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氷血の皇子  作者: 桐央琴巳
第一部 胎動編
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第九章 「皇女」4

 そんなマルソフィリカを送り出した左側妃の室内では、その主であるヘルガフィラが荒れていた。

「皇后の生き人形は、陛下のお顔にそっくりでおじゃるとな――?」

 娘には見せない般若面で、ヘルガフィラは鏡台に並べられた化粧道具をなぎ払った。脂粉が舞い、紅筆が転がり、蓋の飛んだ小瓶から漏れ出した、麝香の臭いが充満する。

「いくら皇后のわがままとて、特例で後宮に住まわせる男子(おのこ)を、いつまでたっても披露させぬ、こちらからのご機嫌伺いもお許し下さらぬ、おまけにこそこそと姿を隠して移動させて、何かおかしいと思っていた! 何故そのような異相の者が、あのへちゃむくれの手裏におるのじゃ!」


 続けて、空いた天板をばんばんと叩き出す、突然のヘルガフィラの乱心に、不慣れな若い宮女たちが、手に手を取り合いながらなすすべもなくぶるぶると震える。

 まずは役に立たないそれらを控えの間へと払い出し、左側妃付き筆頭宮女のスウォンニは、麝香の香水瓶を拾い上げて栓をした。

「お鎮まりを、ヘルガ様」

 スウォンニはヘルガフィラの乳姉妹ではないが、その昔じゃじゃ馬姫であったヘルガフィラに、どこまでも付き合えるようにと付けられた、それに近い関係性の国許派遣の宮女である。主君と共に武器を取って皇帝の行軍に加わり、ロジェンターからの帝都奪還も、武者たちと同じ目線で目の当たりにしたような女丈夫であり、腰掛け仕事の行儀見習いの娘たちとは、年の功も腰の据わりもまるで違う。


「畏れながら申し上げます。皇后は、そのような子供をお見つけになられたからこそ、養子を持ちたいなどとお申し出になられたという訳なのでは? どこから調達して来られたかは存じませぬが、あくまで他人の空似というだけのことでございましょう。少なくとも、皇帝陛下はそのおつもりであらせられると――」

「ああそうじゃ、もちろんそうであろうのう……。なれど我が君は、見付きからして、巷にありふれておるような凡夫ではおじゃらぬ! それに似ていると申したのはマルソーでおじゃるぞ。あの、父親っ子のマルソーが!」

 まだ見ぬヴェルヴィオイに、理屈を越えた恐怖を感じながらヘルガフィラは喚いた。娘にそっくりだと言わしめたヴェルヴィオイは、一体どれだけエクスカリュウトに似ていたというのか?

 傀儡の皇帝であった時代、エクスカリュウトがいかにして過ごしてきたのかを、ヘルガフィラは、何一つ知らない。嫌々娶わせられたルドヴィニアと、ロジェンターの意向に従い、一夫一婦の夫婦関係を貫かされてきたものだとばかり思ってきたが、そんな不快極まりない生き人形を、その場で切り捨てなかったところを見ると、関係が無いと言いながらも、エクスカリュウトには身に覚えがあるということだろう。


 一体どんな女が……! ヘルガフィラは想像するだけで、嫉妬で身を焼かれそうになる。ヴェルヴィオイがエクスカリュウトの胤であろうとなかろうと、ヘルガフィラが出逢う前のエクスカリュウトに、求められ寵を受けた女がいたことだけは確かなのだ。

 自分に先んじて、エクスカリュウトと子を成した女がいたのかもしれないということが、ヘルガフィラには心を鈍器で殴りつけられたような衝撃だった。しかも産み落とされていたのは男子である。マルソフィリカは当たり前に愛おしいが、皇女ではゾライユの皇太子になれない。ヘルガフィラが喉から手が出るほど、欲しくて欲しくてたまらないのが、エクスカリュウトの後を継ぐ男子なのである。


 政略結婚をしたルドヴィニアとは違い、多くの妾の中から左側妃に立てられたヘルガフィラには、自分はエクスカリュウトに選ばれた女だという自負があった。マルソフィリカの生母である、ということを抜きにしても、ヘルガフィラは長年特別だった。そなたは他には代えられぬ、戦友のようなものだと笑いながら、目新しい花に目移りすることは度々あっても、エクスカリュウトは誰よりも頻繁に、ヘルガフィラを寝所へ渡らせてきた。

