約束の刻印
前々から書き溜めていた物に追加する形で作っていく
…つもりでしたが、ほぼ総書き換えというか、
新しい話で時間が掛かっています。
それでも過去文章を引用した場合、氏名、名称等のズレがあります。
その辺りと誤字脱字は徐々に直していく予定です。
年齢設定はずらす場合があります。
感想、誤字脱字等ご指摘いただけると助かります。
こんなに大きな翼がありながら、自分のどれだけ不自由な事か。
全てを捨てて閉ざそうと決めたのに、世界はこんなに美しい。
ファーラは空を滑空しながら、見慣れた赤瓦の街を見下ろした。
冷たくなった風に体温が奪われる。冷えた体以上に冷静になってくる思考。
自分が何に慌てているのか、問う。
今まで殺そうと思っていた相手に思いやりなど必要ない。弱っている今こそ彼に手を下す最大のチャンス。今日、今を逃せばダメもとで地下室のアタックを遂行するしかない。
右の脇腹がひどく傷んだ。
5時間も試験で同じ態勢を続けていたからだろう。未来がないと思いながら、レイルを見るといつまでもこの時間が続くと思われ、まじめに答案を解いていた自分に苦笑した。
生徒会長が指摘した頃から比べ、痛みによって更に右腕の可動域が狭まっている。左利きなので誤魔化せていたが、右脇腹周辺の火傷の跡がどうやっても回復しない。
浸出液も出ているが膿も貯まるのが早く、いくら吸い取っても乾かない。湿潤療法に切り替えても効果がなく、今はガーゼなどで兄が手当てして、どこで調達したのか抗生剤など飲むようにしている。
だが、全く治る気配がない。ただ黒い翼を持つ、黒天使の体が丈夫な事は天使界では良く知られている。
酷いケガをしても普通に生活し、元気に見える自分の丈夫な体が時に有難かったり、時に疎ましかったりした。
この半分も兄が強かったら、彼を連れて逃げる事も考えたのに。
次第に家並みが消え、眼下が森に変わる。
森は豊かに色づき、優しい光に満ち溢れていた。
もうすぐ冬になろうかと言うこの時期、眠りの季節を前に、今を惜しむように世界は輝く。
沢山の色彩が木々を染め、川の流れに乗って、町まで運ばれる。何処までも高く、澄んだ青に白く細いすじ雲の束が、どこかへ誘うように長く長く続く。
この雲の先には何があるのだろう?
追いかけてもたどり着けない謎を追って、何処までも駆けて行ける翼があっても、しがらみに縛られてちっとも遠くへ飛べはしない。
後ろを振り返ったが、通いなれた大きな学校を見る事の出来ない位置までもう来ていた。引き返せない、結局レイルに何も言えなかった。
最後の挨拶も残さない友を彼はすぐに忘れるだろう。
稀有な紫水晶瞳の冷たき視線故に嫌われても、彼には必死に生きようとする強い力がある。きっとその直向きさを評価する者がいずれレイルの力となる。
「俺もその傍らに……居たかった」
脇腹の痛みからか、後悔の念からか、緑玉瞳の視界が歪んだ。
手に震えが来て、オカシイと思った時には、あっという間に彼の体はバランスを崩し、風に流され、森の木に引っ掛かるように墜落する。大きな翼を折れんばかりに羽ばたかせ、再度、風を掴もうとするがうまくいかない。
今のでだいぶ家から離れてしまい、とにかく飛ぶ事はもう無理だと地面に転がり落ち、翼は幻のように消えた。
何とも無様だった。だが彼は這いずるように起き上がる。木々の影にチラチラと輝く泉が見えた。
「リュリアーネ……」
弱々しく祖母から預かりし人魚の名を呼ぶ。
フラフラと歩いていくと森が開け、光輝く水面に彼女の頭が出ているのが見えた。ファーラは近寄ろうとして枝に足を取られてこける。立ち上がろうとするが、押さえてきた痛みが全身を駆けのぼり、彼は呻いてその場に倒れた。
