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氷血の皇子  作者: 桐央琴巳
第一部 胎動編
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第六章 「対面」1

 ルドヴィニアは、かろうじて上げかけた悲鳴を押し止めた。

 心臓が止まるかと思った。

 少年は、昔日のエクスカリュウトに、それほどよく似ていたのだ。

 ここは、ゾライユ皇后の客人の間である。先ほどまで押し込められていた部屋よりも、さらに豪華な室のただ中で、長椅子に掛けたルドヴィニアの前に引き出された少年は、不本意にもごてごてと着飾らせられ、強制的に跪かされて、著しく機嫌を損ねているように見える。


「クリスティナの息子、ヴェルヴィオイでございます。皇后陛下」

 人払いが済むと、ゼラルデは重々しく口を開いた。

 扇で巧妙に隠しつつも、恐怖と驚愕で頬を凍りつかせていたルドヴィニアは、そこでようやく息を吹き返した。

「ヴェルヴィオイとは、また……」

 威風堂々とした凝った名前だ。それだけではない。ロジェンター人であるクリスティナの息子であるはずなのに、その響きは明らかにゾライユのものである。

 さもありなん、とは思う。

 他の誰が知らずとも、母親にだけは子の父親が違えようもなかったのであろうから……。故国の言語を使って、巷に溢れるようなごくありふれた名を、つける気にはなれなかったということだろう。

 白皙の膚を鮮やかに彩る血色の髪も、きつく整った顔立ちも、ルドヴィニアが恋をした、少年の日のエクスカリュウトを思い起こさせる。それでいながらも、軽く伏せられた水色の瞳と、その目元に漂っているそこはかとない色香のようなものが、艶やかな美女であった母親の血を感じさせた。

「……これが、クリスティナの……」

 ゼラルデに確かめるまでもなく、ルドヴィニアにはわかってしまった。今ここに連れて来られた少年は、間違いなくエクスカリュウトの子だ。ゾライユの皇宮を下がった折に、クリスティナが懐妊していたのだとしたら――。年の頃も、そう、ぴたりと合ってしまう。


「……恐ろしいことを……」

 扇を下ろしても、ルドヴィニアの顔はまだ青ざめていた。三十代を目前に控えながら、今なお若いというよりも幼い面差しのルドヴィニアに、ゼラルデは問い返した。

「恐ろしいと申されますか?」

「そうでしょう……? このようなことをわたくしに……、陛下にすらも……、今の今まで隠していたなんて……」

 黙したまま耳をそばだてているヴェルヴィオイを憚って、ルドヴィニアは明確な語句を避けた。ヴェルヴィオイにはとうてい理解が及ばぬ理由で、その声は微かに震えている。

「隠していたわけではございません、ルドヴィニア様。わたくしとて、長らく存じなかったことでございます」

 ゼラルデもまた、『何を』とは言わない。そうして堂々と白を切った。

「そのような虚言、信じられるとでも?」

 ルドヴィニアの背には今、冷たい汗が伝っている。いかなる場合であれ、ゾライユ皇后としての威厳を保ち、泰然と構えているようにと自ら律していても、どうにも繕い切れない動揺が、忠実な乳母を責める口調になって表れていた。

「わたくしの言葉が、いかに偽りの如くお耳に響こうとも、信じて頂きたく存じます。それがあなた様の御為(おんため)でございますれば」

 ゼラルデの眼差しは揺るがない。過保護なまでの忠誠心を主君に抱く乳母は、それが自らの忠義であると言明するように、低く凄みのある声音ですっぱりと言い切った。


「……」

 ルドヴィニアは溜め息を零した。生まれる前の皇帝の子を、それも長子、しかも皇子を、母親ごと国外に追放し隠匿するような大罪を、ゼラルデが故意に犯していたのだと暴いてしまえば、その咎は主君であるルドヴィニアにも及ぶ。それがいかにそらぞらしく聞こえようとも、乳母の潔白を信じて知らぬ存ぜぬを貫くしかないのだ。

