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浄化の炎が燃える日に

前々から書き溜めていた物に追加する形で作っていくので、名称等のズレがあります。その辺りと誤字脱字は徐々に直していく予定です。死んだり、血も見ます、さらっと危ないシーンあります。苦手な方は申し訳ありません。感想などいただけましたら幸いです。

 

 楽器なら八音、歌なら十秒。

 規則的な音なら30秒。

 

 

 

 

 魔王の色を持って生まれた稀有な子を抱きかかえて、レイルの母メアリは我が子をこよなく愛した。

 胎児の時から、お腹に話しかけをして大切に育んだ我が子。瞳の色など関係はなかった。

 母乳は出が良く、それを赤ちゃんが飲むのだからと、自分の食事に気を配った。人一倍話しかけを増やし、目も見えないかと思われる時期から絵本を読んで、いろんな言語で語りかけた。

 

 

 ちなみに天使界はほぼ単一言語である。

 文字は天使文字、魔術文字、アルファベットが使われる。

 結界を同じくする精霊界や人間界の言葉も必須となるため、トライリンガル位が普通である。

 そこまで努力せずとも普通は身に付くが、他者との関わりが薄くなるだろうからと彼女は心配した。

 子供には音楽が良いと聞いて、時間を見ては音楽を傍に置いた。 

 

 

 こんなだったから彼の異変に気付いたのも母親だった。

 

 

 歌を口にするとグズる事がなく、すやすやと寝てしまう育てやすい子。

 世の中の母親からすると泣きぐずって1時間、いや10分とて黙ってくれない我が子に手を焼く時期。

 そんな時期に長い眠りについてくれる子は本当に育てやすい。

 しかし眠っている時間が余りに長く、彼女は夫に言ったが最初は良い子ではないかと相手にしてもらえなかった。

 だが乳もほとんど飲ず寝ている為、次第に体重が増えないどころか急激に下降して、やっと取り合ってもらえた。張ってくるのに飲んでくれないので、絞って調節してもそれがまた刺激になり、乳腺炎になりかけ、メアリ自体が熱を出してしまう事態にもなった。

 悪循環の中、眠り続けるレイルを可愛がり、彼が寝てしまうタイミングが歌やかけた音楽だと彼女は気づく。

 病院に行っても原因は不明だったが、彼が音楽と感じたものを聞くと眠ってしまうという事はわかった。

 

 

 秒針の音ですら、それを彼が「音楽」と認識し、聞き入れば眠れる。

 

 

 メアリは自分の体調に気を配り、慎重に場所を選びつつ、言語を教える事を欠かさなかった。

 人間の子供より知能の発達が早い故に、時期を逃すと一生身に付かないので必死で教えた。

 しかし天使は生まれて1年が過ぎた頃から言語を混ぜながらも片言を喋るようになるのに、レイルは全く言葉、いや音すら口にしなかった。それでもメアリは眠りと教育、愛情のバランスを取りながら、全てを捧げていた。

 父マハイルも子育てには積極的だったが、上級学校の教授職は忙しく、日中は子一人親一人。

 外に遊びに連れて行くことはあったが、余り友達は作ってやれなかった。

 その瞳の色に嫌悪感を露骨に示され、はじかれるのを止める事は出来ない。何かがあるかもしれない子供に、わざわざ自分の子を近付けたい親など居ようはずがない。母親であるが故にその気持ちがわかるメアリは無理も言えなかった。

 

 

 もともと町外れにある家だったが、レイルが生まれたのと同時に回り数軒が引っ越した。

 自主的に引っ越したものもいるし、立ち退かされたという話もあった。

 買い物は天使界にもちゃんとあるネットで注文すれば事足りたが、配送は警護役の魔道士を通してだった。もともと人との接点が低くなりがちになる育児中の母親に、全てが孤独の影を落とす。

 

 

「私、何やってるのかしら?」

 

 

 1年と半位した頃、凧の張りつめた糸が切れたようにぽつんとメアリが呟いた。

 

 

 後ろを振り返ると黄金色の髪が見事な、美しい人形のような子供が、無言でブロックを組み立てていた。

 レイルは笑わない子だった。

 だからと言って泣きもしない、無感動を通り越して虚無。

 彼が風邪をひいたり具合が悪かったりしても、あんなに気をつかっている傍の母に気づかせないほど無反応。専門の病院に行って精神系の疾患がないか調べてもらったが、医者に満足いく説明はもらえなかった。

 紫水晶の瞳は暗い沼の底を映しているように思えた。

 

 

 この子がもし魔王の生まれ変わりなら、どうしたらいいだろう?

 

 

 誰かを殺めるような子にならないように必死で育ててきたが、結果はどうだろう。

 子供なのに笑いもしない我が子に当惑していた。もし紫水晶瞳(アメジストアイズ)の子が生まれてくるとわかっていれば、子を生しただろうか? 

 音楽の中に漬けて閉じ込めておけば、彼はいずれ衰弱する。

 何も口にしなくても苦しむ様子を見た事はメアリはない。ああやって眠ってそのまま逝ってくれるなら、誰にも迷惑をかけないのではないのだろうか?

 レイルの耳を塞ぐ栓に、振るえる指をメアリはそっとかけた。

 彼は母の顔を見上げ、何事かを口にした。

「え?」

「…………おうた、うたってくれるの?」

 レイルは呟いた。

「ぼくは、ずっとねむっているよ。かあさんが、うたってくれるなら」

 

 

 ずっとねむっていればよかったのだ……あの時に。

 

 

 

 

 

 

 魔道士長がとっさの判断でレイルが取り乱さぬよう、プリシラの歌声を耳に入れ、寝入らせたおかげでレイルは比較的落ち着いた気分で目が覚める。

 そこは着替えをした小さな神殿だった。

 ざわざわとした気配にレイルは気付いた。

 耳を塞ぐ栓は耳に戻されている。完全防音のままだったので、簡単な防音程度までツマミを緩めた。

「お、レイル、起きたか、顔色悪いぞ」

 いつもの表情をしたファーラ。

 すっかりメイクは落とし、私服のジーパンにTシャツを着ていた。だが、

「ユリナルは?」

 と、擦れがちになる声でレイルが聞いた途端、顔色が曇った。回りも一瞬動きを止めた気がしたのは気のせいではなかった。

 

 

 夢ではなかったんだ。

 

 

「ユリが落ちたのは知ってるのか……俺、見てないけど、奈落に落ちたらしいな。心臓発作か何かじゃないかって、先生達は言ってた。プリシラは病院に行った」

 そんな訳がない、心臓発作で口から血が出るなんてない。

 そう叫びかけたが、現在生徒達にもたらされている情報はそれで間違いないようだった。

 台本の流れでベルゼエル(ファーラ)サタン(レイル)より先に倒されている。

 奉納舞にカーテンコールなどはなく、出演の終わった生徒は控えに戻るようになっていたので見てないというのは辻褄が合う。

「運が悪かったよね。ユリちゃん、すぐ回復すればいいけど」

「運悪いってレイルもだよな、耳のが外れて気を失うとか」

「頑張ったよ、キャストの中で小さい2人に災難って神様も意地悪だ」

「タイミングよかったよ、怖くて飛び降りれないって泣き出すんじゃないなんて言ってたけど」

「プリシラのアドリブにはビックリしたが、さすが副会長だ」

「これでユリが無事、回復したら打ち上げだなー」

 レイルは無言で衣装の鎧を脱ぎながら、皆の口から洩れる言葉を何とか拾った。

 