痛みに耐えかね、脇の手当てに貼られていたガーゼを剥がすと、今までないほどの体液と何かわからない物体と鮮血がドロドロと落ちた。激しい痛みにファーラは押し殺した声で再度呻いた。
「ひどくなる一方だね。その傷は父親に噛まれたか、爪で抉られたかした?」
自然に治癒しない脇腹の傷は遠目にも酷過ぎて、彼女は尋ねた。
彼女は余り詳しくはなかったが、魔の毒性のある爪や歯を突き立てられた痕だと、治癒が遅く、いつまでも治らないと聞いた気がした。
随分前から彼の父親が魔だと知っているが、それは口止めされていたので彼に説明はしない。
「いや、わからない」
彼はリュリアーネの質問に首を振った。父親に何をやられたかなど、少しでも覚えて居たくない。なかった事にしたい時間だ。
それに思い当った彼女はハッとして、
「ごめんなさい。アーサー、大丈夫?ここまで来れる?」
心配する彼女の声がファーラの耳を打つ。
リュリアーネは陸の上ではほぼ動けない、足を持たない人魚の一族。
本来天使界ではなく、重水界と言われる星に住む水に特化した生き物。水を友とする彼女達は、水で「橋」をかけ、いろんな結界を行き来するらしい。
長い時を生きる彼女達は、『妖霊』に近い存在だった。
種族が違えど苦しむ者に手を差し伸べると言うのに、それも自分の子供にこんな仕打ちをするとは何事か。彼女が敬愛していた天使ファーラの子、アディ。
聡い子、強い子であったのに。
彼女の血筋をもってしても、「玉」の誘惑と魔化に対する性格の変化には耐えられなかったのを悲しく思う。
彼女が彼の祖母の声を最後に聴いた時、彼の父の声が聞こえた。リュリアーネは彼女の傍にいつもあったお茶から響く短い二人の会話を拾った。
「お前も堕ちたね」
「そういうクソばばあも、な」
彼を連れて逝けないと知りつつ、彼女は孫の未来を助けたい一心で足掻き、命を散らした。
下の孫を見守ってやってくれるかい? 彼もそう長くは生きまいが、老いぼれの最後の頼みを聞いておくれでないか? リュリアーネはその言葉に添って、乞われれば彼の願いを聞いていた。
彼女が敵わなかった男に彼が勝てるかは微妙だ。
「父さんが誰を狩ったか、リュリアーネは知ってる?」
その台詞でハッとして彼女は彼を見やった。
倒れてる彼の体が見えた。顔は見えない。
「アーサー?」
「いいよ、ばあちゃんに言うのは止められてるんだろう? でも父さんの気配は魔と同じだった」
地面に転げて、動けないままファーラは彼女と話す。
「なあ、今度、俺を連れてリュリアーネの世界に連れていってくれないか?」
「何を急に…息を貸さないと3分と居られないのに。それにたまに泳ぎには来ていたじゃないの」
「入口じゃなくて、さ」
レイルをこないだ送り込んだ、あの場所。彼女の住む世界の入り口、橋の手前であり正確には彼女の世界ではない。
あそこまではファーラも何度か行った事があった。
「リュリアーネ、言っていただろう? 綺麗なんだろ? それはそれは美しい所で、自分の仲間もいっぱいいて。俺が見たことないくらい大きな魚が居るって言ってたし。珊瑚にイソギンチャク、綺麗なカニや変わった生き物がいるんだって自慢していただろう。見てみたいなあ。あ、リュリアーネ食べちゃう魚って今もいる?」
「? ……ああ、大蛸よ。魚じゃないわ」
「そいつ、俺も食べてくれるかな?」
「ば! 馬鹿な事を言うんじゃないよ。それもお前なんかちっとも美味しくなさそうなんだから」
「そうか、ダメかな? 残念だなあ。俺の魂は輪廻から外れるだろうから、この体だけでも誰かが食べてくれたら、そいつの一部になって生きられるんじゃないかって思ったんだけど。俺の汚い体もきっと綺麗になる」
お前は汚くなんかないよ、そう声をかけたかったが簡単にそう言ってやれなかった。本人がそう思う以上、他人がどう言おうと拭い去れるものではない。
