幻影の恋
前々から書き溜めていた物に追加する形で作っていく…
つもりでしたが、ほぼ総書き換えで時間が掛かっています。
それでも引用した場合、氏名、名称等のズレがあります。
その辺りと誤字脱字は徐々に直していく予定です。
年齢設定はずらす場合があります。
感想、誤字脱字等ご指摘いただけると助かります。
私が出来ないならば、他の誰でもいい。
誰か彼を癒してくれる事を、空に祈っても良いだろうか。
誰かが美人姉妹などと呼んでくれる事がある都度、必ず不満そうにしてジト目でこちらを睨む。
そして「大きくなったらお姉さんみたいにもっと素敵になるよとは言ってくれるけど、お姉さんは君みたいに可愛い少女だったんだろうと言ってくれるヒトはいない」とフテていた妹。
これはあの日、奉納舞の当日。プリシラが思い出した妹との記憶。
唐突に失われた命。
舞を見学に来ていた両親も呆然とし、涙すら流さず彼女が再び目覚めるよう神に祈るが、そんな奇跡が起きる事はない。
プリシラは病院ではなく正確にはルネ・ファース神殿、あの巨大要塞とファーラが称した本神殿に居た。
上界神殿最高位に位置する巨大神殿は、医務室とは思えないほど整った設備が整っていた。
現在最高位の司祭が、有事にはここに限らず神殿を仮設病院や避難所として開放する事を唱えており、彼の指示により神殿には最新の設備や医療に通じた神官を揃えてある。
その為、ココに運ばれたユリナルだったが、彼女の命は「玉」と共にとうに連れ去られており、最新機材も何の意味もなさなかった。
「玉」を奪われた為の死とわかる者は少ない、その存在すら極秘なのだから。
「ユリナル、目を覚まして」
ユリナルがもう自分の年に追いついて、素敵な女性になる事はない。
プリシラが皺くちゃなお婆さんになる年になっても、彼女は永遠に少女だ。その頃に「お婆ちゃんは妹さんみたいに可愛かったんだね」と、ユリの願いは確実に叶う事になるだろう。
自分と同じ巻き毛を綺麗に整えて、櫛で梳く。
ストレートが良かったな、そんな声が今にも聞こえてきそうだ。
だが彼女は二度と唇を開いて、聞きなれた生意気な台詞を吐いたりしない。開けば綺麗な瞳があったはずなのに、揃った長い睫は永遠に開くことはない。
舞台用のメイクを落としてしまうと、死んだヒトの肌からはこんなにも色が無くなるのだと初めて知った。
プリシラはごく淡くユリの可憐さを損なわぬよう口紅をひき、頬紅をさし、誰が見ても美しく見えるように服を整えた。彼女もみっともない恰好は望まないはずだ。
「ねえ、ユリナル。答えて」
叶いもしない願いを口にすることも辛く、居たたまれなくなった彼女は、学校側に報告してくると言う理由を付けて、そこを抜け出した。
ユリナルの遺体運搬に付き添うため、学校の一行と帰る事は出来ないが、誰かと話したかった。
お祭りがあっている為、最下階の神殿や、白い石畳の辺りにある建物や路地はまだ明るく賑わっていた。だが本殿は静かに篝火が焚かれているだけ。たまに神官達の祈りの声が聞こえる。それすら闇に溶け、神官の密やかな営みは神に捧げられていた。
裏口を抜け、控えに使われていた建物に向かう。
近くはなかったが、下りだったので歩いてそう離れている気はしなかった。
「上りが大変かしら?」
プリシラの横を何台かバスや車が走り抜ける。
側面のマークなどから、他校の引き上げバスだとわかる。彼女は学校の顔としてここに来ている。見えているかは定かではないが、きっちりと行きすぎるまで頭を下げ、やり過ごす。
それ以外は車も馬車もほとんど通らず、街灯も少なく暗い道を下った。
そうしているうちに、目的地にたどり着く。何人かの生徒に「ユリナルは?」っと聞かれて、首を振る。
皆、息をのんで、お悔やみの言葉を述べてくれたが、悲しみは増すばかりだった。衣装室を覗くがそこに自分が探している天使達の姿はなかった。
