道を切り開く条件
前々から書き溜めていた物に追加する形で作っていく…つもりでしたが、意外と総書き換えで時間が掛かっています。
それでも引用した場合、氏名、名称等のズレがあります。その辺りと誤字脱字は徐々に直していく予定です。
年齢設定を後日少しいじるかもしれません。
死んだり、血も見ます、今回子供への暴力があります。
苦手な方は申し訳ありません。
今回も主役は影が薄いです。
感想などいただけましたら幸いです。
失われたモノがあるなら、それを補完しようとするのはいけない事か。
取り戻せない過去は消せないが、今からをどう生きるかは自分次第。
レイルは薄暗くなった自分の部屋で目覚めた。
「やられたんだっけ」
触れると耳にはいつもの栓が戻されていた。ヤツに千切られた鎖はもうきちんと繋がれている。
悪意でこれを抜き取られた事を思い出し、レイルはイラッとした。
何事もなかったかのようにいつもの自分の部屋に、いつものベッドで、いつものように、いつものように。
全てがいつものようにソコにある。
いつもある物がいつでもソコにあるのは、誰かの犠牲で成り立っているのだと、改めて思い知る夕暮れ。
窓辺によると、ログハウス風の家が何軒か目に入るが、明かりがあるのは遠くに一軒だけだ。近くの家に明かりは無い。レイルが生まれたと同時に引越したのだ。
明かりのある家の逆側に、枯れた二股の桜の木がある。
その向こうにも柵が壊れた同じように暗い家があるのをレイルは知っていた。水色のペンキで塗られた扉の、一見空き家に見えるその家は魔道士が詰所として使っている。
力が欲しい。
今までそう思ったことはなかった。出来れば力は要らなかった。
でも友を守る為に強い力が欲しいと願う。
だが現実は追いつかない。
異様な家族に囲まれた友人を救うどころか、自分の身を守る力も持っていない。
例えばユリの命を奪った玉封じという魔法。あれはどうやったら防げるのだろうと思う。
イライラさせてくれたが、ヤツはそのヒントをくれた。
成人になったら貰える身分証、それに込められた魔法を弾く力。ちょうど自分が持っている懐中時計にもそれと同じ力があるとそう言った。
ならば自分に出来て、やってみる事はただ一つ。
そして。彼は閉じ籠った。
レイルが絶対に誰も入らない様に言って、自分の部屋に籠って何日が過ぎたろう。
籠ったと言ってもトイレに行く時に母親に引きとめられる。が、紫の瞳で拒否するだけで、ほぼ口をきかなかった。
まるで夢遊病者の様にフラフラと部屋に戻る。
たまに父親が趣味の為に使っている部屋に入り込んで、紙などをかっぱらって行く。
食事も摂らず、台所から取って持ち込んだボトルに入った水だけ口にする程度になった。
父親が帰って来て、扉の前で説得を試みるが、何せレイルには完全防音できる耳栓がある。聞こえる事はなかった。
鍵付の部屋では無いが、何処で調達してきたのか、魔法系の鍵を使っており扉を壊さなければ入れない。出入る瞬間を狙ってみようとしたが、明らかに牽制した一瞥で母は断念した。
「鍵は簡単な術式だから、私が壊してもいいのだが」
父のマハイルは家の隣に建てている小さなプレハブを掃除しながら言った。
ここは彼専用の工房、趣味の彫金の為に建てたもので、随分きしんでいるが、作業場としては汚しても平気で使えてとても便利だ。
趣味でやっている割に腕がよく、今は店に並べてもらえるほどだった。
この頃は護符の類を専門に作っている。現在本職は上級学校の教授、天使遺伝子学では名が通っているのだが、辞めてこちらを本職にしたいと思っているのは妻には内緒だ。
そしてレイルが使っている鍵は彼の工房から持ち出した物と言うのも秘密だ。ロクな事に使うつもりがなかったでしょうなどと妻に問い詰められたら、太刀打ちできる男は少ない。
いや、断じてそんなつもりで所持していたわけではなかったが。
「とにかく中に入れればどうにかなるのじゃないかい?」
「壊すだけなら斧でも何でも持ってきてやってるわよ」
彼の妻であり、母であるメアリは不味そうにコーヒーを飲みながら、彼の言葉に首を振った。
少し親としては不穏な物言いに、彼女の苛立ちをマハイルは見る。物静かだった彼女も強くなった。
