与えられなかった言葉
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罠は仕掛けた。
美しい獲物よ、お前を手にする時を待っている。
「私が書いたんだ!」
こんな嘘が長く通る訳はない。
「それは全て、私が書いた」
それなのに父は嘘を重ねた。全ては自分の為とわかっていたから、レイルは声を潜めて、
「俺が書いたの、言った方が良いよ」
「目的がわからない限り、息子を差し出すわけにはいかない」
父の本気はレイルに伝わる。
五日間、耐え抜いたのだ。指を折られるとか、爪を剥がれるとか、屈強な戦士でもない彼に、どうして堪え切れたか。
小さな正義感か保護者の努めか、息子や弟を訳も分からず差し出すような男ではなかった。緩い、緩めの拷問であった事もあるだろう。たぶんそうでなければ、まみえていないという事をマハイルがわかっているかどうか。
レイルは思った。
ここを掻い潜り、外に出られれば、叔父や祖父が何とかしてくれるだろう。
それにはココで、マハイルに一筆書かせるしかない。だがあの特殊な絵柄を彼が書けるわけがない。
その嘘を正しくするにはこの方法しか思いつかなかった。
レイルは父の耳元で囁く。
「父さん。細い筆と白と黒のインク、用意させて」
「な、んだって?」
「一緒に描いて。俺がガイドする」
マハイルはレイルの申し出に、おおよその意味を感じ取ってくれたらしい。頭を巡らせ、またもいい加減な嘘をつく。
「私は今、消耗していて魔法を使う余力がない……」
嘘に嘘を重ねて描き出す一枚の図形。
納得させて外に出る、その突破口になればと願う。
ただの時間稼ぎでも。叔父が来てくれれば、それでも構わない。
ココを無事に出たい、父と共に。
「父さん、力を抜いて、手を添えて、心を添えて」
どこかで聞いたようなセリフが、何気なくレイルの口を付く。マハイルの傷ついた体を見てか、自分の指が折られる恐怖にか、良くわからない感情で襲っていた震えが止まる。
書き始めはこんなやり方でまともな字や図が書けるのか疑問だった。
しかし、昔、こうして父と字に向き合った記憶が、ゆっくりと彼と父を導く。
初めは時計の分解作業中に描いたどれかを思い出しながら書くつもりだったのに、手が勝手に動き出す。滑らかにしなやかに。
ファーラの肌に触れた時に、白い、白い、白鳥の様なものを呼び出した時の解放感のような物が、レイルの思考能力を奪っていく。
今、自分が書こうとしているものは何か、レイルにはわからなかった。
引き込まれながら昔の事を思い出す。
それはあの日。
言葉も喉の奥に詰め込んで発しなかった幼い日、父は自分の手を取った。
そして滑りこんでくる光の正体が心地よく、それでいて悲しい気持ちが彼の腕を支配する。
それは何処からやって来るのか。
追いかけていくと、幼い子供が二人見えたのを思い出す。
あれは、誰だ。
記憶の扉。
「マハイル、これ俺が読むから」
一人の少年が読んでいた本を、もう一人の少年が取り上げた。
ハッとするほど二人は今くらいのレイルに似ている。そして二人はそっくりだった。
肌の色を除いては。
「ごめんね」
幼い時の父マハイルと叔父アレードだ。レイルはそう確信した。
マハイルが素直に渡すと、アレードはますます機嫌が悪くなって、その本でマハイルの頭をスパンっっと思い切り叩いた。
「俺、お前嫌いだから」
「うん」
「うん、じゃねーよ!」
更に怒りを増したアレードは本を投げ捨て、部屋を去り、鍵をかけてしまった。だがマハイルの方は、ぼーっとその背を見送り、彼が近くに置き残した本を拾って、また読みだした。
おいおい。まあ、父さんらしいって言えばそうだけど。
父の記憶に入り込んでいる事に疑問は湧かなかった。
ファーラの体を書き換えたり、並べ替えたりした時辺りから、自分にはヒトにはあまり見えないモノが細かく「見え」、「扱える」事を認めざるを得なかったからだ。
狭い、直径にして2mくらいの薄暗い丸い部屋。