 

 彼は避けないと決めた数瞬で、ほぼタイミングよく落ちたが、落下と共に耳の栓が取れて意識を失った事になっているのだと判断した。

 ユリは何らかの事故(・・・・・・)で奈落に落ちてしまったが、劇の方はミカエルが身を挺して天使界を守ったと言う筋書きに咄嗟にプリシラが変更。

 ミカエルが凱旋に神へ奏上したとされる笛をユリが吹くはずだったが、プリシラが琴の演奏に変え、叙事詩を読み上げる形で劇はそれなりに納まり、成功で終了していた。

 

 

 

 レイルが記憶する限り、魔道士に助けられた経験は皆無だった。

 

 

 彼は自分に、そしてユリナルの身に何が起こったのか、事実を確認したかったが、魔道士長はどこにも見当たらない。

 セレフィード、または彼の部下はどこかにいるはずだが、その存在をレイルが感じるのは挨拶に出て来た時だけ。

 劇が始まる時にちらっと現れた、あの時のように。

 緊急に呼び出さねばならない時の合図はあるが、使った事はないし、魔道士長自体が説明に現れない以上、そんな理由で呼び出せない。

 

 

 助けられた?

 

 

 そしてその考えに至った時、レイルは血の気が引いた。

 

 

 ユリが受けた「何か」は自分が受けるはずだった物。

 それを受けていたらどうなっていたかなど考える余地はない。

 でも気がおかしくなって、泣いて叫んで走り出さないのは、魂のないユリの体を抱いた記憶こそが、嘘であると思いたいからだった。

 悪戯に口付を交わして行った、愛くるしい彼女が奪われなければいけない理由は思いつかない。

 

 

 淡々と服を脱いでいると、衣装を身に着ける時に手伝ってくれた先輩が大丈夫? だとか、上手だったよだとか言いながら衣装を回収し、爪に塗っていたマニュキアに、除光液を含ませたティッシュの湿布を施し、綺麗にしてくれた。

「メイクはどうする?」

「どっち使う?」 

 ファーラはレイルに洗顔料かクレンジングオイルが良いか聞いた。

「そうだよな、こんなもん、使ったことないよな」

「私やってあげようか?」

「さっきやったから俺わかる。ちょっと洗面所に行くぞ。もう空いてるだろ」



 レイルの反応が薄く、使い方に困ったと思ったらしいファーラは、彼の手を引いて洗面所に行った。

 確かに化粧など縁のない男子にこんなものの使い方はわからない。

「さっき教えてもらったんだけど、この油っこい奴は水なしでメイクになじませて、これで拭いて落とすんだと。これで一度やって見た目は落ちたけど、なんかスッキリしないから、こっちの石鹸泡立てて2度は洗った方が良いぞ。何かカピカピするけど…」

 ファーラも少し前に聞いて、メイクを落としたようだ。

 女子トイレや洗面所はまだ列があった。

 男子の洗面所も先程まで人が溢れていたようだが、だいたいの男子キャストは使い終わった後で、人影はなかった。だが洗面所は乱雑な感じで、水がまだ飛び散ったままで乾いていない。

 レイルはドロリとした液体(オイル)を指に付けて、顔をあげた。

 

 

 彼は鏡に映った顔に憎悪する。

 

 

 大丈夫? と先程聞かれた理由がわかった。



 顔色が悪いのと魔方陣が描かれているからか、いつもよりやけに大きく見える紫の双眸。

 カツラは外して黒髪でないが、故に派手な黄金色は、顔に穿たれた穴のように深い紫水晶瞳を更に暗く暗く見せた。

 指に付いた液体が何故か真紅に見え、糸のように落ちるさまに、レイルは一気に気分が悪くなった。

「だ、大丈夫か! レイル」

 近くのトイレに駆け込むと、彼は何かわからない汚物を吐き出した。昼も食べていなかったから、殆ど体液だったようで、酸の効果で喉に激痛が走り、更に吐き気が止まらなくなり、咳が彼を苦しめた。

 ファーラはレイルの体を支えつつ、右手で背中をさすってやった。

「俺のセイなんだ。たぶん、嫌、絶対に……」

「何言ってるんだ、意味わからん、ぞ?」

「俺が殺した」

 は? っと言いたげなファーラの顔が見られなかった。

 事実を知れば友人は去って行くだろう。去って行ってくれた方が良い、傍にいればきっと彼も傷つく。ユリの虚空を見つめた金色の瞳がチラついた。

 

 

「たぶん俺が紫水晶瞳だから。俺を殺そうとして、誤ってユリナルを……」

 言いかけた瞬間、ファーラはレイルの口を塞ぎ、足で踏んでトイレの汚物を流すと、さっき使っていた洗面所の蛇口下に、黄金色の頭を右手で無理やり突っ込み、口から離した手で蛇口を捻った。

 いきなりの動きと体格差によって、レイルはされるがままに体を持って行かれる。

 勢いよく水が彼の押さえられた頭に降り注ぎ、溜まった水に呼吸を遮られ、大量の水を飲んだ。余りの苦しさにレイルは抵抗し、振り回した腕はファーラの顔をグーのまま裏拳で殴った。

 

 

 だが彼は力を緩めようとせず、ぐいぐいとレイルを押し込んだ。

 

 

 あれ? 押し込むって…オカシイだろ!

 

 

 彼が頭を突っ込まれた洗面所は、大きさもない、たかだか10センチの深さしかない洗い場だ。

 台所のシンク程の深さもない。

 しかしレイルの顔は底に激突することなく、だが体は既に地面に足もつかず、既に背中ぐらいまで水の中にあった。そしてそう考えているうちに、足を抱え上げられ、全身が水の中に放り込まれた。

 逆さまに、だと思うが、突然の事に天地の位置も不明だ。苦しさにあえぎながら、目を開ける。

 

 

 と、鼻が触れ合うほどの距離に、青白い魚の鱗色の肌をした女の顔があった。色は人外の物で、まばたきしない目の比率が異常なまでに大きかったが、綺麗だと思える顔立ちだった。

 彼女はレイルの顔を両手で包み、そっと口付けをする。驚きのあまりレイルは目を見開く。彼女は全く表情を変えず、唇で口を完全に塞ぐと、レイルの唇や歯を舌で優しく嘗めて敵意がない事を示し、開けるように促す。

 すると彼の胃や肺に入った水が吸い上げられ、代わりに酸素が胸に入り込んで、苦しさを取り除いてくれた。

「抵抗しないでね。放り投げるよ」

 はっきりと声が聞こえた。耳の栓は外れていないし、水の中だから声なんて出せるものか彼にはわからない。でも彼女に足がなく魚の尻尾である事を見た時、人魚という存在を認知し、ならば自分にはできなくても彼女なら言葉を発することが出来るのかと思った。

 

 

 抵抗する気はない、水の中で彼女に放り出されたら死んでしまう。

 深さのない洗面所でおぼれ死ぬなんて、ニュースにされたら情けない。吐き気は水を飲んだことで治まっていたが、鼻に水が入ってシビレて呼吸が出しにくい。

「あらあ……意外と敏いのね。てか、通じてる? ……ああ、居たのね」

 どうやらレイルの考えた事は伝わり、彼女もレイルに通じた事に少しだけ驚いてる。だが彼女はすぐ納得して、驚きの色は消えた。

 

