炎と救いと脅迫と
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どんなに分かり合えたと思っても相手が何を考えているかわからないように、
自分がどんなに想っているか伝わっていない。
だからこそ裏切られたと感じるのは筋違い。
心地よく過ごせた日々に感謝し、自分を差し出そうと決めた。
燃える、燃える、全てが燃える。
「ファーラ!」
派手な緑黒の髪が、赤く赤く、どす黒い血の赤になっていて、額から一条の血が滴っている。何も纏わない姿だったので確認できた、背中の火傷と切り傷、そして右脇腹の手形の跡……それでも信じられず見やった瞳が、緋色を帯びていたもののまだ緑玉であったから、やっと彼と認識できた。
苦しみと叫びを封じ込めて、彼を育んだ屋敷のあった場所だという事は、位置関係や燃えた残骸で何とかわかるぐらいだ。
激しい劫火は、もとより過去の残骸であった家を燃やし、対魔獣用の壁をも簡単に溶かし、大樹を次々と焼き払い、この森に棲み付く魔さえも怯えさせる。暗い森にざわめきが走り、昼間のように照らし出す炎に追われて街へと奴らは雪崩込もうとしていた。
姿を変えたファーラは咆えながら剣を掴み、振り回す。その剣先から緑の炎が舞い、辺りの森まで四散すると樹に着火して、辺りを赤く染め上げる。
剣を握る手や爪が髪と同じく赤い黒に染まっているのを見た時、ルナは彼が父親を狩って、魔化したのだろうと見当をつけた。離れた場所に溶けかけた、天使とは違った翼を持つ塊があったからだ。
この火にも即座に溶けぬ魔の体を見て、彼女は眉を寄せた。
ルナが作った眠りを妨げ、魔化させ、その体を操っていた天使の姿はない。いや、魔化しかかったファーラを何処から操っているのではないかとも一瞬危惧したが、その歌の痕跡がなかった事だけがルナの救いだった。
今政府組織にいる中で、一番の聖唱使いはこう見えてもルナなのだ。頂点である彼女に気付かせず、魔を下僕とし、眠りを解いた実力は独学とはいえ非常に高い。
政府に組しない聖唱使いは居ないと教えられていたルナに、その存在を疑えなかった事の責任を押し付けるのは間違いだ。だがこの事態を招いてしまったのは、セオリーとはいえ、ゆっくりと死の歌を奏で、次の命令が出たとはいえ、その側を離れた愚かな自分だと彼女は考える。
「彼」が魔に変化したファーラを操ったなら、ルナは手が出せない。ファーラに殺されるなら、文句は言わない。それが誰に操られていようとも。
魔に堕ちる寸前である天使の「玉」など、何の価値もない黒いガラス玉。そんな物の為に、彼が魔に堕ちる必要などない。ルナは殺すと決めた天使を射とめられなかった事、早くあの男を死に至らせなかった事、その理由を幾つも上げて頭で繰り返したが、失態に対して後悔は役に立たない。
早く、手遅れに……手遅れになる前に魔化を止めなければ。
そう考え、息を吸い込む。肺を焼くほどの熱。冬前の冷たさが空気には感じられず、ぐつぐつと煮えた熱湯を飲み下したような熱さだった。汗は一瞬で乾いて肌は乾燥し、火の赤色が焼け付くようだ。
「熱いの嫌いなのに……」
既に好き嫌いの問題ではない熱量。上がる煙。足の踏み場もなく、地面に降りる事も叶わず、揚力を駆使して彼から上空数メートルの所で空中停止し、ルナは歌を奏でた。
熱は彼女の喉を焼き、それでも絞り出される声は凛とした空気を作り、ファーラを包もうとする。
彼の体に纏った炎が身を焦がす事はなかったが、ゆっくりと歩くと土は燃えるを通り越して、熱く溶けた。溶岩のようにそれは流れだし、更なる火種となっていく。
炎はただ溶けて燃やすだけでなく、時に酷くそして高く破裂し、太陽面爆発をも思わせる火柱を上げる。高温の空気は触れるだけで、ルナの素肌を焼こうとする。ただの火事ではありえない現象だった。
「間に合って、私の歌よ。私の聖唱は壊すだけではないと彼に証明して」
更に増していく熱に耐える為、ルナの体が勝手に反応し、何も着ていない体を薄い銀色の膜が包む。薄い魔法障壁に守られながら、虚空から心を込めて歌を口にする。