女らしくなくなった訳ではない。校内一・二を争う美人だった彼女の美しさは損なわれていない。
ただそれ以上に、母親らしくなったのだ。親としてはしなくてはいけない変化なのだろう。
特に変わった毛色の子を育てるには。
「なら、どうしたらいいかな?」
「わからないから早く帰って来てもらったんじゃないのっ」
レイルの金髪が父譲りなのが一目で分かる。
黄土色にも見える黄金の、同じ色をしている。顔立ちも似ているが、父の方が更に彫りが深く、瞳の色は金がかかった青だった。両親は金天使だが、色々な事があって義理の母に精霊を持ち、腹違いの弟がいる。
メアリは淡い青髪の天使だ。薄水色をした透き通った羽根の生えた翼を持つ。肌は透き通るように白く、青グレーの瞳をした純血の青天使。貴族と言われる流れの生まれである。
「今まで鍵なんてかけた事なかったのよ」
そう言いながらレイルの為に出来るだけ起きている様に、濃すぎて不味いだけのコーヒーを一気に飲み干した。気疲れからか、疲労の色が滲み出ている。
「きっと何かあったと思うの。学校に行きたくないのかもしれないわ。もう少し様子を見ても良いけど、何も食べないのが心配なの。ジュースやスポーツ飲料は嫌がるから、お水に塩はまぜてたらさすがに「水に塩はやめてくれ」って怒られたけど。籠ってから喋ったのなんてそれくらいのものよ」
「それは……怒るだろう」
「だから今は別においているわよ。それにいつも物音がするから、ずっと寝ていないみたい」
「そうだね。いっその事、出てきた時に耳の栓を抜いて寝せてしまうかい?」
メアリは更に大きく首を振った。
「冗談はやめて。わかっているでしょう? また触られるのも近寄られるのも嫌なんて、昔の状況に戻ったら目も当てられないわ」
レイルが小さな頃。
余り他人と接触することはなかったが、たまに育児サークルとやらに参加せねばならない事があった。その時、レイルは必ず恐れられた。
天使界の子供なら必ず読む絵本の中で語られる、紫水晶瞳の魔王がそこにいるのだから。
だが何かのはずみで、大声で歌を歌うと、完全防音出来なかった前の耳栓では卒倒する事を知られてしまった。栓を外したら、その効果はテキメンだった。
こうなると子供達は執拗に彼を追いかけた。
口々に悪口が飛び交う中、追いかけゴッコの延長上にあるイジメにあう。
彼は助けてと言わずに耳を塞いで逃げ回り、メアリが気付く頃には気を失って倒れているか、汚れながらどこかの隙間に逃げ込んでいた。
その頃は他人に栓を抜かれるのを極端に恐れて、誰かが近づくのも嫌がった。
「学校に行き出して、奉納舞とか、練習だとか、帰りにみんなと食べてくるとか言って、とっても楽しそうにしていたの。終わった頃からかしら? 最初は仲間になった子が亡くなったって、魔道士長から聞いたから、それのせいと思っていたけど。そう言えばレイル、ファーラ君って子とは気が合ってるみたいなのよ」
「緑目の、確か男の子だったかな」
「ええ、ファーラ……って女の子っぽい名前だけど。結構しっかりした男前の子よ。入学日が同じだったの。年は少し上らしいけど」
「昔、ファーラって名の女優がいて、その頃、女の子にファーラって付ける流行ったから、そのイメージが強いんだろうな。私の生まれる随分前の話だが、確か義理母が好きな映画に出てたよ」
「義理母様が?そうなの? 貴方は彼に会った事がなかったわね」
マハイルの勤める、上級学校は専門性が強く、行く行かないは本人の自由に任される。
就職については門戸が広く、徒弟制度が広がっている為、行かない選択の者も多い。
だが社会に触れるのとまた違った勉強が出来るので、人気はある。
通常、短期扱いの二年~長期六年過程としているが、六年で卒業できる者は希で、普通で八年かかる。幼少学校などで飛び級していてもだいたいここで消化されてしまう計算だ。
それ程の難関なので補講が増える事はあっても、授業が潰れる事などまずはない。
その為、子供が遊びにくるような時間に家にいる事は少ない。今日はレイルの様子が心配で、数日前から出してやっと取れた午後休みに帰宅していた。
メアリはレイルに出来た友人ファーラを思い出しながら、彼に話した。
