第一話 稲葉家の食卓
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一日の中で一番苦痛だと思うのは、夕飯の時間だ。息が詰まりそうな重たい空気が、気持ちまでも重くする。
冷え込みも厳しくなってきた11月の静かな夜。自宅の居間にて、稲葉良人は食卓に並べられた料理の数々を、顔を伏せたまま黙々と食べていた。
決して顔を上げてはいけない。上げたら対面に座る奴と視線が合ってしまう。今も向けられているであろうあの無邪気な笑顔を見たら、さらに息苦しくなる。かといって部屋に持っていって一人で食べる、なんてことも出来ない。そんなこと言ったら奴は絶対に泣いてしまう。間違っても言ってはいけない。だから良人は黙って箸を動かす。
今日の献立は洋食。鶏むね肉香草焼きを主菜に、三つ葉の生ハム巻き、ほたてとほうれん草のテリーヌ。つぶコーンたっぷりのポタージュスープ。彩り豊かなサラダはオニオンドレッシングの甘ずっぱさが後を引く。
奴の作った料理はどれもこれも絶品だった。高級レストランで出されても納得の味である。だけどその美味しさを顔に出してはいけない。少しでもいい顔をしたら奴は、
「それ、美味しかったですか? えへへ、良かったぁ。自慢じゃないけど、いい出来だったんです。それはまず下ごしらえの段階で≪中略≫して作るから、味に深みが出るんですよ。和風の味付けもありますから、明日はそっちにしますね!」
なんて散々はしゃいで聞いてもいない料理の説明を長々とした揚げ句、明日の献立まで勝手に決める。
ちなみに残してもいけない。具合も悪くないのに残したら、奴はとんでもなく落ち込んで泣きそうな顔を見せる。その機嫌を直す為には、翌朝からご飯を3杯はおかわりしないといけない。夕飯と同じで朝のメニューも最高に美味しいので、育ち盛りの身としてはそのくらいは無理じゃない。だけど満腹で学校に行ったら授業中に眠くなってしまうので、それは避けたかった。だから良人は極上の料理を味わうこともせず、しかし残さずに、ただ食べるという行動だけに集中して胃の中に片付けるしかないのだ。
勿体ないことだとは自分でも判っている。
「……ごちそうさま」
最後の生ハム一切れを食べて、無事完食。手をあわせてそっけなく呟いた。
「はい、おそまつさまですっ」
対面の少女が満面の笑みで答える。
迂闊にも視線を上げてしまったため、良人はその笑顔を見てしまった。一瞬なのに、頭に焼き付いて離れない。
「じゃあ俺、部屋に戻るから……」
赤くなった顔を見せないようにさらに深く顔を伏せたまま、良人は食卓を立った。もう足元しか見えないが、そこは慣れ親しんだ我が家。部屋に戻るくらいは軽い。部屋に戻ればこちらのものだ。ようやくこの息苦しさから解放される。
しかし、居間を去ろうとする良人を少女が呼び止めた。
「待ってください、良人くん」
その声に良人は思わず固まってしまう。なんだ? まだなにかあるのか? まさかなにか気付かずに残してたか? いや、その場合はこいつは呼び止めたりなんかしない。ただ、後で目茶苦茶悲しそうな顔をするだけだ。じゃあなんだ? なにがあるっていうんだ? 思考の時間を五秒ほど挟んで、良人は振り返った。
「……なんだよ?」
「今日はデザートもありますから、食べていってください」
少女は悪戯っぽく笑い、冷蔵庫からガラスの器に入ったオレンジ色のゼリーを持ってくる。
まだ終わりじゃなかったのか……。落胆して肩を落としながら、良人は再び食卓につく。
「甘さ控えめ、キャロットゼリーです。さ、ごしょーみください」
「……なあ、テーブルかけ」
「なんでしょう?」
差し出されるスプーンを受けとりつつ、良人は我慢できずに少女――テーブルかけに文句を放った。
「こうゆうのがあるときは、先に言ってくれ」
心の準備がいるから。
首を傾げながら「判りました」と頷くテーブルかけには、きっと良人の気苦労は伝わっていないのだろう。
ため息を圧し殺しながら良人はキャロットゼリーを頬張る。油断していたので、思わず美味しさに頬を緩めてしまった。南無三。
良人が住む稲葉家に、テーブルかけという少女が現れたのは、ほんの一週間ほど前のことだ。本当は数年前からずっとそこにいたのだが、今の姿となって現れたのがそのくらいである。
よく意味が判らないだろうから順を追って説明しよう。
稲葉家は都内にあるさほど高級ではない中流マンションに住んでいる一家庭。家主である35歳の女性フリーライター、稲葉和泉さんとその甥っ子の高校生、稲葉良人の二人が暮らす核家族である。