だがその歌が効いた気配を、ルナは感じ取れない。
爪の色もますます悪くなり、すぐにでも完全に魔化してその証たる蝙蝠の様な翼が、その背を飾るのではないかと感じるほど、ファーラから天使の気配はなかった。たった一人から「玉」を奪っただけとは思えなかった。
彼女は今日の朝までの、彼と過ごした、たった数日を思い出す。
初めは父を殺すと言ったら、殺意が籠った緑色の目を向けてきた少年。だが暫くすると涙を浮かべて、何故したくない事をそう主張しないかと言われた時に、襲った動揺と殺意。そして言われると思った事もなかった、的外れな申し出が、何故か嬉しかった事。
酷い育てられ方をしたというのに、何が彼を穏やかな少年に成長させたのか、ルナにはわからない。
くるくると器用に林檎を剥いてくれたり、散歩へと導き、朝の美しさを教えてくれたりした。
どこかに駆けて行きそうなルナの手をしっかりと引っ張る。
「辛い役を引き受けさせてごめん。レーヴェ。俺、ちゃんと送れるか自信がないから、頼む」
そう言って、森の中で彼が頭を下げたのをルナは忘れない。
その頼みも叶えられず、彼に父を狩らせてしまった。それで起こった魔化が止められない、など、彼女の思考に有り得ない図だった。
火の粉が頬を掠めて、空へと上がる。銀の長い髪を吹き上げる乱気流が舞わせる。
緑の炎で出来た弾が流星のように降り注ぐ。それを避けながら、彼へとじりじり近寄った。どんなに見切れる視界を保有していようと、この劫火の熱までが逃げていくわけではない。
突然立ち上がる火柱に挟まれた時は、退路を失い、上空に逃げざるを得なくなる。
歌を詠う。
炎を避けていては、彼を止められない。
そう思ったルナは、自分の魔力を解き放つ。
いつも腰ほどまでしかない髪がうねり、長く、長く、長く、流れる川を思わせる勢いで逆巻いた。
両手を広げた程の翼が、信じられないほど大きく優雅に伸びる。
巨大な、それでいて銀のナイフにも似た繊細な形の翼をその背に有した彼女。瞳は海とも空ともつかない矢車草の青、至上の青玉色を湛えて輝いた。一糸纏わぬその肌に炎が映り、艶めかしく、それでいて銀のオーラに神聖な女神の美しさを漂わせる。
彼女はその翼に魔力を込めて、大きく、ただ一度だけ、ばさりと羽ばたかせた。
途端、炎が突風に巻き散らされる。
風で煽られた事により、ファーラの周りの火がほんの一瞬だけ治まる。対称的に回りは逆に燃え上がったが。
ルナはその瞬間を縫って、ファーラに飛びつく。押さえる瞬間に放たれた緑の炎が、自分を守る壁を破り、左肩を抉り、翼を掠めるのを知りながら躊躇しなかった。足の裏が焼け、煙を放つ。防御に時間も力も割けず、ただ傷みを堪え、状況に体が耐え得るように壁を部分的に厚くして、対応する。
「聞くのよ、私の言葉を」
前から抱き付く。大きな翼で周りの火から彼を遮る。
返事はない、だがその焼けた肌を通して鼓動が跳ねたのを、ルナは感じ取る。
彼の肌に触れた部分が熱いを通り越して痛みを感じ、焦げた肩から赤い血が零れる。命が削られていく感覚に心が捕らわれないようにしながら歌を紡ぐ。
『戻りなさい、貴方は天使。
魔に堕ちる者ではない。
冥界から帰る灯をここに照らす。
戻りなさい、貴方は天使。
闇に果てる者ではない。
夜闇に浮かぶ月に揺蕩う光。
神から授かりし「玉」を奪いし罪は、
避けられぬ定めに有って、
許される時にのみ、これを奏で、それを浄化する。
その罰はいずれの時にか秤にかけられ、
これを避けられるものではない。
偽りの歌はいずれ壊れ、
その責任と咎は必ずや自身に返る。
これは約束の歌。
私は貴方の純潔と潔白を示し、
神の御許に許しを乞う。
戻りなさい、貴方は天使。
魔に堕ちる者ではない。
冥界から帰る灯をここに照らす。
戻りなさい、貴方は天使。
闇に果てる者ではない。
夜闇に浮かぶ月に揺蕩う光。
聞きなさい、貴方は選ばれし使い手。
何故にその力に恵まれたかを感じなさい。
道を誤るには早すぎる……』
その澄んだ旋律が届き、爪色が鮮やかに天使の肌色に戻って行く。剣が手から滑り落ちる。
爪自体はまだ長く鋭いが元に戻り、髪も赤から緑に戻る……筈なのだが、その変化が起きない事にルナは呟いた。
