躊躇なき覚悟の形
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年齢設定はずらす場合があります。
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諦めたくない。無理だと認めるより、どんなに無様であっても足掻きたい。
だから嫌だ、と。
そしてその為に何であっても私は差し出そう。
今夜は一体何があったと言うのだろう?
レイルは思った。
警察に抑えられた父親は、酷い扱いを受けていて、それを抜け出すために絵を描いた。その絵がいきなり天使を襲い出したり、父親の「玉」が狩られ、その球封じを弾いたら、何故か重症だった手の傷は治っていたり。
建物から見えた炎は友人が振り回していた剣から出ていたし、今は何故か銀色の天使に殺すよと脅されている。
銀天使はファーラがレーヴェと呼んでいた者と同一だろう。そして知り合いらしい女魔道士ソネットが先程までの勢いを欠いて、オロオロしている。
「やめなさいルナ、何、考えているの」
「ソネットは黙っていて。貴女じゃダメなら、彼にやらせるしかないわ」
「いくら丈夫な黒天使で、貴女の守りの近くに居たと言っても、地面が溶ける様な灼熱に居たら、深刻なダメージ受けるってわかるでしょう?! 街の医療機関も乱れているからその子の順番が回ってくるまで持たないし、本部までは遠いの、わかって!」
「だから何?! わからないし、わかりたくないし」
「子供みたいなワガママ言わないで!」
「私、子供だし。出来ないし、やる気もないなら引っ込んでてソネット」
ぐっと唸って、彼女は顔を歪めた。感情のまま投げつけられる言葉に、言い返せないソネットは苦しそうだった。彼女だって決して投げやりな気持ちで言ったわけではないだろう。だがルナが同情した感じはなかった。
彼女は抱きとめたレイルの反応を待つ。
回りの炎が雨で緩んだせいか、泉が淡く青い光を発しているのが強く見えるようになった。燃え残った樹もそれに合わせて淡く光る。おかげで暗い中でも彼は回りを見る事が出来た。
薄暗い青光の中、ファーラを見やる。その姿はただ寝ているのと変わらないように感じた。
「見た目じゃわかんないけど、中が深刻だったのよ」
「ソネットは黙っていてって言ったわ。私はこの子に聞いているの」
まだ言い返そうとするソネットを黙らせて、レイルに話を向けた。この銀天使はある程度、自分の事はファーラに聞いて知っているのだろうと見当は付く。レイルがした事と言えば、ただ掌大の傷を治しただけ。それに対して何を勘違いしているのかと問いたかった。
「俺で治せるものなら、やるよ。でもどうすれば良いんだよ? 死にそうな天使の助け方なんて知らないよ」
彼は自分の右手を眺めた。あの時の痛みを思い出す。
またあの痛みがしたとしても、それでファーラが元気に目覚めるなら迷わない。
だが今、急かされているのは、確実に死に向かっている天使の体を持ち直せと言う話。
ソネットと言う娘の医療技術も低くないはず。迷いがない手際は素人目にも鮮やかだった。
その彼女が間に合わないと言っている体の助け方、そんな方法はわからない。脇腹に手を添えたあの時も、わかってやった訳ではない。だが規模的に無理だろう。
それでもルナは引き下がらない。
「私はお願いしてるのじゃないの、やれと言ってるの。やらないなら耳元で詠ってあげるわ。眠ったらもう二度と目覚めさせないように息の根、止めてあげるから。絞殺が良い? 刺殺が良い?」
可愛い顔立ちをしていて、稀有な銀色を纏っている少女。今は下着姿で、手に剣を持っているわけではなかったが、レイルの体を完全に拘束し、その耳栓を抜いて語りかける。
聖唱使いの言葉は、何の力も込めなくとも天使に効果があるのだから、歌一つどころか音階一つでレイルを昏倒させられる。
そうなれば魔道士が出て来て守ってくれるかもしれないが、彼らの守りと、ルナの殺傷能力はどちらが高いだろう。
「俺に何ができる?」
「ファーラの脇腹の火傷を治してあげたでしょ? やり方は同じ。「地図」がいるなら、あげる」
「地図って……」
レイルが聞き返そうとした時、ルナの口から一音、音が吐き出された。
途端、レイルに酷いめまいが襲う。眠りに落ちるかと思った衝撃はレイルにとって音ではなく、図形や文字の山になり、鼓膜から脳へ運ばれ、一気に何かを見せた。
「こ、こ、これ、体?」
「貴方、本当に理解できるのね?」
レイルの反応に満足そうにもう一音、彼女は音を奏でた。
「や、やめろ。強制的に「入れる」な」
レイルの体から力が抜け、膝を折りかける。
痛いわけでも苦しいわけでもなく、感じた事のない爽快感で、何故か気分が悪くなる。