その時になって、自分が目的を持って来ている事に気付く。
誰かではない、レイルとファーラ、彼らと口を訊きたかったのだと。そして今から彼ら二人を本神殿に連れ帰り、街に連れ帰っての葬儀前に妹へゆっくり挨拶して欲しかったのだ。
奉納舞の練習を毎日繰り返しているうちに、紫水晶瞳のレイルに恋をしたユリナル。
何が良かったのかはプリシラにはわからない。
でもその姿を見ながら微笑ましく思っていた。
そんな矢先、ユリに「プリシラ姉様、恋してる?」と聞かれた。「この子ってばこんな所で何言ってるの?」そう返したのは奉納舞の本番直前、皆が袖に身を潜め、カウントダウンが始まった時だったからだ。
出番が最初のラファエル役であったから、緊張をほぐそうと言ってくれたのか、それとも悪戯だったのか、問う前に幕は開いた。
プリシラも恋していた。ユリの恋したレイルの傍らにいたファーラに。
無理に奉納舞に引き込んだレイルの為に、プリシラが声をかけたファーラは最初、大道具係だった。
部活動をやっているので、レイルより知り合いも多く参加しており、和気あいあいとやっていた。
プリシラは聡明で、何より見た目がよかった。
美しい彼女をちやほやしたり、憧れの眼差しで見つめる男子は絶えない。最初、ファーラもそんな点は変わらないただの一生徒だった。
レイルはファーラのおかげで、精神的ダメージを受けずに稽古に入ることが出来たが、演舞がうまく行くかどうかは別問題だ。
レイルは苦手な剣を振り回した。本人は言われたとおりに動いているつもりだが、ユリの言う事は高等すぎてわからない。仕事の合間に見学していたファーラが金槌片手にレイルを囃す。
「ユリが強く見えるのは良いけど、お前弱すぎだろー」
「センス無さすぎなのよ、どうしてこーかな?」
ユリまでのってきて、囃すのでレイルは嫌そうに目を細めて、
「だから俺は剣は苦手だって」
模擬刀なので本物ほど重くはないが、片手で慣れない物を振り回すのだ。
まだ始めたばかりで、毎日の練習で筋肉が悲鳴を上げていた。
高い場所から後ろ向きに落ちる練習中に打撲したり、耳が聞こえないため、舞台上でどのくらいの声を出していいのかわからず上手く出せなかったりと散々だった。
「貸せよー良く見てろ、ユリナルちょっと来いよ」
「えーそんなミエ切っておいてヘタとかないよね?」
レイルが半ばやけくそに投げた剣を、反転しながら右手で掴み取り、くるくると手首で回すとファーラは左手で綺麗に構えた。
逆手に持った金槌を椅子に置く。
「軽っりーな。ま、レイルよりマシには出来るんじゃね? タテは無視な、知らんから」
「姿だけは様になってるよ」
その後、ユリと剣で舞い始めた。
本当はタテが決まっているが、ユリの動きに合わせて適当な所で剣を躱してやり、ゆるりと受け流す。流れるような動きにプリシラは目を奪われた。
姉妹二人で同じ道場に通っており、口ではたしなみ程度にと言うが、大会では女子部で上位入賞常連者だ。
そのユリがタテ通りに動いているとはいえ、その切っ先が掠める寸前に避ける動きは自然で優雅。
身長差がなければもっと綺麗だろう。戦闘モードではないらしく、あくまでもかっこよく見せる演技的、大ぶりな動きだった。
「ずるーい、私も勝手にやっていーい」
「おお。かかってこいや」
本気になっているユリだったが、その力量差は歴然だった。ファーラはユリをあしらうと、
「こんなもんだろ? ちょっと真似してレイルやってみろよ。ほら、よ」
ファーラが投げて渡すと、レイルの動きが変わった事にも驚いた。
先程のファーラと同じに反転しながら、掴み取り、くるくると手首で回して見せ、綺麗に構えたのだ。
「おいおい、お前は右利きだろう?」
「だって真似しろっていったじゃないか」
「そこは違うだろう?」
「ごちゃごちゃ言ってないで、練習再開しようよ」