「魔化は止めたはずよ……何故、色が戻らないの……」
ファーラの意識は無いようだが、ルナの銀髪に僅かに触れ、抱き返してくる。
胸の谷間を押しつぶすように強く両腕で抱かれた瞬間、彼女はしまったと感じた。
ファーラはその口を開くと、涎を垂らしながら、ルナの鮮血が溢れる肩に噛み付く。避ける事が出来ずに肉も骨もガリガリと咀嚼された彼女の全身に、耐えられぬ痛みが走った。堪えきれぬ絶叫が、炎を巻きあげるように彼女の口を突く。それを途中で飲み込んで、笑う。
本当は笑う余裕はなかった。だがルナはこの暑い中で冷えていく自分の体を感じながら笑う。銀の大きな翼は幻のように打ち消えた。途端に遮っていた炎が近くを埋めた。
「お腹が空いているの?」
どこまで喰った所で、もとの天使に戻ってくれるだろう?
爪が少しずつ短くなっているのを見て、冷静に彼女は思った。
三口ぐらい齧った所で、口から声が漏れる。
「銀の……」
正気に戻ってくれたかと思ったが、違う。
声はファーラ、だが彼の気配ではない何かが、彼の口から声を出させていた。瞳の色が炎を溶かした緋色になって、彼女を見ていた。
「銀の天使……哀れにも神に犯された者の末裔……美味い……そして美しい旋律だ。ここで時間があればたっぷり犯して喰らってやるのだが……」
「貴方は、誰なの?」
ルナの言葉に返事はなかった。
「夏生まれの男児は不吉なのだよ……」
そう言って彼の瞳は瞬きをする間に、緋色から新緑色へと急激に変わる。
ばさりとファーラの黒い翼が広がった。その翼は魔が携える蝙蝠に似た骨ばったモノではなく、柔らかい羽毛で出来ている。髪色は赤のままだが、それを見てルナは彼が戻っている事に気付く。
「レーヴェ……」
そのまま彼の体は溶けた地面に倒れかける。ルナにその体重を支える事は出来なかった。
一瞬の判断で地面に氷を張る呪文を呟く。だがこの劫火の中でその呪文は完全な効力を得る事ができず、生ぬるい泥沼が少しできただけだった。これでも溶岩のように溶けた地面よりはマシだ。泥に塗れながら、何とか彼の体を膝で受け止めた。彼を抱くようにルナは覗き込むと、ここ数日を共に過ごした少年の緑と目が合う。
「よかった……間に合って……」
「いや、良くないだろうレーヴェ。お前、裸ってどういう……」
「貴方もよ?」
ファーラの声に力がない。そして大火の中とは思えない会話ではあったが、ルナは彼が天使に戻った事に喜んだ。だがその先の事は全然考えていなかった。
ファーラは状況が全く分からなかった。
自分は兄に殺されたのではなかったのか?自分の中に眠る「玉」を育て、それを狩ろうと兄が振り上げた剣が胸を貫いた覚えは……無い。
刺される覚悟をしたあの時、ファーラは心の中で謝っていた。
一番理解してくれたレイルだが、こんな死を迎える事を怒るだろうか。
でも一人で逝くわけではない、兄が見送ってくれる。淋しくはない。
ここまで生きてこれたのは兄のおかげで、彼が全く同じ考えではなかったからと言って責める気はファーラには起きなかった。騙されていたなら、自分が悪いのだ。
ただ自分が死んだら、兄はずっとここに居たから一人にならないだろうか? とか、銀の髪の少女に自分が泣いてやると約束したのに、とか、意外と未練たらたらな自分に、笑いながら涙を零したのを覚えている。
その後、兄の叫ぶ声で目を開けると、緑の眩しい閃光と額に痛みがして……それ以上はよく思い出せない。
兄が握っていたはずの剣が、今、傍で溶けかけで転がっている。今まで自分で振り回し、緑の炎を放っていた事は全く覚えていない。
夢の中で、きらきら光る銀の糸に気付いてそれを掴んで目を開けたら、ルナの銀髪が近くにあった。口の中はとても美味しい甘い甘い味がして、兄から飲まされた苦い自分の味を完全に忘れさせてくれていた。
そこまで考えた途端、額に猛烈な痛みがして、そこを触ろうとしても指一つ、動かせない体に気付く。そのままルナと地面に崩れるしかなかった。
何とか声を出せた。だが息をすると苦しい、その痛みで生きている事を実感した。
ここは地獄とでもいうのか?
