闇に飛ぶ鳥
前々から書き溜めていた物に追加する形で作っていく
…つもりでしたが、ほぼ総書き換えというか、
新しい話で、この所、かなり時間が掛かっています。
年齢設定はずらす場合があります。
感想、誤字脱字等ご指摘いただけると助かります。
真実は告げられない、だから私は口を閉ざす。
冗談交じりに告白しても、信じはしないだろう。
レイルの父、マハイルは学校で自分に本来個室として与えられた部屋に籠っていた。
そんなに広くはない部屋に、出来るだけ多くの書物が入れられるよう、扉と窓以外には全面本棚が配置してある。
電子文書も嫌いではないが、重みのある本を持って読む方が、その質感やページをめくる作業に集中し、内容を考察できる為、彼は本を好んだ。
ずらりと並んだ書物の匂いが彼の集中力を更に高めてくれる。
床には濃い緑の絨毯、清掃係を定期的に入れているので、ゴミは少ない。仮眠用兼接客用の長ソファーが二脚。机の数は五つ、4つは真ん中に集めて配置してある。ただ一つ、少しだけ離して窓を背に置いてあるのがマハイルの席だ。
5つとも規格生産品ではあったが、無垢材でアンティークデスク風に作られた飴色の机は仕事しやすく、沢山の書類がしまえる引き出しが左右に備わっている。
今、机の上は生徒達の回答板が所狭しと並べてあった。
合わせた木材で作られた椅子は柔らかめのクッション付きで、今からの激務にも疲れない仕様だ。背もたれに濃グレーの背広を皺にならないようにかけた。
飛び級試験が上級学校でも行われたこの日、生徒達の小論文の採点に追われていた。
本来個室として与えられた部屋だが、自分付きの助教授達は普段も自由に使えるようにしている。彼らは今、食事に出ていた。息抜きの為、長目に休みを取っていいと言ってある。
ここ数日はいつも以上に…本当に忙しいのだ。マハイルは助教授達を余りこき使う方ではなかったが、年に数回ある繁茂期。だからこそ休めるうちに休ませておかねばならない。
気付かぬうちに、外はもう暗くなっていた。そっと明かりを点けると外の帳が濃くなったように感じる。窓からは綺麗な並木が見えるのだが、今は真っ黒でその色づいた美しさは影を潜めている。
いつもその樹の上でじっと佇んでいる鳥の姿がない。
それが気になりながら、外からまた再び部屋に目をやると、デスクの上にあった携帯が鳴り響く。珍しい事に妻のメアリからだった。
「どうしたんだい? 珍しいね?」
「今、救急病院なの。レイルが……」
「何かあったのか?」
マハイルの眉がピクリと反応した。
レイルは紫水晶瞳を持って生まれた子供。魔王の生まれ変わりとされるその色の不気味さと付いて回る伝説に、いつ何が起きて命を失うか分らない息子。
魔道士の警護も万全ではない。
妻には知らせていないが、奉納舞の時に間違って生徒が一人、命を落としたと聞いたのは、まだ耳に新しかった。
「レイルの右の掌が」
「掌?」
「ええ。酷いケガなの。リハビリしても物を握れる程度で、字を書くのは難しいだろうって」
「レイルは、何て?」
「大丈夫だって。笑ってるのよ、あの子……」
「なるべく早く帰るから」
「そう言っても今日は試験だったのでしょう? いつも採点で結局、数日泊まり込みになるんだもの。仮眠に入ってる時に起こすのは何だから、早目に知らせておこうと思っただけなの」
何年も連れ添っているので、特に忙しい時期だと知っている。出来た妻だ。
おかしな運命を背負った子供に二人も恵まれ、それを育ててきた。
彼女にはそんな子供でも育てられると神様が思い込んでいるのかもしれない。愛情の深い彼女だから。
だからと言って仕事に感けて、彼女ばかりに押し付けているわけにはいかない。そうは思っても、天使界の上級学校教授の肩書を持つ彼にはままならない時が多い。
行き届かない夫に彼女は不満一つ言わず、付いて来てくれる事に感謝する。
「すまない。出来るだけ早く戻るよ」