ユリに促されて、レイルは迷いながらもそのまま左で、出来るだけ先程のファーラの動きを思い出しながら動く。
彼の剣の辿った軌道、切っ先を振り上げた時の角度。指先の力の入れ具合。目で読み取れた情報を出来るだけ整理して真似てみる。
それだけで彼の頭はパンク寸前になる。
魔法以上に苦手かも知れない、そう思いながらも先程よりマシになった気が自分でもした。が、ファーラの動きには遠く及ばない。
ユリの剣とガッチリ合わせようとしてスカってしまう。そこでプリシラは声をかけた。
「一旦止めて。ねえ、ユリ、レイルのタテ、全部覚えて」
「えーどうしてよ」
「レイルは真似が上手いみたい。覚えたら貴女が何度も舞ってあげて。レイルは今、覚えた舞は忘れなさい、左利きではないからソレでは限界があるわ。貴方は音楽、使えないでしょう? 剣の出すタイミングはお互いカウントとって、覚えた以外は余計な事は考えないの。それからユリ、動きに少しのアドリブもなし。剣の角度を変えたらだめよ、今みたいにスカってしまうから」
「ねえー今の失敗、剣の角度変えた私のせいになってない?」
「ふふふ。頑張ってね。で、そこの大道具君……えっと…失礼だけどお名前何だったかしら?」
「ファーラ……今、女の子?って思っただろう?」
「いえ、も、申し訳ございません、ファーラ。そういう事はけして。でもお名前を覚えてなくてすみません」
「まあ、レイルのオマケだからな、で、何ですかね」
「あ、俺の!」
「勉強料!」
レイルのオレンジジュースを横取りして飲みながら、ファーラは一粒だけ拭い損ねて、零れていた汗を受けつつ答えた。
プリシラは上目遣いで頼んだ。
「勝たなくていいので、生徒会長と手合せしていただけませんか?」
ぶっっとジュースを吹きかけたが、何とか飲み込む。気管に入った酸味のある飲み物は痛い。
ゴホゴホむせる友人を見ながら、
「人のを横取りするからだ」
レイルはイスに腰掛け、面白そうに笑っている。
本人は楽しくしているのだが、紫水晶瞳が輝く様には、悪事を思いついた魔王の冷気を放っている。
「先程の剣捌き、ぜひ私の相手役にお願いしたいの」
「買いかぶり過ぎ! おい、その笑いはやめろ、レイルぅー」
「楽しまないとね」
生徒会長はこの時、ベルゼエル役に決定していた。
ラァークス・ジュリド。
切れ長の琥珀瞳とサラサラの赤髪の少年。その髪は長い三つ編みにして、前髪はアシンメトリーに斜め切りしていた。
線は細く見えるが、筋肉がそこそこあり、鍛えられているのがわかる。いつも笑ったような顔に見えるのは口角が上がり気味のせいだ。
年齢はプリシラより少し上。かつて成績が悪く、低迷していた幼小学校時代を送っていた頃は、全校生徒から厄介者扱いされていた。しかし中級学校に入った所で急激に態度を改め、生徒会長という現在の地位を獲得した変わった経歴の天使である。
彼とプリシラ達は同じ道場に通っており、その腕は幼い頃より確かだ。
だが、戦闘向きで、優雅さに欠けるのと、どうやっても笑って見える温和な表情が、プリシラ的に難点だった。
その上、練習開始早々、調子に乗った子が怪我して為、補充が必要だった。今回の奉納舞総責任は彼女で、細部まできちんとしたモノにするのが役目。
「で、彼の方が適任?」
目にかかった赤髪を揺らして、首を傾げ、元々無いような眼を更に細くした。
「っていうか、ミカエルの率いる兵士の群舞。あれのトップの子が怪我して。代わりの子がちょっと弱いの。貴方は力強いからそこを任せたいの」
「そうですか、いいですよ。代わっても」
「そう、よかった」
「でも一度、彼と手合せさせて下さい」
生徒会長がそう言ってくるとわかっていて、「勝たなくていいからお願い」っと頼み込んでいたのである。
ラァークスは戦闘マニアで、手合せが何より好きなのだった。