「良い子よ。だいたいレイルがお友達を家に連れてきたのだけでも、びっくりだったのに。遊んでいた時、彼が悪戯半分に栓を抜いたりするのに、あのレイルが笑って返してるのなんて、初めて見たわ。本っ当に驚いたんだから。レイルったらいい顔で笑うのよ、あの子が」
生まれて初めて心を許した友人に母には見えた。
そろそろ自分の元を旅立って、友達や大切な天使を見つける時期には来ている。寂しさも感じるが、息子の成長を嬉しく思っていた。
その矢先の籠城に、メアリは戸惑っていた。
「彼、ご両親は? 何も言ってこないかい?」
「瞳の事で? ええ、余り彼に手をかけられないのではないかしら。彼のお母さんはもう亡くなられたそう。お父さんは傭兵のお仕事されているようよ、余りお家に戻らないって言っていたわ。優しいお兄さんがいるみたいで、一人ではないので寂しくないって言ってたけど……」
この兄と父親に問題があるのだが、レイルも気づかなかったように、彼女も気付いていない。
明るくハキハキしたファーラの態度は、メアリには好印象だった。
そう二人で話している時、呼び鈴が鳴る。
まだ夕方ではあるが、魔道士以外でグリーン家にお客が来る事は、ただ1人を除いて稀なので、2人はビクッとして振り返った。
「今日は魔道士さん達の来る予定はないはずだけど」
怪訝な表情でコーヒーカップを置くと、母屋に戻るメアリ。
不審者なら魔道士達が呼び鈴など押させるはずがないので、残ったマハイルは、レイルがこの部屋から盗って行った物を調べる。
「山買いしていたクロッキー帳がほとんどないのと、木炭紙とケント系の紙もないな……後はペンに木炭とねり消し、製図道具一式、ルーペ、本もか。何か描いてるって感じなのだが」
無くなった物を上げてそう考えていると、メアリと男の子の声がした。
「噂をすれば影ね……良いから上がって。この辺は湿気が多いから、靴は脱いでお願いね」
「いやいやいや、いいです。こないだ借りていた容器返したかったのと、レイルの事が気になって来てみただけです。会えたらいいなって思っていたけど、今日は急ぐので帰ります。父さんが帰って来るんで。俺も学校、行けないかも」
「あら、そうなの? たぶんレイルもねーーー暫くは籠って出てこないのよ。ゴメンナサイね。丁度トイレにでも出てくればいいのだけど。喜ぶと思うわ。来たことは言っておくから。あ、でもちょっと待って。パウンドケーキ焼いたのよ。持って帰って食べて。待っててよ、そうかからないで包んでくるからーーーー」
「あ、ちょ、レイルの母さん待って……」
勢い込んで台所に駆け込んでいくのを止められず、玄関に取り残されたファーラをマハイルは見つけた。
「ファーラ君だね」
「れ、レイルの父さん! こ、こんにちわ、初めまして」
ペコッと頭を下げる。
「マハイル・グリーンだよ。レイルと仲がいいんだってね。仲良くしてくれてありがとう」
ファーラはその顔を見てレイルによく似てるなと思った。
マハイルの方が濃いが、たぶんレイルが大人になったら、こんな顔になるのだろうと見当が付くぐらい似ている。
レイルから護符作りを父親がしている事を聞いていたので、槌とか揮っている筋骨隆々の男性を想像していたのだが。
整ったレイルの顔立ちをそのままに大人にして、細身の体に、濃いグレーのスーツを着こなしている。腰には余り長くない、細身の剣を吊り下げていた。
優しそうな微笑に、落ち着いた声。手には似つかわしくない箒があるのが残念だったが、イメージとはだいぶ違っていた。
「綺麗な緑玉瞳だね。北の街出身かな?」
「は、母がそうだったらしいです。で。レイル、大丈夫なんですか?」
「聞いただろうけど、部屋で籠城中なんだ。何、大した事は無いよ。何か描いてるっぽいんだが」
「ああ。レイル、絵は上手いですよね。細かすぎて、何かわからない時も多いけど。あれなら魔法練り上げるのも簡単そうなのに……」
「その方面はからきしダメみたいなんだよ。勉強については自主的に成績下げてるみたいなんだが」
「やっぱりそうなんだ。あいつ頭いい、っていうか、あれは記憶しすぎ。整理しきれてないんじゃないかな?」
「整理?」
「そうそう。一つ聞いたら、何か閃いたって感じで。でもまとめきれずに投げるって言うか……」