酷く心を揺さぶられる大海原の美しい風景を見せられて感動しているのに、船酔いしてそれどころではない、そんな所在無げな気分だった。真逆と思われる感情に攫われそうになりながら、足を踏ん張って自力で立つ。
ルナはそれを抱きとめつつ、彼に尋ねる。
「貴方、こういう地図があれば、それを頼りに書き直していけるのでしょう?」
「よく自分でもわからないんだけど。配列が一緒なら良いのかなって思っただけ」
「配列、か。そう言う考え方なのね。地図と言うより「設計図」の方がわかりやすい?」
一呼吸おいて、彼女は呟いた。
「貴方の紫は本当に紫水晶なのかしら?」
レイルは雪崩れ込んだ図形と感情の処理に追われ、その言葉に気付かなかった。
図形や符号の山。
ルナの二音でレイルに降ってきたのは天使の体を示す、余りに多すぎる情報だった。
ただファーラの火傷を治した時よりはそれを見極める時間が短くなっているのに気づく。日頃から自分の力を試そうと試みたり、父の心臓を診たりして少しは頭が付いていくようになっているのだろう。
だがこれで何ができると言うのか、やはりレイルには解らなかった。
だいたい自分が何故こういう図形や文字が見えるのか、はっきりと理解していないのだからそれも無理ない事だった。
「ファーラの傷を治してからは、何にもできてないんだよ? 俺に何が出来るかそれの方が知りたい」
「世界の全ては図形によって構成されていると貴方は思えばいい」
ルナが言ったが、世界の全てはそんな物ではできていないとレイルは言いかけて止めた。
今、自分の考えを述べるより、一応聞いてみるのが先だと思った。
何故なら、この図形や文字、符号などが見えたり描けたりするのが異常なのだから。とりあえず、正常でないなら、異常な言葉も加味して考えなければ事が運ばない。
それに彼女を怒らせて、歌を詠われ、意識を失うわけにもいかなかった。
「そして集中して、描き直せばいいの。その「設計図」の通りに」
レイルはとりあえず頭に落ちてきた図形や文字を記憶し終えた所で、ルナに質問する。
「一つ、確かめたい事があるけど。レーヴェ……ルナと呼んだ方が良い?」
「どちらでもいいけど、確かめたいって名前?」
「いや、そうじゃなくて。これ、女性の体じゃないか?」
コクリと耳元で頷いたのを感じる。
「ソネットの、よ?」
「え? 何? 私? が何って?」
ルナがレイルに見せたのは、先程風呂場でソネットに抱き付いた時に「写し取った」モノだった。
レイルが自分の体を触り、父親を触った時、レイルの中に落ちてくる図形が、ルナにも見える事を指していた。それもレイルの頭に落ちてくる図形は触れた場所に限定されていたが、彼女が渡してきたモノは全身の図形、全てだった。
ルナは女性だとわかった事に驚き、またそれが何か関係あるのか首を傾げる。
レイルは気付いてよかったと思った。
今まで自分の体、ファーラに、父マハイルと見てきたが、血液などの流れにそれらには少ない図形が、ルナから送られてきたモノからは沢山見えて、違いに気付いた。男女でホルモンの関係がやはり違うからだろう。
そこまで関係あるか定かではないが、やって完成したらファーラが女になってましたっ……と言うのは笑えなかった。
「レーヴェ、君も見えるなら、できるんじゃないか?」
そう言った途端、腹立たしげに言葉を突き返してきた。
「……こう言えばわかるかな? 私はただ殺す為の歌を詠えるのよ」
「殺す歌?」
「病巣を広げるっていえばわかりやすいかしら。魔化を止めるのは魔の部分だけを殺すの、わかる?私は貴方のように、ソコにあるモノを組み立てたり、書き換えるのは無理なの! 逆に貴方は、私のように一気に壊したりできないと思うわ」
「組み立て、書き換え……」
レイルにわかったのはルナにはできないという事だった。出来るならやっている、その苛立ちを彼女は逸らす事なくぶつけてきた。
「で、男性のがあれば良いの?」
その時、泉の水面が揺れた。
「そう無理を言うんじゃないよ、銀の天使や」
「「リュリアーネ」」
現れたのは、ファーラが祖母から預かったという人魚だった。レイルとルナの声が重なって彼女の名を呼んだ。
「久しいね、銀の子。とりあえず元気だね、紫の子も」
この場所が彼女の守りで、火に晒されなかった事にルナは気付いた。
「ばば様、あの劫火を予測していたって事?」
「どうだろうか? 少なくとも火の霊王が現れるなんて、私は思ってはいなかったけど。冬でなくてよかった」
彼女は優雅に泉の上を滑るように泳いだ。彼女の鱗が遠くの炎を映してか、きらりと揺れる。漂ってくる燃えた匂いが少し薄くなってきていた。
「紫水晶の子が癒す技は前に見せてもらったけど、それは自分の身を削って受け渡すようなもの」
「そこは何とでも出来る! だから邪魔はしないで」
「大きくミエを切る事だ、まったく。掌の皮は再生できるものだから、補えたようだね。良かった。だがそれはただの幸運だと思いなさい、同じように手を振るうなら、そこにはやはり対価が要るのだよ」
