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氷血の皇子  作者: 桐央琴巳
第一部 胎動編
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第十一章 「一線」4

 スタイレインが、花街へ乗り出すのと、時は前後して。

 ゾライユの皇宮で、ざわざわと噂は、広まっていた。

 皇帝の寵姫エスメルタが、タンディアの歌姫上がりであることなら、最初からみな知っている。一部の者だけが把握していた、ボーラウジア生まれの戦争流民(るみん)であったという事実も、この機に乗じてあっという間に知れ渡るようになった。なのでその知己であるらしいヴェルヴィオイも、それに類するような卑賤の出身ではないのか? ――という噂だ。


「エスメルタめ……!」

 皇后の室にヴェルヴィオイを呼びつけて、ゼラルデはぎりと歯ぎしりをする。説教部屋となっているのは皇后の客人の間だ。ルドヴィニアの機嫌を理由にして、アミスターゼは控えの間に待機させていた。そうせねばヴェルヴィオイの傍から、皇帝の息がかかったこの守役を引き離せないこともまた、ゼラルデには非常に腹立たしい。


 出回る噂はその程度のものだが――それだけでも十分に痛手ではあるのだが――、エクスカリュウトは既に、エスメルタの口から、もう一段深いところまで知ってしまっているだろう。つまりはゼラルデが、ヴェルヴィオイを締め上げて吐かせたようなこと。エスメルタを拾い、躾を施し、女衒(ぜげん)に売った、ミレーヌという名の性悪女の息子がヴェルヴィオイであることを。そしてミレーヌが、アスハルフにある娼館の女主人であることを。

 おかげでヴェルヴィオイがエクスカリュウトの落し胤であることを、明らかにするのは難しくなってしまった。その一方で皇帝が必ず派遣するであろう捜索者を、ミレーヌ即ちクリスティナへと辿り着かせてしまえば、ゼラルデが過去に犯した大罪までも、早々に突き止められてしまう懼れがある。


 誤算があった。誤算であった。エクスカリュウトの情人であった元宮女クリスティナは、とうの昔にロジェンターで死亡している。それを偽装と看破して、逃亡した彼女を草の根を分けて探させたのはひとえにゼラルデの執念であるわけで、全くの別人となっているミレーヌの存在は、そう易々と探り当てられないはずであったのだ。

「エスメルタめ……!」

 計画を台無しにしてくれた、忌ま忌ましい遊び()の名を憎々しげにもう一度呟いて、ゼラルデは怒りの矛先をヴェルヴィオイに向けた。



「ヴェルヴィオイ様もヴェルヴィオイ様であられる! そもそも何故、衆目のある中でエスメルタに受け答え、あまつさえあの妾の室までのこのこと誘われて行くような、軽率な真似をなさったのか?」

「何でって、昔毎日一緒に寝てくれた、お歌の上手なお姉ちゃんに何年ぶりかで会えたから、嬉しくなってはしゃいじゃったー、じゃ駄目?」

 反省のはの字も見せずにヴェルヴィオイはそう答える。広げた扇の上部から、顰め顔を覗かせているルドヴィニアの手はわなわなと震え、その傍らでは、ここから先は自分も立ち入らせてもらうとして強引に立ち会った、皇后付き筆頭衛士(えじ)のネモシリングが渋い顔つきをしていた。


「そんな幼稚な答弁に騙されますものか……! 大方、気に食わないわたくしどもを困らせてやろうとでも、お考えであったのであられましょう!」

「そう思うんならそれでいいんじゃない? はいはいそうですよーだ」

「ヴェルヴィオイ様!!」

 雷を落とすゼラルデを、長椅子の下座に掛けさせられたヴェルヴィオイは疎ましげに見上げる。


「うるっさいなあ、そんながみがみ怒鳴らなくたって聞こえてるって。あんたらはさ、俺が何を思っていようが何を感じていようがどうだっていいんでしょ? 仰せのままに致してやるって言ってんのに、それでもまだ怒られるとか、意味分かんないし」

「何が仰せのままでございますか。あれほど言い置いておきましたのに、ルドヴィニア様にとんだ赤恥をかかせて下さって……! いかに懐かしかろうと、エスメルタなど無視しておけば、淫売の子と明かされることなどなかったものを!!」

「恥?」

 母親を侮辱するその言葉、そして唾棄するように吐かれた蔑称に、ヴェルヴィオイの瞳が尖った。その身の内に確かに流れる、双頭の狼の血を喚起させる眼差しであった。


「そんなの、恥って考えるから恥なんじゃないの? 俺は別にね、恥ずかしいことだなんて思っちゃいないよ? あんたらには、想像もつかないことかもしんないけどさ、ミレーヌが身体を売って食わせてくんなきゃ、俺はとっくに干からびて死んでただろうからね。