そこまでファーラが言った時、メアリが包みを抱えて戻ってきた。
「お父さんも帰ってくるのでしょう? ケーキと。シチューも保温容器に入ってるから。それでも冷えたら温めて、良かったらお兄さんと三人で食べて。少し重いけど男の子だから大丈夫よね?」
「またこんなに沢山、いいんですか? 兄がすごくおいしそうに食べるんです。でも今回は容器、返しに来れないかもだけど」
「容器なんて気にしなくていい。メアリは大量に作るからどうせ余るんだよ、持って行きなさい」
メアリはちらっとマハイルを睨んでから、笑う。
彼女の態度には気付かず、マハイルの言葉にファーラはありがたく頭を下げた。
「いつもありがとうございます。で、レイル、来週には来られそうですか?」
「来週?」
「飛び級試験があるんです」
「ああ、そうなのね。でもうちは急がせないつもりだからどうかしら? レイルに言っておくわ。ファーラ君は受けるの?」
「いや。わからないです……受けるなら頑張ってって伝えて下さい」
「あら? そんなに長く休むの?」
メアリの質問に歯切れ悪そうに、複雑な顔をしたのを見て、マハイルは首を傾げた。
「お家、どうかした? かな?」
「いえ、そんな事は……じゃあ、レイルによろしくって言っておいて。さようなら」
ファーラの緑がかった黒髪を見送りながら、マハイルは目を細めた。
「どうしたのマハイル?」
彼からの返事はない。
「ねえ…………」
メアリはため息をついた。考え始めた彼からの返事がないのはいつもの事だ。
彼女がマハイルと知り合ったのは上級学校だった。
立場は先生と生徒。おっとりと育ったメアリだったので、教師と恋愛する事になるとは思っていなかったが。
その頃、若い教授だったので、女生徒から人気のあった彼だが、話しかけても反応しない事があるのは、有名だった。たまに授業を中断してしまう事もあるくらいで、未だにその癖は治っていない。
鈍、鈍いのだろう、いつもはそう思ってやり過ごす事にしているが、今日はやっと取れた休みなのだ。話を聞いて欲しかった。
「ねえ!」
目の前で両手をぱちんとさせると、マハイルはやっと気が付いて、
「ああ、ごめん。ファーラ君に今度会ったら、何か相談に乗れる事があったらおいでと伝えておいてくれるかい?」
「相談? わかったわ」
「今日の所はレイルなんだが……さてどうしたモノかね」
メアリに話を振る。
マハイルが鍵を壊そうと言ってもダメ、眠らせてしまえばと言ってもダメ、多分、何を言ってもダメなのだ。こういう時の判断は育児当事者の張本人に決めさせるしかない。
だがいい案が思いつかないのだろう。
「それを決める為に休んでもらったんだから、貴方も考えてよ!」
やはり何を言っても怒られる。
男が育児に関わり辛いのは天使界でも同じである。
「兄さん、レイルの母さんの料理好きだよな」
ファーラはまだ冷えていなかったシチューのおかわりを、兄の皿に注ぎ分ける。
食の細い兄にしては残さず食べて、二杯目まで食べるのは珍しい事だ。
こないだ貰ってきた山菜の甘辛い煮物や粉ふきいもなんかも美味しそうに食べていた。
埃の溜まった部屋だが、テーブルには洗ったばかりのテーブルクロスを引いて、何とか食べる空間に仕立てていた。
「アリエルも早く食べなさい。二日しかいないけど、その間、いつ、食べれるかもわからないから」
「う、うん」
柔らかく煮込んである鶏肉は舌の上でほろほろと崩れていくが、味はしっかり残っていて野菜の旨みと相まって、喉に落ちていく。にんじんも柔らかく、甘い。
美しい緑色を残したブロッコリーの適度な茹で加減に目を奪われつつ、歯を立てると、緑の味が白いスープと相まって優しく体を温める。
父が帰ってくると聞く度に、身の毛がよだつ思いがした。彼が帰ってくる前の慌ただしい食事に「これが最後の晩餐になるかもしれない」といつも思う。
死の恐怖が付きまとい、それよりも辛い乱れた行為の要求に全身が苦しくなる。
いっそ殺してくれたらいいのにと常に思う。
でも自分がいなくなれば、きっと暴力の刃は兄に向くだろう。
死ぬまで外に出さないと言っていた父親を説得して、学校に行かせてくれた兄に報いたい。
「食べられない? 大丈夫かい」
「いや。美味しいよ」