ヒトがヒトを殺すのは罪となり、罰としてその魂は生まれ変わることが出来ない。また自分で死を選んだものも同等とされる。
罷免事項はあると聞くが、この場合はどうだろう? 自分の親を殺して、その後、彼も生きてはいまい。そして待つ、魂の死は、永遠の死。
母を知らぬファーラにとってリュリアーネは姉であり、母でもあった。出来れば彼女の住む所で命を散らしたいと願うのも無理からぬ事であった。
「こっちへ来れる? 私はここまでしか行けないのよ」
リュリアーネが岸に腰かけると、腰から下の青い鱗が鮮やかに光った。
うねるような青髪の流れを伝う雫。まばたきしない巨大すぎる目にも水が流れる。腰から上の鱗は色が淡くほんのりピンクがかかった青い色をしていた。
大きな胸は隠す事もなくたわわに揺れて、彼女の美しく神秘的な姿は絵画の様だった。
ファーラが這う様に近づくと、誰にも見せないようにしている上衣を脱いだ。彼女は柔らかい草の上で、右を上に側臥位で寝転がらせ、尻尾、人で言うなら膝である場所を貸す。そして長い爪を持った鱗のある手で、痛くない部分を選んで、そっと彼の傷を撫でてやる。
いつの頃からこうするようになったか、2人も忘れてしまったが、こうしてもらうとファーラは少しだけ気分が落ち着くのだった。
だが今日はその手を掴んで、彼は小さく言った。
「俺、怖い……やっぱり怖い……」
「アーサー……」
まだ温かさを感じる昼、だが秋の気配は次第に忍び寄る冬の景色の準備を始めている。
この森に寒波が来て、真っ白の絨毯に埋められる時季は近い。氷が泉や湖などをを閉ざす時は、水道などので大量の水を使ってもリュリアーネが出て来られなくなる。
温かいお茶などを伝えば、言葉くらいはリュリアーネには聞こえるが、その時に彼が1人で逝ってしまうのではないか、そう思うとたまらなくなる。
ファーラの祖母が逝った時もそうだった。手に取るように、彼女の命が奪われるのがわかっていながら、手を伸ばせない辛さ。
他界の生き物を連れ帰る事を彼女の世界は禁じている。
だが1人で逝かせる位なら、彼を大蛸の主へ送り届けて、最後の瞬間を看取っても良いと思った。
あの大蛸なぞにくれてやるのは惜しいが、体を喰らわれればそこで生きられるという考えは、弱肉強食だからこそ彼女の世界では一般的であった。
彼女もまた彼を弟のように、子のように慈しんでいた。
しかし親殺しにも自殺にも彼女は口が挿めない。何故なら彼女のここでの主は彼ではなくその祖母。
彼女が望んだのは見守りのみであったから。
「ありがとう。帰らなければ」
激痛が去り、何とか動けるようになった彼は起き上がった。
自分が魔となり果てても、決して後悔しない理由があるならば。迷わず狩るがいい、
彼の頭には祖母の言葉が響く。体を起こすとフラフラしたが、じき治るだろうと、意識をハッキリさせる為に顔を水で洗う。
その時、背後の茂みが揺れる。
「間に合った……よね?」
「レイル?!」
そこに現れたのは、金を束ね集めたかのような深い黄金色の髪をした彼だった。
ここに墜落したのは偶然だ。
どうやってここを突き止めたのだろう。ファーラがそう思った時、レイルの隣で『妖霊』カデンツァがキラキラと飛び回っているのが目に入る。
彼女なら同族の霊に尋ね聞き、彼を導くことも可能だ。
奉納舞の練習時もシャツを皆の前で脱いだ事はなかった。
そうして服で隠してきた背中の傷が、白昼の光に晒されている。ファーラはもう隠そうとせず、はははっとカラ笑いした。
「ファーラ! 「総てを終わらせる」ってどういうことだよ!」
だが怒りに任せてレイルは咆えた。ファーラはただただ態の悪い顔をしながら、
「怖い顔するなよ。プリシラか、どこまで聞いた?」
「今の台詞以外は彼女からはまともに何も聞いてない!」