 

 辺りは薄明るい、どこまでも温暖な水の青が広がる世界だった。

 

 

 通常、水の中で力を抜いて任せると、肺の空気が残っていれば、浮き輪になって上に浮いて行く。

 だが、現在、体は一定の場所を漂っており、上にも下にも流れて行く感じはない。

 だいたい上がどっちかわからないが、自分と彼女の今の頭向きが上とすれば、そこには遥か上に青グレーの天井があった。

 足元には水しかなく底は見えない。天井は僅かに透明感があり、氷に閉ざされたその下にある海を彷彿とさせた。

 氷様の天井には、魚釣り用の穴のような丸い亀裂がいくつかあり、そのいずれかから自分が落とされたのだろうと予測する。

 だがそこに向けて水面を上がって行って、元の場所に戻れる穴かは自信がなかった。

「ヤマ感じゃ戻れないわよ、それに彼が閉じるわ」

 彼女の方が身を寄せて、頬のメイクを触った。

「こんなの剥がした方が良いわ、可愛らしさが台無し」

 青魚色の手がザラリと触れると、かなり洗わないとすっきりしないとファーラが言ったメイクが、いとも簡単に落ちた。心の中でお礼を言うと、彼女が笑ったように感じる。

 だが基本、彼女の表情は読めなかった。レイルは彼女に唇を預けて酸素をいただきつつ、何が起こったのか考える。

「そうね、あの穴に意識を集中して。暫くはアーサーの声、貴方にも聞こえるわよ」

 言われるがままに注意を向けると、ファーラの声が鮮明に聞こえてきた。

 

 

 

『レイルは、ココに居ねーよ』

 

 

 

 

 

「レイルは、ココに居ねーよ」

 扉を開けた途端、言い放たれた言葉に彼女は目を丸くした。

「それも先生、ここ男子トイレ」

 ファーラはレイルを押し込んだ洗面台の蛇口を閉め、レイルに抵抗されて殴られた頬をさすりながら、後ろに振り返る。あのはずみで自分の犬歯で口腔を切ってしまい、血の味がする不味さに顔を顰める。

「ファーラ君、だったかしら?私はまだ居残っている生徒がいないか確認しに来ただけよ」

「ふーん」

 どこにでも居そうな小柄な、目立たないベージュ色のローブを身に纏った彼女は後ろ手に扉を閉め、鍵をかけた。

 淡い茶髪に、印象の薄い榛色の瞳。

 化粧すれば化けるかも知れないが、全体的に居ても居なくてもわからない存在の薄さ。彼女はすっと彼に詰め寄った。その動きは気配がなく、風に凪ぐ柳の枝。

紫水晶瞳(アメジストアイズ)の隣にいたら目立たないけど、素敵な緑玉瞳(エメラルドアイズ)だわ」

「アレに比べたら、だいたいがゴミみたいな「玉」(ジュエル)に見えるんじゃないか?」

 間合い3メートル、彼の「(ジュエル)」という言葉に、彼女の足は止まった。

「あら? 詳しいのかしら。もしかして同業者?」

「紫を狩りに来たのか?」

「ええ、けど失敗だったわ。最後にもう一度と思って来たけど…………紫でなくてもいいわ、貴方はそれなりになりそうだもの」

 ファーラの言葉に彼女は思い当たる節がある上、隠す気はもうないらしい。

 標的を彼に変えた事をはっきりと明言した。彼はその言葉を受けて、一言、

「居ても居なくてもわからない奴こそアヤシイって、ばあちゃんが言ってたな」

 

 

 彼女はその台詞を聞いて、急にけたたましく笑い出した。

 

 

 口が大きく広がり、印象の薄かったはずの顔が豹変する。髪の毛が逆立ち、爪が奇怪に伸びる。

「そのばあちゃんは教えてくれなかったのかい?そんなモノを見たら逃げろって」

 形相の変わった女の伸びた爪の先から、糸が紡ぎだされる。

 一瞬で掌に乗せられるサイズの球になり、至近距離でファーラに投げつけた。

 身じろぎ一つしない彼を見て、我が本性を見て身が竦んで動けなくなったのだと女は思った。

 球は的確に可哀想な少年に当たって、砕け、その息の根を止めるはずだった。

 

 

 今までそうして奪ってきた者達がそうであったように。

 

 

 しかしファーラはたかだか10センチほど右に動いただけで、球は彼に掠る気配もなく、後ろにある壁に当たってキラキラと割れた。

 その輝きを目にしていたら、レイルはユリの命を奪った物だと断言しただろう。

 ファーラの神がかった動きに、何故だと言う驚愕の表情を張り付けた。しかし女はとりなおしたように笑い、

「球封じなんかより、生きたままえぐり出す方が私は楽しいからね」

「悪趣味な先生だ」

「そんな口がいつまで吐けるかい」

 一方のファーラは安心した。

 彼女が投げた球がどうやら大量生産できない、また巨大ではなかった事を。

 この狭い中、そんな物を投げられたら、いくら自分でも避けきれない。どんなに鋭くとも単発で同等の大きさなら対処できる。

 レイルまで庇いながらは無理だが。預けておいてよかったと思いつつ、もう女の好きにさせる気はなかった。

「ああ、そうだな」

 彼は手を突き出すと、虚空に大きく円を描く。

 女は一瞬ファーラの反撃に備えて、間を広げたが、バカにした顔で一笑にふした。

「古典的だね、網で動きを封じようっていうの?そんな魔方陣できる前に……」

 そう言いかけた女が慌てふためいた。

 緑玉瞳(エメラルドアイズ)が輝きを増し、先程女が作った球と同じような物をそこに構成する。

 ただ女の爪から出た細い糸は白だったが、ファーラの全身からはじき出される糸はその瞳の色を映した緑色。

 そして小さくはなく、ちょうどファーラが宙に描いた円の大きさに紡がれて、巨大になっていくそれの輝きは、女の動きを絡め取る。

 何故、動けないか女には理解できなかった。

「お前、もしかしてユリを狩ったのか?」

 もうファーラの口調は穏やかではなく、しかし大きくも荒れているわけでもなく、嵐が起きる前の一瞬の静けさを湛えていた。

 レイルは気付いたが、女は気付きもせず、逃げる事も忘れ、ただ彼の吐き出す緑色が辺りを満たすのに酔ったように釘付けになったまま、

「ユリ……ああ、あのミカエル役の……後ろ向きだったから絶対外さないつもりだったのに……たったあんな小さなモノを手に入れる為に来たんじゃないんだよ……」

 彼女は息を吐き捨て、吸い込むと目をカッと開いて、彼の呪縛から解き放たれようともがいて、彼に飛びかかる。

 

 

「こんなに力あるなら、さぞお前の「玉」(ジュエル)」は美しかろう!」

 

 

 

 

 

