モノノリとアオノリ
――ここはどこ?
気がつくと真っ白な空間に立っている。
少し眩しい。
足下も真っ白。絨毯の上に立っているようで少し柔らかい。
私はローファーを履いている。
セーラー服は夏服のまま。
風も音もない無機質な空間。
……ん?
後ろを振り返ると少し離れたところにシンが仰向けに倒れている。
血で染まった真っ赤な顔。
汚れた白い半袖にカーキ色のズボン、カーキ色のブーツ。
――さっきの姿のままだ。私達はタイムスリップしてはいない!
どこか別の空間に来たらしい。
「うぅ……」
シンの意識が戻ったらしい。シンは立膝を着くと頭を押さえた。
「シン、大丈夫?」
私はシンに手を貸そうと思ったけれど、私の右手はシンの体をスリ抜けてしまった。
もうシンには触れない様だ。さっき飛び上がった時は触れたのに。
「アナか? ここはどこ?」
シンはよろよろと立ち上がった。
「分からない。でもタイムスリップはしていないみたい。」
「あの化け物は? 俺は死んだのか? ここは死後の世界じゃないのか!」
そんな馬鹿な?
でもこの真っ白な世界が現実とは思えない。
「ここは死後の世界なんてところではありませんよ。高次元空間に浮かぶ『時空移動船』の船内です」
誰? 知らない人の声がする!
若い男性の様な声。
「ジクウイドウセン」って何?
シンも周囲をきょろきょろと見回している。
すると二十メートル程離れた所に白い何かが二つ見えた。
「この空間は君の住む三次元空間とは違う。もっと高次元の空間だ」
また別の声。初老の男性の様な声だ。
白い二つの何かは十メートル程離れた所まで近づいて来た。
……幼稚園児くらいの背丈。
人間? 動物?
声の主はこの白い者達だろう。
「もっとも君の感覚器官では、四次元以上の空間を認識出来ないだろう。この時空移動船の船内も真っ白な空間にしか見えないだろうね」
再び、初老の男性の様な声が聞こえた。
声の主達はシンのすぐ眼の前までやって来た。
……二匹の白い猫だ!
太った猫と細い猫が二本足で直立している。
太った猫は毛むくじゃら、細い猫は短い毛。
二匹とも古代ギリシアの白い衣服の様なものを身に着けている。
白い一枚布を左肩からまとい、腰をベルトの様な物で締めている。丈は腿まで。
足下にはサンダルの様な物を履いている。
細い猫だけは黒い表紙の辞書の様なものを持っていて、シンとページとを見比べたりとしている。
「猫だ。服を着たでっかい猫が喋っている」
シンが呟くと細い猫が首を振った。
「とてもよく似ていますが、私達は地球に住んでいる猫ではありません」
細い猫は若い男性の様な声を発した。
「私達はこの地球から三百万光年離れた『コタッツ』という銀河の惑星、『マルクナール』に住む知的生命体です。簡単に説明すると私達は宇宙人です」
もう何が何だか分からない!
タイムスリップ、戦場、黒い生き物、その後は猫型宇宙人が目の前に現れた!
現れたのがポケットの付いた青い猫型ロボットだったらどんなに良かっただろう。
「宇宙人……? 話しの意味が分からない」
シンが両手を振り上げた。
「意味が分かりませんか? おかしいな、翻訳機能が上手く作動していないのでしょうか?」
細い猫は黒い辞書のページを慌ててめくっている。
「そうではない。言葉自体は伝わっている筈だ。話しの内容が理解できないという意味だろう」
太った猫がゆったりとした動きで細い猫に向かって話す。初老の男性の様な声だ。
太った猫はシンの方に歩み寄り、猫らしからぬ指の長い手でシンの左手を握り締めた。
「私の名前は『モノノリ』、マルクナールの学者だ。こっちの細いのは助手の『アオノリ』だ。私達はさっきの黒い生き物とは違って君に危害を加えるつもりはない」
モノノリという宇宙人は眼を細め、「ニッ」と口角を上げた。
能面の様な間の抜けた顔。……多分、笑っているのだろう。
アオノリという宇宙人もシンに向かって眼を細め、「ニッ」と口角を上げた。
「君が黒い生き物に襲われている所を私達が助けたのです。しかしあの黒い化け物……地球には妙な生き物がいるものだ。それに人間ってあんなに高く飛び上がれるのですね。……いやぁ、勉強不足だったなぁ」
アオノリは「うん、うん」と一人で感心している。
そうか、この二人の宇宙人が私達を助けてくれたのだ。
二人は何か特殊な力を持っているみたい。でも何で助けてくれたのだろう?
シンはモノノリの手から自分の手を離した。
「……で、ここは一体どこ? 時空移動船って何?」
するとアオノリが咳払いをし、右手の人差し指を上に立てた。
「時空移動船とは、様々な次元を行き来して空間と時間を移動する為の乗り物です。地球人には理解し難いでしょうから、私が詳しく説明――」
「――あ、そうだ! そんな話しはどうでもいい。今、何時? 今の時間を教えてくれ!」
シンはアオノリの話しを無視してモノノリに尋ねた。
……そうだ、そろそろシンが死んでしまう時間かもしれない!
アオノリは眼を細めて口を尖らせている。時空移動船の説明が出来なくてふて腐れているのだろう。
モノノリがゆっくりと首を振った。
「時間を心配している様だがそれには及ばない。今、この船内の時間は止まっている。現在、地球の日本時間では十三時三十一分十二秒。従って十三時三十二分十二秒に訪れる君の死について心配する必要はない」
え?