レイルは彼に歩み寄って、膝をついた。
間近に見ると更に何と酷く、痛そうな傷だろう。
体が丈夫な事と、痛みは別問題だ。そして見た目の傷以上に、心の傷は深く、病んでいるのに、彼はそんな素振りを見せた事はなかった。
それどころか紫水晶瞳のおかげで阻害視されるレイルの支えだった。
「どうしてこんな事に……」
「忌み児なんだ、俺」
その言葉は彼の兄からも聞いた気がする。そう言って押し黙ってしまったファーラの台詞を、リュリアーネが継いだ。
「この子の母、ルイーザの家系には言い伝えがあるんだよ。初夏に生まれた男児は不吉だ、と」
彼女は岸から泉へと体を沈め、頭だけ出して彼らを見ながらそう教えてくれた。
「言い伝えって……」
レイルは自分の身上と同じにおいを感じた。言い掛かり、だ。
レイルが紫水晶瞳に生まれたのも、ファーラが初夏に生まれた事も。
「言い掛かりだろう? そんなのファーラに関係ないだろう?」
ファーラがやっと言葉に詰まりながら喋り始めた。
それは彼も記憶がないヒトに聞かされた事実。
「それがさ、そうでもないんだ。まず母が死んで、親族に原因不明の死や事故が続いたんだ。その人数は片手では済まなかったって聞いてる。だからって殺すわけにもいかず、男でなければいいのかって、俺はばあちゃんにその名前をもらったんだ。そしたらピタッっと誰も亡くならなくなったんだ。それで確定。死神……だっていわれたさ。俺は厄介者だった」
ファーラは最後には吐き出すようにそう言った。
自分が生まれた日、初夏だと言うのに雪がチラついていたと彼は聞く。グレーに塗り込められた空から、新緑の上に白い雪が舞い落ちる。
本当は今日のような秋空の日に生まれてくるはずだった、何の問題もなかった。
だが五月のその日、兄を連れて新しく迎える子にと買い物に出て、事故に遭い、緊急分娩になったと聞く。
在胎はぎりぎりの6ヶ月、超低出生体重児ではあったが、母子共に異常なし。
ちなみに天使の在胎期間は八か月~他種族と混血だと三年半と言う記録もあるが、平均出産は10か月で人間と変わらない。
ファーラは体の大きさこそ小さかったが、内臓機能も視覚も何もかも正期産に生まれてきた天使の子供と何ら遜色なかった。流石、黒天使の生まれだと安堵したのもつかの間だった。
母はファーラを抱く事もなく、その夜のうちに急に亡くなった。
その後、親類の立て続けの死に、重なる事故。収まったタイミングは天使を怖がらせるには充分だった。
「それでもばあちゃんが居た時は良かったんだ。けど忙しいヒトだったし、亡くなってからは、父さん帰って来る度に、どんどん酷く、……酷く俺に当たるようになったんだ」
レイルはポケットに入っていたハンカチで、一番酷い彼の右脇の傷を押さえてやった。
押さえるとおかしな手触りがした。肉ではなく、奥までスポンジのように手触りがない。
「でも兄さんは優しかった。いつも傍で俺に声をかけてくれたんだ。兄さんだけでも助けたい。その為には父さんをやっつける……殺すしかない」
兄の優しさは偽りの優しさ、そうレイルは知っていたが、言い出せなかった。
紛い物であれ、白服の彼がいなければとうの昔にファーラは命を絶っていただろう。
「行けないと思っていた学校に行けて、部活もしたし、奉納舞にも参加したし、課外授業なんかも楽しかったな。今日のテストは勘弁だったけど。何より友達が、できた……」
彼は笑いながら、瞬きもせずパラパラと涙を落とした。
「もう充分だ」
「何が充分なんだよ!」
傷を押さえながら伝わってくる命の鼓動。
痛い、辛い、苦しいという気持ちがアリアリと伝わってきた。
それなのに我慢してくれ、生きていてくれと望むのは酷な事だ。それとわかっているのに、レイルは彼を止めたかった。
何がしてやれる?
