雷鳴が届く夜空
前々から書き溜めていた物に追加する形で作っていく
…つもりでしたが、ほぼ総書き換えというか、
新しい話で時間が掛かっています。
それでも過去文章を引用した場合、氏名、名称等のズレがあります。
その辺りと誤字脱字は徐々に直していく予定です。
年齢設定はずらす場合があります。
感想、誤字脱字等ご指摘いただけると助かります。
どうして彼は涙を流すのだろう。
私は私であるけれど、私の物じゃないのに。
「はい、そうです、……え? 休みを出している?」
もう五日になる。
マハイルが帰宅せず、連絡も寄越さず五日。いつもなら必ず電話かメールをくれるのに。
それも息子の怪我を伝えているはずなのに。
メアリはあれから何度か携帯を鳴らしてみたが返事はなく、繋がりもしない。
痺れを切らせて学校の事務に連絡を入れたら、何日も前から休暇届を出していると返事が返ってきた。なかなか取れないはずの休みを、学校側が出している事にも驚いたが、問い詰めても消息はつかめなかった。
「…はい。では連絡があったら、うちにも……ええ。よろしくお願いいたします」
電話を切ると、アレードにも連絡を入れてみるが捉まらない。夫がいないと、たまにからかった様な事をしてくるが、悪意はなさそうとメアリは寛容に構えている。と、いうか、下心は冗談として真に受けていない。
それよりも忙しい合間にも、夫以上に気にかけてくれる事に感謝していた。
マハイルの「実家」に連絡を入れるか、躊躇していた時、明るい声が家中に響いた。
「たっだいまー」
「お邪魔します」
「靴脱げよーファーラ」
メアリは頭を切り替え、息子と友人を迎えに出る。
「いらっしゃい、ファーラ君。お帰りなさい、レイル」
ぺこりと緑がかった黒髪の少年が頭を下げた。レイルは嬉しそうに笑っている。ファーラがこっそりと『いつも思うけど、レイルの母さんは美人だな』と、口の形だけで伝えて来る。
「貴族の血筋だから」
っと、小さな声でレイルが返すと、ファーラは驚いたようだったが納得した。
貴族は神が作った天使の直系と言われ、メアリは青天使と言われる特徴そのままであった。彼女はその会話に気付かず、
「ファーラ君、早速だけど料理、先に教えるわ。冷まして味が染み込んだ方が美味しいから。レイル、クッキーの型抜きしてくれれば、宿題の時に焼いて出してあげるわよ」
「やった! 料理、先にしよう」
「うん、あ、これ。ありがとうございました」
前に食事を入れてくれた容器をファーラは丁寧に返す。
これを返しに来たり、料理を習いにこの家に来たりする事は、ついこの間まで諦めていたのに。複雑なファーラの表情に気付く事無く、メアリは彼らを台所に通した。
「今日はゴボウを煮ようと思っているの。レイルはそこに伸ばしてる生地、型とって。ファーラ君は、それ、たわしで皮むいて」
「根っこ、だな? ゴボウって」
「そうよファーラ君、人参だって大根だって根っこでしょう? 皮に香りがあるよ。泥つきで、余り太くないのを買うと良いわよ。切ったら酢水に晒して……」
ごぼうを洗わせて、細切りにさせる。人参一緒に炒めたきんぴらごぼうと、豚ばら肉とゴボウ、蒟蒻を合わせた煮物、持ち帰り用に魚も煮つける予定にしていた。
みりんなど味付けと火加減を教えつつ、魚をさばいてみせ、ファーラにやらせる。
「水と砂糖、お酒ね。これは醤油、みりん、出汁は先に取っておいたけど、固形のでもいいのよ」
「しょ?しょうゆっ。うーん、魚醤より好きな匂いだ」
「そう? 魚醤は魚の、醤油は大豆の発酵食品よ。少し分けてあげるわよ。醤油もゴボウも蒟蒻も学校の近くのお店でも手に入るから、気にいったら買うといいわ。生姜も面倒なら、砕いてパウチしているのが売っているのよ」
醤油を小瓶に取り分けてやったり、だし汁を作るのが面倒だろうからとダシの素を見せてやったりと、メアリは楽しそうだ。天使界ではちょっと珍しい調味料や食材があるのが彼の気を引いているようだった。
ファーラは醤油を嘗めてみて、面白そうに包丁を振るっていく。
「臭みを取るのに、一度湯を潜らせておいて。青い魚は水から、白身の魚はこれを沸かしてから入れるの」