2~3日は学校に缶詰で採点と授業の日々と知っている彼女は、電話の向こうで少しだけ笑って、
「大丈夫よ」
大丈夫じゃないだろう。レイルもメアリも。
支えきれない家族の悩みにマハイルは溜息しか出なかった。
「すまない」
「ねえ、母さん、支払ぃ~」
「あ、会計できるみたい。では、切るわね」
切れた電話に頭を下げたい気分になりながら、携帯を置く。レイルの声が聞こえ、元気そうだった事に無事を確認し、読みかけていた小論文が内蔵された回答板を手に取った。
板はB4程度で厚みが3ミリの金属板で、下部はキーボードも一緒になった、要はタブレットパソコンである。
機械より紙に書かれている方が集中できるのだが。
マハイルは先程の電話が気になって、文字の上を目が滑るだけで、頭に入って行かなくなっていた。
ネクタイも背広と共にかけ、きっちりと止めていたワイシャツのボタンを外す。
掌の怪我、見ていないのでマハイルにその酷さは想像できていなかった。
水草をグルグル巻きにした右手で顔色悪く、フラフラ帰って来て「腹減った、眠らせてー」っと言ったレイルの姿を見たら、もう少し緊迫感……それはなかったかもしれないが、もう少し異常は感じ取れたかもしれない。
リハビリしても文字が書けないほどの怪我、一体どこで負ったのか。
ただ命の危険があるほどではなさそうなのだけは安心した。本来なら安心などすべき所ではないが、レイルの環境が特殊であるが故に、命さえあれば良いと思ってしまう。
彼はふと携帯の横に置いていた紙包みを見やる。
中にはレイルが籠城中に使っていた鍵が入っていた。
一体、鍵をかけて何をしていたかと思えば、大量の絵や図形の掛かれた紙きれで、部屋を一杯にしていた。
何か意味はあったのだろう、疲れていたようだが、すっきりした顔をしていた。
だがやっと出て来て、学校へ試験に行き、安心したその日に大怪我してくるなどシャレにならない。
「どうしたものか」
包んでいた紙を取り、鍵を見た。
別にいかがわしい事をしようとして、この鍵を購入していたわけではない。断じて。
安かったが作りが良かったので、これに簡単な細工を施し、転売しようかと思っていただけである。
扉のノブにかけるだけで鍵がかかるこの手の魔法具は、手軽に安全や安心を得られるので、見た目良く細工をすれば更によく売れるのだ。無理に外そうとすれば鍵が落ちたり、扉に穴を開けたりしなければならない為、気付いて逃げたり対処する暇が出来る。
鍵を包んで持って来た紙切れには、レイルが書きかけた魔方陣の様な記号や、文字のそれが書かれている。マハイルにはそれが何なのかわからなかった。
だが何かしら整理だって決まった法則下に描かれている事は、見ていてやっとわかってきた。
とりあえず暫くは細工に打ち込む暇はなさそうだ。
そう思いつつ本棚の隅にある小さな本に手を伸ばす。他の分厚い専門書に比べると、どう見ても見劣りする薄さ。
それは児童書だった。レイルには絶対に与えなかった本。
これは彼の兄に買い与えた本だった。
天使界の子供なら必ず読み聞かせられる魔王サタンとミカエルのお話。レイルの兄サイファはこの本が好きだった。
挿絵の魔王とミカエルを見ては、カッコイイね、僕もミカエル様みたいになるんだ、魔王を倒すんだとはしゃぐ。新聞紙で作った勇者の剣が、マハイルの頭をぽかりと叩く。
そんな彼が弟の紫水晶瞳を見た時、魔王?っと呟いたのを父として忘れられなかった。それから彼はこの本を開かなくなった。
そして、僕が思うより、魔王にも何かあったんだよね、そう言って捨てられた本。
時間を見て一度家に戻った方が良いかもしれない、そう思った時、部屋の扉がノックされた。
自分が何分間か過去に浸っていたのに気付く。彼は自分の思考に入ると周りが見えなくなる事がある。授業中でもやってしまう事があり、気を付けているのだが。
トントン……
「?」