濛々と煙と炎と熱が上がる野外で、子供とはいえ男女が裸で二人きりなど、ファーラは考えた事もない場面だった。ルナの胸がほぼ真上で視界の邪魔である。
だがそうして考えてばかりはいられなかった。
ファーラは次の瞬間、叫んだ。
「あああああっ熱い! 兄さんは? 父さんは!」
壊れた人形のように動かず、投げ出した足の先に火が襲い、その皮膚を焼き、体を侵そうとしていた。
今まで魔に堕ちかけていたからこそ耐えられた火は、刃となって天使に戻った事を恨むように、彼自身を焼き払おうとする。煙を吸い込んだせいか、今まで炎を放ち過ぎたせいか、彼の体は自分の力で全く動かせなかった。
ルナは気付いて火を防ごうとするが、障壁は操作しているわけでなく、体の血が巡るように勝手に張られるもの。それを彼にまで壁を伸ばそうとしても穴が出来てしまう。彼を抱えて飛びたかったが、先程炎に風を吹きかけた魔法で、彼女はかなり消耗し、ファーラを支えるほどに大きな銀翼を開く魔力はもうなくしていた。
「ルナ、どうなってるんだ! 熱い、熱いぃ」
「お父さんは、ちゃんと貴方が送ったわ。ごめんなさい。私がすると言ったのに。お兄さんは知らないけれど、きっと無事よ。眠って。大丈夫。必ず連れて帰るから」
こんな状況でも家族を想えるのかと半ばあきれる様な関心をしながら、ルナは緩く歌って彼を眠りに落とす。全身が焼ける痛みを感じさせる必要はない。せっかく助けたのだ、ここから逃げる手立てを考えねばならなかった。
「そうは言っても、どうしよう」
途方に暮れた瞬間、頭上から声が降って来た。
「あつーい! おもーい! 何で私なのよぅ」
水晶玉が喋りながら、ふわふわ降ってくるようにルナからは見えた。真下から見るとそう見えたが、掌大の水晶玉には小さい妖霊が張り付いて、落下させて割らぬよう、それでもかなりのスピードで降りてきた。きらきら光る蜻蛉の羽から金粉を巻き散らしたような軌跡が炎に揺らめいて、美しい。
「妖霊?」
両手で水晶玉を受け取ったルナの疑問詞は、答えられないまま、
「早くその子を押し込んで離脱しなさい! ルナッ」
更に頭の上から怒声ともいえる声が降ってきた。
見上げるとはるか上空に、豪華な金髪の少年を腕に吊り下げながら、ふらふらと飛んでいるレモン色の髪の少女が目に入った。
唐突に風呂場から脱走したルナを、ソネットが支度を整えて、後を追い始めるのには数分を要した。
一度戻って、とりあえず下着を身に着け、チュニックを羽織りなおす。彼女は普通の少女、ルナのように考えなしに裸で飛び出すなど考えられなかった。
部屋がノックされたが、慌ただしくしている彼女は気付かない。扉を叩いた者も二度まで呼びかける時間はなかったのか、その後は音がしなかった。
いつも携帯している鞄を肩から下げ、ルナ用に服を押し込んだ袋を背にする。鞄には携帯の医療セットと水と固形食が詰めてある。話の内容から、気にしていた処分未処理の者を置いてきた、南の森に行くのは見当が付いた。本部への連絡もそこそこに廊下に走り出る。何となく騒然としている気がした。やけに廊下を行き来し、屋上に出ようとする天使の数が多い。
「あああああああ! だからって全くなんで裸で出ていくかなっ!」
恥じらいとか、常識とか、もう少しルナに叩き込まないといけないとそんな事を考え、呟いていたので、それに気を留めず、再度、宿の屋上に出た途端、目を見張った。
「うそでしょ?」
先程まで、がら空きだった上空を、沢山の天使達が争うように飛び交っていた。それも今から向かおうとしている方向を避けようとしている者が多い。警戒を発令する音がどこからか聞こえる。
彼女が先程気付かなかったノックはこの混乱を誰かが知らせに来てくれたものだった。
「火事だっ! 南の森の魔が街に来るぞっ!」
「北のシェルターが解放されたらしい」