そのマハイルの座った丸い床から螺旋階段が緩やかに上へ上へと延びていて、扉以外はその壁はすべて本で作られているようだった。
そう、壁全てが本棚になっていて、欲しい本はその螺旋階段を上って取る仕組みになっている。高さは良くわからない。見上げるだけで登りたくもない段数がある階段。上は暗くてどこまであるのか見えなかった。
その高さと同じだけ、この部屋は実に沢山の本があった。
それを全部読む気ではなかろうかと思う勢いで、マハイルは読んではまた返し、階段を上がってはまた本を持って帰ってくる。
窓がないので、時間の経過はわからない。
明りは手にしたマハイルのランタンだけ。魔法具らしく、なかなか光が切れなかったのだが、やっと明りが落ちた。
「あれ?」
発光する表紙の本が近くにあったので、その薄明りでマハイルは扉に近づく。だが扉はアレードが鍵をかけていて、出られない。
「あれ、あれ?」
やっと焦るかと思ったら、あっさり扉から離れて階段の下で丸くなってジッとまた本を読みだす。暗がりで読めたのは、表紙が発光する本のおかげ。しかし発光する本も次第に蓄光を失い、文字を拾えなくなると、死んだかのように動かなくなる。本以外に興味がない、または本しか興味を持たないようにしているのかもしれない。
まるで手負いの猫のように、哀れで、でも助けを全身で拒否するような姿だった。
どのくらいそうしていただろう、扉がゆっくり開く。
「マハイル!」
優しい黒髪、愛のあふれた黒い眼差し、肌の色はアレードと同じ褐色の女性。
今から比べると年は若かったが、それはすぐ誰かわかる。リフューばあちゃん、又はジュリアばあちゃんと呼ぶ、血の繋がらない祖母、アレードの母だ。血が繋がらないと聞いているが、レイルにとっての父の祖母は彼女だ。見た目に違わず優しいヒト。本当の孫ではないレイルにもその腕を広げて接してくれる。
この時のマハイルは大して面白くもなさそうに顔を上げると、途端に優しい笑いを張り付けて、
「扉が壊れたみたい。開かなかったから」
「壊れたみたい、じゃないのよ。アレードが鍵をかけたのでしょう?」
「鈍いお前が悪いのよ、マハイル。アレードごめんなさいね」
もう一人、こちらは見るからに険の強そうな女性が現れる。金髪、余りに濃すぎて黄土色に見える金髪。金の目に不健康そうな色の肌をした女性。
指は細く、体は弱く、折れそうなのに、意志が強く、誰にも折れない性格が窺われた。
何の事情も聞かず、マハイルを断罪し、冷たい視線は彼を見る事さえなく、冷たく切り離す。
「ごめんなさい、母う……」
そう口にしようとした途端、彼女の目は見開かれ、明らかに眉に敵意を乗せて、マハイルの頬を引っ叩いた。
「ゴミのクセに、ヒトに迷惑かけるんじゃないのよ!」
彼女はくるりと背を向けたが、置き捨てるように、
「貴方の母は私じゃぁない」
「ニーチェ様、そんな事、言ってはなりませんわ」
「ジュリア! 貴女があの子の母親なんだから!」
マハイルを気にしているようだったが、リフューはニーチェの侍女扱いらしく、彼女を追う。
ぽつん
文字通り、廊下に取り残されたマハイル。
ゴミはゴミでも、貴女が産んだ生ゴミなんですけど。
そう思う彼が誰に見せるわけでもなく、一人、笑う。それを盗み見たアレードはやはり不機嫌そうにその場を去った。
近くの部屋から別のランタンを取ると、彼はまた螺旋の部屋に入っていく。
レイルもその後を追ったつもりだったが、そこは先程の室内ではなかった。
マハイルは真っ黒い服を着ていて、気付くと緑豊かな外だった。
喪服だ。
それに似つかわしくない派手な黄金色の髪。彼の目前には小さな墓がある。
…Nietzsche Green Souel…
…ニーチェ グリーン ソウエル…、そう書いてある。
祖母、険の強いあの女性が血のつながったマハイルの母だと気づくのに、時間は要らなかった。そしてそのヒトの墓だと。