今でこそ物腰柔らかく生徒会長を務めているが、好戦的なのは誰もが知る所だ。
ファーラ的には要らぬ騒ぎを起こしたくないし、役なんか欲しくなかったのだが、副生徒会長に頼み込まれては断りを言い出せなかった。
「ラァークス・ジュリドです。一応生徒会長です。」
「ファーラです」
彼は失笑されるのを覚悟で、短めに名乗った。
ラァークスは笑わなかったが、どこか嬉しそうな表情に見える。キャストやスタッフも何事かと集まり、自然と人垣ができる。
「ファーラ、無理はしないでお願いいたしますね」
「ん? ああ」
プリシラの言葉がかけられたが、ファーラに気負った感じはしない。
この後、彼らは剣を合わせる事になるのだが、それはプリシラの脳裏に焼き付いた。
まず牽制にラァークスが放った横一線の攻撃を、ファーラは軽く後ろに体を逸らすだけ避けた。
体制を立て直すこともせず、同じように左手で剣を横一閃させ、ラァークスの返してくる剣を叩く。
その反応の良さにラァークスの細い目がまた糸のように細くなった。
一見がら空きに見えるファーラの胸に一気に飛び込みかけるが、ひらりと左反転し、右足でラァークスの剣を蹴る。本当の戦闘なら手を蹴っている所だが、そこは控える。
「お、やってくれるね」
ラァークスは蹴りを予測していたらしく、逆らわずに後ろに下がって衝撃を受け流し、お返しとばかりに回し蹴りで返す。
ファーラが体制を低く取って、蹴りを避けると、容赦なく彼はそこに剣を突き立てる。
弾かれるように後ろに下がりながら、追撃の剣を受ける。
それからは膠着状態が続く。
片方が深入りしたと思えば、一方が退く。退いたと思えば、詰め寄り、決着がつくかと思えば、きっちりカウンターを返す。
だが場が動いた。衝撃に弱い模擬刀を、完全に折られないよう、ファーラは刀身を滑らせた。が、遅かった。剣がもろく折れた。
そのまま詰め寄るラァークスの剣をさらりと避け、ふわりと飛ぶと、彼の懐に飛び込む。
彼の剣がそれを防ごうとしたが、一瞬ファーラが消える。気付いた時には彼の折れた剣の残りで彼の喉を捕え、剣を持つ右手を軽く制していた。
「おわり、でいい?」
「間合いを詰める為に剣をワザと折りましたね」
「生徒会長さんと手あわせできる機会なんてそうないので、焦って考えただけですよ」
「右腕の可動域がおかしいですが、大丈夫ですか?」
「あ、昔、筋を痛めたので、それでと……思います」
「では、ベルゼエル役、お任せしましたよ」
プリシラはドキドキしていた。ユリが彼女の顔を見て笑っていた。
それからは練習の度に惹かれていった。
通常の明るい無邪気な対応や反応も何だか新鮮に感じた。そして彼と剣を合わせた時に伝わってくる気迫、視線、その華麗な捌きにプリシラはいつもは感じない高揚感を得ていた。
奉納舞が終われば接触する機会はほとんどないと言うのに。
「結局何しに来たんでしょう……私」
ユリの為にも彼らをユリの元へに連れて行こう、きっと最後の一番近しい仲間だったから。
最後の時間を共有した二人を連れて行けば、きっと彼女も喜ぶはず。そう思ったが、残念ながら彼らの姿は見つけられなかった。
探すには時間が掛かりそうだった。
だが彼女にそう時間はなかった。仕方なく早々に報告して帰ろうとした時、先生らしき声が聞こえる。
「早く洗面は終わらせてね」
「はーい」
口をそろえる女子だったが、まだそこは使用者が多かった。
声をかけた先生はそのまま男子用の洗面所に近づく。
「レイルは、ココに居ねーよ」
扉を開けた途端、言い放たれた言葉に先生が目を丸くするのが、プリシラにもわかった。
「それも先生、ここ男子トイレ」
二言目で、中の声が間違いなくファーラだとわかって、嬉しそうにプリシラは走り寄ろうとした。
場所が男子の所なのは少し恥ずかしかったが、きっと声をかければ出て来てくれるだろう。