「とにかく別の街へ……魔は空中に飛ぶ物はいないそうで……」
「神殿都市までの規制が解除された、そちらにも飛行で避難できる……」
口々に叫んでいる言葉を拾い、慌てて空に飛び出したものの、ヒトが多すぎて、上手く前に進めない。魔道士である彼女には翼が無いので、すり抜けるのは簡単だったが天使の数が多すぎる。
たった数分だった出発の遅れは、もはや取り返せない時間に変わっていた。
南の空が焼けている。
その上、警察や消防の誘導官によって、そちらへ向かう事が困難になっていた。それでも範囲が広いので、全域がカバーされているわけではなく、迂回しながらも南の森へ足を向ける事に成功した。
この森に住む魔はリスか子犬程度のモノが多く、飛べない様だった。ただ建物の外壁をよじ登る事とその数が異常過ぎる。まるでアリの巣を突いたかのように、森からゾロゾロ這い出てくる。
それらに対抗する詰襟の服を着た軍の小隊が動いていたが、単発であり、余り効果は無いようだった。
長距離移動できない者や負傷者を受け入れる医療や救護施設と思われる建物は窓を閉鎖。屋上から天使を受け入れていた。その隙を狙い外壁によじ登る魔を警察官が追い払おうとし、数で逆襲されている様に目を覆いたくなる。
「遠くへ移動しろっ」
「南の森から離れるんだ」
水の魔力を持った者で構成される消防隊と、放水車を使う隊が組んで消火に当たっている。先程までこの街に居座っていた雲を呼び返す魔法も充填中の様子だった。
だが火力が酷く巻き上がる熱が産む風が強く、雲を呼び返せず、森を出て来る魔がチョロチョロと走り回り、地面に降りると手足を喰い千切ろうとし、全てが難航している。
今回の火災が自然発火ではなく、何らかの魔法が働き、暴走した火である事は、声を拡声器のように広げる警察の魔法具で繰り返し流されていた。
本来なら医療技術を持つ彼女は、負傷者救助に当たるべきなのだろうが、今はルナを追う事を優先にした。
「あの子は炎を苦手とするから、出火原因はルナじゃないと思うけど」
魔法には向き、不向きがある。ルナが火炎系の魔法を繰り出すのが苦手と知っている彼女は呟いた。
熱気と煙を避ける為に高度を上げると、その火は南の森のかなり奥まで広がっており、激しさを増しているのが目に入る。普通の山林火災とは違い、火山が噴火したのかと考えられる勢いで地面が溶けて流れ出しているのが不可解だった。
その上、対空砲火とも思われる緑の炎を見た瞬間、引き返す事も考えた。
「緑の炎なんて、誰が撃ってるの?」
魔法が占める世界であるからこそ、攻撃魔法は強く取り締まられる。
こんな事をしてタダで済むとは考えにくかったし、無鉄砲にも程があった。
上空から見る限り、警察機構は強化班を持つ普段は強盗相手をするブラックリボンを中心に、この火災の沈静化と犯人逮捕も図りたいようだったが、魔の乱入した街の混乱の方が酷く、そちらの対応に追われ、身動きが取れていない状態だった。
軍は完全に細かい魔を殲滅する作業にだけに動いている。
航空規制も、森に入った辺りからもう見当たらない。
魔法に関する事件は巻きこまれたら最後、呪いや逆凪などで末代まで祟られる危険もあり、こんな大規模な騒ぎに好んで突っ込んで来るとしたら、情報屋ぐらい。
物見遊山で来る天使は皆無だ。それほど魔法暴走や魔は畏れられていた。
「どう考えても、全く関わりがないなんて……楽天的すぎるわよね……きゃっ!」
そう言った時、突風がソネットを巻きあげ、危うくその勢いのまま燃える地面に叩きつけられかける。何とか体を保たせ、燃えていなかった樹に一度身を寄せる。今まで以上に燃え上がった火を見て、ソネットは楽天的な考えを払拭された。
「今の空気圧、ルナの匂いがしたわ。全くなんて風を起こしてくれるのかしらっ」
緑色をした炎の球が上がるのが消えたが、ソネットは樹から離れて、火柱に巻きこまれないギリギリの高度を取り、そこへ向かって進む。