『こんなに力あるなら、さぞお前の「玉」(ジュエル)」は美しかろう!』

 その言葉を最後に、声が途切れる。

 ファーラの言葉はあくまで他人には冷静に聞こえただろうが、レイルには徐々に怒りに満ち溢れて行く彼の声音に寒さと奇異を覚えた。

 情景は見えないがファーラにも迫った危険と、ユリの命を攫って行った者がすぐ近くにいる事が、レイルの心を囃し、是が非でもその場でそいつを捕まえたいと彼は思った。

 だが、現実はフヨフヨ水の中を漂うだけで、何もできない。

「賢明な判断よ。天使の子。アーサーは大丈夫よ」

 先程から聞いていると、彼女はファーラをアーサーと呼んでいるようだ。

 伸ばす音がついているだけで、あだ名や愛称というには、一体どこから取ってつけた名前だかレイルにはわからなかった。

 それについて言及する疑問を胸に浮かべかけた時、天井の穴から一本の手が伸びる。天井よりかなり下を漂っているつもりだったが、いつの間にか上の方に来ていたようだ。

 彼女はそれが誰かわかった様子で、レイルの手を取って、その腕に引き渡すと、彼は一気に引き上げられた。

 

 

 

 

 

「一本釣りーーーーーー!」

 ふざけた一言で、レイルは水面に勢いよく引き上げられた。

 声の持ち主はファーラに間違いないが、見た目も場所も変わっていた。

 彼が纏っていたのは私服のジーパンにTシャツだったはずだが、今は黒のスエットに、場所は神殿ではなく、森の中にある泉だった。

 それよりも何よりも、ファーラは引き上げた手も、足も、服から出た所は包帯が巻かれ、目も右目から頭までグルグルで、変わった鶏のトサカみたいな髪型になっていた。ボロボロにやられたと言う言葉がぴったりだ。

 ふざけた台詞と姿だったが、ファーラの左目は真剣で、笑っていない。

「済まないレイル、あれから四日が経ってるんだ!」

「へ?」

「私の世界とココとでは時間の流れが違うのよ」

 水から目が見えるだけ頭を出して、今までレイルの呼吸を守ってくれた彼女は彼に教えた。

 ファーラは彼女に、

「助かったよ、リュリアーネ。この御礼は必ず」

「見返りなんか期待していないし。私は私の主に尽くすだけ。さあ、紫水晶の子、おいきなさい。敏い子は好きよ。風の子にもよろしくね」

 彼女は笑ってその姿をタプンと翻し、尻尾で水面を打った後、水の中に姿を隠した。レイルを岸に完全に引き上げ、ファーラは彼に詰め寄る。

「もっと早く目が覚めればよかったんだけど。時間がないんだ、青瓦の教会、わかるよな?」

「あ、ああ、ここは?」

「俺のうちの近く…南の森にある泉だ。俺、今まで意識が飛んでて……すまん、今日、一時頃、彼女の遺体が焼かれるって電話で聞いたんだ」

 ファーラの言い方を変えれば、葬儀が今日執り行われるという事なのだろうが、焼かれるという事に重視したその言葉に余り良い感じはしない。

 それに本当に亡くなったのだという事が彼を落胆させた。

 だが彼の思いに察する暇はないらしく、ファーラはその手に握っていた小さな塊をレイルに握らせた。

「これは「ユリ」だ」

「はい?」

「細かい説明は後だ。けどこれをユリの体に返さないといけない」

 

 

 小さな塊は水晶だった。

 

 

 小さいけれど綺麗で透明な、ユリの淡い金瞳を思わせる優しい輝き。

「俺の足も翼も今、使い物にならないんだ、間に合わない。とにかく彼女の体が焼かれる前に、これを渡すんだ。彼女が魂の輪(サークルオブリング)に戻れなくなる前に」

「……大切な事なんだな」

「ああ。何としても焼かれる前に、頼む」

 ファーラが座っているのは足でまともに立てないからだと、放置している松葉杖でレイルは気付く。

 絞り出した力でここにやって来てくれたのだ。

 彼にいつもの覇気はなく、枯れ果てた老人の様に消耗しきっている感じがした。

 それでも彼の左目には強い光が宿っている。

 日差しの高さからして、時間はお昼すぎているとレイルは判断した。急がなければならない。

「町はコッチだよな。じゃあ! 渡したらファーラの家に行くから!」

「それは……」

 彼は来ないでくれと言う旨を言ったが、レイルは返事も聞かずもう走り出していた。

 

 

 何らかの説明を求めるのはしてもいいと思った。

 ファーラの回復は足以外はそう時間はかかるまいが、それでも1日や2日で学校に戻ってこれる感じではない。彼の具合も、経緯も、あの水の世界は何なのか、そして手に渡された水晶をユリに返すとはどういう事なのか、全てが気になった。

 最後の部分に関しては今からやってみればわかる事だ、1時までに辿りついて彼女に水晶を握らせてみればいい。

 そういえばファーラと知り合って半年、レイルの家に来ることはあったが、彼の家には行った事がなかった。

 母は早くに他界し、兄と父がいるという。

 可愛がってくれた祖母は少し前に亡くなり、父親は仕事で家には殆ど居らず、ほぼ兄と二人暮らしだと聞く。

 優しい兄だが、体が弱く、人見知りで家から出る事はないらしい。

 

 

 とりあえずレイルは走り出した。

 

 

 森から出ないと樹が邪魔で飛行する事も出来ない。濡れた黒のチュニックは気持ち悪かったが、この服装なら教会に入る事には支障がない。

 薄い生地は程なく乾きそうだが、まだ夏の暑さを残した日差しで背中は汗が瞬く間に零れ、額を流れる。

 森が切れる直前、少し遠くの木陰に長衣に薄いマントを羽織った老人が、ゆっくりと頭を下げる姿を見て取る。魔道士長セレフィードだ。

 四日間、彼らは消えたレイルを探して居たと思われる。

 安堵の気配が遠くからでも分かった。

 老人はすぐに姿を消した。説明しろと詰め寄りたいが、今、その暇はない。

 レイルは空を見上げ、耳の栓は慎重に完全防音とした。飛んでる途中に音楽を耳にしたら、墜落して死んでしまう。

 

 

 空には風が少ない。

 

 

 実は飛ぶのが超が付くほど苦手なレイルだった。

 通常、天使は背中にちょうど自分の腕を伸ばした長さぐらい、つまり両左右で身長ぐらいの翼を有する。形はツバメの様な細長の形や雀の様な楕円の様な形など様々だ。

 だが人間に翼を付けても内蔵が重く飛べないと同じように、天使も翼を羽ばたかせても揚力は殆ど得られない。

 つまりはただのお飾りで、空を駆る為の補助的役割しかない。

 しかしその形や大きさが、空を飛ぶ力をどれだけ有してるかに繋がる。ツバメの様な翼なら早く飛び旋回に優れ、雀の様な翼であれば短距離、藪などを飛ぶのに適している。

 実はレイルの場合、金色の羽が背中にちょこちょこ生えている程度なのだ。幅も長さも何もない、もはや翼というよりただの羽だ。

 だが全く飛べないわけではない。

 風があれば。風に乗るのは得意だ。

「カデン、カデンツァ!」

「はいなぁ、レイルさまぁ」

 レイルの呼びかけに答える者がいた。

 その存在は空気を凝縮し、突然形を取る。

 大きさにして20センチ弱の人形(ヒトガタ)が、彼の肩に腰かけた。幼い頃からレイルに憑く風霊カデンツァだ。

 

 

 『妖霊』(スピリット)

 

 

 どの世界にも存在し、水や風、木や土に宿る魂の事。

 血肉を持たず初めは意思もないのだが、中に長い年月を経て意識を持つ者が存在する。

 ちなみにこういう者を精霊と呼ぶ世界もあるが、彼らを友に生きる民族を『精霊』(エレメンタラー)と呼ぶので、ここでは分ける為に『妖霊』(スピリット)と呼ぶ。

 

