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氷血の皇子  作者: 桐央琴巳
第一部 胎動編
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第五章 「亀裂」6

「ルドヴィニア様、こちらに」

 長櫃の中身を空けてその中に、ゼラルデはルドヴィニアを入らせた。輪奈天(わなてん)の掛け布を残した櫃の底に、丸めた身体を横たわらせてその上に、寒い季節になるとルドヴィニアが、好んで包まる海鼬(ラッコ)の毛皮を被せる。

「乳母や、わたくし……。やっぱりね、わたくしも、ちゃんとお部屋で陛下をお迎えするわ」

 毛皮の下から顔を出し、もぞもぞと起き上がろうとするルドヴィニアを強く押し留めて、ゼラルデは頑として首を横に振った。

「なりません、危のうございますゆえ。お苦しいでしょうが今しばらくご辛抱を」

「今しばらくっていつまでなの?」

「危険が無くなるまででございます」

 そんな時は、果たしてやってくるのだろうか……? 不安に思いながらもルドヴィニアは、ゼラルデに言われるまま長櫃に身を沈める。ぎいと蓋が閉められ、真っ暗闇が訪れた。

 まるで棺桶の中にでもいるようだ……。

 何も見えない、外の物音も聞き取りづらい、狭く息苦しい空間の中で、一重二重に身体に巻き付けて、ぎゅうと端を握り締めた、かつて生きていたものの温もりと、ふわふわとした肌触りだけが、ルドヴィニアに慰めを与えてくれた。




*****




 どれほどの時がそうして過ぎただろう?

 永久に近かったような気も、刹那であったような気もする。

 まずは、この後に及んでルドヴィニアが逃げ出さぬよう、皇妃の室の周辺を固めていた、後宮の端女たちが上げる歓呼の声が聞こえてきた。ガシャガシャカンカンドンドンとやけに賑やかなのは、掃除道具や調理器具を、あちこちにぶち当てて打ち鳴らす音だろうか? 本当は皇妃を部屋から引きずり出して、嬲り殺しにしてしまいたい気持ちをぐっと抑えつけ、健気に皇帝を待ち続けてきた女声には、涙声も多く混じっていた。


 やがてそれをどやどやという、女たちが発するよりも重くて低い、足音人声が上回った。

 それらは皇妃の室を前にしてぴたりと止まり、部屋の内も外も、一時、水を打ったようにしんと静まり返った。

 そうしてそれを破る、ノックが三回――。

 ゼラルデは答えない。

 再び、ノックが三回――。

 今度はそれに続けて、がちゃがちゃと苛立たしく取っ手を動かし、施錠を確かめる音が響いた。

 そして。


「皇っ帝陛下のー、ごー帰還でぇーっす」

 けたたましく、軽々しい口上があったかと思うと、蝶番を撥ね飛ばす勢いで、両開きの扉が鍵の部分から、派手にどがんと蹴破られた。


「ああああああっ、やり過ぎですよ、ロゥギ様!! せっかく御半下(おはした)たちが我慢していてくれたのに! 必要以上の物損をされるなら、後でゼウロウの皆さんに修繕してもらいますからね!!」

 やけに現実的な文句を垂れながら、まず部屋に飛び込んできたのは、皇帝の筆頭侍従スタイレインである。主君と共に姿を暗ましていた、エクスカリュウトの腹心の乳兄弟は、本当にもう、馬鹿力なんですから……などとぶつくさぶつくさぼやきつつ、傾いた扉の破損を調べながら、それを丁寧に開き直した。