「ファーラ君、だったかしら?私はまだ居残っている生徒がいないか確認しに来ただけよ」
どこにでも居そうな目立たないベージュ色のローブを身に纏った先生は、プリシラを眺め見ながらそう言い、洗面所に入り込んだ。
「ふーん」
カチャリ……ファーラの声が鍵の音とともに消えた。
前で2人が出て来るのを待つかと考えたが、何故にカギ? っと思いドアノブに触れると、ピリッと痺れる感覚が走った。
静電気ではない、オカシイっと彼女が感じたと同時に背後から声がかかる。
「すまんのう。そこを退いてくれんかの、お嬢さん」
「ここ、鍵がかかっていて……」
「ほう。ちょっと気付くのが遅れたようだの。ファリア、レイル様は?」
「痕跡が消えました。ここにはご友人と排除対象者が1人…」
「場所が場所じゃ。彼を呼んでくれるか?」
「たぶん気付いて来てくれると思いますけど。伝達出します」
老人の後ろにいた金髪金目の少年が、光るガラス板片手に、もう一方にガラスペンを握って答えた。
この時、彼の服装は魔道士が好んで着る薄手のマントに帯刀した姿だったが、髪型はレイルそっくりだったので、プリシラは目を疑った。
彼はガラスペンで空中に絵を描く。その軌跡はキラキラ輝いて蝶の姿になる。まるでシャボンのような薄膜で出来たそれは彼の周りを一回りした。
「行って、呼んで来て」
声とその技はレイルが持ち合わせている物ではなかったので、他人と確定させ、彼女は口を開いた。
「貴方達は魔道士?」
天使界政府が要人警護集団『魔道士』を特別にレイルに対し派遣している事は、奉納舞に彼が参加する事に決まった時、学校から執行部側に報告されている。
だが、殆ど存在を感じなかったので、本当にそんなモノがいた事に驚く。
「ゆっくり自己紹介しとる暇はないんじゃが。お嬢さん、確か生徒会の執行側じゃの。悪いができるだけヒト払いを頼む。危険かもしれん」
「は、はい」
訳のわからぬまま、一番近い女子洗面所に声をかけて引き上げを促す。
控えの間に首を突っ込むと生徒会長が飛び出してくる所だった。
「え、プリシラ! ユリと……」
「ユリ、ダメだったの。それより皆を一時、バスに避難させて。何だかあったみたいなの」
「わかった」
ユリの訃報に驚いた様子だったが、彼も何か感じて動こうとしていたのか、素直にプリシラの指示を聞いて生徒達に声をかける。
その時、先程見たシャボンの蝶を連れた神官とすれ違う。
その神官には見覚えがあった。胸に下がった黒縞瑪瑙の嵌め込まれた十字架がキラリと揺れていた。白い服に映える、透かし十字。
彼らが奉納舞に入る時に移動に使用した地下階段に入り込む為に通った中央祭壇で、赤ちゃんに祝福を授けていた神官だ。
「会長! 後、頼みますね」
プリシラがそう言った時、小さい神殿が思い切り揺れた。
彼女は足が立たないほどの揺れの中、どうやったのか自分でわからないほどすばやく洗面室のある廊下に戻る。揺れはその辺りに来た時には止まった。
見ると、先程まで固く閉じていた扉が開き、その前にはレイルに似た少年と、同じようなマント姿の魔道士が数人見えた。
「何が!」
「入るんじゃない!」
彼が止めたが、プリシラの動きは早かった。
中に入ると目の前がすべて赤く見えた。
白壁に飛び散った大量の血液。床に散らかった、たぶん生き物であった肉の塊。
だが彼女の血の気を引かせたのは、脚からとめどなく血を流し、床に倒れているファーラの姿だった。
先程、蝶に誘われて来た神官は、自分の服を破り、脚の出血を止めている。
「骨は折れてないみたいです。細かい傷は多いですが浅いので大丈夫でしょう。そちらはどうですか?」
「頭を切っておるのう。出血が多いがこちらも浅い。右目も角膜はやられておらん、涙腺が切れたようじゃ。後は力を出し過ぎただけで、大きなケガはなさそうじゃが」
血を浴びた半身を老魔道士長は支え、上肢に出血がないか確認している。余りに血が多く、どれが何の血かわからない程に血まみれだったからだ。