ちなみに良人に両親はいない。良人が幼い頃に多額の借金をこさえて失踪した為、良人は叔母である和泉さんに引き取られ、育てられてきた。和泉さんは高校中退、バツイチの独身歴14年という絶妙な経歴を持つ女性。まだ充分若いのだが、再婚は考えていないらしい。
そんな少々複雑な家庭ながら、それなりに良好な家族仲でやってきた良人達のもとに現れた新たな住人が、テーブルかけであった。
見た目は良人と同い年くらいの細身で可愛らしい女の子。後ろで結んだ栗色の髪と丸いりんご色のほっぺたがチャームポイントだ(和泉さん曰く)。
その珍妙な名前が物語るように、テーブルかけは普通の人間ではない。当人が言うには、人間の手で大事に使われてきたテーブルかけが、長い時を経て命を得た姿なのだそうだ。つまり人外の妖怪変化。魑魅魍魎の類いだ。
にわかには信じがたい話だが、目の前で人になったり布地になったりという奇跡を見せられたら、良人達も信じざるを得なかった。まさかリサイクルショップで買った中古品がそんな由緒ある(?)品だったなんて誰も思いもするまい。
そんな非常識なテーブルかけが稲葉家に暖かく迎え入れられたのは、家主の和泉さんが放った「面白そう」の一言によるものだ。豪胆かつマイペースな和泉さんは人間になったテーブルかけのことを一目で気に入ってしまい、色んな手順をすっとばして勝手に新しい家族にしてしまった。まるで拾ってきた犬でも飼うような感覚だった。
テーブルかけもそれを喜んでおり、一家具から脱却し、家事手伝いのような立場として暮らし始めた。
性格と存在のそれぞれの意味で常識はずれな二人は、さしたる時間もかけずにまるで本当の親子のように親しくなっていた。
そこで一人困っているのが、良人であった。この屋根の下で唯一、常識的な感性を持っていたからだ。
良人は和泉さんの世話になっている身。家主の意向には逆らえない。しかし、思春期の男子としては、同じ屋根の下に同年代の女の子が住むというのは、やはり問題だと思った。
和泉さんが言うには「人間じゃないからセーフ」なんだそうだが、どう見ても人間にしか見えないテーブルかけに対して、そんな単純な割り切りは出来なかった。むしろなにがどうセーフなのかもよく判らない。
テーブルかけもテーブルかけで、その人懐こい性格で子犬のように良人にすり寄ってきた。そんなテーブルかけに対して良人はいつも邪険な扱いをしてしまう。別に嫌っているわけじゃないが、距離感が判らないのだ。だから今日の夕食時のような態度になってしまう。
このままではいけないとは思っている。この先、テーブルかけとどう付き合っていけば良いのか。それが良人の目下の悩みであった。
「……ごちそうさま」
キャロットゼリーを平らげ、良人は手を合わせる。本日二度目だ。
「はい、お粗末さまですっ。どうでしたか、良人くん。美味しかったですか?」
「ああ。まあ、普通に美味かったよ」
笑顔のテーブルかけにはやはりそっけなく答えた。
ぶっきらぼうな態度の裏では、おかわりが欲しかったという言葉が出そうになるのを必死に押さえ込んでいる。
「さ、お片付けしますねー」
テーブルかけは空になった食器を台所へと持っていく。テーブルかけ自身はご飯を食べないので、食器は良人一人の分だけだった。和泉さんはいつも夕方から出版社に行くので帰りが遅く、良人も和泉さんも夕飯は一人で食べている。
しかし、一人前といっても毎回おかずの種類が豊富なので洗い物の数はかなり多い。食器を運ぶのも大変そうだった。
居間と台所を往復するテーブルかけの姿に、良人はなにもしないでこのまま部屋に帰ることがもどかしく思った。
深呼吸を一つ。意を決して手元に残っているグラスと茶碗を両手に持ち、台所にいるテーブルかけのもとへと運んだ。
「なあ、これ……」
「はい? あ、良人くん、座ってて良かったのに」
「いいって。ここ置いとくぞ」
「はい。ありがとうございます」
スポンジを泡立て、食器を洗い始めるテーブルかけ。元布きれのくせに、家事は万能な娘だった。良人や和泉さんが家事をしていた頃よりも、台所はきれいになっている。
「俺、食卓拭いてくるわ」
「いいんですか? お願いします」
ふきんを持って良人は居間へ戻った。
おそらく今日はこれでテーブルかけとの会話は終わりになるだろう。大して語ってはいないし、結局一度も目を合わせてはいない。
しかし良人自身は上出来だと感じていた。二度も自分から話しかけることなんて、滅多に無いのだから。
恐らく良人がテーブルかけと仲良くなるのはまだまだ先のことだろう。
亀の歩みの如く近寄る二人は、まだ家族と呼ぶにはぎこちない。