「青は水、白はお湯……はい」
「それから煮魚は崩れるから、あまり動かせないでしょ。落としぶたはなかったらアルミホイルで良いわ。魚に気を取られて飾りのほうれん草は茹ですぎないように。そうそう、冷水で熱を取って」
「ねえ、母さん、ビニールない? 片手じゃやりにくいよー」
「あーはいはい」
レイルの包帯を巻いた右手。一本ずつ指を分けて巻いているが、全体で物を掴めるほどにも回復していなかった。
だが左手だけでやるよりは、やり良いようだ。包帯が汚れないようにビニールを付けて右手の腹を添え、型に抜いたモノが貼りつかないように動かしていく。
メアリはその様子を見た後、ファーラの方に手伝いに入る。器用に鱗を取るのを見ながら、
「やっぱり手際、良いわね。レイルなんて全然ダメなのよ」
「いいんだよ、一人暮らししたらカップ麺でも食べとくから」
「あら、初耳だわ。もう家から出る算段、考えてるの? レイル」
「俺、医者になるんだーーーー」
「え?」
「もう終わったよ、型、ここ置いていい? じゃ、先に宿題しに行くから」
「俺、魚の煮つけ、火の具合を見てから行くぜ」
「おーごゆっくり」
ファーラは真剣に湯通し用のお湯と煮汁を沸かしているのを横目に、レイルは2階に上がっていく。クッキーよろしくと、言い残すのは忘れない。
「あの子ったら、勝手ばっかり。あんな手じゃ医者なんて……そんなの初めて聞いたわよ。ファーラ君は知ってた?」
クッキングシートに乗せられたクッキーを、そのまま天板に移動させながらメアリは質問する。ファーラは小さく頷いた。
「レイルの母さん、あの手、俺のセイなんだ」
戸惑いながら、ファーラは右脇腹の傷を見せた。
そこには奇妙なあざにも見える痕があった。
それはまるで誰かの手形を判で押したような。ちらりと見えた他の背中にある酷い火傷にもメアリは驚いたのを見咎め、ファーラはすぐに傷を隠した。
そう言えば暑い夏も濃い色のTシャツを着こんでいるのをメアリは覚えていた。その時は日焼けにでも弱いかと思っていたのだが。
「貴方それ……」
「レイル、俺の事、治してくれたんだ。左の手も使おうとしてたのは止めたんだけど、まさかこんな事すると思っていなくて。ごめんなさい。でも俺を……この傷だけじゃなくて、救ってくれたんだ」
文字通り、身を削っての治癒。
普通の皮膚移植では本人の物でないと馴染まない筈だが、彼の体にきちんと同化しようとしていた。一人で耐えるにはつらい痛みも、レイルが傍にいると思えば凌げた。
それに今は、父親は床に寝ついている。身に危険を感じなければ、抱いていた殺意は薄れ、された事への恨みやわだかまりはあっても父親に対する親しみが勝る。
「レイルに痛い思いさせてゴメン」
「そう、レイルが」
メアリはゆっくりと息子の気持ちを考えて笑った。
「どうしても貴方を治したいって思ったのね。覚悟してやったのなら、レイルは後悔しないわ。だから私がとやかく言う事はないと思うの。謝る事はないわ」
自分が魔となり果てても、決して後悔しない理由があるならば。迷わず狩るがいい、彼は祖母の言葉に似ている気がした。
「話してくれてありがとう、あの子何にも言わないから。でも治癒なんてそんな高等な芸当、あの子に出来るなんて信じられないんだけど。それにファーラ君、その背中、は?」
「気にしないで下さい」
「気にならないはずないでしょう? レイルの大切なお友達なのに。そういえばマハイル、あ、レイルの父親ね、何か相談に乗れる事があったらおいでと言っていたわ」
「ありがとうございます、でも本当にもう終わった事なので。で、ここで蓋、するんですよね?」
ファーラはそれ以上は何も答えず、彼女も追及できずにその件については口を閉ざす。彼は料理をある程度教わると、メアリに後をまかせてキッチンを出た。
「これを運んでくれる? 知ってると思うけど、レイルの部屋は二階の二つ目ね」
メアリは彼を送り出しながら、何をどうしたらいいか迷っていた。
せめて夫と連絡が取りたい、そう思う。だが携帯の電源は落ちたまま、繋がる気配はなかった。