この時間は研究生も帰宅しており、試験後で忙しい教授達が訪れるとは思えない。
助教授達もまだ帰って来るには早い。扉の向こうには複数の知らない気配がした。
一瞬、持って来ていた鍵をかけて、居留守を決め込もうかと思ったが、じきに帰ってくる助教授達を迎えねばならなかった。
ドン、ドン、ドン……
次第に強いノックに変化してきた事に、訪問者の苛立ちを感じる。
手にしていた本は本棚に、紙切れはゴミ箱に入れた。もともとレイルの部屋のごみ箱から拝借した物であるから、別にいいだろう。
鍵は引き出しに。それから窓を開け、半身乗り出すようにして外に目を凝らしたが、鳥が見つけられない。
マハイルは『九つの数と我が盟約にかけて』と、呟きながらポケットに入っていた黒いハンカチをそっと外に落とした。
「どなたですか?」
「警察機構軍の者です。捜査にご協力ください」
「警察機構……」
警察機構軍。
交通、強盗、傷害、殺人、犯罪など、取り締まりをする組織であり、場合によっては武力行使も厭わない軍。
日本の警察より働くが、手荒い事でも知られる。魔など天使以外を相手に戦う「軍」と違い、天使を法と力で拘束できる集団である。後ろめたい事はないが、やる事が法外な時もあるのを知っている。
外の鳥がいない事も引っかかった。彼は窓を開けたまま、
「どうぞ」
言った途端、痺れを切らしたように渋いグリーンの制服に身を包んだ者達が走り込む。
途端に辺りの本や、机の上を物色し出す。ソファーを勧める暇もないし、そんな気にもなれない。
「躾がなっていませんね」
マハイルはピシャリと言葉を飛ばす。
「回答板には触らないで下さい。一人一人の行く末がかかっているのですから」
「すみませんね、血の気が多い者が多くて。お前ら、器物破損で訴えられたくなければ丁寧に扱え。で、マハイル・グリーン教授、コレに見覚えはありませんか?」
言葉だけは丁寧に、一番上官と思われる男が話しかけてくる。襟章に尖った先が痛そうな星を二つ付けている。
警察機構では、三つの角から階級が上がる度、星の角と数が増えて、士・曹・尉・佐・将を示す。
彼の星の角は五の二つなので、中尉、会社で言えば課長になって落ち着いた頃と言った所か。
マハイルはそれを見て取りながら、彼の渡してきた紙を見た。
「…………これは何ですか?」
「解らなければ、わからない方が良い物ですよ」
そこには文字と記号。
天使界で使われている基本的な天使文字、魔術文字、アルファベット、この3つには当てはまらない文字だった。そして見た事もない……と、マハイルは言いたかったが、その文字にも記号にもそれと同じではなかったが、似たような物をついさっきまで彼は見ていた。
それは今、足元のごみ箱の中にある。
レイルの走り書き、それに類似していたのだ。彼の書いたモノよりかなり密に書かれていた。
何故、警察が探すようなモノがレイルの部屋に大量にあったのか?と、言うよりあれはレイルが書いたものだ。彼は一体何をしていたのだろう?
開いた窓に目をやる。
「お探しはこちらですか?」
警官は右手に握っていた水晶玉を彼に見せた。
この水晶玉は犯人拘束に為に警察が使う魔法具なのであるが、中にはカラスと見まごう黒鳥が一羽、閉じ込められていた。
マハイルが初めて敵意を見せた。
いつも穏和に上品な笑いを湛えているのが失せ、眉間に皺を寄せた。
「教授、貴方も『精霊』なのですか?」
「お答え出来かねます」
そう言った途端、背後にいた一人がマハイルの後頭部を殴りつけた。
急襲を避ける暇はなかったが、倒れた後、足を一度引いて、狙いを付けて脹脛を蹴とばした。
反撃されると思わなかった警官は派手に飴色の机に叩きつけられる。
回答板が気になるが、そんな事を言っている場合ではなくなり、マハイルは数人の警官に取り押さえられる。その折に倒れたゴミ箱の中身に警官の目が走った。