レイルの手が普通に戻っているのを、目ざとく気付いた彼女はそう言った後、ファーラに手を伸ばした。
「この子に一曲詠ってやってくれないかい?銀の子よ」
占い師ファーラはルナの所でいろんな事を教える者の一人で、何度か水を暗い牢に持ち込んで、リュリアーネに会わせた事があった。それ故、ルナが聖唱使いである事を知っていた。
死にゆく者に苦しみを与えず死に落とす事が出来るその歌を。
「骸は私の世界へ連れて行こう。彼の望みでもあったから。魔には落ちなかったけれど、ここに置いておけば、彼の体を切り刻み、霊王の入れ物を探ろうなんて考える奴もいるだろう。それくらいなら主にくれてやった方が良いよ」
「ルナ、歌を詠ってあげなさい」
ソネットも穏やかにそう言った。
死にゆく者に安らかな死を。
ルナは今まで散々、死の歌を紡いできた。
魔に堕ちかけているモノを殺そうとすると、完全に魔化してしまう事例がある為、被害者を出さない為に、聖唱使いが奏でる死の歌は有効だった。
彼女は裁かれぬ犯罪者の処刑人であり、捕まえられないような立場の者に密かに送りこまれる暗殺者でもあった。普通の天使に紛れた魔を眠りにつかせ、死へ送る事もある。
他にも歌を聞かなければまだ死なずに生きていたかもしれない病気の者や、何だか理由も知らず詠わせられる事も多かった。
それでもルナは詠ってきた。その事で誰かが救われているのだという確信の下で、冷たく静かにその詩を口にした。銀色の霧を張り、包み、闇へ導く。
「何でそんなこと言うの? さっき、天使に戻った時、普通に喋っていたのよ?」
ゆっくりとレイルを開放すると、ファーラに近付き、その頬に触れる。それだけでルナには彼の体が限界に近い事を知った。悲しいくらいあっけなく彼女に付きつけられる事実。
彼女は今までなかったのだ、自分の心を揺らした天使を葬送した事が。その前に彼女の心を揺らした者がそう多くはなく、ファーラはその心を揺らした数少ない存在なのだろう。
自分にとって大切な友人であるように、彼女にとっても大切な存在となったのだ、レイルはそう感じた。
「こんな事、わからない、わかりたくないから」
そう言った時、彼女の青く澄んだ瞳から、銀色の涙が零れた。銀色の涙は転げ落ちた途端、色を失くし透明な雫へと変化する。不思議な涙色だった。
「詠いたくない、歌いたくないよ……ファーラ」
拒否。
彼女は初めて歌を紡ぐ事を自らの意思で拒否した。
「もう一度私を呼んで、レーヴェと……」
余りに痛々しく細い肩は血に塗れていた。綺麗だった白の下着までもう赤いシミが伝っている。
彼女の肌には火傷の一つも跡が見えない。
自分が耐え得るものに、こうも簡単に天使の命が薙がれる気持ちはわからないが、それ故に辛いのを感じた。
レイルは手にしていた布切れで、ルナの傷口を固く結ぶ。
それは酷い裂け方をしているというのに、痛みも感じないように銀の天使はできているのだろうか、そう彼は思う。だが彼女がそんな傷よりもっと痛い気持ちでいっぱいになっているのだと、繊細にファーラの唇を辿る指先の震えで気付いた。
思い出したようにソネットがワンピースを取り出し、ルナの怪我した方の腕に通し、上手く動く片腕を後に着せた。そして銀の髪を前に流して、後ろの包みボタンを留めてやる。青い小花を散らした生成りのワンピースに、綺麗なレースが這わせてあった。
可愛らしい雰囲気、きっとファーラが好きだろうなとレイルは思った。
銀色に輝く天使は、差し出されたレザーレースの靴を履かせられながら、声も立てずに涙を落とした。可愛い顔に銀の涙が惜しげもなく伝う。
かつての知人が残して行った人魚の言葉に、彼女の気持ちが少し揺らいだ。
激しい波が消え、悲しさに埋められた青い瞳。
彼女の瞳にファーラはどう映ったのだろう。
本当の所はレイルにはわからなかったが、ファーラは彼女を気にしていた。たぶん好きなのだと思う。変わった子を通り越して、激しく恐ろしい思考の持ち主だったが。彼女も責任感ではなく彼を思っているのは伝わってきた。
落ち着かせようと思ったのか、現実を見せようと思ったのか、ソネットは着衣の世話を終えると、少しルナから離れて、その様子を見ていた。
「諦めたくないって思うの。私が思ってはダメなのかな?」
レイルは隣に並んで、ファーラを見た後、ルナの顔を覗き見る。
淡い青の光の中で、少し揺れたかに見えた彼女の瞳は、再び真っ直ぐを指し示す。どうしても諦められない気持ち、だが自分の限界を知るが故に、レイルに助けを求め、その視線をゆっくりと向け、呟くように続けた。
「紫の子。お願いしたら、やってくれる? ダメでもやれる事をやりたいの」
「ファーラの事、好きなの?」
「好きか嫌いかなら、嫌い。だって私にはわからない事ばかり言うのだもの」