父が帰ってくる日は、何を食べてもいつも味がしない。どうせ吐くのだからどうでもいいやと思うけれど、でも兄を心配させるわけにはいかない。
今日はその日であるのに、珍しく夕食の味がちゃんと味覚に伝わって美味しかった。
兄が喜んで食べてくれるのが、彼を和ませているのかもしれない。
今度、兄の為にレイルの母さんの所に料理を習いに行こうかとふと考える。
しかし「今度」は来ない、最後の晩餐に、本当に今日で終わりにするのだ。そうファーラは心に決めていた。
缶詰にされていた屋敷から出て、初めて出来た友に会えなかったのが、心残りだったけれど。
今日こそ自分の父を手にかける、そうしたら自分もココには居られない。
眉をしかめた所を見咎め、彼の兄は枯れた様にしわがれた手に持ったスプーンをゆっくり置いて、
「アリエル、辛いなら逃げて良いんだよ」
「え?」
「学校に行き出したのだから、寄宿舎に入るといい。そうすれば父さんに会わずに済むよ」
「でも」
「私はこの体だから外には出られない。アリエルだけでも元気にしてくれていれば、私は幸せだよ」
「そう言う兄さんの方が心配だよ。俺は大丈夫だから」
兄にそう言われるとますます置いてなど行けない。
だからこそ言ってるなどファーラには思いもつかない。
声も出さずに兄のこけた頬に一粒の涙が伝う。
醜いからと兄は顔を見せてくれる事は無い。他のヒトより、早く年を取ってしまう病気にかかっていると、父から聞かされていた。
ファーラが物心つく前にはもう顔を隠してしまっていて、覚えていない。でも母がいないこの家で、父の陰に怯えながらも二人で手を携えて生きてきた。彼的には。
散らかった家。
片付ける事はいくらでも子供の手で出来たが、そんな事をすれば父の怒りを買う。
食べ物が少ないので、ゴキブリのような虫は出ないが、ホコリや床に散らかったゴミ、窓を汚した泥を拭い去る事は出来ない。
薄暗いのに電気を付けないのは、目が弱い兄を気遣っての事と、光熱費が増えると父が怒るかもと思うからだ。
幸いこの屋敷は空気循環が効率的に行われる作りなので、夏も冬も空気の温度は一定していて、夏の熱中症や冬の凍えは死ぬほどではない。レイルが空気が綺麗に思ったのはこの為だ。
しかしもう少しで来る冬の寒波は、兄の体を痛めつける。どんなに遅くともそれまでに決着を付けたかった。
「楽しそうだな、おい、可愛い息子ども」
突然、金髪に無精ヒゲのいかにも強そうな男が音もなく現れた。
強そう、ではない。
実際に強いのだ。
ファーラの父、アディはその昔軍人で、その剣の腕は英雄と呼ばれるほどの功績をたてていた。……らしい。
今は所属も定かではない傭兵部隊で働いている。
いつも身に纏っている鎧は脱いで、風呂に先に入っていたようだ。
汗の臭いはせず、うっすらと石鹸の香りすら漂っていた。ランニングにゆったりとしたズボンと言う姿である。
引き締まった筋肉は今でも変わらぬ力が彼にある事を示していた。
「おかえりなさい、父さん」
「お、おかえりなさい、食事はどうする?」
今の所は機嫌が良いらしいのにファーラは安堵した。
この調子なら二日ぐらいやり過ごせるかもしれない。
今日立てていた計画は先延ばしにしても良い、などと都合よく思う。いざと言う時になって、決心が揺らぐ。
アディがうむ、と、頷いたのを見て、シチューとパンを差し出す。兄はすっと綺麗に磨いたスプーンを並べた。
「今回はいずこへ赴かれたのですか?」
「中枢都市の先にある、氷の都に行ってきた。もうあの辺りは冬で……」
兄に聞き方が子供らしくないのはさて置いて、今日は父の口数が多い。
ファーラは出来る限り口を挟まず、大人しく聞いていた。話をするのは兄と父。人見知りの兄も、至らないことは言わない。
話を振る事はあっても、差しさわりない範囲で留めて調子を合わせて頷くだけだ。
しかし父が食べ終わった所を見計らい、パウンドケーキを出した所から、風向きが変わった。
「父さん、食べないの?」
「誰から貰った?」
ファーラはしまったと感じた。兄の方も手を止め、持っていたグラスを静かに置いた。
「と、友達のお母さんが作ってくれたんだ。シチューもだよ」
いつだったか街で試食をしたパンがおいしかったので、買って帰った。