 ほんの半年前、宴席に呼ばれた白金髪の歌姫を、身請けし後宮に住まわせるまでは。

 卑しい身元の若い女に、愛する君の一番を奪い取られた屈辱。それでもどうにか己を立て直し、これだけは誰にも覆せまいと誇ってきたもう一つのよすがが、第一子の母だという自信が、ヴェルヴィオイの存在によって揺るがせられようとしている……。


「皇后の生き人形は、我が君の御子などではない。断じてない! 決してそのようなことがあってはならぬ――。我が君に、我が子以外の子などいらぬ!!」

「その通りにございます、ヘルガ様。次期皇帝の国母と相なられるのは、あなた様であるべきです。些事は他者にお任せになり、御身はどうか安らかに、心身健やかにあられますよう」

 なおも鏡台の天板を叩きつけようとするヘルガフィラの手を取り、それを押し頂くようにしてスウォンニは懇願した。俄かに落ち着きが戻ると共に、赤みのさした手に痛みが上って、ヘルガフィラは顔を顰める。


 これまでは、それで上手くいってきた。気に食わぬ女を追い詰めいびり殺すことも、懐妊した妾を転げさせることも、取り上げ婆に手許を誤らせることも、首の据わらぬ赤子をうつ伏せておくことも……。エクスカリュウトの後宮で起こった数々の変事――むろん中には、自然淘汰や医療の限界による不幸もあったが――は、帝国宰相の姪であり、後宮の女の上に君臨するヘルガフィラだからこそ可能なことであり、それよりも上位にあるものの、敬遠され、孤立しているルドヴィニアには難しい。

 一方でそういった『些事』は、ヘルガフィラの手を白く美しいままにして、何かに駆り立てられた各々が、勝手に動いてくれるだけのことでもあった。ヘルガフィラはただ、こうして事あるごとにスウォンニに、思いの丈をぶちまけてきただけで。


 しかしその歯車が、近頃とみに軋み始めてきた気がする。雑草育ちの歌姫エスメルタは、後宮の女たちによる手を変え品を変えての洗礼に弱ることもなく艶々として、エクスカリュウトの寵が益々深まっていることは見るも明らかだ。

 それによってヘルガフィラの鬱憤が、溜まりに溜まっていた中での予想外の方向からのこの奇襲である。お飾りの皇后など、目障りなだけで最早敵ではない。伝え聞く限りでは驚くほどに不出来な、はずれの養子を持たせてもらったところで何の足しになるものかと、ヘルガフィラは高を括ってきたのだが。


「へちゃむくれの皇后は恐るるに足らぬ。なれど仕えておる者たちは強かでおじゃるぞ。それに、我が君が生き人形の守役にアミスターゼを付けたのは、その生殺を握るためと思うてきたが、我が君にそっくりな人形というならば、まるで話が違ってくるでおじゃる」

 その事実をエクスカリュウトは、この自分にひた隠してきたのだという怒りと、そんなにまで信用されていなかったのかという冷たい悲しみは、ヘルガフィラの心の天秤を大きく揺らしていた。後宮の女の誰よりも、エクスカリュウトを愛し、理解し、尽くしてきたのは自分だという自負がある分だけ、このまま憎らしさばかりが降り積もれば、可愛さ余って憎さ百倍になりそうだった。


「アミスターゼなど、ファルネンケルの縁者というご大層な出自が、先行するだけのただの若造ではありませんか。大方、そのご威光を利用しただけのこけおどしでしょう。いかにも皇后の好まれそうな、バリアシ系の美男子でもありますし」

「ただの若造?」

 当のアミスターゼとルドヴィニアばかりか、それを任じたエクスカリュウトまでも嘲るようなスウォンニの評を聞き咎め、ヘルガフィラは天井付近を窺ってから声を低めた。

「そなたも、アミスターゼのお綺麗な面皮にころりと騙されておる口か? (すべ)は知らぬ、委細もわからぬ。しかしあれはほんの十三で、寝所において女を殺め、獄に繋がれていたような玉でおじゃるぞ? しかもその手に掛けたのは、タンディア土侯の寵姫であったと聞く。それをファルネンケルが引き取りいかように育てたか……、考えただけでぞっとするわ」