「これは……どこで手に入れたのですか?」
三人がかりで抑えられ、立ち上がらされたマハイルは、レイルの書いた図形を突き付けられたが、またいつものように笑った。
「ゴミ箱から拾っただけですよ」
それは真実なのだが。
警官はその紙を握ったままの手で、マハイルの顔を容赦なく殴る。だが乱れた髪から覗くマハイルの目にもう敵意はなく、ただ薄笑いをして、
「それ以上、知らないモノは知りません。もし連行して取調べされたいのでしたら、助教授を呼んで下さい。グリーン班の助教授と言えばすぐわかるでしょう。一人ぐらいはラウンジにいると思います。試験の採点が済まないと、困るのは生徒達ですし、学校サイドからクレームがつくのを厭わないなら良いですが」
一瞬考える間があって、部下に助教授を呼びにやらせた。
マハイルの方に向き直ると、
「すぐに吐いていただければ、必要ないのですが」
「上級学校の教授を捕まえてこれだけやるのは、それなりの根拠がおありか、または強行しても知りたい事なのでしょう。それも私の夜飛鳥を押さえる時点で、セリバーに知られたくないのでしょうね。それから夜飛鳥の扱いには気を付けてください、場合によっては精霊界政府と揉めますよ」
そう言った途端、警官達の顔色が変わった。だが計画に変更はないらしい。マハイルの毅然とした態度で、
「逃げないと約束しますので、腕の拘束は解いて下さい。一人で歩けます」
暫くは帰れそうにない、そう思いながら妻のメアリに心の中で詫びた。
レイルはパンを一個平らげただけでダウンしていた。お腹は空いているが、胃が痛い。胃酸が出過ぎてると思われる。二週間、正確には17日だったらしいが、その間、水と塩、何とか噛みつぶしたプチトマト、後はブロック菓子二切れだけ。パンはお腹空いてるからと言って買ってもらったのだが、余りの痛みに涙目である。
「ほら、重湯とか、おかゆ程度の方が良いって言ったでしょう?」
「うーーー」
「薬飲める?」
掌の治療と共に、脱水と栄養不足も指摘されたが、入院も点滴も断固拒否した。ただ早く家に帰って休みたい。母親から手渡された化膿止めやら何やらを口に入れて、水と一緒に含んだが飲み込めずに、胃の痛みと共に唸っている。
「にっがい!」
「薬が美味しいわけないでしょう?」
何とか飲み込んで、水をもう一口だけ含んで、少しずつ胃に落とした。右に掌の痛みは消えていたが、熱を帯びて、じわじわと傷がある事を主張している。
リュリアーネが巻いてくれた水草は特殊な物で、植皮したのと近い治療になっているらしい。
病院では必要のない部分の草を切り取り、包帯を巻いてくれただけ。
これぐらいなら家でも出来たのではないかとレイルは思う。だが化膿を考えると、飲み薬は必要なので病院に連れて行った母の行動に間違いはない。
二人はタクシーで帰宅した。紫水晶の色が夜の闇を映してかどんよりしている。
「父さん、何て?」
「毎年忙しい時期なのよ」
答えになっていない返事が返って来る。
薬に眠剤でも入っていたのだろうか? 酷く眠さを感じながら、痛みの治まらない胃の辺りを押さえ、
「眠れる薬、入ってた?」
「ごめんなさいレイル、寝る前って書いているお薬一緒に飲ませちゃった」
「どうせ降りる時に起きなきゃいけないのに……」
少しでも休ませたいと思った母の故意だろう。
薬の力と疲れ、車の揺れにレイルは誘われ、目付きがおかしくなっている。
「母さん……」
「なあに?」
「今度、ファーラ呼んでも、良い?」
「ええ?」
「何か、料理を……教えてって……」
「あの子のうち、お母さん居ないんでしょ。だからご飯も大変でしょうねぇ」
「うん、なんか……ね、うん。あいつ……複雑で…さぁ…」
レイルはゆっくりと呂律が回らなくなり、すっかり母の膝で眠りについてしまった。メアリは愛し子の頭を撫でる。
何を考えているかわからない、いつも自分の傍で眠らせておく方が良いのだろうか?