そう思うが、彼に出来るのは傷を押さえてやるぐらいで、何もできないのが現状。
傷を、せめて傷だけでも治してやりたい。心の傷は治せなくとも、配列が間違っているこの体の傷を癒してやりたい。
「配列……?」
レイルは頭をよぎったこの単語に自分でも驚きつつ、紫水晶瞳でファーラを見た。
いつの間にか自分もこぼしていた涙を拭くと、耳栓が完全防音になっているのを確認する。
集中!
そう念じてから、傷を押さえていたハンカチを捨てる。そしてそのまま素手をファーラの傷に押し当てた。
「い!痛っ!何するんだ! 今、痛みが少し引いたばかりなのに」
「静かにして、アーサー」
そう言ったのはレイルではなくてリュリアーネだった。
レイルは左手で自分の脇腹辺りの皮膚を触り、逆の手でファーラの患部を触った。
途端にレイルの頭の中に沢山の図形や符号が降って来ていた。
その真ん中を自分が歩いている、そんな感じ。
この状態、今日の朝まで懐中時計を眺めていた時と同じ感覚だった。
皮膚は表皮、その下にある結合組織系の真皮、さらに皮下組織が、脂肪組織に血管、汗腺、血液、毛細血管……内臓、骨髄、関節、脳……秩序だった配列で体は成り立っている。
左手で感じる自分の体、沢山の符号が、その秩序だった構成を示す正しい物。
だとするなら、ファーラの体にある、要らない符号や記号を追い出し、正しく並べれば元に戻るのではないかと。バラバラにした時計の術式を組み直した時のように。
今回の場合、紙に書き出す事はもうしなくても良かった。
左手にガイドとなる正常な体、自分の体があるからだ。それと同じに並べればいい。
要らない図形はバラして、消す。
またはついているひげみたいなのを外すだけで、正常な記号になる。時計の場合は実際にドライバーを使ったが、今回はどうしたらいいか最初迷った。
だが木炭で描き、または消すようなイメージをすると、本当に消えたり書き加わったりする。それは不思議な光景だった。
「バーチャルゲーム、だな」
残った粉はきちんとねり消しで巻きこむように消さないと他の図形と引っ付く。
それを注意しながら作業を進めると、次は文字が湧き上がる。読めないが、何度か解体作業中に当たった事がある文字だった。
自分の体にあるものと同じ字に写し変えていく。寸部違わず、正確に。
たまに蚊のような、ハエのような鬱陶しい物が飛んで来るのが厄介だった。
それらはなかなか消えない。
好戦的で思考を邪魔し、レイルの視界を塞ごうとする。
更には苦労して書き直した文字をまた元に戻そうと付着する。イライラすると、頭が煮えるように感じたが、彼の集中は途切れない。
空腹も眠気も今は感じない。
ハエを追い払ってレイルの味方をしてくれる絵柄も浮かぶ。
それと同じモノを作って追い払ってくれるように考えると、魔方陣に似た図形は鳥になり、勝手に相殺しだした。
「免疫、くん、っかな?」
医学用語には明るくないが、そういう言葉が勝手に思い出される。
図形を組み立て、積み上げ、書き換えながら自分と違わない場所まで意識を沈めていく。
すると彼の傷の一番奥底と思われる場所から、ハエのような物が一匹、また一匹と飛び出してきていた。腐ってる、あれを押さえなければならない。そう思った瞬間、ハエ達は大量に出て来てレイルを絡め取ろうとした。
「うわっ」
ハエから蛇のような長く大きい生き物に変わる。一緒に何か文字が沸く。
そのおどろおどろしい雰囲気に、その文字はたぶん「毒」とか「悪」とか読むのではないかとレイルは直観的に思う。
これをやっつける方法、そんなものは知らない。
ただ傍に飛んできたハエを相殺してくれる「免疫くん」を呼び出すことくらいしか思いつかなかった。蛇になった黒い物が元に戻しつつあった文字や図形を壊す前に早く!早く!