そう言ったが、レイルの目に彼女の眼差しは、嫌いな者に向けるそれとは到底思えなかった。
もし、父親と描いた図形のように暴れ出したらどうしようとレイルは思う。もし自分の書いたそれがファーラを喰うような事があったらと恐ろしい。シラーと言う警察官が言った「闇文字」なるモノを描く気はないが、描く事自体に抵抗感が強かった。
それでもレイルは思いを籠める。
「俺は好きだよ、彼の事が。だから諦めたくない」
「好き?」
「傍に居て欲しいって気持ちだよ。レーヴェはファーラに居て欲しいんだろ? もし目覚めたら、気持ちを偽らずに伝えてやってくれよ」
「偽らずに?」
一呼吸おいてレイルはルナに向かって頷くと、覚悟を決めた。
「ファーラ、聞こえる? 俺の実験台になってもらうよ。成功するかわからないけど。……前みたいに自分で自分を辿らなくても、レーヴェが正確な図形を示せるって考えたらいいのか? それを描き写せばいいのかな?」
小さく呟いて、レイルはファーラの体に触れる。
ルナがその言葉を聞いて、流す銀色の涙が、更に増えた。
「でもレーヴェ、やるだけタダ、とは、いかないと思うよ」
まともになったその手を再び失う、いやもっと悪い事をレイルは想像したが、それでも目の前で友人が逝こうとしているのに、何もしないのは嫌だった。
ユリの魂が抜けた姿に、父が床に倒れ込んだ時の無力さ、儚く魂が指をすり抜けていく。それを救えるか救えないかは、やってみなければわからない。
そう言えば父さんは目覚めただろうか、ちらっとそう思った。
綺麗な銀色と、縛っても止まらぬ左肩の傷から赤い色を垂らしながら、先程のようにレイルの背中に張り付いた。
一瞬、レイルは体を固くした。だが今度は拘束するわけではなく、優しくレイルを包む。
「やってみて。貴方は傷、一つ、付けないから大丈夫」
ルナは栓のない方の耳の傍で囁いた。もう彼女は泣いてはいなかった。
「ただ、設計図、詠って渡したら、俺、寝るよ?」
彼女は小さく笑って、
「今から貴方を写し取って、設計図をあげるわ。音じゃなくて伝えるとしたら中耳か、内耳に直で叩きこんでみるから」
「それ、大丈夫か?」
「衝撃として与えるだけだから、たぶん大丈夫。足りないモノは私に請求しなさい。同じ形のモノを必ず用意するから、任せて」
「うーん良くわからないけど、頼むよ」
「貴方達! 何やってるのっ!」
ソネットが気付いて叫び、表情の変化があまりない様に見えるリュリアーネさえ、驚いているように見えた。
集中!
レイルはそう念じてから、ファーラの体に意識を落とす。
沈む、沈む、深く、まだ何かが焦げたような臭いのする世界。
ファーラの喉元を触りながら、逆の手で肺の辺りにも触れる。ソネットの落とした薬が効いているのか、穏やかだったが完全に不自然な記号がレイルの頭の中に降って来ていた。
「レーヴェ。さっきみたいな全身ではなく、限られた範囲でいい。俺が触っている辺りの設計図が欲しい」
「わかったわ」
「だから。大雑把じゃなくて、もっと詳しく頼むよ」
「え? もっと、って、こんな?」
「いや、もう少しハッキリ……」
「……どれだけ繊細な所まで見えてるの。貴方おかしいわよ」
「君ほどじゃないと思うよ、レーヴェ」
考えている事がそのままルナに通じているのか、本当に口に出しているのかレイルにはわからなかったが、意思疎通は問題なかった。
問題あるのはファーラの体だった。
皮膚は表皮、その下にある結合組織系の真皮、さらに皮下組織が、脂肪組織に血管、汗腺、血液、毛細血管……内臓、骨髄、関節、脳……秩序だった配列で体は成り立っている。
ファーラの体は秩序だっているものの、その形が歪だった。丸くなければならないモノが、半月や三日月になり、四角でなければならないモノがもはや形を成していない。余りの酷さに同じものを比べているのか、迷ったほどだった。
本来、要らない符号や記号はない、だがその半数が総て作り直し、描き直して行かなければならなかった。総てが停滞していて、血液の流れを感じない。免疫の様なモノもなかったし、逆にハエのような生き物もいなかった。死の空間、その遠く下に感じる細い流れが、かろうじてここが生き物の記号を扱っているのだとレイルに感じさせた。
「焼けた、肉だ、これは」
もう、体と言えるようなモノではなく、蒸し焼きになったタンパク質の塊なのだと理解する。表面は銀天使が守ったのだろうが、内部からやられていた。脳が煮えてなかったのは、膝枕状態で彼女の体に近かったからかもしれない。
食べ物として焼かれた肉、そんな物にさえ感じるそれが本当に元に戻るのか、レイルにはわからない。だが彼は素早く正しい図形を構成し、使えないモノは思い切って捨てた。流れが残って居る場所まで掘り進め、その流れを引き込んで、動きを促進させる。
「足りなさすぎる、早く!」
彼女も相当緊張しているのか、焦っているのか、微妙な震えと汗をレイルは背中に感じた。