レイルはマハイルの実母ニーチェが、早くに病気で死んだと聞いている。アレードの母をマハイルは形式として義理母と呼ぶ事はあるが、彼女を本当の母として慕っており、マハイルの口から本物の母の話がのぼった事はない。墓参りすらさせた貰った事がないのに今更気付く。
天使界では教会での炎の葬送後、喉仏の骨と取り置いた羽、少しの遺品を入れて埋葬される。
だがこの墓には彼女の骨も羽も、遺品すらも入っていない、余りに強い病気であった為に骨は脆く清浄の炎で残らず焼け、闘病で抜け落ちた羽は生え変わる事がなかった。骨が残らない事もわかっていて、彼女は遺品も何も入れないで良いと言った。
そこは空っぽの墓。
ニーチェは死を前に、自分の息子をも寄せ付けず、結局、侍女のリフュー以外部屋にも入れないまま、逝ったという。それもコト切れる寸前に、リフューを用事で部屋から出していたというから、たった一人で逝ったのだ。
記憶ある限り、マハイルを一度もやさしく抱いたところは見た事がないとか、埋葬の顛末とか、こっそりアレードが話してくれた事がある。息子を目にも入れたくない素振りで、当てつけるように自分の事によく構ってくれ、逆にアレードは閉口したようである。
やはり喪服姿のアレードが現れ、マハイルのまだ小さい背中を叩く。
「お前、何やってるんだよ」
叩かれた彼の手中には細かく千切られ、バラバラになった写真。
「お前! それっ」
「この世に母は一人で良いから。そうするようにあのヒトは言ったのだから」
強い風が吹いて、ただの塵となった面影をマハイルの手から攫って行く。その塵がダイヤモンドダストのように煌めき、太陽に溶け、その美しさがレイルに筆を取らせていたのだった。
その煌めき一つ一つが、雪の結晶のように美しく舞う。
どれ一つとして取り落としてはならない、幼いレイルは瞬時にそう判断した。その結晶の形を並べて書き出していると、
「やめなさい! 止めないかレイル!」
耳を塞ぐ栓は当時完全ではなかったので、父の声が割とはっきり聞こえた。だが、止めない。今止めたら全部融けて二度と形を留めなくなる。
それでも書き続けると、マハイルは狂ったようにレイルの腕から筆を取り上げ、遠くに投げた。それでも忘れないように網膜に焼き付ける姿が、空恐ろしかったのか、彼は強くレイルの髪や体を撫でつけて、彼を掻き抱いた。
「自動筆記」
自分ではない何かに憑依されて肉体を支配され、自分の意識とは無関係に書く事。
あの時、滑りこんできた光と悲しい気持ち。それを乗せて筆を動かしているのだとしたら、今、まさに目の前に描いている物は何だろう?
ハッとして、現実に戻る。
父が自分の描いた物を証拠に捕えられ、傷つけられていた現実に。
そして目の前に紙に描かれた、たぶん自分が書いた絵のような文字を見やった。
レイルは問う。
これは何だ?
漆黒の絹糸はもはや縄のように強く太く編み上がり、黒く、うねりを上げる大波となっていた。
吐き気を催すような、濃い血の塊をレイルは感じてたじろぐ。それはとめどない後悔と無力さの前に築かれていく、恐ろしい憎悪の塊。
その塊は秘めた刃を研ぎ澄ませ、対象者に飛びかかろうと狙う。
「父さん、これ」
マハイルの青みが差した金の瞳が困惑に満ちた。
息子の紫水晶瞳と焦点があった時、彼は気付いたのだ。
自分の間違いに。
「乗っ取られた……ではなく、私がお前を乗っ取っているのか?」
殴られ、指が折れ、絶望に満ちかけた時、思い浮かんだ、か細いあの人の姿。
沢山、沢山、たくさんの愛情は義理母から与えられ、教えてもらった。
妻から想われ、愛し、愛された筈だ。
それなのにこんな時に思い浮ぶのは、消えるように細いあの女なのか?
墓にさえ何も残らぬと言うのに記憶に焼き付いている。
痩せた指はマハイルを抱く事も触れる事もなく、愛情を見せない彼女の金瞳は、今もマハイルの心をずたずたに切り裂く。
こんなに痛いのに、まだ足りないのか?
大人となり乗り越えたと思った母の亡霊に、こんな所で会うなんて。
ゴミのクセに、ヒトに迷惑かけるんじゃないのよ!