 

 『妖霊』(スピリット)は霊王と呼ばれる大きな意思に統率されるが、気に入った天使生き物について回る霊を守護霊(ガーディ)と呼ぶ。

 カデンツァは風に宿るレイルの守護霊(ガーディ)

 

 

「さっきまで水の子とチューしてたでしょ。その前には天使の子ともしてた!」

 彼女はご立腹だった。

 小さなほっぺをプウと膨らませ、水色とも白とも取れる、輝く髪を揺らして抗議した。

 

 この時、ファーラがリュリアーネと呼んだ水中生物が妖霊の類ではないかと思い当たる。そうでなくとも彼女が「風の子」と呼んだのはカデンツァの事に間違いない。

「急いで行きたいんだ、頼む。風がなくて俺には飛べない」

「えーーーーあのチューしてた天使の子の所だよね?やだー」

 レイルが飛ぶには彼女の助けが必要だ。

 だが彼女が手伝わなければいけない言われはない。気が向かなければ彼の言う事は聞かない。

 さま付で読んでいるのは彼女の趣味であって、けして主従関係を示すモノではなく、守護霊(ガーディ)が傍にいて手伝ってくれるのは好意なのだ。

 しかし機嫌を取るために言い訳するのも、何かしてやるのもレイルは違う気がした。

「わかった。出て来てくれてありがとう」

 その言葉で肩に座った人形(ヒトガタ)はレイルの髪で所在無げに遊ぶのをやめた。

 ちょっと考えてから、飛び下りる。

 フワリとレイルの頬を、彼女の背から生えた蜻蛉に似た透ける薄い羽が叩いた。そして澱みなく空を滑空するエアクラフトを思わせる動きで、一線に跳び…………消える。

 途端に少しだけ風が吹き出した。

 

 姿は見えない。

 

 しかし脳に直接働きかけて声だけ聞こえる。

「出てきただけでお礼言われちゃ、やるしかないでしょ。もう!でも期待に添えず悪いけど、この時季は私の支配下でないから、継続的にはこの程度しか吹かせられないよ。でも、これ、サ-ビス!」

 風が一瞬渦巻き、彼を空中に押し上げた。レイルは慌てながらも風を読み、揚力を働かせる。

「充分! カデンツァ、本当に感謝!」

 パッとレイルの紫の瞳が喜びで輝く。

「そんな顔して見せるから、ついつい手伝っちゃう」などとの給うのが小さくレイルには聞こえた。

 

 

 だがそれに構っている事は出来なかった。

 ヘタしたら地面にたたきつけれれる勢いに体を安定させ、風を掴んで渡るイメージを心に焼き付け飛ぶ。風に乗るのは得意だが、基本は苦手な飛行術、妖霊の助けはあろうと集中しなければ真っ逆さまに落ちる事になる。

 

 

 

 

 

 このレイルの生まれ育った街イクスアルペイは、赤い瓦屋根が延々と連なるベッドタウンだ。

 瓦と言っても木造建築ではなく、土と石、そして煉瓦が基本の街並みである。町の中心に学校や役場、他諸々の公共機関を備え、主要機関には巡回バス、地下に地下鉄が走っている。その為、個人で車を所有している者は少ない。近くの農村からの馬車の方が多い位だ。

 レイルの住むのは中心から北東にある赤い屋根瓦の家が切れ、ログ系の家が多くなる町外れの家、ファーラの家があるのは殆ど正反対の南の森になる。

 南の森から教会は、町の中心辺りにあるレイルの通う学校を見ながら、西寄りにある。

 少し高い建物なので、レイルの家から学校に通う時、必ずその十字を掲げた建物を見る事が出来た。

 

 

 教会と神殿の違いは、神を祭るという事では同じである。違いは教会はこの天使界を作った、唯一神を崇めるが、神殿の方は複数の神や自然の法則も崇める。

 

 

「生」にはたくさんの神に祝福を求める為、子供が生まれたら神殿に参るが、「死」を迎える時は一番大きな元に帰るという考え方から教会を使う事が多い。

 これは基本であって、生前の関わり方からどちらかに偏っていたり、逆であったりする事もあるので一概には言えないのであるが。

 この町の教会はクリーム色の壁と、街で唯一青の瓦が使われ、たくさんの花が配置された可愛らしい印象のある建物である。

 妻子持ちの神父で、よく花に水やりする10歳くらいの女の子がいるのを記憶している。

 

 

「そろそろ降りなきゃか。いや、もっと西寄りに旋回するか」

 神殿都市と違い、揚力や移動力を完全に自身の回りのみで制御出来る者に、この街では飛行規制がない。

 しかし風を操って飛び回るタイプのレイルが街の中心を通るのは、飛行規制に引っかかる。

 みんなが一か所で集中的に自然を操れば混乱が生じてしまう。

 警察機構に取り締まられたら、小一時間説教喰らい、時間には間に合わない。

 直線の方が早いに決まっているが、だいぶ飛行者が多い圏内に入ってきたので、迂回を余儀なくされる。それでも歩くより遥かに早い。

 地下鉄駅を見ながら迂回する。地下にステーションがある為、地上部分は小さめな赤い瓦の建物。

 時間帯的に疎らではあったが、天使達はおおむねその建物に吸い込まれるか、反対に出て来る。

 その傍の巨大な建物で、広いグランドと憩いの森が目立つのがレイルの通う街と同じ名前が付いた複合学校、通称東校だ。

 昼休みの時間帯で、生徒が思い思い休んでるのを視界に収めながら、僅かに見えた青い瓦の建物に向かう。

「もう、すぐだ」

 

 

 その時真下に、渋い緑の服を着た男の天使二人が、上空にいるレイルを見上げているのを確認した。

 

 

 渋い緑のベレー帽、警察機構の天使(ひと)だ。無線連絡する彼らの口が、遠くてもレイルには読めた。

「同学年の少年への暴行、および窃盗容疑のかかった少年をみつけた」

「今から職質をかける」

「抵抗するなら魔法捕捉許可済み……」

 一番最初の言葉には覚えがないが、整理さえすれば充分過ぎる情報。

 

 

 ファーラがあの洗面所でユリに危害を加えた何者かと対峙していたのは、間違いない。

 その際に負った傷で彼は四日間、レイルを放置したまま眠っていた。

 対峙していた何者かはどうなったかわからないが、レイルの行方は知らないからこそファーラと戦った。女がレイルの良いように言い繕ってくれるわけはない。

 先生とファーラが呼んでいたし、その立場を利用すれば忽然と消えた生徒に罪をなすりつけるのは簡単な事。

 レイルはファーラから水晶を預かっている。

 これが窃盗したモノと見られれば立場は最悪だ。小一時間問い詰められるくらいでは済まない。

 ファーラもそんな事になっているとは思いもしないで、レイルに用事を言いつけたのだ。

 彼が意識を取り戻しているから、照会さえしてもらえば全ての容疑はすぐに晴れる。

 

 

 だが、太陽の位置はその余裕を残していない事を告げていた。

 

 

「頼む、カデンツァ。頼れるのはお前しかいない」

「やだ」

 いつの間にか肩に戻っていたカデンツァが姿を現したが、返事はそっけない。

「そっか」

 熟れきった葡萄の粒を思わせる艶やかな紫水晶(アメジスト)の瞳。

 何を考えてるか他人に掴ませない表情の少なさ故に、ぱっと開いた花火のように時折煌めく彼の笑顔は美しい。母親の努力もさることながら、学校に行くようになって、更に表情が緩むようになった。