メアリは毎回訪れる葛藤に悩まされながら、耳を塞ぐ栓に触れる。
くすぐったかったのか、レイルの口角が少し上がって笑った表情になった。昔はくすぐっても笑わなかったのだが。その頃の事……いや彼女は自分に起こった事ならいつでも鮮明に思い出せる。その記憶の中で笑わない彼が笑うようになった、それはとてもうれしい事だった。
だが、この掌の傷は……
起きてはいないようだ、寝息を立てるレイルの中の何かが変わっているのを感じた。良い方向である事を祈るしかなく、そっと耳を塞ぐ栓の鎖を触って外を見た。
タクシーのヘッドライトが、枯れた二股の桜を照らす。その奥に水色の扉が取り付けられた家がちらっと見えた。
程無くログハウス風の我が家が目に入る。
「ここで良いですわ」
「息子さん、運びましょうか?」
お金を払っていると、運転手が声をかけてくれる。
「親切にありがとう、でも大丈夫よ」
家の前に一人の紳士が立っているのが目に入った。
車の扉が開くと、彼はメアリに頭を下げ、近づいてくる。
「おかえり、メアリ」
メアリはドキリとする。
その声、黄金色の髪、彫りの深い顔はほぼマハイルを連想させる。だが唯一違うのは肌が褐色である事だった。
彼は彼女の膝からレイルを救い上げる。
彼女は慌てて彼の後を追う。タクシーは彼らを見送ると、扉を閉じ、静かに走り去る。ゆっくり流れて行く車の光で、メアリは鍵を出し家の扉を開けた。
電気を付けると、専用のスリッパを用意する。
「靴は脱いでね、アレード」
「わかっていますよ」
この辺り、正確にはこの建物の回りは湿気が多いので、靴は脱ぐのがこの家のしきたりだ。彼は勝手知ったる我が家のように、靴を脱ぎ家に入ると、階段を登っていく。
「アレード、レイルの部屋、今は入れないの、ゲストルームにお願い」
「ん? ……了解」
レイルの部屋はまだ散らかったままで、彼からの了解を得ていない事を思い出して、声をかける。彼は言われた部屋のベッドにレイルを置くと、靴を脱がし、軽く布団をかける。
ぐるぐると右の掌に巻かれた包帯に目をやりながら、カーテンを引いて、静かに扉を閉める。
「ご飯は、食べた?」
「冷蔵庫、アテにしてきましたよ。残り物がきっと一杯になってる頃かと思って」
「もう、アレードったら」
メアリは食事を作る時、必ず多めに作る。それは帰ってくるはずのない息子の分が含まれていた。そうする事によって、彼を思う時間を作る。
もし天使界に居れば、もう成人を迎えていた息子。
「今日はこんな時間に居ないなんて珍しいね」
話しかけられ、彼女は彼に向き直る。
「病院に行ってたのよ」
6脚あるテーブル椅子のうち、誰にも充てられていない椅子を選んで彼は腰掛けていた。
彼の名前はアレード・セリバー・グリーン。
痩身の身を包む渋いグリーン色の服、それは警察機構の制服。
マハイルに似ているのは、彼が腹違いの弟だからである。
彼の母親は『精霊』、マハイルと共通の父親である天使のハーフ。アレードの美しい褐色の肌は彼の母親、精霊夜飛一族の特徴だ。
「手にケガをしているようだったけど」
「マハイルに聞いて、来てくれたわけではなかったのね」
「昼に兄さんから、レイルが籠城を止めたとは聞きましたよ。兄さんは今日帰れそう?」
「たぶん無理ね。三日は戻らないんじゃないかしら」
それにしても情報早いわね、っと呟きながら、メアリは水を入れた鍋を火にかけ、冷蔵庫の残りを漁る。鶏肉の炒め物、ご飯などを見つけるとレンジで軽く温めて手早く混ぜ合わせ、玉ねぎと共にケチャップで炒めた。
鍋に取り分けた玉ねぎを放り込み、煮立ったら、千切ったレタス、乾燥ワカメと固形のスープの素を入れて火を止める。
炒めたごはんに四角に切ったチーズを入れ、フライパンに油をもう一度入れ、薄い卵焼きを二度作り、先程のご飯を包む。
「で、籠城して何やっていたんです?我が甥っ子は」
「よくわからないのよ。今日帰ってきたら聞き質そうと思っていたら、怪我していて。そんな暇もなく病院行って、今帰って来たところよ」
「怪我って、折った? のか、でもギブスじゃないみたいだったが」
「掌の。皮がないの」
「は?」
言っている事がアレードには理解できなかったらしい。メアリは持っていたスプーンを彼に渡し、自分のも置くと、自分の掌を広げ、指で辿り、