色の悪い唇から紡がれた、未だに鼓膜に響くその言葉に、マハイルは開きかけていた口を閉ざした。貴女の様な無責任な親に、自分の都合でばかり動く大人にはならないと。愛情を持ってどんな子でも抱きしめて守ると。
ただ母に対する恨みは、拷問に耐える間にそこに纏まっていた。そのドロドロとしたうねりが、父の傷ついた体を見て揺らいだレイルの心を捕え、奪い取った腕に黒い物を紡がせる。
一つでいい、だが与えられなかった言葉を求めて。
目の前に広がるのは荒涼とした闇。押し寄せる感情に抵抗できず、牙を剥くのに賛同する。
心に浮かんだ文字は黒、闇、そして完璧なまでの漆黒。
この図は完成させてはいけない。
「終わったのか?」
激しく動いていたレイルとマハイルの手が次第にゆっくりになり、完全に動きを止める。
二人が「書いてはならないモノ」と気付いた時には、その図は完全に完成をみていた。
警官の中でも一番偉そうな中尉がレイルとマハイルに話しかけてくる。
家に踏み込み、ここに連れて来て父の指をへし折った警官は、笑った。
「ちょっと違う気がするが、これは素晴らしい」
今までルクア中尉が見てきたこの手の紙切れの中でも、余りに力強く、差し迫ってくるものがあった。ヘブライ文字に近いそれは、円の法則を持って並べられ、素人目でも充分意味があるのを感じとれる。実際に彼にその内容を精査する力はなかったが、十分すぎる証拠をつかんだ確証に打ち震えた。
5日間、無駄ではなかった、大佐の仇を捕まえる足掛かりは出来た、と。
「レイル、戻って来てるか?」
「う、うん」
当の描きあげた本人達は冷静に、だがまるで全速力で走って来たかのように息を切らせ、大量の汗を垂らしていた。心臓が早鐘を打ち、金色がかったマハイルの青目と、紫水晶瞳が絡んで、二人の共通認識は一致しているのを確かめる。
マズイ物を描きあげた、と。
「寄越せ!」
二人が止める間もなく、中尉の手が延びた。
「!?」
ルクア中尉は最初、見間違いかと思った。
紙に書かれた文字が少しブレて、アリが行きかう様子を眺めているかのような感覚に襲われる。
だが、インクで書かれてハズの文字が、切り紙のようにはらり、はらりと床に数個落ちた時、完全に異変に気付いた。文字が紙を離れ、彼の指から手、袖を潜り、ゆっくり肌を、腕へ上って行く。
「わ、わ、なんだこりゃ!」
「!」
回りの警官もその異変に気付く。
統率のある意志を持って登り来る文字を、彼は払おうとしたが、紙をにぎっていた彼の指先が黒く変色し、ドロリと溶けた。あれだけ文字で埋め尽くされていた紙はほぼ白紙になっており、床に舞った。
「な、何をしやがった!」
わ、わからないのですけど、すみません。でもあんまりよくない物だと……そうレイルは思ったが声にする間はない。
カチャリ
二つの銃口が親子に向けられる。
突破口を開こうとして、逆効果じゃないか!
そう心の中で叫ぶも、ふとマハイルを見ると眉を寄せているも、慌ててはいなかった。その眉の寄せ方が、夢か幻かで見た祖母に似ていると言ったら父は怒っただろうか?
そうしている間にも文字に浸蝕された彼の体は溶けて、指は黒い液体となって床に垂れる。
「ぎゃあああああっ助けてくれ! だだ、だ、誰か!」
「お、落ち着いてくだ……わっ、俺に付けないでくだっ!!!!」
「何だ、この文字は?蟲か? 生きているのか?」
「やっと、来た」
「はい?」
父の呟きが聞こえたが、レイルにはどういう事かわからない。
溶けて行く中尉の体に触れると自分もやられるのではないかと、手も出せず、おろおろする警官が二人。
レイルとマハイルの銃を突きつけるのが二人。その銃口の一つがマハイルの左のこめかみに付きつけられる。
「どうにかしろ!」
「拳銃を下せ。私を殺せばアレは更に狂暴化し、即座に心臓を食い破り、お前たちも襲うぞ?」
え、誰がそんなこと言ったっけ?