「悪かった悪かった」

 口先だけで謝りつつ、見るからに剛力と知れるゼウロウ族の若長ロゥギは、大きくがたつきひん曲った、扉の片側をばりっと壁から引っぺがし、入口の脇にどんと立てかけた。

 そうした二人にどうぞどうぞと勧められて、エクスカリュウトは気まり悪げに皇妃の室に入った。

 その時の皇帝の表情は、威厳あるものとは言い難かったが、とたんに緊張が走り、場を占める空気の色が変わる。


「よく、お戻りで――」

 鋼の胆力を備えるゼラルデは、『狼心皇帝』と賞されるだけの凄みを得たエクスカリュウトを迎えて、態度ばかりは従順に膝を折った。

 その背後に並んだ宮女たちは、青ざめ、まごついた表情で、目と目で互いに示し合わせつつ、乳母に倣って礼をする。

「そなたにそう、迎えられるとは思わなかった。どの(つら)下げてと言ったところか?」

「今さら面目無きことをお気になさるか? これだけのことを仕出かされて」

「我が奥方の心証を、著しく害してしまったようであるからな。ご大層な誓いを立てて見送りをしておきながら、出迎えをしてもらえぬほどに」


 後生大事にしてきたらしい、ルドヴィニアの信心はその程度のものかと――、失望したようなエクスカリュウトの物言いが、長櫃に隠れたルドヴィニアの胸に突き刺さる。

 もしも目の当たりにしていれば、まるで寸劇の如く感じられたかもしれない少し前の状況も、大きな音だけを聞いていたルドヴィニアにはたまらなく怖いものだった。

 いてもたってもいられなくなって、ルドヴィニアが毛皮を撥ね退け、長櫃の蓋に手を当てようとしたその時に、落雷のようなゼラルデの怒声が轟いた。


「何が誓いか――! あのような下劣な遣り様で、妃殿下のお心を縛り抉っておいて!! 言い訳をお一人でなさりに来られぬ野暮天に、ルドヴィニア様がお会いにならねばならない理由がどこにある!?」

「うわ、きっつー……」

 ぼそりと漏らしたのはスタイレインである。それまでゼラルデが何を言っても、はいはいと従う声しか聞いたことの無いようなその侍従が、そうして茶々を入れられることに、綱紀の緩みを感じさせた。


「そうか」

 不敬な罵りを浴びせらて煽られた風もなく、息を詰める宮女たちを一人一人見渡して、最後に視線をゼラルデに戻すと――、

 エクスカリュウトは、残忍に(わら)って顎をしゃくった。


「報奨だ。好きに取れ」


 待ち兼ねた号令に(とき)の声を上げて、廊下に待機していた男たちが一気に室内へとなだれ込む。野獣と化した男たちに飛びかかられて、宮女たちは悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。

 すぐにはその宮女狩りに参加せず、部屋に入ったばかりの所で立ち止まり、ひーふーみー……と宮女の人数を数えていた若者の一人が、大問題に気付いたといった顔つきでエクスカリュウトの袖を引いた。

「陛下陛下、女の数が足りていません!」

「数に限りがあるものは仕方なかろう。みな妻とする女を、捕えにきたわけではないのだろう? 経験の無い小童(こわっぱ)でもあるまいに、複数人で愉しめばよかろうが」

「いやいやいやー、噂に聞く、ロジェンターの金髪美女なら妻にするのもありってもんでしょう。独り身の若人としちゃあ専用で一人欲しいですって!」

「そこまでの面倒は見切れん。占有したければ上手くやれ。私とのん気に話しなどしていて、好みの女にありつけなくなっても知らんぞ、カザンヤ」

「うおっ、やっべ」

 宮女たちを、わざと脅かすような奇声を上げながら、カザンヤも狼と化し子羊たちに躍りかかってゆく。カザンヤは早駆けを得意とする、キルメリス族の戦士の一人だ。

 皇妃の室へとエクスカリュウトが引き連れてきたのは、ロゥギやカザンヤを始めとする騎馬遊牧民の若武者たちだ。エクスカリュウトの逃走の手助けをして以来、時に馬を並べて、時に背に背を預けて戦ってきた、『狼心皇帝』の力強い臣下にして盟友たちである。


「さあて妃殿下は、いずこにおいででございましょうねえ」

 のんびりとそう言いながら、スタイレインが歩み寄ってくる。

「そうだな」

 相づちを打って、エクスカリュウトは室内を見渡した。エクスカリュウトが妻の室を訪れたのは、呆れたことにこの時が初回であった。


 皇妃の室で繰り広げられる狂乱から、一人呆然と取り残されていたゼラルデは、ルドヴィニアを捜すため、その横を行き過ぎようとしたエクスカリュウトを睨みつけた。

「こんな、勝手がっ……許されるとでも……!?」

「許されるよ」

 擦れ違いざまに足を止め、おかしなことを言うとでも言いたげに、エクスカリュウトはゼラルデに冷笑を浴びせた。

「後宮に納められた女は全て、皇帝である私のものだ。私が私のものを、分け与えて何が悪い?」

「くっ……!」

 それはゼラルデが、自分とエクスカリュウトとの形勢の逆転を、痛感させられた瞬間だった。死に(せな)を撫でられながらロジェンターに飼われてきた、傀儡の皇帝はもうそこにいなかった。

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