図形を描く。
一際大きく長く、綺麗に優雅に。
二週間かけて書き続けてきたせいか、それはとても自然で自分が解放されるようだった。
図が完成すると、大きな白い鳥が現れる。
白鳥だ
と、レイルは思った。
美しい首のライン、滑らかな大きな翼。その繊細な動き。
白き鳥はレイルの求めに応じて舞い上がると、黒い蛇を追いかけだす。
途端に、蛇は逃げ出した。余りの脅威にそれらは蛇からハエに四散した。それに合わせて白鳥も細かな白い鳥になり、ハエを追いかけ、相殺する。
レイルはそれを観察する間もなく、文字の書き換え、図形の組み立てに精を出す。
足りない物で体にある物は血液や体液に運ばせる。鳥もハエもいつの間にか相殺されていく。
「足りない」
その時、レイルは焦った。探しても探しても足りない物がある。図形は書けるがそれを構成する材料が不足している感じだった。レイルは思い切って「ソレ」を使った。
「ううううううううっ」
レイルは唸りながら、ゆっくりと右手を離した。時間にして二~三分だったとファーラは思ったが、目の前で信じられない事が起きていた。レイルが手を離すとあれ程酷く体液を排出していた傷跡が塞がり、まだ薄いが、ピンク色をした新しい皮膚がそこにあった。その形は掌型をしており、誰かが掌で叩いたのが浮き上がったようにも見えた。
ただ、変化したのはファーラだけではなかった。レイルの顔色は悪く、何も言わず右の手を握りしめ、左手できつく手首を握って、その体制で体を丸め、唇を噛みしめていた。
「レイル!」
ファーラの傷が癒えたのは奇跡ではない。
レイルはあるべき場所にあるべきものを配置し、足りない物は自分の身から補った、それだけだ。
どんなに頑張らせても足りなかったのは皮膚だった。
無理やり伸ばせば酷い引き攣れとなり、ファーラの動きを一生制限するだろう。だからレイルは考えた末、自らの掌の皮膚から成分を抽出した。
その為、レイルの掌の皮が紛失した。いやファーラに移植されたといった方が正しいかも知れない。彼の掌はべろりと皮を一枚剥がした状態で真っ赤な肉が見えていた。血管は切っていないので、血は出ない。まるで人体模型にでもしたようだった。
焼けたフライパンに手の平を押し付けたらこうなるだろうか?