さっきマズい物を描いたと、焦っていたじゃないか、父さん。
こんなにも父が肝が据わっていて、嘘っぱちを唱えられる人だとレイルは知らなかった。マハイル自身もそう思っていたのだが。描く時に解放されていた左手で、涼やかに銃口を下げさせる。実際に止める方法は定かではないが、あれはヒトを喰らうだろう。そうマハイルは直感する。
後30秒だけ生き延びれば、来る。
長くこの場を持たせる必要を彼は感じなかった。
ドオン!
すさまじい爆音がして、建物が大きく揺れた。
「な、なんだ?」
警官達がたじろぐ。何事かと思ったら、そうしないうちに扉が蹴破られた。
渋い緑の警察機構の服装、ずぶ濡れの姿だったが、敵ではなく、見慣れたヒトの顔だった。
「アレード………早かったな」
「叔父さん! 遅い!」
もう一人は知らない顔だったが、瞳がレイルと似た紫なのに驚く。
二人とも、手には剣。
アレードは状況を見て剣を収め、逡巡なく即座にホルダーの自動式拳銃へ切り替えた。
部屋に飛び込んできた二人の目の前には、異様な光景が広がっていた。
天井からすべて単調な赤い色の部屋に、イスに体を縛られたマハイル、何故かその腕と腕が縛られているレイルが横に立つ。
警官二人が、銃を手にしている。だが銃口は下がり気味であった。
もう立っている事もできず、床に転げまわっている警官の方に注目する。その警官の腕は変な臭いをたてながら溶けだしていた。何かが皮膚の上を虫のように這いまわっている。
二人は話し合うまでもなく、自分の獲物を確実にとらえる。
美しいまでに分担された仕事を、二人は同時に熟す。
「ここからは俺に従え!」
アレードが連れ込んだレイルに似た瞳の男がそう言い、床に転げた男の腕と胸を踏みつけ、容赦なく腕から切り落とす。
紫のリボンが彼の身のこなしに付いて揺れる。骨があると言うのに、それを感じさせることなくヒトから切り離す。そしてのたうつ体を降りると、自分が入ってきた扉に向かって、文字が這いまわる腕を思い切り蹴りとばす。
「喰え!」
瞬間、入ってきた扉から黒い風が腕を咥える。それは水色の目をした黒豹。
「お祭りは終わりだ! 全員、武器を捨てたら頭に手を置け!」
アレードは切り替えた銃で的確に、二人の警官の銃を取り落とさせ、もう二人の警官を動かぬよう銃口を向けて釘付けにする。彼ら二人は無抵抗を示し、ゆっくりと腰の銃を抜いて床に置き、4人全員が両腕を頭に置いた。銃を回収し、携帯剣が鞘から抜けぬよう、魔封をかける。
クチャグチャグチ……ガリガリガリ…ぺろぺろ……
外もすでに制圧されているのか、中尉の隊でありながら、扉の向こうから援軍らしき影はない。ただ、扉を守っていた警官二人が、顔色を変えながら、黒豹に喰われていく上司の腕を眺めやる。
豹は不味そうに袖付の食事を終えると、目を細め、零れ落ちて逃げ惑う文字をぺろぺろと舌で救い上げ、舐めつくす。
「し、シラー少将、貴方は間違っています。この教授は黒で、す」
痛みの余りに失神でもするかと思ったが、腕を失った中尉はその傷を押さえながら、必死に自分の捜査による結果と正当性とを述べる。
その姿は警官の鏡と言えよう。
「今、私の腕を這いまわっていた文字を見たでしょう!それを教授は描いたんです。ヤツの嫁の父はブルーリボンの大将だ。貴方と被疑者の関係はわかりますが、こんな偶然ないでしょう!」
「ああ、やかましい」
だが感銘する様子もなく、彼は床に転がった中尉の耳元に剣をぶっ刺した。
「俺に従えと言った」
階級的に文句言える立場にはなかった。しかし今までここを取り仕切っていた者として主導権はこっちにあると、再度抗議しようと睨んだが、
「アレードの不正報告が上層部に上がったのは、大佐の死亡推定時刻の後だ」
「!」
「命の為だが、腕をもらって悪かった」
シラーに短く告げられた言葉により、ルクアは自分が大佐ではなく、他の誰かに利用されていた事を把握する。