ルナの旋律が辺りを埋めていた。声は聞こえないが、その音が生み出す波長をソネットは捕えた。
その旋律が止まったかと思ったら、次は耳を塞ぎたくなる突き刺すような悲鳴が上がる。凶器にも似たその音は、聞く者の心臓を貫く。
「ルナッ!」
音源に向かって進むと、別の方向、かなりの高度から舞い降りる人影が見えた。ちょうどソネットが飛行していた火や煙に影響があまりない、ギリギリで降りるのを止めた。
それは警官ではなく、子供だった。
無駄に美しく輝く黄金色の髪、さらさらと炎が生み出す風に舞い上がるそれに合わせて、きらきらと輝くネックレスの様な鎖が揺れる。長衣がはためき、その整った顔立ちの少年は遠目でも彼女に美しいと思わせた。
「ここまでしか寄れないな……凄い陣が見える……複雑すぎて訳が分からないよ」
「貴方、何してるの?」
だが、彼女に質問に反応はなく、彼が向かっていた先にルナが少年を抱きかかえて座りつくしているのを見つけて、ソネットは近寄る為に高度を落とそうとする。その途端、金髪の少年は彼女の腕を掴んで止めた。
「危ない! 近寄ったら溶けるよ。ここからは半端ない魔法の陣が……」
「貴方! 口、利けるんじゃない! 私はルナを連れ帰らないといけないのっ」
ソネットは手を振り払う時、彼の瞳を見た。
炎に染まっていたが、その色は間違う事ない紫水晶色に煌めいている。肩には小さな人形のような者が乗っていた。その背で透ける羽から弾ける何かが炎に揺らめき、金粉の様に巻き散らされる。
「レイルさまは善意で言ってあげてるんだからねっ! この炎は王様が作ったモノ、普通に天使がそのまま近寄ったら死んじゃうわよ」
ソネットは妖霊カデンツァの言葉を聞いて、
「王様って……貴女達の王って……」
「ここに居たのは火の霊王……私の王じゃないわ」
「火の霊王!」
再度、飛び込もうとしたソネットを見て、再び彼は彼女の腕を掴んだ。
「何なのよっ! 私が焼けようとどうしようと勝手……」
「ごめん、俺、耳、聞こえないんだ、だから前向いて話してくれる?口は読めるから」
正確には聞こえないのではなく、塞いでいるのだが。
ソネットはこの少年、レイルの事をそれなりに知っていた。警護に当たった事はなかったが、彼女は魔道士であり、警護には今、一番人員が割かれている。事情で耳を塞いでいる事も聞き知っていた。
そして話したこともなかったこの少年が、何より嫌いだった。
その気持ちを映してか、水宝玉瞳を細め、彼を睨みながら、
「貴方のその妖霊、貸しなさい!」
「「え?」」
レイルとカデンツァの声がダブる。
「天使が降りれなくても、妖霊なら降りれるでしょう?」
「ちょ、ちょっと待って。俺、この子いないと飛べないから」
「え? 貴方、天使でしょう?」
「その前にやるって言ってないわよっ」
会話に割り込むように、ファーラの叫び声が上がった。
レイルには聞こえなかったが、カデンの表情で何かが起きたのを察する。
ソネットは有無を言わさずレイルの肩にいた妖霊を掴むと、自分の肩鞄から出した救急搬送用の水晶玉をその小さな体に押し付けて、
「貴方の天使は私が支えておくから、割れないように銀天使の所まで運びなさい」
その目は激しく怒りを込めたように命令し、更に、
「失敗したらこの天使、炎に投げ込んでやるから!」
そう言いつけると、水晶玉に彼女を取り付けたまま、回転させないようにしながらも、割と勢いよく下に向かって投げる。
「ちょ……カデン!!!!!!!」
カデンツァの支配下から離れてしまったレイルは、急に混乱し、がくんとそのまま落下しそうになる。その腕を取って、ソネットは、
「あろうとなかろうと、自分で最大の揚力発揮しなさいよっ!」
「そんな無茶な……」