なぜモノノリはシンが今日死んでしまう事を知っているのだろうか?
この二人は一体何者なのだろう? シンも不思議そうな顔をしてモノノリを見つめている。
モノノリは両手でシンの手を掴んだ。
「……黒井シン君、やっと探し当てた。君に会うまでにどれほどの苦労をしただろうか? もう少し早く会いに来る予定だったが、色々とトラブルがあり遅れてしまった。君に聞いてほしい大切な話しがある。どうか驚かずに聞いてほしい」
シンはきょとんとした表情をしている。そりゃそうだ。初めて会った宇宙人にお願いされているのだから。しかもなぜか自分の名前も知っている。
「……どうして? 何で名前を――」
「シン君、それについては追って説明をしたい。まずは私の話しを聞いて欲しい」
モノノリはシンの手を離すと、辺りをゆっくりと歩き始めた。
「シン君、ブラックホールの存在は知っているね? とてつもない大きさの質量を持ち、物質はおろか光ですら抜け出せなくなる天体」
ブラックホール?
一体何でそんな話しを始めるの?
シンも怪訝な表情をしている。
「宇宙の至る所でブラックホールの存在は認められている。そしてどの銀河も、その中心に巨大なブラックホールを持っていると知られている。君達の住む天の川銀河もそうだ、中心に巨大なブラックホールを持っている」
モノノリは両腕を伸ばし、ぐるりと大きな円を描いた。
シンは
「……はぁ」
と分かっている様な、分かっていない様な相槌を打っている。
「……とりあえず、俺達の住んでいる銀河が『天の川銀河』と呼ばれている事は知っているよ。まぁ、テレビで聞いただけだけどね」
シンは首を傾げながら頷いた。
モノノリは手を後ろに組んで再び歩き始めた。
「地球でもブラックホールの研究は進んでいるようだが、天の川銀河の中心に存在するブラックホールについてはほとんど何も知られていない。しかし、コタッツ銀河の中心に存在するブラックホールの研究は飛躍的に進んでいる。私の住むマルクナールを始めとした多くの惑星では、ブラックホールを様々な形で利用している。主としてエネルギー利用だ。ブラックホールは凄まじい早さで回り続けているから膨大なエネルギーを得られる」
するとアオノリという細い猫が人差し指を立て、一歩前に進み出た。
「あなた達地球人の言う『エルゴ球』と『事象の地平面』の境目から取り出した角運動量をエネルギーとして利用するわけです。ゴミ問題と絡めてこの考えを提唱した地球人の学者もいる様ですけどね。名前は『サンタクロース』と言ったかな? ……あ、『ペンローズ』か。あぁ、なるほど……」
アオノリは黒い辞書のページをめくりながら、「ふむふむ」と一人の世界に入ってしまった。
アオノリの補足は何だか分からないけれど、コタッツ銀河には高度な文明が数多く存在しているのだろう。
「コタッツ銀河では――」
モノノリが咳払いをしながら口を開いた。
「――コタッツ銀河ではブラックホールの使用についてしっかりとした枠組みを定め、各惑星の住人達はルールに則り平和に暮らしていた」
そこまで話したモノノリは立ち止り眼を閉じて首を振った。
「……しかし、この平和は既に過去の話し。私やアオノリが生まれるもっと前の話しだ。……今から四千年程前、コタッツ銀河の恒星や惑星の軌道に突如ズレが生じ、各地で星同士が衝突し爆発するという出来事が起こった。『コタッツの大異変』と私達は呼んでいるが、この異変により多くの星と高度な文明が一瞬で消えてしまった。衝突を逃れても気候変動により生物が住めなくなってしまった惑星や、資源を巡る争いで文明の滅んだ惑星も数多くあった」
モノノリは腰に手を当てじっと天を仰いでいる。
アオノリも辞書を胸に抱きギュッと眼を閉じている。
どうやら二人は涙をこらえている様だ。とても悲しんでいる様子。
「待ってくれ、モノノリ……だっけ?」
シンが口を開いた。
「その『コタッツの大異変』? それについては気の毒に思う。……うん、酷い話しだ。星が『ドカーン!』ってなったら、皆『ギャー!』ってなる。それは本当、分かる。でもね、その遠い彼方で起こった銀河の異変をなんで俺に聞かせるの? 俺には全く関係ないし!」
シンがイライラとした様子で声を荒げた。
「シン、きっとあなたと関係がある話しなのよ。黙って聞こうよ」
私はシンを睨みつけた。
……そんな言い方をしたらダメ、二人が可哀そうだ。
シンは私に向かって何か言いかけた。
でも、思い直したのか大きなため息をついただけで口を閉じた。
モノノリは手を後ろに組んで再び歩き始めた。
「私達の住むマルクナールは幸運だった。若干の気候変動だけで済んだ。もっとも食糧不足や様々な争いで数億の同胞の命が奪われてしまったがね……。大異変後の荒廃したマルクナールで生まれ育った私は、大人になるとブラックホールに関する学者となった。私は僅かに残った宇宙観測機器などを駆使して大異変の原因を調べた。すると大異変はコタッツ銀河の中心のブラックホールが原因だと分かった。ブラックホールの質量が半分にまで激減していた。その為に恒星や惑星の軌道がずれ、大異変を起こしたのだ」
すかさずアオノリが右手の人差し指を高々と上げた。
「補足します! 『相対論』的な説明ではなく『ニュートン力学』的に説明します」
アオノリは咳払いをすると、身にまとった白い衣類を真っすぐに正し、右手の人差し指を顔の横に立てた。