余裕がないのか最初以降、ルナの返事はなかったが、代わりにレイルが必要と感じた物を、的確に彼女は何処からか呼び寄せているようだった。深く追求する間はなく、目前の事に集中した。
文字の殆どが消えていて、一から書き直すため、とにかく時間が掛かった。
以前、ファーラの傷に当たった時に好戦的に飛んで来ていた、ハエみたいなのが居ないのは、楽な気がした。
随分と描き直し、また随分長い事、集中していた。
自動筆記、どこかで父が呟いた言葉が頭を横切る。
今、この腕を振るうのはきっと銀天使の想いだとレイルは思う。
それに自分の気持ちを足して、走らせる。
暗い場所なのに、文字が見えた。発光するたくさんの文字、そして沢山の図形。レイルがいつもこれらを見ようとしないのは、頭がパンク状態になるからだ。
今もルナから伝えられる、吐き気がするほどの情報が落ちて来ている。だが彼はたくさんのモノから限定して集中し、終わってから、次の方に目をやると言う方法で何とか正気を保つ。
二週間、描き続けた時より長い時間、その作業をしていた気がした。
少しずつ、綺麗になっていく事に、自分自身で驚きを隠せない。
見る影もなかったそこから、広い範囲、肺や胃、腸の近くまで、いろいろいじっていく。足の炎症も酷かった。
そのすべてが満足いくほどに、ルナの渡す設計図と寸部違わず同じになっていく。血の流れや生き物の息遣いがソコに整然と並びだす。
何処からともなく白い鳥が舞い降りて来て、レイルの近くに降り立った。
「ファーラの為に働いてくれる?」
そう尋ねると、さあっと音がして、緑の森が視界に広がっていった。まだ温かさが弱い、でも強い太陽の光が木漏れ日を落とす。冷たい秋、冬を前にした朝の空気。
ここは何処だろう?
そうレイルが思ったら、ルナとファーラが手を繋ぎ、そこを歩いている姿が見えた。
父親と手を取り合って図形を書いた時にも、過去とも何ともつかない夢のような幻を見た。アレと同じ気がした。たぶん書く事に集中すると、その時に触れあっている天使が見たり体験した事が、断片的に横切るのだとレイルは思う。
きょろきょろと珍しそうに森を見やるルナ、今にも駆け出しそうだった。その手を逃さぬようにしっかりと引っ張る。ファーラは振り返ってにっこり笑う彼女に、
「辛い役を引き受けさせてごめん。レーヴェ。俺、ちゃんと送れるか自信がないから、頼む」
そう言って頭を下げた。
目を丸くするルナは、その表情をかき消して悪戯に笑った。
その笑みはレイルもどこかで見た事があると思う。それが誰の笑みだったか、思い出す。
ユリナルだ、あの奉納舞で、その笑みを見せた。
レイルは、あ、っと思った。
ツインテールを揺らして、ルナが頭をあげたファーラの唇を攫ったからだ。
女としての笑みだ、意味のある想いを伝えようとして投げられた行動。
レイルは彼女の微笑に応える暇もなく、永遠に失ってしまった苦い記憶を齧りながら後悔する。
そして見て良かったのだろうかとも思った。ファーラは言わなかった内容だ。
夢か現実かわからないモノだったが、何だか覗いていけないような気がした。
そう思っている間にファーラは慌ててルナを離そうとしたが、彼女はぴったりとその体を優しく添わせて、ファーラの抵抗を無効にした。
暫くして口を離した彼女の口から、漏れた言葉は、
「やっぱり嫌い」
「おい、勝手にキスしてそれかよ」
「何だか知らないけど、心拍が上がるからヤダ」
「嫌ならするなよ、毎回、風呂場には入って来るし」
「だって、背中、洗ってもらったら気持ちいいんだもん。ソネットとか、みんなに洗ってもらう時とかと何か違うし。でもよかった、男の人に触られたり、キスしたりしたら、もっともっと嫌な気持ちになるのかと思ってたの」
「試すなよ、そんなの」
「けっこう怖かったの、いつか知らない天使達に触られる事になるから」
彼女はにっこりと笑った。怪訝そうなファーラの眼差し。
「高く売れるんじゃないかな? 自分で言うのもなんだけど。あれ?」
そこまで言ってから、ルナは彼の睨んだような視線に気付いた。
「ああ、ヒトを歌で殺して回るような天使が何、贅沢言ってるって思った? でも私だって、痛いのとか怖いのとかは嫌なのよ」
「違うよ、レーヴェ。お前、自分で何を言ってるのかわかってるか?」
「ん? 何が?」
「高くって、お前……」
「そうそう、銀天使は希少種で繁殖力弱いからね、子供を得る為に女性は夫をたくさん持つのよ。私はどうなるかわからないけれど。私以外、銀天使って、いないから」
「夫をたくさんって……おい」
それ以上は笑って答えようとしなかった彼女に、背を向け、手を引いた。
「イヤな事は、イヤって言えよ」
「何か言った?」
「俺に言ったぐらい、はっきりイヤな事は拒絶しろよ」
緑の瞳が曇って、涙を落とした事に、彼女は気付いただろうか?