恥ずかしいほど小さい金翼で、必死に空を掻く。頭に浮かぶ図形やなだれ込む文字。それらを整理して整然と飛ぼうとするが、気流の安定しない場所でうまくいかない。
その時にソネットの背に翼がないのに気づく。翼を表に出さずとも、天使は飛べる。だがこんな炎が燃える乱気流の生まれがちな場所では、翼を広げるのが普通だ。
「君、魔道士? 不思議な図形が浮いてるけど、これで飛べるの?」
「はあ? 魔道士なのは間違いないけど。貴方、何を言ってるの?」
小馬鹿にしたように言い放ったが、レイルの耳には聞こえてない。
ソネットは両手で水晶玉を受け取った炎の中のルナを確認すると、
「早くその子を押し込んで離脱しなさい! ルナッ」
ソネットはルナ自身は飛べる事を祈りながら叫んだ。
ルナはすぐにファーラを水晶玉に取り込ませると、普通サイズに戻った銀翼を何とか広げて飛び立つ。
「ソネットォーーーーーーーー」
その胸に水晶玉を抱きかかえ、ぼろぼろ泣きながら空に舞い上がってくる。肩からは血が零れ、足まで伝っている。レイルは目のやり場に困った。遠目に知ってはいたが、彼女が何も着ていなかったからだ。この事態にそんな事を観察する余裕はないし、
「ルナをじろじろ見るんじゃないわよ……」
ルナと共に上がってきたカデンツァに突っ返される前に、ソネットに口を大きく開けて釘を刺される。
「……何だか、嫌われてる?」
何故、初対面の天使にこうも手荒く対されるのかレイルにはわからなかった。
「彼に酷い火傷を負わせてしまったの、守りきれなかった。辛そうだったから意識レベルを落としてるの。ソネット診れる?」
「わ、わかったから。その恰好で詰め寄らないで。もう少し上空に移動して。ここは私にはギリギリで……ここまで上がればルナには余り感じないでしょうけれど」
もう火柱は上がらなくなり、地面が溶けて流れ出すのは少し治まっていた。それでも火事は止まる事なく、森を焼き払っていた。
不自然な風が吹き、雨が落ち始める。炎を放つ中心人物が居なくなった事で、雲を呼ぶ陣が完成した様だった。雨脚が少しずつ激しくなる。
垂直上昇しながらその両手でソネットは水晶玉を受け取る。淡い青の光を発する水晶玉には、小さくなったファーラが膝を抱えて胎児のように収まっていた。
不思議な青い光を見ながら、レイルは後について上昇する。
「何で私が、レイルさまじゃない天使の言う事、聞かなかきゃいけないのよ! 怖かったんだから」
「ゴメン、俺はこれ以上、下に降りれなかったから。ファーラをあそこから助け出せたのはカデンのおかげだよ。本当にありがとう」
愚痴っているカデンツァを宥め、素直に友を救い出す手伝いをしてくれた事に感謝の言葉を述べると、彼女は溜飲を押さえてくれたようで、姿を消した。目には捉えられなくなったが、レイルの思うように、銀天使がソネットと呼んだ天使の後を追えるように手伝いしてくれた。
「熱傷2度、浅い方とは思うけど。良く守った方だと思うわ」
「それじゃあ……」
「安心はできないわね、範囲が広すぎる。詳しい説明はしないけど、感染症が怖いし、熱による呼吸器の損傷も酷いのよ」
ソネットはここに来るまでに見た街の混乱ぶりを思い出す。魔は建物の外壁を登り、急襲していた。医療施設も満杯状態だろう。受け入れてはくれるだろうが、このままルナを連れて自分達が行くのはどうかと思った。
「本当は簡単な応急処置ぐらいしておきたいのだけど。場所がないし」
ソネットは水晶玉をレイルに押し付けて、自分達は逃げた方がいいと思った。だが、医療従事しようと志す者にとって、その決断は出来なかった。この事態を引き起こしたのが、魔の処理をまだと現場を離れるのを嫌がっていたルナを、いつも大丈夫だからと引き離した事にあるのもわかっていた。
「場所……あそこに降りよう」
レイルが指差したのは、森の泉だった。