彼は今回の行動が極秘だと告げられ、最初一度だけ大佐と直で会話した後の連絡は、映像なしの電話や伝令などで行っていた。最初に会った時から大佐が正気だったか、脅されていたかなどは不明だが、調査に付け入る隙はあっただろうし、シラーに命を救われた事にやっと気づく。
彼は痛みを飲み込み、口を閉じた。
シラーは目で他の警官に指示して、その腕の応急処置をさせる。
修羅場と化したこの場所も、制圧されれば溶解は早かった。
中尉よりもかなりの高階級の登場に、現場は軽くなびいた。
無抵抗の者に、五日間、ほぼ閉鎖空間の中で違法と言える聴取を行い、証拠を得られず溜まった鬱積は、解放してくれる者に従順だった。
彼らは手際よく撤収準備に入る。中尉は医療搬送用の水晶で連れて行かれた。
「大丈夫? 兄さん、レイルも頑張ったな」
銃をしまうと二人の腕を外し、マハイルの足を椅子から解放する。
「この借りは返すから」
「じゃあ、メアリを忘れて、嫁さん貰うんだよ、アレード」
「それは……」
二人の会話を聞きながら、紙切れに近づく。
自分以外が描いた不思議な文字の様な図形。
今、恐ろしい文字をかきあげたからこそ、自分が何を書いたか知っておける手がかりを、見落とすことが出来なかった。恐る恐るレイルはそれを手に取った。
「それは球封じを破砕する盾と対抗の矛だ」
シラーが血糊を払い、剣を鞘に戻すと、紙を眺めやるレイルの疑問に答えた。彼は導き出していた答えがあっていた事に驚く。
冷たい声のヒトだったが、驚きの方が勝る。まだピッタリと雨に濡れて、乾ききれない髪を彼は鬱陶しそうに掻き上げ、
「教授ではなく、闇文字を書いたのはお前だな? あれはもう書くな」
「え? オジサン読めるの?」
オジサン、その言葉に傷ついたのだが、シラーの無表情さにレイルは気付かない。
「それ、貸して。じゃあこれは?」
彼の胸ポケットにあったペンを借りると、左手でたどたどしくレイルは幾つか図形を描いて見せた。
「マ・か・イ………違う…教授の名前、マハイル、だな。その字は即、危険はない」
シラーは自分に似た紫水晶瞳を見て、
「魔王の色か、お前は何者だ?」
「大丈夫なの? ああ、レイル! 貴方!」
レイルの返事をかき消したのは、駆け寄って来たメアリの声だった。
まずレイルに駆け寄るとその無事を確かめ、抱きしめ、キスをした。
シラーはココでの追及を諦めたのか、自分の黒豹を寄せて、床に文字の取り落としがないか確認させる。容姿で自分の幼馴染から聞いていた、魔王色の甥っ子だとすぐわかる。いずれこの件で追及はせねばなるまいが、それはブルーリボンの仕事だ。
それに簡単にだが、釘は刺した、今はそれで良かろう、そう思う。
レイルは白髪の男と話せず、残念だったが、母の動きに従う。
メアリはレイルの手をつないだまま、震える足で、マハイルに近寄る。それなりに服で隠されていたが、打撲や包帯は巻いてあるが血の滲む手、縄で鬱血した足首などに目を彷徨わせ、涙ぐんだ。
「こんな事に何故?」
マハイルはメアリに笑った。
上手く笑えているかはわからないが、真っ先にレイルを抱きしめたその姿がうれしかった。自分が彼女を選んだ事に間違いはなかったと。
「帰ろう、うちに。大丈夫だな?」
マハイルの言葉にアレードは頷く。濡れた黄金髪から雫が落ちる。
「そのケガだし、外は雨だ。医療搬送用水晶を用意しよう」
「いや、自分で帰れる」
「そうか、この森は魔獣が出る時間だ、飛んで出てくれ。それから護衛を付ける」
聞きたい事は山ほどあるが、彼が逃走する危険も無ければ、もともと任意同行の形を中尉は崩していない。
普通なら署に同行させるが、一度家に帰らせて休みを取らせる位の身内贔屓、そしてそれを与えられるだけの権力ぐらいは持ち合わせている。もともとは自分の不始末から、火が付いたのだ、そうしてやらないわけはなかった。
ただ中尉の腕に這っていた文字には驚いた。甥っ子とシラーの会話で、それがレイルの腕から紡がれた事を知り、さらに。