 俺がそういうお里の育ちだって知っていて、そっちの都合で連れてきといて、何勝手ばっかりほざいてんの? って話。皇后の養子が娼婦の息子で困るんなら、さっさと俺を皇宮から放り出して、別のを探せばいいんじゃないの? それともあんたらにとっての赤っ恥を忍んでも、どうしても俺に固執しなきゃなんない理由でもあるわけ?」

「お部屋に立派な鏡があるのです、あなた様がいかにうつけといえど、それをわざわざ説いて差し上げねばならぬほど愚昧ではあられますまい。また、皇帝陛下のご裁断を、そう簡単に覆すことなどできぬのです」

「……ふうん、そう」

 この期に及んで口を割ろうとしないゼラルデに不満げな相づちを打ち、ヴェルヴィオイは上座にいるルドヴィニアに視線を転じた。ヴェルヴィオイにしてみれば、迷惑でしかない地位を与えられ、望まぬ生活を強いられることになった、諸悪の根源であるルドヴィニアが、一方的な被害者面をしていることに腹を据え兼ねる気持ちで一杯だった。



「ねえ」

 ヴェルヴィオイの呼び掛けに答えてくれる気はさらさらないようで、ルドヴィニアは無言のままそっぽを向いた。偉そうにしている大人のくせに、自分よりもよっぽど子供染みているじゃないかと、ヴェルヴィオイはかちんと来た。

「ねえってば、皇后陛下、知ってる? 俺は人形じゃない、人間だよ。あんたと同じで、嫌な思いもする、傷付きもする、心を持った人間なんだよ? 俺はあんたにお願いして、あんたの生き人形って呼ばれる立場にしてもらったわけじゃない。ひどいことをしてんのは、俺じゃなくってあんたの方だってわかってんの?」

「……っ」


 ヴェルヴィオイの訴えは、自分を一番憐れんでいたいルドヴィニアには痛かった。ゼラルデの怒声にも、たいがい嫌気がさしていたルドヴィニアは、泳がせた目線の先にいた、ネモシリングに即刻命じた。

「摘まみ出して、ネモ」

「はい」

 つかつかと歩み寄り、主君の命令を実行しようと左手首の上を掴み上げたネモシリングに、

「引っ張んな!」

 ヴェルヴィオイは自分の腕を引き戻しながら鋭く噛み付いた。


「人の身体に、容易く触ってくれてんじゃねえぞ、おっさん! 清廉潔白な堅物ですって顔しちゃってさ、一夜の責めが忘れられなくて、ゾライユに舞い戻って来たって醜聞をお持ちの衛士様は、異端の趣味がおありなんじゃないの?」

「なっ……!?」

 汚らしい侮辱語の羅列に、怯んで緩んだネモシリングの手を跳ね除けて、ヴェルヴィオイは長椅子から腰を上げた。血色の髪の下から氷の瞳が、ルドヴィニアを冷ややかに見下ろす。


「言われなくても出てってやるよ、皇后陛下。こんなとこ、これ以上居たくもない」

 夫によく似た少年の冷淡に、固く握り締めた扇の陰で、ルドヴィニアは唇を歪ませた。

 ヴェルヴィオイに好かれていないのは百も承知のつもりだったが、こうしてはっきり示されてみれば、ルドヴィニアには思った以上に応えることであった。


「何たる無礼な……!」

「私のことは構いません。しかし養母(はは)君には非礼を詫びられよ、ヴェルヴィオイ殿」

「……ふうん」

 激昂するゼラルデはまたかと無視し、額に青筋を立てながらも、抑えて諭すネモシリングを振り仰いで、ヴェルヴィオイはぽいと火種を投げ込んだ。


「異端じゃなくて、報われない恋に殉じてますってやつですかあ? あんたの神様は褒めてくれるのかもしんないけどさ、人妻に頼まれてもいない操を捧げて、坊さんみたいに一生不犯(ふぼん)でいるっていうのも、それはそれで気色悪いんだよ、おっさん」

「そっ……れは……!!」

 図星を指してネモシリングをうろたえさせ、その場の空気をいたたまれないものにすると、戸口に進んだヴェルヴィオイはこんこんと扉を叩いた。

「帰っていいってさ、アスター」

 その声に応じて、ぱっと扉が開かれる。その向こうに、取っ手に手を掛けたまま、慇懃無礼に一礼するアミスターゼの姿が覗いた。


 生意気を言い放したまま行かせてしまうのは、教育上よろしいわけがない。けれどルドヴィニアの命が撤回されていない今、ネモシリングにもゼラルデにも、それを盾に取ったヴェルヴィオイを引き留めようがない――。

 室内を一顧だにせずヴェルヴィオイが一抜けした後には、これまで築き上げてきた関係をぎくしゃくとさせた、大の大人たちが残されていた。

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