 それもあの緑の瞳をした少年と仲良くなり、金の巻き毛をした姉妹と過ごすようになってから、目に見えて明るくなった。

 年も取らず流れゆく妖霊にとって、天使に憑くのはただの気まぐれ。それでも傍にいてやりたいと思うのは、彼女らの情が深く、そうしてやる事に意義を感じるからだ。

「あの緑目の子も巻き毛姉妹も好きなんだね、レイルさま」

「ん?ああ」

「わかった、高くつくからね。どっちにする?」

「ど、どっちって?」

「あの警察を叩き落とす? それとも加速?」

 カデンツァが出してきた選択肢の叩き落とすかというのにレイルは苦笑した。

「加速は欲しいけど。落下遊びだよ。場所は教会の中庭。受け止めてくれ」

「うん。でも高度とって。これは低すぎだわ」

「わかった!」

 学校に通って居なかった頃、一人で出歩けるようになると、遊び相手は彼女である事が多かった。

 レイルは彼女の風に吹かれて良く限界まで体を上空まで打ち上げたり、そこから落下させたりと遊んだ。

 

 

 そんなものがここで生きるとは思わなかったが。

 

 

 その頃を思い出したのかカデンツァは笑った。

 この時季は支配下にないからと言っていたのに、彼女はそれを忘れたかのように力を貸した。

 

 

 レイルは警察を振り切るようにグンと高度を取る。

 妖霊に守られた体は軽装で呼吸も保ったまま、高度1万ちょっとまで耐えうる。

 だいたい飛行機の航空する高さだ。

 今回は時間もないのでそこまでの高さを取るつもりはないが、風を味方に付けた速さと対応能力は、苦手な飛行も並みの天使には負けない。

 ただ相手も警察だ、ちんたらやって来るわけではなかった。逃亡を図りだしたのに気付き、追ってくる。

 遠目に見えていた青い瓦の建物がそろそろ見えてきた。

「もう少し右、そう。そんな所」

「いいか?」

「うん、任せて」

 レイルはカデンツァの示した場所で、一時、完全に上空停止した。

 

 

「君、東校の生徒でレイル・グリーン君だね。行方不明になったって心配してたんだよ」

「一緒に来て話を聞かせてくれないかな?」

 表面上、優しく穏便に話を振って、近寄ってくる2人の警察官。

 レイルは自分の顔が無表情になるのを感じながら、出来るだけ自分に引きつけるギリギリにカウントを取る。

「頼む」

 レイルは言葉と同時に、自分の揚力を全てオフにした。

 

 

 かくん。

 

 

 一気にくずおれる少年の体。

 

 

 頭から垂直落下する。

 

 

 腰や膝を曲げず両足をそろえ、水面に飛び込む体制で落ちてくる彼を、警察の二人も目を疑い、受け止める間もなく、彼らの傍をすり抜ける。

 彼らも追うが、少年の体は地面にたたきつけられ、血飛沫をあげる所まで、容易に想像させてしまう勢いで落下した。

 

 

 だが地面激突寸前、局地的突風でカデンツァがレイルを救い上げ、自身も最大の揚力を働かせる。

 巻き上げる突風は真上にいた警察官の翼を攫い、逡巡させる。

 続けて巻き上げる風は、容易に彼らを降り立てなくさせた。風に千切れて花びらが舞う中、レイルは教会の中庭に降り立つ。

 黄金色の髪が風に撒きあげられ激しく揺れた。

「どっちだ」

「たぶん、こっち」

 カデンツァは近くの青い大きな開き戸を指差した。

 それ以上は近寄りたくないという気配をアリアリとさせたので、レイルは彼女を下がらせ、その扉を開ける。

 ぎぃ…と言う音は予想に反してせず、押すと静かに開いた。

 

 

 重い空気とすすり泣く声、参列者の衣擦れの音。

 レイルには聞こえない物だったが、肌に悲しみの色を感じる。

 二十メートル程先の段の上に置かれた小さな棺。

 神父が説いている言葉がレイルの侵入に関わらず淀みなく進んでいた。これが終われば彼女の体は火葬される。

 レイルは水晶を手に握り、棺に駆け寄ろうとする。

 しかしその手は不意に捩じり上げられ、体を取り押さえられ、会場から引きずり出された。

 

 

 参列者に警察が紛れていたのだ。

 

 

「待って、ユリに! ユリに会わせて!」

 レイルが叫ぶが、喪服を着た、警察だろう大人は彼の言葉に耳を貸さない。

 必死に足を踏ん張る。

 体を捩じって抵抗したが、身長1メートルほどの子供が暴れた所で、誰も手を焼かない。

 必死に手を伸ばす。

 握っていた水晶は、彼の手元から奪われ、彼の言葉は誰にも届かない。

 必死に、必死に。

 後少しでユリに届くのに、ファーラから課せられた使命は果たせない。

 紫水晶瞳から涙が溢れた。

 生涯で初の友人達に囲まれた記憶が儚く閉ざされるように、青い扉が閉まる。

 

 

「お待ちなさい!」

 凛とした声が騒然とした空気を静まらせ、扉が大きく開いた。

 黒いレースの喪服を纏った少女が、警察に取り押さえられたレイルの前に立つ。黒いベールの下から揺れる金色の巻き毛で、それがユリの姉プリシラだとわかった。

「その子は妹の学友であり、私の友人でもあります。彼は葬儀に来たのです。それを止める権利は誰にもありません」

「ですが、この子は暴行、および窃盗容疑の……」

 言葉を断ち切る鋭い怒りを込めて、彼女は言い放った。

「ここは葬儀の場です。誰かを引き寄せる為の道具として使うなんて……死者を冒涜するような真似をして、恥ずかしくはないのですか?」

 一拍おいて声を和らげ、

「妹が……綺麗な姿で彼に会える最後の機会を奪わないで下さい」

 唇の動きを読みながら、自分が避けたから彼女の命が奪われたと知ったら、同じように言ってくれるだろうかとレイルは思った。

 でも今はそれを言う時ではない。

 この場はプリシラの説得が聞いたようだ。彼らのうち一人が、

「抵抗、脱走等、見受けられたら即刻武力行使させてもらうぞ」

 と、耳打ちしたが、耳栓が完全防音のレイルには聞こえていなかった。ただ流した涙を拭き、

「水晶を返して、あれは彼女に渡すものだから」

 と、小さく言う。彼らの間で会話が交わされ、それが返された。ファーラに託された水晶を握って、警察の監視付でユリの棺の前に立つ。

 神父の言葉はもう済んでいた。

 

 

 棺は小さかった。

 

 

 この中に横たわるのは自分ではなかったかと、レイルは問う。

 プリシラと同じ綺麗な巻き毛、綺麗に揃った長い睫、レイルにたくさんの言葉と悪戯なキスを残した綺麗な唇。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と心で謝りながら、今にも自分で触れて来そうな手を取って、空を駆る間に握られて熱くなっていた、まだ冷える事無く自分の熱が籠る水晶を握らせる。

 そうすれば何か起きるのかと思った。

 

 

 例えばユリナルが目を開けてくれる、おとぎ話のように死者が生き返る奇跡が。

 