風の向きのせいか、その辺りから一部だけ、樹が焼け残っている。回りは燃える物が無くなり、雨により火は治まりかけていた。
「何考えてるの? おかしいんじゃない? 今、魔が走り回ってる森に降りようだなんて」
「ソネット、降りるわよ。紫の子、貴方の判断は正しいわ。大丈夫」
「ちょっと、勝手しないで! ルナッ! 貴方も余計な事を……」
泉の近くに三人が降り立つと、動物や魔がひしめき合っていた。
小さいが黒い魔。
見た目は鞠のように丸く、柔らかい毛に包まれ、つぶらな瞳をしている。だが口を開けば獰猛で鋭い牙が見えるはずだ。
レイルも内心、恐ろしかった。
だがこの辺り一帯にだけ、何故かうっすら光が見えたのである。それは魔法具にかけられた優しい何かと同じ輝き。そしてそこに集まる魔や動物達は、一時的であろうが、弱肉強食の世界を一時休戦し、炎から身を守る為、その狭い空間で共存していた。
「怪我人が居るの。お願い、場所を貸して」
ルナが言うと泉の近くにあった大きな岩と、そこまでの道を皆が身を寄せ合い、開けてくれた。
恐る恐るソネットはその岩まで移動し、ファーラの体を水晶玉からそこに移す。
雨が回りの森に落ち出しているというのに、この空間だけは一滴の雨粒も感じない。
「ルナ、まず何か着なさい。それからこれは……」
持って来ていた服から一枚、白っぽい花柄のワンピースを出し、持っていたナイフで切れ目を入れて割いた。長くしたそれをレイルに渡すと、
「ルナが服を身に付けたら、肩にきつく、これを巻いてやって」
ルナがモタモタと服を出して着ているのをチラ見するワケにもいかず、着替えたら言うように告げ、レイルはファーラを診るソネットを見やった。
ファーラの下半身には先程切り裂いたワンピースをかけていた。全身が赤く、腫れている様に見える。そしてもう血は止まっているようだったが、額に大きな傷があった。赤い髪が少し焦げたのか、毛先だけ少し黒く見えたが、まだいつもの緑黒に戻っていない。
ソネットは切れ端を持っていた水で濡らすと、繊細な手つきでその顔を拭いてやり、傷の具合を見た。
「ここは大丈夫みたい」
彼女の淡いレモン色の金髪は癖がなく、肩ほどで切りそろえられていた。その両耳の辺りに伸びる髪だけ腰まで長く伸びており、彼女が何か呟くと二本の触角のように動いてファーラの体を這う。
水宝玉瞳が強く空色の青に輝き、その指先に同じ色の輝きが宿っていた。
おもむろに自分の鞄に手を突っ込んで、色の違う薬液が入ったガラスのアンプルを2本折り、その手に受け、混ぜ合わせると何かを呟きながらそれをファーラの体に塗った。
「もう痛みはしないはずよ。でも思ったより……」
彼女は振り返ってルナを見て、その先の言葉を詰まらせた。
「火傷は大丈夫。範囲は広いけど。それより肺などの臓器機能が低いの。酸素が十分取りこめないみたい。財団の本部に連れて行けばと思うけど、たぶん……持たない」
そう告げた途端、まだ下着姿だったルナがレイルの背中に飛びつき、右の耳栓を抜いた。そして抵抗の余地なく彼の体を拘束する。
「な……」
回りの魔と動物が後ずさりし、一斉に森の中へと消えた。
火が雨で弱まりつつあった事もあろうが、それは見事に一匹残らず、その場から立ち去る。火よりも恐ろしい危険を察知したからに他ならなかった。
「貴方! 実験台になれってファーラに言ったんでしょっ?! やりなさい、今すぐ」
「何をだよっ! 何を言って……」
「ルナッ? 何やってるのよっ。この子に何が……」
「やらないと言うなら、ここで一緒に逝ってもらいますから。友人だったんでしょ、いいじゃない」
そう言い放ったルナの声が、耳栓なしでレイルの体に飛び込む。本気の殺意が渦巻く声音は、美しくあり、だが内容はかなり横暴だった。
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