「レイル、できるなら背中も診てあげて」
レイルはその台詞で今、取りかかっていた図が完成した事に気付いた。もう森の幻はなかった。
完成が近いと思う。
かなり体がだるく、もう触れる指が鈍かった。
億劫になりながら行動で答える。もう意識が朦朧としていたが、言われるままにやり通し、意識を引き上げようとした。
「ちょ、火中に居た火の霊王が! 私の歌で消えたんじゃ……気を付けて!」
「ファイ・アリア?」
「守護霊みたいなものよ。貴方の側に居る妖霊より、ちょっと大きい感じ」
そこにあったのは、最初図形には見えなかった。
ファーラ、だった。
今見ていた幻とは違い、はっきりとそこに見慣れた天使の、だが色違いの彼が立っている。
目も髪も緋色。
赤い血の色を透かした色を纏った彼は、いつも着ているような黒の服を着ていた。笑顔はない。熱い炎を感じさせる怒りだけがそこに有って、レイルを威圧する。足が拘束されたかのように、今まで風のように動けた意識を浮上させることが出来なくなっていた。
「早く、紫の子、逃げて、帰って来て」
「ははは、身動きが取れないんだ、レーヴェ」
「笑ってる場合? 守護霊って言っても、魔に近いのよ。私を喰ったし」
「でも、あれ、ファーラだろ?」
ずっと見続けていると彼も細かくいろんな図形で構成されていて、煉獄の炎で出来た塊、そのものがそこにあった。
ちょっと大きい感じの妖霊というより、禍々しさが余りにも勝っている。
「凄い目で睨んでくれるな、紫の」
レイルは自分の体がソコにあるか自分ではわからなかったが、どうやら彼には見えるらしい。
「炎を放ってたファーラなのか?」
「彼が望んだのだ、崩してほしいと」
「やりすぎだろう?」
「彼自身も燃やしてやろうと思っただけだ。ここに居ても私達は苦しむだけ」
「……優しいんだね。俺は生きろって言い続けてるよ」
少しだけ考えて言ったレイルの言葉に彼は目を見開いた。ふわりと彼の赤い髪が靡く。
「俺はファーラが苦しそうにしてるのに、何もできないくせに死ぬなって言ってる。傍に居ることぐらいしかできないのに」
多少色が違えど、レイルには彼がファーラにしか見えなかった。逃げてとルナの声が聞こえる気がしたが、身動きが取れなかったし、話止めようとも思わなかった。
「なあ、ファーラ。お前を開放するのは死しかないのかな? 初めての友達だったんだ。一緒に居たのはそんなに長い間じゃない、わかってもやれなかった。俺、良い友達じゃなかったよな。でも、俺はお前と学校に居て楽しかった。分け隔てなく笑っていたファーラが眩しかったんだ」
「お前も美味そうな匂いがする」
捕食者の視線で見られても、レイルは止めなかった。もしかするともう、ファーラは目覚めないかもしれない。ここで話すのが最後かもしれない、そう思ったら口を閉じれなかった。
「どうしたらよかった? 俺、間違ってたか? 家に帰さなかったらよかった」
ジッとその目の中で揺らぐ赤い炎を見ながらレイルは言った。赤の中で黒い瞳孔が彼を捕える。
「そんな所に隠れてないで、ファーラ。彼女に応えてやれよ。俺はユリに応えられなかったけど、お前の銀色の天使はまだそこに居るじゃないか」
「……どうしてお前は紫水晶色をしている?」
「どうしてって言われても」
答えられようハズもなかった。
その色を持って生まれようと思ってここに居るわけではなかったから。
「でも、もし、他の色を与えられてたら、ファーラにも、母さんにも父さんにも、ユリナルやプリシラとか、魔道士とか……会えていなかったとしたら、俺は紫色のままでいい。でも、もう少し他のヒトを巻き添えないための力が欲しいけれど」
「お前も私の力が欲しいか?」
「いや、要らないし」
即答した途端、彼がほんの僅かに揺らいだ気がした。
「側に居て、生きていける、心からの友が欲しいだけだよ。そしてそれだけ守れる強い力だけは欲しい。でも、もしかして欲しいって言われたかった?」
「何だと?」
「ごめんね。でも俺が欲しいのは他のヒトの力じゃないんだよ? 別にファーラに力があるから近づいたんじゃないし、今まで知らなかったし……」
そこまで言って、レイルはふっと思った事を口にした。
「ファーラが来てくれたのは、君のおかげ? 何で来てくれたかわからないけど、それなら感謝するよ。ありがとう。君にも会えてよかった」
「会えて、よかった……本気で言ってるのか?」
「うん、ファーラ」
「その言葉、後悔する事になると思うが……お前は誰なんだ?」
そこまで口にした所で、赤いファーラが震え、瞬きをするほどの短い時間で瞳がいつもの新緑色に変わった。髪はまだ赤いが、そこにいるのはレイルが知る、いつもの彼だった。
「早く逃げろ、レイル。お前、喰われるぞ!」