ファーラに渡されたトレーにはオレンジピールの良い匂いがする焼き立てクッキーと、バーベキューのようにフルーツがたくさん刺してある串が4本、乳酸菌飲料が注がれたカップ2つが乗っている。
ファーラは二階に上がって、レイルの部屋の扉を足で二回、軽く蹴った。
「開けろーレイル」
「来た来た、美味しそうな匂いがするなって思ったんだ」
彼の部屋は万国旗のように紙が所狭しと吊り下げたままになっていた。
床に散らかされていた紙屑は、大きなゴミ袋五個になって、部屋の隅に追いやられている。その分、デスクにベッド、床には紙ごみも埃もなく、綺麗になっていた。
「なんじゃ、この紙張り状態は?」
「なー折りたたみの脚、広げてくれよ。上手く開かないんだよ」
ファーラは質問は後回しに、トレーをデスクに一度おいて、床に転がされていた正方形をした小さな机の脚を広げた。小さいと言っても、二人で使うには充分だ。
レイルは今まで使っていたデスクからノートを取って、ファーラに投げる。
「ファーラ、算数の宿題、写していいぞ。終わったし」
「仕事早っ」
「でも読める? 問題はスペリングだって」
汚い字で書かれていたが、答えは合っているようだったので、ファーラはありがたくノートに写した。字が汚いのはレイルが馴れない左手で書いているからだ。
右手に鉛筆を括り付けてやっていたが、包帯が汚れるし、まだ痛みが走るので、無理は出来なかった。
「で、あれから父さん、目が覚めないのか?」
二人は向き合って宿題を済ませながら、話しはじめた。
「ああ、死んだように眠ってるんだ」
あれから五日ほど経つが、学校で大っぴらに話せないので、聞いていたのはそこまでだった。
馴れない左手で文字を書きながら、レイルはファーラを見やった。
ファーラはレイルの母には、もう終わった事と告げたが、正確にはもう少しで終わる事だと言うのが正しかった。
「銀天使って今まで会った事あるか?」
「いや、初めて見たけど。あの子、何だったんだ?」
ファーラは緑玉瞳で、紫水晶瞳を射るように見つめて、
「貴方の代わりに始末しますって言うんだ」
銀色の冴えた月の色を纏いし天使。
柔らかなレースを身に纏った美少女は、何も知らない無垢な子供の顔をしながら言葉をファーラに投げた。
「貴方の代わりに始末します」
「何言ってるんだよ、お前、誰だよ」
彼女はファーラの父アディの枕元に立つと、にっこり笑ってそう言った。
「私の事は良いです。この個体は魔に堕ちています。暴力酷かったでしょう? それで何とか正気を保っていたようですが、完全に堕ち切るのも時間の問題です。ですから私が始末します」
「始末って」
「平たく言えば、殺します」
可愛らしい口から残酷な言葉が零れて落ちた。
父親の体に目立った外傷なく、彼女が故意に彼の身体状態を落としているのは間違いなかった。彼女は眠り続ける男の爪を見ながら静かに続ける。
「反撃を受けたり特殊能力などの可能性を考慮したりして、こうやって休ませて、身体機能を徐々に低下させます。五日もすれば私が離れてももう目覚めず、七日には完全に呼吸を停止します」
それから彼女はファーラの家に居座った。
名前も名乗らない少女は、掌に銀色の霧を作り、歌を口にする。
その悲しい音は屋敷の中を満たし、対象者に痛みと苦しみを与えず、死に誘う。深い深い紺碧の青玉瞳には、涙も悲しみも浮かばない。ただただ静かに死を招きよせ、静かに眠らせる。
ファーラは彼女と兄の為に食事を用意したが、兄は彼女が来てから一切姿を現す事はなかった。
彼女は夕食だけ食べに来てくれた。
語りかけるとファーラの質問に答えてくれた。
「確か「レーヴェ」とか「ギン」とかって呼ぶわ」
「確かって?」
「少し前は違っていたけど、何だったか覚えてないなぁ、あれ、前がレーヴェ? あれ、今が何だっけ?」
そう言って、やっと名前らしき物を口にしたのは三日目だった。それすらうろ覚えと言った感じで、自分の名前なんてどうでも良いのだとファーラには聞こえた。
丁寧な言葉は最初だけで、後は普通だった。たぶん初めの説明と笑顔は、毎回言う事を義務化された文言なのだろう。
「じゃ、レーヴェ、仲間は居ないの?」
「上司? みたいなヒトはいるけど」
「こんなの何時からやってるんだ?」