幼馴染の言葉から、描く事さえなければ、緊急性はないモノと知れる。それでも自分からも描かぬよう釘を刺す。
「あれを書いたのがレイルなら、はっきりするまで絶対に描かせるなよ」
「わかった。ありがとう、アレード」
帰ろう、小さくても、自分が築き、守ってきた家族の元に。
「兄さん、立てるか?」
「大丈夫だ。私の鳥を探してくれ、押さえられたんだ」
「わかった」
「とにかくこのケジメ、付けてこい」
ポンッと胸を叩かれ、アレードは頷いて手袋を付けながら、シラーに護衛に出せそうな隊員を要請しに動く。
「メアリ、私はいい、レイルの傍に」
メアリが兄弟の会話に色々疑問を持ちながらも、頷く。そのままレイルの手を引き、マハイルの様子を気にしつつも部屋を出ようとする。息子がメアリに手を引かれている様に、目を細める。
マハイルはフラフラする体だったが、何とか立ちあがる。
「帰ろう」
自分に刻むように家に帰れる喜びを胸にマハイルが呟く。
母に求めた一言はもう手に入る事はないが、その答えは自分で手にした温かい家にあるのだから。
振り返るまい。
部屋の入口に体を向けた時、背後に何かを感じた。
ハッキリとした敵意。
押さえつけられた緊張が解かれ、快方に向かう一瞬。
油断。
その時こそ敵は牙を剥く。
マハイルだけが今、気付いた。
誰もまだ気付いていない。
いても居なくても分らない存在から放たれる悪意。
自分に向けられたわけではない。
その凶刃の先に居るのは……
「レイル!」
名前を呼ばれたが、耳栓で声が良く聞こえない彼が後ろを見る間はなかった。自分と母に覆いかぶさるように何かが重く、倒れてきた。
「ああ、よかった……」
自分の肩に重みを残しながら、急速に力を失なってマハイルの膝が折れ、体が床に倒れる。
呆然としたレイルが首を後ろに向けて瞳に映したのは、倒れた父と一人の警官の姿。手を引くメアリには何が起こったかはわからない、だがレイルには父に何が起こったかはっきりと分かった。
どんよりとした沼の暗さを湛えた緑の目をした警官。彼に黒髪が急速に伸びて逆立ち、ソレそのものが生きている蛇のように波打っていた。
化け物……魔……目が常軌を逸した大きさになり、牙を剥く。
その爪は禍々しい橙と緑に彩られており、その手中には青い石がある。
透明感はないが特別な輝きと金に彩られた青い石。
瑠璃、ラピスラズリと呼ばれるその石は綺麗な卵型をしており、手にした者の怖ろしい欲望の中でも輝きを失わない。
「ああ美しい……だが俺の欲しいのは、紫水晶だ!」
逆の手に編み上げられた球。
それがユリナルの水晶を奪った輝きと同じだと、そして逆手の金がかかった青瑠璃は、今まさに自分を庇って狩られた父の「玉」だと、レイルはわかった。
そして狩られるべきは父ではなく、自分だったと。
本来なら身分証で相殺される程度の球。
だがマハイルはボディチェックで没収され、レイルも同じく、術を仕込んだ時計を手放していた。
今までの騒ぎは、レイルにそれを手放させるためだけに仕組まれた、茶番。
アレードもシラーも気付くが、魔化し出した警官に一番近いのはレイルであり、間髪入れる事無くもう一撃がレイルに飛ぶ。
二人を遮蔽するマハイルの体はもうない。
レイルは総毛立つ怒りに震え、母の手を離す。
今まで体に在ったのに、血の一つも付けず化け物の手にある美しい輝きは父の物だ。
「返せ!」
怒気と共にレイルが自分に向かってくる「球」へ、無防にも突っ込んで行くのを、アレードは止められず視界に入れていた。
最後まで読んで下さり感謝です。
見難いとご指摘受けましたので、前回より改行率を上げました。
後、若干文字を大きくしました。
以前の分は再度見直し作業中です。
また、一話の世界観についても一部省略、改正しましたが、
いずれの作業も内容には全く変化はありません。
お読みくださった後に気持ちで良いので、
感想や評価ボタンなど頂けたら嬉しいのです。