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氷血の皇子  作者: 桐央琴巳
第一部 胎動編
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第十一章 「一線」1

 予定外に予想外の命を受け、自室に戻ったスタイレインは、寝台に腰を落としてどっと冷や汗をかいていた。

 ヴェルヴィオイが、娼婦の子だという事実はスタイレインを仰天させたが、あの皇后の養子が――という点に驚かされただけで、大きな秘密と私生児を抱えた、身元の怪しい女が就ける仕事といえば、それしかなかっただろうという憐れみも湧く。ゼラルデがヴェルヴィオイを、帝都の掃き溜めの中から発掘し、連れてきたのだと考えると、むしろその出生に期待をかけられるというものだった。


 エクスカリュウトの言う通りに、スタイレインにならば、ミレーヌが即ちクリスティナであるかどうかがわかるだろう。主君ができない事実確認を、かわりにずっと側近くに仕えてきた、自分がなさねばならない必要性も承知している。

 しかしスタイレインは、正直なところ、ミレーヌなる女に会うのがたまらなく怖かった。

 何故ならばクリスティナは、スタイレインが墓場まで持ってゆかねばならない背信の、蠱惑的な共犯者であったから。


 ――クリスティナは、胎の子を、皇帝の侍従に手籠めにされてできてしまった子だと言っていたそうなのですが、何か心当たりはございませんか?


 日中に、ファルネンケルからされた問いかけが、スタイレインの耳の奥にわんわんと蘇る。

 驚きに乗じてごまかした……つもりだが、実のところ心当たりはありまくりだ。

 一度きりだ。一度だけ……! あの夜の出来事を思い起こせば、今でもスタイレインの背筋に背徳的な快感が這い上る。皇帝の寝所と扉一枚隔てただけの控えの間で、クリスティナには口に押し込んだ指をしゃぶらせ、スタイレインは大きく捲り上げた彼女の裳裾を噛み締めて、互いに声を殺しながらの刹那的な情事であった。


 同意はあった、と、思う。それどころか己に都合よく記憶が改竄されていなければ、誘われたのはスタイレインの側であった。

 新婚夫婦の閨の音吐を漏れ聞く刺激的な状況で、皇帝の情人の座から追い払われた美女の、妬みと痛みと寂しさに揺れる、濡れた瞳の誘惑に抗えなかった。


 スタイレインが、後宮の宮女と好い仲になれずにいるのは、そのたった一度の過ちによって、主君の一生一度の恋を汚してしまった罪悪感が、未だ尾を引いているからだ。

 あの時……、既にクリスティナの(はら)には、エクスカリュウトの子が宿っていたのかと想像すると、めまいがするほどの罪深さに、スタイレインの息の根は止まりそうになる。


「は……」

 エクスカリュウトは知っているのか? いや知らないはずだ。ファルネンケルは察しているのか? いやいや鎌をかけられただけだろう。クリスティナはどういうつもりで? それはずっとわからずにきたが――。

「ははっ……」

 乾いた笑いを漏らして、スタイレインは寝台に身を投げ出した。両手で顔を覆いながら、自分は今、とても人に見せられたものではない、ひどい顔色をしているだろうと思った。



 非日常な体験であったが故に、状況はありありと覚えている。あの夜クリスティナは、皇帝の室までルドヴィニアに付き添ってきた宮女と、宿直途中で交代をしたのだ。その宮女が、急に体調不良になったとかの単純な理由で。

 明朝、身体を持ち直して戻ってきた宮女と入れ替わりに、何食わぬ顔をしてクリスティナは去っていった。スタイレインの口を固く閉ざさせて、エクスカリュウトもルドヴィニアも知らぬ間に……。


 クリスティナがロジェンターへ帰ったのはその直後で、スタイレインは荒んだ主君に心を砕き慰める一方で、ひょっとしてこの不祥事がばれたからではないかと、人知れずびくびくとしたものだ。


 帰国後のクリスティナが、ゾライユ皇帝の寵を受けていたことを、嫁ぎ予定の家の者たちに明かせなかったのは仕方がない。皇帝の侍従に手籠めにされて――というのは、身重の身体で孤立無援の状況で、情状酌量を求めての発言であったのだろうとも理解はできる。それからそうだ、真実を覆い隠す『東夷の強姦魔』をでっちあげるために、ああしてスタイレインに身を委ねることまでしたのだとしたら――。


 クリスティナが、そう簡単に死んでいるはずはない。

 胎の子を守るため、エクスカリュウトの子供を生かすために、クリスティナは懸命に逃げたのだ。自分は死亡したことにして、母体ごと殺しかけた男の嫉妬と憎悪から。我が子にとっては害にしかならないロジェンターという祖国から。


 ……会わねばならない。

 怖くとも、気まずくとも、ミレーヌに会って、彼女がもしもクリスティナであったなら、ヴェルヴィオイがエクスカリュウトの御落胤であったなら、その裏付けを取ることが、越えてはならない一線を越えてしまった、スタイレインにできるせめてもの罪滅ぼしとなるだろう。それしきのことで許されるとは思わないが、自分なりのけじめをつけられる気がした。


 決意を新たに、ぐしょ濡れの額を拭いながらスタイレインはふと思う。

 あの夜……、皇帝の室の控えの間で、本来共に宿直をしているはずであった、ルドヴィニア付きの宮女は果たして誰であっただろうか?

 スタイレインの推理が正しければ、当該の宮女は事情に通じていたはずだ。となればスタイレインの弱みも握っていると考えられるわけで、慎重に当たらねばならないが、貴重な証言を引き出せるかもしれない。記録から割り出せるとは思うのだが、ロジェンターの人間であるということに加えて、さらにもう一つ、重い問題がある。


 ルドヴィニアの輿入れに従ってきたロジェンター人の宮女たちは、エクスカリュウトが帝都と皇宮を奪還した折に、非常に乱暴な方法で遊牧部族の若武者たちに下賜された。

 東夷と蔑視してきた男たちから凌辱を受け、さらには妻妾として所有される辛苦に耐えかねて、心身を壊したり、自害をしてしまったりという事例が、後を絶たなかったとスタイレインは耳に入れている。かの宮女は健在であるのだろうか?



 メラニーアン。

 その名に辿り着いた時、スタイレインは、当該の宮女がルドヴィニアの乳姉妹(ちきょうだい)であったことに納得すると共に、その母であるゼラルデの作為を強く意識した。


 クリスティナが自分と関係を持ったのも、ゼラルデの指示であったと疑うべきだろう。ゼラルデに向かって、皇帝の子を隠したのかと弾劾すれば、お前の子であったかもしれないだろうと、主君との関係を崩壊させてしまうような、致命的な反撃をされかねない。

 甘い罠に嵌められて、後先無しに嵌めてしまったことが、スタイレインには今さらながらに悔やまれた。


 何はともあれ、まずはミレーヌに会わなくては始まらない。反省も贖罪も、場合によっては自白も、ミレーヌがクリスティナであるかないかを、この目で確かめてからのことだ。

 そしてメラニーアン、彼女の消息ならば掴めている。キルメリス族の男に略奪婚をされた後、夫にほだされ生き抜いていたことで、母親に勘当されているとも聞いている。だからといって協力を求めるのは難しいかもしれないが、必要になればその時に、軍属の夫を通じて接触可能だろう。

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