「偶然が作用したのだとそなたは申すのですね?」

「左様でございます。罪があるとするならば、我が身の大事に気付きながら、申し出ることをしなかったクリスティナにこそ」

 それはゼラルデの詭弁というものであろう。けれども当時、ロジェンターの傀儡と侮蔑されていた少年皇帝の無力を、幼い皇妃の身代わりとして、夜伽を命じられた宮女の寄る辺ない身上を顧みてみれば、それが真実のようにも感じられてくるのが奇妙なことであった。


 ルドヴィニアは諦めたようにもう一つ溜め息を落として、緩慢に長椅子へもたれかかったまま、ヴェルヴィオイの赤い髪をじっと見下ろした。見れば見るほど深い赤だ。ゾライユ人の中にも、ここまで濃い色はなかなか見かけない、血に濡れたゾライユ皇家の色。

「母親とは、似ても似つかぬ姿をしていること。このような髪をしていては、ロジェンターでは浮き立ってしまったでしょうに」

 赤毛が主体のゾライユ人とは違って、北西にあるロジェンターの国民は、概ね金髪か茶系の薄い色素の毛髪を持って生まれる場合が多い。ルドヴィニアの髪が淡褐色であり、クリスティナが美しい白金髪をしていたように――。


「いいえ、この者はロジェンターではなくゾライユにおりました。それもこの、アスハルフの都に」

「アスハルフ!?」

 ゼラルデの発言に、ルドヴィニアは再び驚愕した。よりにもよってクリスティナは、ゾライユ皇帝の御膝下(おひざもと)で、 その御落胤(ごらくいん)を匿い育てていたというのか!

「思い切ったことを……。ではクリスティナも、アスハルフの市中にいるのですか?」

「いいえ、クリスティナという名の元宮女は、もうこの世のどこを捜してもおりません。アスハルフに住まっているのは、ミレーヌと称す下賎の女です」

「ミレーヌ?」

 ルドヴィニアは怪訝そうに眉を寄せた。耳と舌に馴染んだ、母親の名前に反応して、ヴェルヴィオイが様子を窺うようにそっと眼差しを上げた。


「はい。何かと混乱があった時期でございます。ゾライユに舞い戻った折にでも、どうにかして戸籍を偽造したのでございましょう。この少年は記録上、ミレーヌというタンディア生まれの市井の女が産み落とした庶出子であり、父親に該当する者はおりません」

「父親はいない? クリスティナはロジェンターで、見合い結婚をしたのではなかったのですか? ゼラルデ、昔そなたはわたくしに、そう言っていたでしょう?」

 クリスティナはゼラルデから勧められた縁談を理由に、ルドヴィニア付きの宮女を辞してロジェンターに帰っていた。エクスカリュウトの寵を受け、身籠った彼女がルドヴィニアの妨げにならぬよう、ゼラルデが厄介払いをしたのだと今ならわかるが、見合いを経て結婚をするというのもまた、決して嘘ではなかったはずだ。

「はい、クリスティナは故国に戻り、予定された見合いを致しました。ほどなく婚約が整い、身寄りの無いクリスティナは、入籍前から婚約者の家で同居をしておりました。それは確かなことでございます」

 ゼラルデは一旦言葉を切り、唇に苦々しげな笑みを刷いた。

「そのまま一家の主婦となり、平凡に暮らしているものだとばかり思っておりましたが、クリスティナの結婚は破談になっていたと判明致しました。よもや過去と故国の籍を捨てて、他人に成り替わっているとは思いもよらず、所在を尋ね当てるのに苦労を致しました」


 破談の理由は言うまでも無く、クリスティナの胎に宿っていた子供である。身に覚えのない婚約者とその父母に、身重の身体を責められたクリスティナは、着の身着のまま彼の家を飛び出して、そのまま行方を眩ましてしまったのだという。