 

 だが、水晶は静かに輝くだけで何も起きはしなかった。

 それでもこんな事を言いつけれられなければ、こうしてユリを送り出す事はなかっただろうからと、ファーラに感謝した。

 レイルはユリの姿を目に焼き付ける。

 自分が何をしたわけでもない、ただ紫水晶瞳(アメジストアイズ)に生まれただけ。それだけで自分を狙おうとする現実。そんな不気味な自分に短い間でも、優しく接してくれた彼女に。

 詫びの言葉より、別れの挨拶より、告げなければならない一言をレイルは絞り出すように、言葉を口に刻む。

「ありがとう、ユリナル」

 その時、気圧が変わるのを鼓膜に感じた。

 天使の中でも「何か」に敏感な参列者にさざめきが走る。

 握らせたはずの水晶が消えているのにレイルが気付いた時、目の前に何かがいた。

 

 

 (ソウル)

 

 

 レイルが思いついたのは魂と言う言葉だった。

 

 

 そこにいるのはユリだと思う。

 悲しいかな、レイルに彼女の姿はハッキリとは見えなかった。

 しかし「大好きだよ」っと、生前のユリナルそのままの声がレイルには聞こえた。

 完全防音の彼に普通の肉声は聞こえる事はない。声は二度は続かず、気配は一瞬にして消えた。

「ユリが、ユリが今居たわ……」

 レイルが振り返ると、信じられないと言った表情で、涙を零すプリシラの姿が目に入った。

 唇を両手で抑えて居た為、彼には何と言ったかはわからなかったが、彼女にはユリが見えたのだとその表情で察した。

 








 

 

 

 もう日差しがオレンジ色に変わりかけていた。

 

 

 お祭り当日は朝から舞台の打ち合わせ、長時間バスに揺られて本番に入って、強制睡眠に入らされたあの時以来、レイルは寝ていなかった。

 警察署内では何を聞かれるわけでもなく、椅子に座らせられ、その間、疲れの余りウトウトしている間に、二時間くらいが経った。

 あの後、ユリの遺体に神父が火をかける所までレイルは居る事が出来た。

 天使界に火葬場はない、火の『妖霊』(スピリット)が死者のすべてを連れ去る。

 

 

 清らかな浄化の炎。

 

 

「ユリは貴方の事が好きだったわ」

 その炎を見ながら少しだけプリシラと言葉を交わした。

「ファーラにさっき会ってきた」

「目、覚めたの? よかった……洗面所に血まみれで倒れていたの」

「他には誰もいなかった?」

「居なかったから、消えた貴方が怪しいって警察は思っているみたい」

 プリシラがファーラの目覚めを知ってホッとした表情をした時、炎の色が彼女の頬を染めて美しかった。

 

 

 ユリが送られる炎が放つ光。あの忘れられぬ悲しい光に似た風が満たす夕刻時間に、任意同行で引っ張られた警察署をやっと解放された。

 レイルを引取りに来てくれたのは、魔道士長セレフィードだった。

「奉納舞の後、四日間、ご両親には危険があったので、我々がかくまったという事にしてありますぞ。窓のない狭いホテルの一室で、テレビでも見せられて、退屈な時間を過ごしていたとでもお話すればよいですじゃ、レイル様」

 用意しておいたシナリオを魔道士長は弛む事ない口調で彼に告げる。

「ユリナルが死んだのは、俺を狙ったモノが彼女に当たったから、ですよね」

「弾を帳消しにする時間はなく、貴方を守るので精一杯だったのじゃよ。我々の任務は貴方を守る事。理解して下され」

 あの時、舞台なんか気にせず、振り返ってそれを叩き落としておけば、何か変わっていたのかもしれない。何かが飛んで来ることは把握していたのだから。

 でも後悔は先に立たず、そもそもレイルに叩き落とせたのかも疑問で、悔やんでも失われた命は戻らない。

「俺を狙うのはやはりこの瞳のセイなんだろうな。魔王の力なんてないのに何で……」

「我々は貴方をお守りするよう政府から派遣されているだけですじゃ」

「俺を狙ったやつとファーラはどうなったんだ?」

「あの日の事はすべてなかった事として処理されますのじゃ。それ以上のご質問には答えられず、申し訳ない。では今日はお宅までお送りいたしますぞ」

 レイルの質問攻めに合いそうな気配を察し、はぐらかしつつ魔道士長は小さな公園のベンチから腰を上げる。

 彼の銅色をした鷹のバックルが夕日を受けて光っていた。

「これまでにも、こんな事があったんだ? 俺が知らないだけで」

 喰い下がって質問しようとしたが、魔道士長は好々爺のようにニッコリと笑い、頭を下げた。

 質問は受け付けない、がんとした姿勢を崩さない。

 だからこそ、質問を肯定していると彼は感じた。

 レイルもベンチから立ち上がると、くるりと魔道士長に背中を向けた。

「何処へ行きなさる?」

「南の森、ファーラの家」

 魔道士長はグレーに見える黒の瞳を少し細めた。

「知りたいのはわかるのじゃが、今日はやめた方がええでしょう」

「どうして?」

「…………あの森は9時を過ぎると肉食の魔獣エポデが出ますじゃ。お守りはいたしますが。要らない殺生は好みません故」

「飛んで行った方が早いけど、もうクタクタだし。どうしよう。あ、じゃあ今からバス使って、6時頃には着けるから、長話はせずに帰るよ」

 レイルの屈託ない計画に、魔道士長は言い淀みながら、

「貴方様の行動に助言はいたせますが、拘束、制限は基本的に禁止なのですじゃ」

 つまり行くなと言いたいけれど、言えない立場。レイルは一瞬悩んだが、

「あ! あのバス逃したら遅くなる」

 ちらっと見えた巡回バスが、森の近くを通る便だというのに気づき、深く魔道士長の言葉を追及する間もなく飛び乗った。

 長は付いて乗る気配はない。ただいつもの通り静かに頭を下げた。

 






 

 

 レイルはバスに乗ってから、帯に仕込んでいた財布で乗車料が足りる事を確認してホッとした。

 学生証があればタダだが、控えの神殿で着替えた時に荷物の中に入れてそのままだ。

 荷物は全部家に届けてあるといいのだが、大切な物を入れていたのを思い出す。

 

 

 いつも身に付けている額飾り(サークレット)と懐中時計。

 

 

 額飾り(サークレット)は父が作ってくれた物で、時計は母に買ってもらった物だ。

 バスに揺られながら、レイルは眠ってしまったが、終点だったので運転手に起こしてもらえた。

 お金を払ってバスを降りると、空のオレンジ色はピンク色になり、暗闇が出来る前の鮮やかさに辺りは充ちていた。

「こっちかな?」

 降りる前に運転手にこの辺りに泉がないか聞いたら、傍の小川を指して、それを道なりに辿るように言われ、夜中は危ないからと用事がすんだら早く帰るように勧めてくれた。

 この辺りに肉食獣が出るのは有名らしい。

 運転手はレイルの瞳に驚いてはいたが、紫の瞳を持った少年がこの街にいる事は噂が立ってるので、特にトラブルもない。

 こうやって普通の人と同じ生活を送れる事が、普通と思っていたレイルに今回の件は衝撃だった。

 

 