自分に足があるのかわからなかったが、今まで捉えられていた枷が外されたかのように、意識が浮上し、目を開くと綺麗な水色の瞳に見つめられていた。
見つめられて、と言うより睨まれているが正確だったが。
「貴方、一体、何したのっ」
怒っている。
過剰なまでに怒りに満ちた水色の瞳は、空のように広く美しかった。煌めく湖面のように儚げな光を湛え、溢れる様な涙に濡れている。この涙が自分の為に流されているわけではないのにすぐ気付いたが。
ソネットはレイルに食ってかかろうとしたが、その時間も惜しげに彼を突き飛ばすと、その足元にしゃがんだ銀色の天使に手を伸ばす。レイルも尻餅を付いたが見ていない。
「何されたの、て、言うか、何をしたの? ルナ!」
だがルナはソネットの手を払い除け、
「ファーラを診て、お願い」
そう言った時、リュリアーネが声を上げた。
「アーサー、大丈夫なの?」
「ん、ああ」
間のぬけた返事がファーラから漏れた。
「よかった、お前、死にそうだったんだぞ!」
「何が……どうなってるんだ、レイル」
ファーラはレイルの言葉に応えると、混乱と共に、ほぼ裸なのに気付いて、どうしようもなく情けない顔になる。レイルは力が入らず立ち上がれなかったが、自分の手も足も、どこにも異常がない事を確かめ、彼が目覚めた事を喜んで笑った。
時間はさほど経っていない様だった。
そうでなかったら、ソネットにもっとルナから引き離されていたはずだ。何かルナが魔法障壁でも張って、近寄れないようにしていたのかもしれない。
ソネットは驚いた顔で、ファーラに近付く。
「信じられないわ、まだ体を起こさないで。ちょっと診せて、医学の心得があるから安心して」
知らない少女に診せろと言われて、ファーラがビクついたのに気付いて、ソネットは優しくそう言った。患者には柔らかく接する事が出来るのを見て、その半分で良いから同じようにして欲しいなとレイルは思った。
「まだ酸素の取り込みが弱いから、無理して動くと酸欠状態で倒れるわ。病院でちゃんと見てもらった方が良いし。これを飲んで、もう少し眠って」
ソネットは胸に触れ終えると、大きい方のカバンの中に最後に残っていた白無地のチュニックをファーラの体にかけ、薬を一錠、彼に手渡す。
訝しげだったが、彼女の態度に悪意はなかったので、彼は素直にそれを飲む。
「でも何でこんなに急激に体が元に戻るの?有り得ないわ」
「良くなる事はいい事じゃない? ソネット」
「ルナ、貴女……」
近くの樹に寄りかかって、いつの間にか立っていた彼女に詰め寄ろうとした瞬間、小さな小さな耳慣れない機械の振動音をレイルは捉えた。
レイルは急いで抜いていた右耳に栓を嵌め込んだ。
音楽でなくてよかった、そう思いながら見ると、その音源はソネットの肩掛け鞄に入っていた四角い銀色の携帯電話からだった。
古来からある水晶玉を使った通信法より確実に遠方者と連絡が取れるが、魔法具である携帯は高価だ。レイルの両親は持っているが、それだけ裕福と言えるものだった。
ソネットは少しの間、ルナの方を見ながら会話する。
会話と言っても「はい」以外の言葉は彼女の口から出なかった。
ルナはファーラの無事を飛びついて喜ぶワケでもなく、億劫そうにレザーの靴で地面の土をイジイジと踏んでいた。その足首まで血が垂れているのにレイルは気付いたが、それを追求しようとした途端、青い瞳で睨まれる。
「レーヴェ……そこにいるんだろ? レーヴェ……」
あれ程、望んだファーラが呼ぶのに、彼女はまるで無視しているかのようで答えない。そうしている間にファーラは薬に意識を飲まれ、寝息をたてはじめた。
丁度ソネットは通話を切ると、
「ルナ、依頼が入ったわ」
「なあに?」
もう炎の気配は薄く、レイルが感じているほど明るく感じているわけではないと気付いた。ここが明るく感じるのは、リュリアーネがここを守っている魔法の優しさが見えるレイル、そして闇に慣れたルナだけだった。
ルナの顔色が悪いのも、肩からその血が滴って止まっていないのも、彼女が寄りかかる樹に異変が起こっているのにも、ソネットは気付かない。
レイルがそれを口にするのを、無言でルナは制して、ソネットとの会話を続けた。
「街に炎を避けて魔が走り込んで、大騒ぎになっているのよ、ルナ」
「そう」
「大型のはだいぶ殲滅したらしいけど。小さいのが数が多すぎで、軍も警察も手が回らないから、貴女に即刻全て始末するようにと」
レイルは空から遠くに見えた街に蠢く黒い影を思い出した。
「そんな、あれ全部って……」
「それなりの被害は認めるって、行ける? ルナ」
「声帯は生きてるけど。でもソネット、私、今は詠いたくないの」
「それなりの被害ってどういう意味だよ?」
「私の歌は壊すのよ。傍で見てハッキリわかったけど、貴方と真逆。だから私、今は詠いたくないの……」
彼女の言う、迷いの意味がレイルにはわからなかった。