どこで買ったか聞かれた時に何気なく「試食して街で買った」といいかけたのを、試食、の辺りで問答無用に蹴倒され、乞食なんかするなと暴力を振るわれた事がある。
「そうか、…………お礼は言ったか?」
「う、うん、父さん」
ただ今回は彼らの考え過ぎだった。彼は普通の口調で、普通の事を口にしただけ。
しかし焦ったファーラは、近くに置いていた保温容器を、腕に引っ掛けて床にぶちまけてしまった。
まだ中に入っていたシチューが床に広がり、中に入れていたお玉が、カラララン…と、軽い金属音を立てて、アディの足元に転げた。
その時、ファーラの怯えた緑玉瞳が、彼の視界に入ってしまった。
「…………早く片付けるんだ」
「ご、ごめんなさい!」
容器とお玉を拾い、シンクに投げ込む。
近くの布を手に取って、しゃがんでかき集めようとした時、重い物がファーラの頭にのし掛かった。
「喰え!」
床は埃まみれだ。
フウと息をすれば咳込みそうなほど。
あれ程美味しかった食べ物が、完全に汚物になっているのに。
ファーラは頭を靴のままの足で踏みつけられ、強制的に床と汚物に接吻を強いられた。
「お前が貰ってきたんだろう? 責任もって喰え」
「う、う、ごめんなさ、い」
今まで食べた物が逆流しそうになるのを堪えながら、犬のようにぺちゃペちゃと床を嘗める。
その姿を蔑むように眺めながら、ケーキに合わせて入れるつもりだったお茶用のケトルを掴んだ。
そして何の躊躇いもなく熱湯をファーラに背中へ注ぎかけた。余りの熱さに仰け反りながら、這う様にその場から離れる。
「誰がやめて良いと言った?」
もう、それからはめちゃくちゃだった。
腹を蹴られ、胃の中は限界を迎えてその場を汚す。
頭が衝撃で揺れて、自分が立ってるのだか、床に転げているのだか、どうしているのかわからなくなる。腹をかばうと背中や頭に負荷をかけられる。
背中の皮が剥けたのか全身焦がされたような、居ても立っても居られない痛みに耐えた。そうしていると髪を掴んで立たされ、蹴倒される。
テーブルの上に乗せたケーキが飛び散った。
ファーラは痛みの中で薄目を開けた。
今日で終わりにするのだ。
そう考えていた事を思い出す。
そして服に隠したナイフを確認した時、兄が逃げ切れずに入り口で震えながら座りつくしているのが見えた。
隠した長剣はココにはない、とにかく移動しなければと思った。
「ごめ、んなさい、ごめんなさい、と、父さん」
ファーラはそう言いながら芋虫のように転げて、何とか間合いを取る。
痛みをこらえながら、立ち上がって、兄がいる入口とは逆の出入り口に歩を向けた。回らない頭で必死に考える。
このままでは巻き添えてしまう、父の蹴りを喰らったら、病気で弱った兄の細い骨など一撃で粉砕されるだろう。
ファーラは出来るだけ食事していた部屋から離れるように努めた。
だが彼の腕が掴まれる。次に襟首を捕まえられたが、体を捩ったら薄手の濡れた服はやすやすと破けた。
そのまま地下に引っ張られると思ったが、そこから地下室が遠かったせいか、近くの部屋に放り込まれた。
あの地下室に入った瞬間を狙っていた彼には当てが外れた。必要のなくなったゴミ袋のように、何の容赦もなく叩きつけられる。
そこはピアノの置いてある部屋だった。
ファーラはこのピアノが普通に鳴るのを聞いた事がない。気付いた時には埃まみれの、過去の遺物だった。
でもここに座っていたのは、きっと見た事もない母ではなかったかと思う。
彼を産み落として、程無く亡くなった天使。
写真の一枚も残っていないのは、父がすべて焼却してしまったから。亡き母の面影すら記憶にないファーラには想像するしかないのだ。
玄関を入ると、煌めくシャンデリアが訪問者を迎える。
ずらりと並んで出迎えるメイドに荷物を預けると、ピアノの音に誘われて赤い絨毯を踏みながら、長い廊下を進む。
ピカピカに磨かれたドアノブに、手をかけると、笑い声に迎えられる。
「アーサー、こちらにいらっしゃい」
使われなくなった名を呼ばれ、招かれる。
彼女の近くには、自分を振り返る白服の子供がいて、にっこり笑う。
顔に何を被っているわけではないのに、背後の窓から入る暖かな光がまぶし過ぎて、二人の顔がいつも見えない。
