香る
「木野さんも行くでしょ? カラオケ」
「ごめん、今日用事ある!」
三年生最初の中間テストから解放された六月の上旬。クラスメートの誘いを断り、カバンをひったくるように机のフックから外してダッシュで学校を後にする。
今日は月の第一土曜日、「ラーメンの日」だ。普通に歩けば20分はかかる道のりを半分の時間で駆け抜け、「沢田」の表札が掲げられた家の玄関を潜る。
「タツ! まだラーメンある?」
ぱたぱたとスリッパを鳴らして駆け寄ってきたのはこの家に住む大学生のお兄さん、沢田達弘だった。
「まだ少し残っているよ、あがれ」
居間でテレビを観ているおばちゃんに挨拶し、奥のキッチンに進む。鼻孔をくすぐるスープの匂いが心地よい。
無類のラーメン好きのこの男、タツはそのラーメン愛が中学時代に臨界点を超え、月に一度、自家製ラーメンをふるまうようになった。この名もなきラーメン屋の存在を知っているのはごく一部のご近所さんだけだが、味はなかなか良く噂を聞きつけて隣町からわざわざ食べに来る人もいる。
「はいよ。『沢田スペシャルバージョン8』お待ち」
醤油ラーメン。近年は家系ブームも重なりこってり系や背脂チャッチャ系の店が多いが、前回の7からバージョンアップした今回はあっさり系に磨きをかけたようだ。背脂どころかチャーシューすら載っていない。だが代わりにほうれん草、人参、メンマなど野菜がどっさりだ。
割り箸を構えた私を、タツは横目でちらちら窺っている。この様子だと、また大幅な改変を加えたに違いない。
まずは上の野菜を少しずつつまみ、続いて麺をすする。そして最後にスープだ。
固唾をのんでじろじろ見てくるタツが少しうっとうしかったので、わざとため息をついてみた。
「えっ、あっ、やっぱダメ? ダメかな?」
花瓶を割ってしまった子供のようにおろおろするタツがおかしくて、吹き出してしまった。
「おいしいよ。おいしい。スープに柚子の皮を入れたんだね。かつおぶしを邪魔しない程度に香っていて、スープも飲みやすくなった。あと、製麺所も変えたんだね。適度に粉っぽくて、私はこっちの方が好きかな」
「……だ、だよな! あー、よかったあ! 今日のお客さん誰も気づいてくれないから、心配だったんだよ! 毎月来てくれるお前なら分かると信じてたぜ!」
嘘つけ。さっきまで不安に押しつぶされそうな顔してたくせに。
「そういえばお前、今日テスト最終日じゃないの? 遊びに行ったりしないのかよ」
「カラオケ誘われたけど断ってきた。こっちの方が私にとって優先事項だし」
「そんなこと言っていつも周りを避けているだろ。友達は大事にしろよ」
別に友情をないがしろにしているつもりはない。ただ、たまに集団の中にいることが息苦しく感じることがある。そして最近それを感じることが多くなってきた。
「私は……好きだから。ラーメンを食べるのが」ラーメンも、タツも好きだ。
「じゃあ俺と一緒だ」中学生の頃からずっと作っているよね。
「友達いないもんね」私も、だけど。
「うっせえ」二人で、笑う。
「そういえば、就職決まったんでしょ? 東京の」
ここから電車で片道二時間。ラーメン激戦区高田馬場で修業したいと、常々口にしていた。
「おうよ。来年の春からな。その前に半年間バイトで研修だけど。30歳前には独立して、こっちで店出す」
「その時は従業員としてサポートしてあげるよ」
そう言った後、本当に嬉しそうに笑うものだから、なんだか恥ずかしくなってしまった。
あっという間に春になり、私は大学生になった。
割と仲の良い友人もできて、ラーメン屋のアルバイトも楽しい。都会での一人暮らしもけっこう充実していた。
タツも半年間のアルバイト期間を経て、正社員として働くことになった。店の名前は教えてもらっていたが、大学とは反対の方向だったので、なかなか行けるチャンスがなかった。
ようやくその機会が訪れたのは、大学一年12月のことだった。
パソコンで店の地図をプリントアウトし、高田馬場をさまようこと数分。目的の店は昼過ぎだというのに行列ができていた。15分ほど並び、食券機左上の一番人気『ラーメン全部載せ』を買って、一番奥の椅子に腰かける。店内を見渡したが、タツの姿は見当たらなかった。
やがてラーメンができ上がり、黙々とすすった。食事中、一度もタツは厨房に現れなかった。どんぶりをカウンターに戻す際、思い切って目の前にいた金髪のお兄さんに尋ねてみた。
「すみません、ここで沢田達弘って人が働いていると思うんですけど、もしかして今日はお休みですか?」
お兄さんは目を丸くして、やがて答えた。
「あー。沢田さんね。二か月くらい前に体壊して、辞めちゃったよ。本人は続けたいって言っていたけど、とても昼時に立ち回れる状態じゃなかったからさ。なに、君もしかして沢田さんの知り合い?」
帰りの電車の中で、色々なことが頭に浮かんできた。
タツにはラーメンしかなかった。
私も、タツはいつか絶対誰にも負けないラーメンを作ると信じていた。
唯一の希望を失ったタツは今、どれほどの絶望を味わっているのだろう。
あっさりと夢が砕かれてしまったタツは、今、どこにいるのだろう?
年末はバイト先に長めの休暇申請を出し実家に帰った。久しぶりにテレビを眺め、中でも2時間に渡るラーメン特番をかじりつくように観ていた。
年が明けて二年生になったら、やっぱり就職セミナーとかインターンシップとか参加しなきゃいけないのかな。私はラーメン屋で働きたいと思っている。だが、それは私が叶えられる夢なのだろうか。
不安が渦巻いたまま、年を越した。
新年、年明けとほぼ同時に雪が降り始め、三が日の最後にはかなり積もっていた。20分かかる駅までの道のりを歩くのは困難なので、タクシーを呼ぶことにする。ワンメーターで大丈夫だろうけど、やっぱりタクシーを使うのは贅沢な気分だ。
移動中、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
家を空けて一年も経っていないのに、街の景色は少し変わっていた。更地となった場所に昔何があったのかを思い出すことはできなかった。人も街も少しずつ変化してゆく。二度ともとには戻らない。
私はそうぼんやりと、街を眺めていた。
そしたらかすかに香ったんだ。あの匂いが。
今日は、一月第一週の土曜日だった。
「すいません、ここで止めてください」
キャリーバッグを引きずるようにして私は走った。
ブーツが雪で濡れてしまうなんて気にしない。皮だから手入れが大変だけど、どうでもいい。
もともと大しておしゃれに関心はないのだ。
沢田の表札がかかった家の扉を開け、キッチンに届くまで声を上げた。
「タツ! まだラーメンある?」