 森に入ると昼に来た時の清々しいイメージはそこになく、不気味な暗い森だった。

 空の幻想的なピンク色がその暗さを引き立てる。肉食の獣がいるという話が真実味を帯びた。

 走って森を出た時はそうかからない距離にあったと思った泉は、思いの外なかなか見つからない。

 それでもやっとたどり着くと、彼は辺りを見回して建物を探す。

「家から近いって言っていたけどな」

 電話を入れてくればよかったなと少し後悔する。

 

 

 ファーラの家をレイルは知らなかったが、わからなければ誰かに聞けば良いと思っていた。

 しかし人影も建物の影も見当たらない。

 夜になれば肉食の魔獣が出る森に、好んでたくさんの者達が住み着いているわけがないかと考え、引き返そうかとクルリと向いた時、何かの建物らしきものが見えた。

 

 

「うわ、大きいな」

 森の中に立っていたのはお屋敷と呼べる大きな建物だった。

 

 

 豪華ではないが品格があり、三階建てで四角い窓がズラッと続いていた。

 ただその窓ガラスは割れてこそいないが薄汚れ、庭は荒れて、回りを囲む塀は崩れている所もある。

 門を潜ると入口まで草が生えていたが、僅かながらになぎ倒され、踏み固められていたので、誰かが出入りしているのは間違いがなかった。

 表札は崩れ落ちて良く読めなかったが、アルファベットの「S」で始まっているようだったので、ファーラの家ではない気がした。フィールなら「F」で始まるはずだ。

 しかし他に建物はないので、レイルはその扉を叩く。

 かつて白塗りだった扉は風化が進み、塗りが剥げ、取っ手の端に施された細工は曇っていたが、かつては美しく輝き、訪問者を迎えていたのだろう。

「どなたかいませんか?」

 呼び鈴はなかったので、もう一度扉を叩いた。

 完全防音していたのを緩めて、反応を確かめる。しかし何も聞こえなかったので、更に叩こうとした時、扉が開いた。

「あの、こんばんわ。ファー、いやそのフィールってお宅を探しているんですが」

 扉の向こうには白いフードを目深に被った、だぼだぼの白服を着た天使(ひと)が立っていた。

 身長はファーラぐらいか、レイルよりは大きい。

 服の合間から見えた指は細くて肉を感じない。老人の骨ばったそれだった。

「アリエルの友達?」

 レイルにははっきりと聞こえるわけではなかったが、声は老人の物ではなく細くて高い少年の物だった。

 答えを聞いてココがファーラの家だと確信し、頷く。

 

 

 たぶん兄だろう。

 

 

 ファーラは余り家族の事は言わないが、体は弱いが兄は優しいと言っていた事を思い出す。

 彼はほんの少しの隙間からレイルに応対したので、家の中は見えない。

「お兄さん? ファーラ、いますか?」

「……残念だけど、今日は父がいるから無理ですよ」

 と、その時だった。

「ゃああああああああああああああああっ!」

 猿山のサルを踏み潰してみたら、こんな声が出るのではないかと言う、酷い叫び声が家の中から響いた。

 その響きが消えない前に、白服の子供は素早く家から出て、扉をしめた。

 

 

 途端、絶叫は全く聞こえなくなった。

 

 

 だが完全防音でないにしろ耳に栓をしているレイルの耳にも届くそれが、残響として彼の記憶に焼き付いて離れるわけはない。

「あれは、何?」

「お帰り下さい」

「今の、まさか、ファーラの声?」

「お帰り下さい」

「ちょ! 退いて!」

 同じ言葉を繰り返す子供を押しのけて、ガチャガチャと取っ手を引っ張ったり押したりする。

 しかし骨ばった子供の手でも開いたというのに、扉は全く動かなかった。

 傍の部屋にある出窓のガラスをレイルは叩き割ろうとするが、全く効果はない。その辺にあった石を投げつけても割れなかった。

 その行為を止めようとする事もなく、

「この建物は対魔獣用に出来ています。お帰り下さい」

「あれ、ファーラなんだろう?」

「お帰り下さい」

「ファーラに一体何があってるんだよ!?」

「それを知ってどうするのですか?」

 

 

 レイルは言葉に詰まった。

 

 

 あんな尋常ではない声を聴いているというのに、どうするもこうするもない。

 

 

 しかしまるでそよ風を受けるように白服の子供は平然とし、レイルの行動に感銘を受けたわけでもなく、ただ呆れた様に、

「そんなに知りたかったら、裏に回ってごらんなさい」

 その台詞でレイルは走り出した。

 扉を離れて裏に回る。

 沢山の部屋の窓がそこにはあったが、どこも電気がついていたり、人の気配があったりする部屋はない。

 大きなピアノや琴が飾ってある部屋もあったが、煤けた楽譜が巻き散らしてあった。庭には昔は綺麗な花が咲き誇っていた花壇や水のない噴水が残骸として残っている。

 後ろに回ると、建物と壁に挟まれて、子供のレイルでも入り込むのに難しいほどの幅しかなかった。

 塀の上を歩くことも考えたが、それでは二階しか見えない。

 もし一階部分を覗いて見つけられなかったらそうしようかと思った時、窓の更に下に小窓がある場所を見つけた。

 横長に1メートルほどで、縦は10センチほどもない。地面に沿って低く細長いそれは、窓と言うよりは通風孔だ。

 そこからは一階ではなく、地下にある部屋が覗けた。一個目に人影は見つけられず、二個目を覗いた時も誰もいなかった。

 しかし馴れてくると、白い布のようなものが動いて見えたので、更によく目を凝らした。

 

 

 白い布と思った物は微妙に動いている。

 

 

 それが素っ裸になっているファーラの背中であることを認めた。 

 彼の背中に無数にある傷の酷さにレイルは息をつめた。

 翼が生える筋の様なものが天使にはあるのだが、それが見えなくなるほどの火傷をファーラは負っている。

 それも今やった訳ではなく、ケロイドになって治った傷の上から、何度も重ねられ、皮膚が耐え切れずにクレーター状になっていた。その上に剣を当てた、新しい傷が容赦なく付けられて血を流す。

 変な髪型になっていた頭の包帯は外れ、一筋の血が頬を伝っていた。

 松葉杖の一本が真っ二つに折れていて、足の利かないファーラは成す術なく膝と手で動こうとしている。

 だがもう意識も朦朧としているのか動きは緩慢だった。

 声は聞こえない、口はわずかに動いていたが何と言っているか読み取れない。

 弱った彼の体に何かが圧し掛かる。

 それが裸になった別の天使で、ほんの僅かに残った抵抗の意思で言葉にならない叫びを上げ、嫌がるファーラを押さえつけ、我が物にしている姿だとわかった時、レイルは口を押えて小窓から離れた。

 

 

 たぶん……あれは父親。

 

 

 ここで叫んでも、家の中で苦しんで叫んでいる彼の声が響かない様に、全く聞こえないのだろう。

 だがレイルは声をかみ殺し、這う様にその隙間を離れた。

 壁に捕まり、何とか立った彼の前に、白服の子供が冷めた口調で諭す。

「見た事は黙ってますから、お帰りなさい」

 レイルはもう何も返せず、紫の瞳から涙が溢れかえるだけだった。

 

 

 


読んでくださりありがとうございます。

誤字脱字あったら教えていただけるとありがたいです。


現在数字の半角から全角になど、文字統一はここまでしかしてません漢字が良いと思われる部分は漢数字使用。数字については悩み中。(13/05/31)

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