その手がびりびりに割けたTシャツにかかり、破り脱がした時、そこにいた一同が固まった。
背中から腹部、二の腕にも及ぶひどい火傷。
それも何度も何度も繰り返して、皮膚がクレーター状になり、それをまた傷つけた跡。
今、どうしたという傷ではない。その証拠に膿んで治りきらない右脇腹の傷には油紙が当ててあり、服を汚さないようにしていた。
「これは酷いですね」
プリシラを追って入ってきた少年が呟く。プリシラは服が汚れるのも構わず、その背に触れた。
「誰がこんな事を……」
「お嬢さん、見なかった事にしてやりなさい」
「何故!」
「目に見える傷がすべてではないんじゃよ」
「魔道士長、やはりレイル様はココには居ません。警察機構が騒ぎに気付いて動き出したようです」
割り込むように報告が入る。
「本堂にまで連れて行かないと治らない傷かの?」
「いえ、足のそれだけでしたらここでも手当は充分可能です。連れて行けば更に話が複雑化すると思います。憔悴しているので、目を覚ますのはに二~三日後かと」
「副長や。手当をしたら、家に送り届けて監視を。レイル様の居所はこやつしか知るまい」
「この事態、消えたレイル様に容疑がかかるのでは?」
「致し方あるまい。警察機構とは相性が悪いでなあ」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
プリシラはファーラを手当だけして、そのまま家に帰そうとしている事に驚いた。
「これ、絶対、家で、……ですよね?」
「たぶん虐待を受けておるんじゃろう」
事も無げに魔道士長が言い放つ。
「酷い大人とお思いでしょう。さあ、移動させるので、彼の頭にある傷をこれで抑えながらついて来て。しっかり圧迫して」
神官はそう言いながら、布を彼女に渡す。彼の体を血まみれの洗面所から連れ出し、廊下に敷かれたバスタオルまで運んで降ろした。魔道士の一人から救急箱らしきものを受け取りながら、
「この大量の血は天使一人分は難くない量です。紫水晶瞳の子がやったか、彼がやったかはわかりませんが。全てが彼らの血ではないようです。このまま神殿や病院に預けたなら、警察から難癖を付けられた場合、守れないかもしれないのです」
「でも!」
「火傷の回数やその範囲を見れば、彼は今まででも感染症で死んでもおかしくなかったかと。脇腹が膿んではいますが、熱傷の回数が尋常ではない中、手当てを見る限りこれ以上の管理はないでしょう。家に誰か理解者か、けがの手当てをしてくれる者がいるのだと判断します。今ここで警察に嗅ぎまわられるのは、少年も望まないのではないかと思います」
医学の心得があるのだろう。
神官は手際よく彼の足を消毒し、縫合、包帯で覆う。その後、頭に回り、プリシラが圧迫していた患部を診る。
そうしながら近くの魔道士に服を全て切り裂いて、血を拭ってから何か他の服を着せるように指示を出す。
「この件のもみ消しはちょっと時間が掛かりそうですが、どうにかしてみます。服を全部脱がせますから。うら若き乙女の見るものじゃありませんよ」
「彼の事が気になるじゃろうが、ワシらに時間をくれんかのう」
神官と魔道士長に窘められ、後を生徒会長に任せてプリシラはそこを後にするしかなかった。
街に戻り、葬儀が始まっても二人が来なかった事に彼女は後悔した。
だが何とか駆けつけたレイルが現れた時、庇わなければと思ったのは神官と魔道士長から言われた事で、この件で警察に良い印象がなかったからだ。
そしてレイルに引き寄せられるように、ユリの魂が現れた時、自分がした事に間違いはなかったのだと思った。ユリナルは幸せそうに笑っていたから。
そしてレイルにファーラの目覚めを聞き、ホッとした時、本当に彼を愛してしまったのだと気付いた。