頭で考えられない非常識な状態だった。痛いというものでは表現できない。
痛覚が鋭い手のひらと指の皮膚を剥がして、平気な者はいない。だが出来る限り叫ぶのを抑えた。
痛みならファーラが受けて来たものの方が大きい、そう思うと叫べなかった。
そんな激痛に堪えても治せたのは、掌たった一枚分だけ。この方法でクレーター状になった背中全部を治す事など到底無理だ。
だがレイルは少しでも、と、意を決して、左手もファーラの傷に触れようとした。
熱した油の中に素手を突っ込む様な覚悟だった。
「ち、ちょっと待て!」
ファーラはレイルの左手を手首を持って止めた。
彼はレイルの逆手を掴み、広げるように目で言った。
レイルはゆっくりとごわごわする指を広げる。
明らかに健常の手ではなくなった血管も露わな掌をどうしたモノやら、ファーラは完全に戸惑った。
「もういい。何てことだよ、お前、無茶な事を」
「なあ、ファーラ。父親を殺したいならそうすればいい。何なら俺も手伝ってやる。だけど自殺はダメだ。それぐらいなら俺の実験台になれよ」
「は?」
「そうだ! 俺のこの力を試す為の実験台。必ず身体のケガは治してやるから、それまでは生きていろ」
「実験台って……お前……医者にでもなるのか?」
医者になる?
考えた事もない。
実験台、なんて口から出任せだ。
だが存在が誰かを傷つけるなら、普段は傷を治してやる側に身を置きたい。
医者、良いかもしれない。完全に思いつきでレイルは頷いた。
「しかし……実験台かよ」
「どうせ死ぬ気ならファーラ、それくらいで充分だろう?」
「それも手伝ってやるって……」
「本気だから!」
「足手まといだってーの」
「あ」
剣を取り、戦う事についてはレイルの完全管轄外だ。
それもこんなになった手で剣など握れるはずがない。それどころか、利き手の巧緻性はたぶん前のように戻らないと覚悟する。
「俺の為に……これだけ治すのに払った代償が大きすぎるぞ」
「いいんだ、治したかっただけだから。それもこれだけでごめん。もっと治せるようになるから」
「いや、そういう意味ではなくて……」
これだけの手当てではファーラにとって、何が変わる訳でもない。
父の事、兄の事、自分の生死さえ、危うい世界に今いる事は間違いない。
生きていれば死ぬほど嫌な目にあわされる恐怖に、そしてあわされた後の虚無感に耐えなければならない。親を手にかけてしまえば、死ぬほどの後悔にも苛まれる。それは死を選ぶより困難な道だ。
だがファーラはその手を見ながら言った。
「わかった、レイル。俺、一人では死なないから」
「レイル、貸してごらん」
リュリアーネがいつの間か潜って戻ってきたらしく、海藻のような物を掴んで話しかけてきた。
レイルの差し出した手にくるくる巻く。
「少しはマシなはずよ。耐性の強いアーサーには効かなかったけど、レイルにはどうか……効いた所で完全に元には戻らないだろうけれど。しかし驚いた事をする子だね。こんな技は知らないよ」
わかめのように薄い海藻は掌に張り付き、血液や体液が蒸発しないように守ってくれる。
若干痛みが引いたのは鎮痛効果があるからか。
レイルはお礼を言った後、ファーラを見て、
「本当に約束だ。勝手に死ぬな。一人でいくな。それだけはお願いだから……」
レイルの言葉にファーラは深く頷いた。
無茶な子達だ、そう思いながらリュリアーネは少しだけ安心した。
彼は1人ではない、何があってもきっと1人ではないと。
ファーラは痛みが無くなった脇腹の傷を触る。少し盛り上がった柔らかなピンク色の傷跡。
今まで兄に貰ったものとはまた違った、強さと1人ではないという支えを感じた。
何処までも駆けて行ける翼。
でもちっとも遠くへ飛べはしないこの翼だが、いつかこの友へ捧げようと、幼き友の手形に心の中で約束した。
家の扉前までファーラを送って行った。
レイルは彼に帰らず、どこかに身を寄せるよう提案した。
だが親戚の受け入れはないし、頼れる有力者はない。