 東夷の男を(くわ)え込んで、子まで孕んだ不浄の女を、押し付けられかけた騙された――と、クリスティナの元婚約者は、彼女にすっかりのぼせていた分だけ、怒りも嘆きも大きかったという。ほとぼりが冷めた頃、縁談の仲介を頼んだ故国の知り合いから、事の顛末についての報告を受けた時、ゼラルデはどれほど歯噛みしたかしれない。

 とはいえクリスティナが孕んでいたのが、ゾライユ皇帝の落し胤であることは、当の本人を除けばゼラルデだけが心に留め置いていた事実である。天涯孤独のクリスティナに頼みの伝手(つて)があろうはずもなく、母子(おやこ)共々市井に埋もれて生涯を終えてくれるならば、何も血眼になって追うほどのこともなかった。

 そうしてそのまま……、ゼラルデは母子の存在を放置してきたが、皇帝のお召しがないままに、後宮で肩身を狭めてきたルドヴィニアの為に、クリスティナの子を役立てられないかと、ふと思い付き考えるようになっていた。執念深い探索の果てに、ようやく見つけ出したヴェルヴィオイが、健やかに育った男子であると知って、ゼラルデは狂喜したものである。


 それでもゼラルデは、ヴェルヴィオイがエクスカリュウトの皇子であることを、今すぐ白日の下に晒すつもりはない。一歩間違えばルドヴィニアの身に、破滅を招いてしまうからだ。

「ミレーヌは娼婦です。身体を売ることを生業とする女には、父親のわからぬ子を産むことなど珍しくもありません」

 ヴェルヴィオイの見目かたちが、ゾライユの宮廷人に如何なる疑惑を投げかけても、淡い水色の瞳が、皇帝の遠い記憶といかに符合しようとも、諸刃の剣であるこの皇子が、皇后の切り札であることを、大声で触れまわり、教えてやるような義理はないのだ。


「娼婦……」

 とんでもない事実を告げられて、ルドヴィニアは絶句した。ゾライユ皇帝の、生ある中では唯一人の皇子が、下町の娼婦の子として育てられてきたというのか……!

「クリスティナは、ロジェンターの王宮においては侍従長に目をかけられ、ルドヴィニア様の輿入れに従うまでした最上級の宮女でありましたものを……。堕ちた女とは、実に惨めなものでございます」

 ゼラルデは蔑むようにそう言ったが、生娘であったクリスティナにエクスカリュウトという客を引き、娼婦に貶めたのはゼラルデその人である。ミレーヌが聞けば痛烈な皮肉を込めて笑い飛ばしたであろう。


「ゼラルデ……、そなたは、会ってきたのですね」

 かつてエクスカリュウトの心を占めていた、憎い、憎い女。少女であったルドヴィニアに、生まれて初めての屈辱を与えた許しがたい女。幼かった皇帝夫妻の政略結婚の陰で、国の犠牲になった憐れな女――。

「クリスティナ……、今はミレーヌと呼ぶのでしょうか、この少年の母親に……」

 詫びることなど思いつきもしないが、自分の為に人生を狂わせた女に、今また返す当てのない借りを作るのかと考えると、ルドヴィニアの気は塞いだ。


「あなた様がお気に掛けられるような女ではございません」

 ルドヴィニアの気鬱を払うように、ゼラルデはさらに続けた。

「まして、母から子を奪ったなどと負い目をお感じであるならば、見当違いであると申し上げておきましょう。ヴェルヴィオイを皇宮に上げることには、ミレーヌも同意しております」

 ヴェルヴィオイ自身が、玉座を望むなら連れてゆけ――と、ミレーヌは言った。

 ゼラルデにしてみれば、笑止千万に値する。

 ヴェルヴィオイの、意思や野望など不要のものなのだ。ヴェルヴィオイはただ、栄耀を与えるルドヴィニアに感謝と忠誠を捧げ、ルドヴィニアの為に働く手駒となってくれればいい。

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