だが、現実は彼女には厳しいものだった。
レイルも同じ頃にファーラの実情を知っていたが、お互いの情報を交換する事は出来なかった。
相手が知っているという確証がない以上、それは告げ口になってしまう。ファーラとの信頼を裏切る行為に、お互い出られなかった事。
ファーラがなかなか復帰してこなかった事もあげられる。
また、彼女の立場上、次の学校行事準備もあったし、奉納舞で投げていた期間を取り戻す為の学業専念も課せられ、妹を亡くした痛手を隠しながら、個人的な時間が取れなかった。
レイルが思っていた以上に複雑な気持ちで、プリシラは彼に近寄れなかったのである。
「ファーラが来た日、私ココに彼を呼び出したの」
飛び級テストを終えて、レイルを訪ねてきて泣き出したプリシラと、学校の体育館に来ていた。
奉納舞の練習時は暑くて、蝉の鳴き声がうるさかったのに、もうその音は絶え静かだった。
テスト後すぐに部活動を再開する者は疎らで、誰もプリシラとレイルを気にしなかった。
だが、プリシラがファーラを呼び出した日は、バスケットの試合があっていて、立ち入り禁止になっていた2階フロアで笛の音や歓声を聞きながら、彼と話したのを思い出していた。
その日レイルは午前中に早退? し、ファーラの家に行っていた日の事になる。
「奉納舞の後、彼の背中を見たの。彼に酷い傷があるのよ。知ってる?」
「……ん」
レイルは曖昧に答えた。
彼女はファーラがどれ程酷い状態に居るか知らないだろう。
それを乙女に聞かせるのは絶対に出来なかった。だが臆せず彼女はファーラに理由を聞いたのだろう。見える傷が総てではないと言った魔道士長の忠言を聞かずに。
「彼、レイルに言わないならって、全部話してくれたのよ」
「な、全部って……」
「詳しくは言えないけど。お父さまに虐待されてるってことは間違いないわ」
レイルが彼女に言えないと伏せようとした内容、全部話してしまっているらしい。
伏せているものは彼女も同じという事になる。
気持ち悪いだろう?
と、自嘲気味に笑うファーラの顔を彼女は忘れられなかった。
彼女の気持ちを気付いて、後を追わないように彼は言ったのだ。
望んでされた事ではなく、拒絶が通用せずに痛めつけられた心と体。それでもプリシラが傷つかぬよう優しく彼女を突き放す。
好きだよ、愛してる。
多感な年頃の甘いそんな言葉が通用しない。
思考がそんなモノでは、とてもついていけなかった。
自分がどれだけ恵まれた環境に居て、そこでの物差ししか持たない狭い天使なのか、彼女は悔やんだし、恥じた。
ファーラからは話したからもう忘れてくれと言われ、プリシラはあれから彼に近付けずにいた。たまに隙を見て、彼を眺めて居るだけ。
そして今日、レイルの姿を見つけてたまらなくなって声をかけて来たのだった。
「彼、もう少しで総てを終わらせるって言ったのよ」
「終わらせる?」
レイルは自分が杞憂と思っていた事柄が、再び蘇ってきた事を感じた。
「自殺する気、じゃないかしら? でも私では止められないから」
それはない、っと、レイルは思う。
ファーラは自分がいなくなった時、その刃が兄に向く事を恐れている。
もしプリシラの言ったように自殺するなら、自分だったらその前に何をするだろう?
「殺す? 父さんを殺す?」
「レイル?」
かなり酷いケガをして危篤状態と聞いた時の慌て様は本物だった。
反抗できない血の絆が彼を混乱させていたが、だが落ち着いたら彼はきっと……このまま死んでくれれば良いと思えない彼の優しさが消えたとしたら。
レイルは自分が思った結論が当たってない事を祈りながら、自分の『妖霊』を呼び出す。
冷たくなってきた風に、樹が枯葉を舞わせた。
ご指摘、感想などいただけましたら幸いです。お気に入り登録いただいた方、本当に感謝です。
レイルは間に合うのか、説得できるのかって事で、頑張って続きを書きます。