「ここ、一面、皮がないの。手相も指紋も無い感じに、それは…はぎ取ったみたいに」
「どうやってそんな事……」
「知らないわよ! レイル、何にも言わないし! 大丈夫って! …………言うだけなのよ」
聞いているだけのアレードにぶつけようのない怒りで当たりそうになってしまい、メアリは荒げかけた声を飲み込んだ。夫と同じやり取りをしたのに、電話でするのと対面でするのは違う。
迷惑をかけまいと飲み込んでしまった言葉を、義弟にぶつけるのは筋違いだ。
「ごめんなさい」
「大丈夫? メアリ」
彼女は軽く頷いて、言葉を続けた。
「魔道士長が何も言ってこない所を見ると、誰かに何かされたわけではないはずなの。ただ、海藻みたいな物を巻いて応急処置してたのよ。お医者様は他結界からの輸入品で、珍しい物だって言われたわ。このまま皮膚を移植しないで、様子見ましょうって」
「治る?」
「たぶん前みたいにはならないそうよ。引き攣るし、関節の微妙な動きがちゃんとできるまでに回復しないだろうって……ソースが残っていてよかったわ」
彼女は話を変えて、温めたソースをかけてテーブルに料理を運ぶ。
デミグラスソースをかけたチーズ入りのオムライスに、レタスのスープ。前に刻んでいたキャベツとトマトのサラダも添える。
「カロリー高そうだけど、美味しそう。いただきます」
「ごぼうの煮物作った時にでも来てちょうだいね。それに食べても太らないんだから、兄弟そろって」
文句を言った割にさっさとアレードは食べ始める。お茶を入れたコップを二つ置いて、メアリも食事を済ませる。
「美味しいよ、兄が羨ましい」
「どうせ彼女の方が上手とか言うんでしょ?」
「ああ。随分前に別れましたし」
「え? また? 独身貴族も良いけど、そろそろ義姉として心配だわ」
「意地悪ですね、貴女も」
アレードがメアリを知ったのは、彼女が16歳の頃だった。
何かの祝勝パーティだったと思う。メアリの父親に連れられて来ており、退屈なパーティとしか記憶していないが、アレードはカーテンに隠れた貴族の女の子を忘れられなかった。
淡い青髪を結い上げ、品のある淡い緑のドレスに身を包んでいた。隠しようのない、女性の綺麗なラインに、薄水色をした透き通った羽根の翼が印象的だった。
肌は白く、深い青グレーの瞳に吸い込まれそうになる。
今まで貴族など別に大差を感じた事はなかったが、彼女の美しさは別格だと思った。ダンスに誘うと、戸惑いながらも断る理由もなかったからか、素直にエスコートさせてくれた。
「見つけた時、すぐに求婚しておけばよかったと思いますよ、今も」
「何言ってるの。少将様が。沢山、お相手がいるでしょう?」
彼女の透明な美しさに気押されて、珍しく口数が少なかった事をこれまで何度悔いたか。
ダンスに一曲だけ手を取ってくれた彼女は、すぐに姿を消し、誰に聞いても後が追えなかった。
彼女の父が急用で、メアリを連れて会場を離れる方が早かったのだ。
彼が彼女に再び会えたのは一年後、上司の自宅。お茶を出してくれたのがメアリだった。
そこで上司がメアリの父親だったことがわかり、更に戸惑いながらもエスコートに応じてくれた理由はそこで判明する。
彼女の通う上級学校の教授と似ていたからだと。
見た目、肌の色しか彼らは見分けられない程、昔からとても良く似ている兄弟だった。
彼女はマハイルの事を普通にしか意識していなかったが、あのダンスの後から気になり出し、アレードが求婚したその時には、もうメアリの心はマハイルの下にあった。
ボタンが掛け違っていたら、メアリはアレードと結婚していたかもしれない。
「一途なんですよ、こう見えても」
「もう! オバちゃん捕まえて、そんな事言わないで」
17で結婚してすぐに長男に恵まれ、27歳の時にレイルを産んでいた。
もう30過ぎてはいたが、彼女が言うほど、見た目はオバちゃんではなかった。体の美しい線はますます綺麗にあの頃にはなかった色気が出て、いつまでも青い柔らかな髪は長くしなやかで清潔な香りがする。
肌は時を経ても何処までも白く、青グレーの瞳が彼を吸い込んでいく。品の良い生成りのブラウスに、ゆったりとした紺のフレアスカート。
何の飾り気もないのが清楚さを引き立たせる。
「それを言うならオジさんになりましたよ、私も。……あの時、私を選んでくれていたら……」