見えないよ…
ガツンっとピアノのイスで頭を打ち、現実に引き戻される。
記憶が飛びかけるのを堪え、今の状況を思い出し立ち上がる。触れた鍵盤が、ポロンと悲しい音を奏でる。
そこでファーラは背後から取り押さえられ、調弦もされていないまま放置されたピアノとイスに体を押し付けられた。
「お前の目が悪いんだ。お前が、お前……ルイーザ……」
「ごめんなさい、許して!」
右手をピアノ椅子の背もたれに割けた衣服で縛られ、身動きを制限されると、もう計画も何もどうしようもなかった。
泣いても喚いても助けは来ない。それでも力の限り、同じ様な詫びの単語を叫ぶ事しかできなかった。
逆の手をグーに結び、むちゃくちゃに鍵盤を叩くと、調子の外れた音が部屋中に響く。
何度も何度も自分に向けられる痛みを堪えようと、叫びながら叩き続けると、爪が割れて白鍵に鮮血が飛んだ。
痛みをこらえて、どのくらい経っただろう。
辺りは暗かった。汚れた窓から差し込むのは、細い細い銀色の月明り。
余りの辛さに意識が飛んでいたようだった。
もう白鍵や散らばった楽譜に飛んだ血は乾いていた。近くに倒れていた大きな塊が動く。
「と、父さん?」
「ああ」
口と左手を使って縛られた腕を開放すると、足で自分が支えられずにファーラは床へ崩れ落ちた。
長い時間縛られていた右手は感覚がなく冷たい。
壊死してるのでは無いかと思うほど色が変わっていたが、どうにか動いてくれた。腕も肋骨も折れていないようだ。
「どうしたんだ?」
そして投げかけられた台詞。
いつもこの瞬間にファーラは混乱するのだ、父が自分のやった事を覚えていないのに。
「明日は稽古を付けてやろう。夜にはもう出なければならないから」
そう自分勝手な事を言って、自室に戻ってしまう。
どんなに血を流していても、苦しんでいても、彼はファーラを見ていない。
血走った目、微かに残るその気配。
今までもこんな風で、何かの病気かと思っていた。
父は興奮し拳を振り上げる時、彼の頭の中ではここに居るのは子供のファーラではなく、亡くなった自分の妻に変換されている時もあるようだった。
どうしてだろう、何故だろう?
いつか元に戻るかもと思うと、ファーラは剣を父に突き立てられなかった。
ファーラには祖母が教えた攻撃魔法の呪文の類と、父が機嫌のいい時に仕込んでくれた剣技がある。
いくら英雄と呼ばれた男であろうと、一太刀くらいは浴びせられよう。
事に及んでいる時なら、その背に手を回して完全に息の音を止める事も出来よう。
どうしてもなら球封じを使って、父を狩る事も考えている。
「今度こそ」
脱がされた衣服に隠していたナイフを握りしめる。
長剣は地下の部屋に隠している、この部屋より天井が低いので、父が対抗して長剣を振り回すには難しいはずだ。
今まで押しとどめていた殺意を解き放とうと思ったのは、レイルを狙いユリを狩ってしまったあの女に対峙した事からだった。
祖母に聞かされた魔法や知識はファーラにとってはおとぎ話だった。
中でも声を潜めて教えてくれた天使の体に「玉」が眠り、それを狩る呪文を教わったのが印象的だった。
試しに唱えさせられた球封じの呪文が反応し、球が編み上げられるのを見た時、祖母は驚いたのか残念だったのか、込み入った表情をした。
すぐに家系的に資質はあるのだろうねとため息をつく。
そして何年も何年も前に、自分の息子に言い聞かせた言葉を繰り返す。
「いいかい? これは禁忌なのだよ。狩った者には必ず災いが降りかかる」
「きんき?」
「してはいけない事、なんだよ。でもその力を持つのなら、その責任を負わなければならない。それが天使としてのルールだから」
ファーラはこくんと頷いた。その愛らしい表情を見ながら、
「「玉」を狩った者には魔化が起きる。まずは頭痛や体の不調が始終起こり、白昼でも悪夢に襲われるようになるんだよ。更に狩り続け、魔化が進むと天使の姿を取れなくなり、記憶もなくし、ただ同族を殺して回る魔となり果てるのさ」
「魔になった者はすぐわかる?」
「そいつは難しいね。でも居ても居なくてもわからない、そんな存在があやしいってぐらいだよ。まだ天使の姿を取っている魔はね。本性を見せると姿が変わる者もいるし、姿は変わらないけど狂暴になって見境なくなる者もいる。どういう場合でも、気配が天使のそれではなくなる。お前なら対峙すればわかるだろうよ」