「無差別攻撃になるのよ。魔に対してだけでなく、天使に対しても」
「え?」
レイルの疑問詞に、ソネットは付け加えるように答えた。
「貴方がルナとこの天使に何をしたか私にはわからないけど、ルナが今、この街に降り注ぐように死の歌を詠うと、死にかけの天使なんて殺してしまうって事よ」
そう言って、急かすように、
「この黒天使や今、命の危うい天使に対して無情だけど。貴女が今、歌わないと、もっとたくさんの天使が死ぬ事になるわ」
レイルは自分の父も今、瀬戸際にいる事を思い出し、歯噛みした。彼女が歌を奏でれば、その餌食になる事は予測が付く。
「ねえ、歌を詠わない理由がファーラのせいだって言ったら、彼、何て言うと思う?」
ルナの問いに、レイルは言葉が詰まりそうになりながら答える。
「俺の事より街を守れって言うだろうと思うよ……」
「だよ、ね」
今まであれ程にまで二人で執着してその命を救おうとしたのに、彼が言うだろう言葉を予想した時、その答えは一緒だった。
たぶんファーラだけでなく、父も同じ事を言うと思った時、涙しか出なかった。
「でも、詠いたくない。どうしたらいいんだろう?紫の子」
ルナは彼に尋ねたが、どうやっても答えが出なかった。
身近にいる何人かの身内を取るか、街で魔の脅威に震えているまだ傷つかぬ大勢の天使を取るか。そんな事は答えがすぐに出る物ではなかった。
動いたのはソネットだった。
「さっき詠わないって言った時は別に依頼があった訳ではなかったから、詠おうと詠わなくても別に良かったけど……」
「ソネット、ヤダ、私、詠いたくないの」
「無差別だから特に歌詞は必要ないから……」
「レーヴェに何するんだ? 仲間なんだろう?」
レイルは止めようとしたが、体がまともに動かない。
ルナも同じく力なく、背にした樹に根元にズルズルと座り込むだけで、近寄ってくるソネットに対抗できなかった。
「仲間だからよ。私はルナの傍にいると決めたから。そこの黒天使より、街の命運より、詠わない彼女は困るのよ」
優しくルナを見降ろすと、片膝をついて目線を合わせる。いつも慈悲深い我が儘も受け入れてくれる美しい水の青が、今のルナには恐ろしいものに感じた。
「私はどうでもいいの、今の私はファーラが……」
「ルナはいつも素直で、使った事がなかったわね。ちょっと元気が無さそうでよかった、元気ならこんなもの、貴女に付けられるわけが、ない」
「ああ、止めて、ファーラを殺しちゃ……う、嫌、イヤ……」
ソネットは無視して、ルナが逃げないように樹に押し付け、鞄のベルト部分に仕込んでいた細い銅の鎖を取り出して、その首に取り付ける。彼女の白い首に鎖が喰い込む。
「あ、う、ああ……」
「意地を張らないで、声を出しなさい。そうでないと貴女が粛清されるのよ」
唇を噛んで、その漏れる声を押さえようとしたが、ソネットに鎖を引っ張られた途端、押さえようのない叫び声をあげて、天を仰いだ。
発される声。
その一音目で穏やかに寝ていたはずのファーラの顔が歪んだ。
ファーラの眠らせている岩を掴んでレイルは何とか立つと、自分の耳栓を抜き、ファーラに覆いかぶさるようにして耳穴に押し込んだ。
途端に耳を貫く美しい音。苦しげなのに何故これほどにまで綺麗な音楽に聞こえるのか、レイルにはわからない。
ルナの声は旋律となり、街に降り注いだ。
眠りに落ちる一瞬、気が遠くなりながらレイルが振り返った時、天を見上げて声を張り上げているルナの口から、大量の血が噴き出し、地面を染めているのを見た。
彼女の可愛らしい生成りのワンピースは見る影もなく、残酷なまでの朱に染まる。
ソネットの目もその姿を、まるで信じられないモノを見るように見開かれていたから、予期していなかったのだろう。
レイルは思い出す。
リュリアーネは言った、同じように手を振るうなら、そこにはやはり対価が要るのだと。
ルナは言った、貴方は傷、一つ、付けないから大丈夫、と。
忘れていたように彼女の声を乗せて風が吹くと、辺りの樹の葉が砂のように砕けて舞い始めた。
天使を一人修理するために必要な対価は支払われていた。
彼女が差し出したのは、辺りの木々から掻き集めた幾許かの養分。
そして大半は彼女自身の内臓。
余りにあっさりと差し出された供物の正体に、気付かぬ己の無知を今、やっと知る。
怖くはなかったのだろうか、痛くはなかったのだろうか?
今更になって沸く、彼女への配慮。
彼を助けたいと願う覚悟までを崩す、悲しい歌がファーラの耳に届かぬように。
レイルは親友の耳を塞いだまま、眠りに落ちた。
陸には上がれぬリュリアーネの大きすぎる瞳が、泉から四人の天使を見つめ、静かに輝いていた。
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