食後に出されたコーヒーを口にしながら、アレードは言った。
詮無き事でありながら、メアリの瞳が曇っているのを見ると、どうしても放っておけない。そこには義姉に対する以上の気持ちがあった。
兄は一体何をやっているのだと、腹立たしく、口惜しい。
食器を洗っているメアリの後ろに回ると、抱きしめる。驚いて緩んだ手から、食器が水桶の中に滑り込んだ。堪えていた涙が彼女に目から落ちて、その腕を濡らす。
「貴女にそんなに悲しい顔はさせなかったのに」
「やめて、貴方はマハイルじゃないわ」
メアリが抵抗するのも構わず、彼は彼女に唇を塞いだ。
「いや!」
近くの壁に押し付け、その首に唇を這わせ、耳元で囁く。
「好きですよ。メアリ」
写し取ったかのように夫と同じ声で鼓膜が刺激される。器用にブラウスのボタンを口で外すと、豊かな胸の谷間が露わになる。
「やめて……」
そこでアレードはすんなり手を離す。メアリは顔を赤くしながら、胸の前を合わせる。
「ちょ……ちょっと! 悪戯が過ぎるわよ!」
「涙が乾いたようでよかった、ではそろそろ帰るから」
カップに残っていたコーヒーを飲み込むと、彼は悪びれもせず部屋を出て行く。
「何なのよ、もう」
その言葉を聞きながら靴を履く。
怒っているのか彼女の見送りはない。だが背後に別の気配を感じて振り返る。
「起きたのか?」
半眼、というか、開いているのかも定かではないほど、細い目つきでアレードを睨んでいたのはレイルだった。
「アレード叔父さん、母さんに変なコトしないでね」
「わかってる。お前は母さんを大切にしろ」
「うーん」
彼の曖昧な返事を背にアレードは外に出る。
ああやって睨むのは兄弟一緒だな、彼の兄を思い出して笑った。
メアリには小さなナイトが必ずいて、何かしようとするとああやって睨むのだ。で、毎回、何かしようとしてたのかと問われると、彼は否定しないだろう。
外は更に暗くなり、辺りに明かりがないレイルの家から離れるとなお一層、暗かった。
『精霊』は天使界のある結界とは異なる『ホド』という結界にある、精霊界に住む一族。自然と親しく密接に付き合い、『妖霊』を友に生きる民族。
その日の風に従い、水に親しむ精霊人は環境変化に弱い。その分、子供は即座に体質を変化させ後世に命を繋いでいく。
入れ替わり立ち代わりその場に適応した特徴を持つ一族が生まれ、名を残して消える。
天使界とも関わりが深く、「橋」によって古くから交流もあり、今ではアレードのような混血も多数おり、市民権は得ている。
環境変化の少ない天使界に永住する者は少なくない。
月はまだ見えぬ暗い夜道。
だが精霊夜飛は夜の『妖霊』を友とする一族。その血筋にある彼の足もとに狂いはない。
精霊夜飛の特徴は黒髪、黒瞳、褐色の肌。そして黒蜻蛉のような四枚羽を持つが、アレードは混血故に褐色の肌以外は、母親の特徴は出ていない。
だが、その能力は精霊寄りだった。
手を天に向けて差し出すと、屋根から一羽の鳥が舞い降りる。
翼は大きく、鴉の二倍ぐらいある真っ黒な鳥、夜飛鳥。精霊夜飛は必ずこの鳥を連れている。この鳥を媒介に遠くを見たり、術を行使する事が可能だ。
そしてもう一匹、小柄な黒い鳥が飛んで来た。ただその鳥は彼の頭上を旋回するだけで、なかなか降りようとしない。
「マハイルの?」
アレードがそう呟き、ぴぴぴぴっと変わった口笛を吹いた。
途端にその鳥は矢のように彼の近くに現れ、胸の前で急停止、はらりと一枚の布切れに変わった。
「伝言なし?」
彼が期待した何某かは含まれていなかった。
一枚の布切れはマハイルが窓辺から投げたハンカチだった。
そこには彼の力の残り香がする。普通ならメモや伝言が残るのだが、それがなかった事にアレードは怪訝な表情を示した。
「何で、こんなものを寄越した? 伝言を載せる暇もなかった?」
マハイルに精霊の血は流れていない。だがアレードの母に仕込まれて、その技を習い、夜飛鳥を傍に置いている。彼の近くには必ず彼の鳥がいるはずだ。
「マハイルの鳥が、上級学校にいるか確かめろ」
嫌な予感に、彼は自分の鳥を空に放つ。その背を目で追った後、兄夫婦の家に一度だけ視線を流し、闇にその身を翻した。
ご指摘、感想などいただけましたら幸いです。
次回更新予定は木曜から書き始めて、来週を予定しております。