「じゃあ、魔にならない為には?」
「狩らない事。それだけだよ。守るのはそれだけでいい」
綺麗な緑玉瞳がこれから晒されるであろう苦しみから、祖母は解放できない事を悔いた。
何度占っても見えるのは息子に返り討ちに会う自分の姿。
引き離しても、何らかの条件がそろってやはりおぞましい事態が彼には待っている。彼を救えるのは金と銀の二人が現れた時だけ。
「何が起きても望みは捨てるんじゃあない、私の名を継ぎし子よ。もし「今日」と思った日が外れたら、後少しだけ待ってみるといい。道が開けるかもしれないから」
そう言って頭をなでると、手を振り払って、ファーラはハッキリと言った。
「もし誰かが困っていて、どうしても狩らないといけないなら俺は狩るよ。自分の大切な誰かが狩られたらやり返す。そんな時に使わないなら何の為の力かわからないよ」
「禁忌と言ったろう? 真っ直ぐな子だね、お前は」
真っ直ぐな子だから巻き込まれて行く、損な性分をした孫を見やり、
「そうさね。もし狩りたいなら狩ればいい」
「え?」
「自分が魔となり果てても、決して後悔しない理由があるならば。迷わず狩るがいい」
祖母の瞳は綺麗な青だった。
どんな「玉」を抱えて生きていたか、もう知る術はない。彼女はファーラの額にかかった髪を触りながら、
「私はそろそろ、ここを去る。お前の父を連れて行けず、本当にすまなく思うよ。ファーラにはリュリアーネを分けよう。火にまかれたら彼女を頼って是が非でも逃げるんだ、いいね、後ろを振り返ってはいけないよ。私に言えるのはこれだけだよ。おやすみ。最後にお兄ちゃんを呼んで来てくれるかい?」
自分が魔となり果てても、決して後悔しない理由があるならば。迷わず狩るがいい。
レイルを狙ってユリを手にかけたあの女。
ファーラは狩るべきだと思った。親友を傷つけたその事が許せなかった。
同じ方法で死に送り、彼女の「玉」を奪い返したかった。だから球を編み上げ、本性を現した女と対峙した。
その時、ファーラを狙って心臓を抉ろうと本気で牙を剥いた女の気配は、祖母が言ったように天使の気配ではなかった。
初めて感じるはずの魔の気配。
しかしそれは狂ったようにファーラの暴力を振るっている時の父親と、全く同じ気配だった。
父があの瞬間に魔化している事に気づき、その動揺が球封じのコントロールと初動を狂わせる。
その隙をぬって女が足に喰いつき、バランスを崩したのもあり、制御を失い巨大化した球は狩る事なく、ただただ女の体を粉砕した。
赤く染まった洗面所で、美しく輝くユリの水晶を見つけ握りしめた所で、使い慣れない力の行使をしたファーラの記憶は、四日間途切れる事になった。
「大丈夫かい?アリエル」
「ごめんなさい、出来なかった」
父が自室にこもったのに気づいてか、何処からともなく現れた兄をみたら、緑玉瞳に自然と涙が溜まった。
魔と化した父。
ならば父は誰の「玉」を奪ったか?
自分が魔となり果てても、決して後悔しない理由が父にはあったのだろうか?
もし「今日」と思った日が外れたら、後少しだけ待ってみるといい。道が開けるかもしれないから。
そんな祖母の言葉が蘇る。後少し待てという事だろうか。
「待てないよ、ばあちゃん。もう十分待った。兄さん、俺、父さんを殺そうと思っていたんだ。でも今日はダメだった。次こそ必ず……」
ファーラの言葉に、彼の覚悟を感じた兄は静かに、
「アリエル、辛いだろうが。もう少しだけ待とう。望みは捨てちゃダメだよ」
もっともらしい事を言って、泣き崩れる弟の焼き爛れた背中を見た。
本当はそれを見ても、彼には何の感慨も湧かないのだ。
我ながら壊れているのだと彼は思う。
白鍵に散った血を見ながら、かつてここで優しく鳴り響いていた母が弾いた曲を思ったが、それがもう何だったか思い出せない。
「アリエルもう少しだけ我慢して」
そう、もう少しで望みがかなう。猫目が完成すれば、きっとあの曲が思い出せるはずだ。きっと。
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09/13誤字脱字訂正