 ヘルガフィラの口から語られた、タンディア土侯付き小姓時代のアミスターゼの前科は、自分の仕入れた情報とは少々食い違っていて、スウォンニはよもやと首を捻った。

「それは比喩的な意味なのでは? つまるところは艶っぽい話であると……。タンディアは若衆遊びが上流の嗜みとされるお国柄。良家の奥方やお妾が、旦那様と寵童を共有することさえあると聞き及びます。タンディア土侯は音に聞こえた好色漢でございますし、アミスターゼはあの器量ですから、土侯の羽目を外したお愉しみに引き込まれ、共にお勤めをした寵姫に執着されてしまったものと、わたくしは小耳に挟みましたが……」

 艶っぽいというよりも下種な話に、深刻になっているのが急に馬鹿らしくなり、ヘルガフィラははっと大きく息を吐いた。

「どこまでも爛れておるのう、かの国は。この場合にはそうであってくれるに越したことはないでおじゃるが。とにもかくにも、タンディアに、とりわけファルネンケルに係わるような事柄には、穿った見方をしておく方がよい」

「かしこまりました。心しておきます」


 先帝の崩御後に起こった、皇子たちの帝位争いの中で確執が生まれ、ヘルガフィラの生国であるズウェワと、アミスターゼ、ファルネンケルの出身国であるタンディアは、皇帝エクスカリュウトの名の下に、互いに向ける刃を背中に隠しながら、作り笑顔で手を携える関係にある。

 ヘルガフィラにとっても、タンディアは鬼門であるようで、その昔皇子を産み、右側妃にという話までもが急速に持ち上がって、ヘルガフィラを脅かしたのはタンディアの姫――早産で赤子はあっけなく逝き、母親もまた産後の肥立ちが悪くはかなくなったが――であり、今、エクスカリュウトの寵を一身に浴びているエスメルタはといえば、もとはタンディアの遊女である。

 もっとも、質の高い遊女は、歓楽都市タンディアから呼ぶものというのが、宮廷の男の中では常識らしいが。


 ファルネンケルからマルソフィリカに『猫』が贈られた時にも、ヘルガフィラには抵抗があったのだが、そこはエクスカリュウトに、一粒種の皇女を貴ぶ気持ちに、ズウェワもタンディアも無いのだと説得をされた。あまり構ってくれないと不平を言いながらも、マルソフィリカは気に入っているようだが、音も無くマルソフィリカの身近に潜みながら、自分の前に決して姿を現すことのない『猫』たちの存在は、ヘルガフィラには薄気味が悪い。

 以前はエクスカリュウトの親衛隊として、現在はヴェルヴィオイの守役として、派手やかな役目を負って表にあることで、むしろ何かを覆い隠しているようなアミスターゼも同様だ。


「タンディアがロジェンターに与することは歴史的にありえぬ。同じ神の名を唱えながら、袂を分かった兄弟のようなものであるからのう。なれどファルネンケル個人はどう出るか……。ゼラルデとかいう皇后の、乳母上がりの筆頭宮女も侮れぬ。それに何よりも、我が君のお心の内が計り知れぬ……。スー、当面は様子見でよい。誰か人を遣って我が君に、近々お時間を頂戴したいとお伝えしてたもれ」

「承知致しました」


 スウォンニを室外へと送り出し、化粧室で一人になったヘルガフィラは、まだ結い上げていない赤毛を乱した、くたびれた女を映している鏡をぎょっとしながら覗き込んだ。

 大丈夫。自分はまだ十二分に美しい。美しいが、だが……。時間をかけて白粉を塗り込め、難を隠したヘルガフィラの肌には、常にそうしておかなければ、十代二十代の瑞々しい妾たちに対して、矜持と余裕を保てぬだけの残酷な衰えがある。

「……我が君……」

 ヘルガフィラの『近々』という要請に、果たしてエクスカリュウトは、どう答えてくれるだろうか?

 それによってヘルガフィラの心の天秤は、また傾きを変えるに違いなかった。

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