはいかないはずだ。
あの時、森の出口で魔法術士を無力化することができたのは、相手の警戒心が限りなくゼロで、陽動から隙をつくり出す事ができ、なおかつ相手に魔法術を使う間をまったく与えなかったためだ。
それだけの条件を揃えなければ、ユミトが魔法術士に敵う道理はない。
今のように敵と認識された状態で戦闘に臨んで、ユミトが勝てる見込みなどは、ほとんどなかった。
ゆっくりと、魔法術士は歩を進めてくる。
ユミトは、ここまで自分たちを追い詰めた魔法術士の顔を見ようと、視力を強化した。
そして、その魔法術士の顔をその目に収めた瞬間………
「うそ…だろ…………?」
彼はわが眼を疑った。魔法術士の姿があまりにも衝撃的で、瞬きも、呼吸をすることすら一時的に頭から吹き飛んだ。
熱気で渇く眼球は一点を見据えて離れない。向かってくる女魔法術士ただ一人に、彼の目線は釘付けとなった。
燃え盛る炎の勢いになびく黒い髪。純白の軍服にすらりと通された手足。まっすぐ過ぎるほどの意志が燈った瞳。
彼女の足取りに迷いはない。
芯の通った彼女の意志はいかなる時でもその歩みを遅らせることも、脇道に向かわせることも許さないのだ。ただまっすぐに踏み出すのみ。
歩き方には個人の人生が反映される。そして、その歩き方をユミトは知っていた。いや、知っているなんてものではない。彼がこれまでどれほど、その歩み方に憧れ、そして倣おうとしてきたことか。
「……ヤエ姉」
ユミトの戸惑いを映しだしたように、炎は揺らぐ。彼は今、この三年間逢うことを渇望し続けた人と相見えたのだ。
このような形で。
今、ユミトは魔法術士の姿をした姉と対峙した。