家へ来いと言ったが、それは親権関係を持ち出されて戻され、監禁状態になるのは避ける為、出来ないと断られた。兄を残して行けない気持ちも勝っているのだろう。
ファーラは父親が魔に落ちているかもしれないと言い、レイルは軍に相談をしようとした。が、それも待ってくれと言われ、八方塞となる。
ファーラを連れるなら、兄を連れ出す方法も考えねばならない。だが彼がここを出るなど考えそうになかった。
困難な約束をさせてしまった。だがどうしてもレイルは友人を失いたくなかった。解決策は見いだせないが、ファーラは一度家に帰る事を決断した。
「ここ、俺んち」
知ってます、と、言いかけた言葉を飲み込んだ。
「大きいな」
もっともらしい感想を言った後、レイルは念を押す。
「約束だからな」
「わかった。勝手はしない。出かけられたらまた明日、学校で。来れない時は連絡する」
そう何度もレイルに念押しされた言葉を繰り返し、ファーラが扉を開けようとした時、勝手に扉が開いた。
ファーラの兄が出て来ると思った。
白い服ではあったが、そこに立っていたのは可憐な少女だった。
銀色の冴えた月の色を纏いし天使。柔らかなレースがたっぷり使われ、オフホワイトと生成りの生地で作られたレイヤードの多い服を着ていた。
長い長い鮮やかな銀髪。
前髪は眉が隠れる程度でぱっつんにし、結い上げてツインテールにしている。
目は深い深い紺碧の青玉瞳。その目で見つめられると余りの美しさに心を奪われそうになる。
彼女からは気高さも感じられたが、それ以上に可愛らしい少女の香りが何ともヒトを魅了した。年の頃はプリシラと同じだろうか? だが彼女のような落着きよりも、恰好が甘いせいもあるかもしれないが、何も知らない無垢な子供を思わせた。
銀天使、2人の頭にその一族の名がよぎった。
銀天使は天然記念物並みに珍しい。
闇を鎮めし一族と言われ、強力な魔力を有している半面、繁殖力が弱い。その為、二百ほど個体数は居るらしいが、全ての者が囲いの中で過ごし、普通はなかなか出る事も叶わないと聞く。
レイルもファーラも、本物の銀髪をして青の瞳を持つ者と知識的に知っていたが会った事は皆無だった。
ファーラも見惚れていたらしいが、自分の家に無断侵入されている事にハッとして、
「どなた、ですか?」
「ああ……やっと戻ったのね。貴方達はここの人? 私はアディを送り届けに来たの。誰かいるにはいるみたいだけど、何度呼んでも顔出してくれないし。鍵は開いていたから、勝手に入ってごめんなさい。とにかくアディはもう休ませているわ、こっちへ……」
「ああ、兄さん人見知りだから出なかったんだ。レイル、またな」
「ああ、また」
次の約束が出来る事に、2人は微笑んだ。
レイルは屋敷を背に、今からどうしようか海藻で簀巻きになっている右手を眺める。
痛みは一時よりだいぶいい、だが眠気と空腹が一気に襲ってくる。
「この手、なんて言い訳しようか? うう、とりあえずご飯を……」
そしてレイルは、屋敷の扉が重く閉まった後に気付いて、振り返った。
ファーラの兄が閉めている鍵は開け放っていたから入れただろうが、それは間違いなく防音扉であり、それなのに何故、事もなく銀髪の彼女は俺達に気付いたのか。
それも彼女は言っていた、「誰かいるにはいる」けど「顔出してくれない」から「勝手に入った」と。
彼女は、屋敷に入る前にはファーラ兄がいる事がわかっていたという事だ。ただあの扉の向こう側を、表から察するなど出来るのだろうか?
ややこしい事になったのか、それとも光明なのか判断が付かず、レイルは大きな屋敷を振り返る事しかできなかった。
ご指摘、感想などいただけましたら幸いです。
お気に入り登録いただいた方、本当に感謝です。
恥ずかしくて、感想は付けておりませんが、
その方がわかる場合は、(書いておられる作品、全てではありませんが、)
出来るだけ作品に目を通しに参っております。
素敵な作品が多くて幸せです。
以後はレイルの力で、一騒動?起こる予定です。
次回更新予定は月曜から書き始めて、3日~10日を予定しております。