「さあ? でも、このぐらいは見送ったと思うわ」
指を三本立てたのを見て、
「三……三十人?」
たぶん桁が違っていたのだろう。
彼女は銀のツインテールを揺らして、ただ笑ってファーラを見ていた。
「で? ファーラはその娘が好きなわけ?」
レイルの言葉に、ファーラの口に銜えていたフルーツ串が落ちる。
「どうしてそういう話になるんだ!」
「顔が違うから」
ファーラは串を拾ってティシュで床を拭きながら、体裁を整えるように顔をこすった。その様子が何とも初々しかった。
プリシラが彼の事を想っていて、それを彼も知っているはずだがこんな反応はない。どちらかと言うと恐れ多いと言った感じがあった。
だが今回のファーラの様子は違う。目の前に彼女が歌っているのを思い浮かべて語る様は、どう見ても恋する者の眼差しだ。
その歌を聞いてみたいと思うが、レイルには一生無理だ。歌を耳にして彼が気を失わないなどありえない事。ちらりと見た銀天使の顔を思い浮かべながら、レイルは言った。
「子供らしい顔が好きなんだな、ファーラは。プリシラはお姉さん過ぎるもんな」
「そうじゃないって!」
そう言った後、ファーラは思い出したように、
「それがさ、風呂入ってたらさ」
「何故に風呂の話?」
「レーヴェが裸で風呂に入ってきた」
「な、なんでそうなる?」
「知らないぜ、俺も。シャワーの使い方教えろって言われた」
それはファーラにとっては衝撃的だった。
レースに包まれた不思議な少女が、その服を纏わず、ツインテールを下してスタスタと現れたのだから。
綺麗な、シミ一つない肌だった。子供ながらに大きく形のいい胸、触りたくなるようなすべすべした腰のライン。リュリアーネの裸でもドキドキするが、彼女はきわどい所がお魚。だが彼女は天使だ。
それも何の恥じらいもしてなかったので、まだ何も生えてない下の方までばっちり見てしまっていた。
「そんで冗談で洗おうかって言ったら、ホントに…」
「洗ったのか!」
「背中だけだぞ」
「それは恋もするって話かよ」
「いや、あいつ、何も知らないんだ」
ファーラの赤らめていた顔が、すーっと冷静になって行くのが見た目にもわかった。
シャワーも石鹸も良くわかってないのをはじめ、食べ物は調理していない物は見た事がないようだった。
林檎や梨を目の前で剥いてやるだけで、青玉瞳が見開かれた時、彼女が普通に学ぶ事を何も知らないのを知る。
四日目である昨日と今日の朝、森に連れ出し、朝日を浴びさせ、一緒に食事を作らせた。
まず指示しないと靴も履かなかったり、包丁で指を切っても血を流しっぱなしでじっと見ていたり、奇行が多々見られた。それなのにテーブルマナーや剣のこなしは十分すぎる教育を受けている。
「何も知らない、考えもしてないのか……彼女のやっているのは処刑だ」
彼女は死を送る歌を、何のためらいもなく口にする。
どんな暮らしを普段は送っているのか? そう聞いたら、いつも歌を口にしてるとそう答えた。
「俺の代わりに父さんを送って……送ってとか、葬送とか、言うと聞こえはいいけど。顔色一つ変えずに殺してるんだぞ、普通じゃない」
手を下したいヒトはいないから、自分がやるのだと彼女は事もなく言った。
それを聞いた時、ファーラは泣き出してしまった。
美しい銀色の死神。
かつて自分も死神と呼ばれた事がある。だが誰も死神になどなりたくはないハズだ。悲しい事を悲しいと思わない。やりたくない事をやりたくないと言わない。
誰にどういう教育をされたのだろう?
そしてそれを利用して、自分も辛い作業を押し付けている。そう思ったら自然と涙が零れた。彼女は不思議そうにファーラを見るだけだったが。
彼女は魔に落ちたヒトに対してだけではなく、病気で回復の見込みがない者や、良く理由がわからないが依頼された者を上司が示すままに、逡巡する間もなく送って来たらしい。
どこかの街1つ、屠ったような話も話してくれた。それでは三十で数が収まる事はないだろう。
「彼女、聖唱使いっていうのだそうだ」
「聖唱使い?」
「俺もよくわからないけど。魔化を止める聖唱を唱えられるらしい。でもそれは魔化しだしてすぐにやらないとダメで。聖唱使いの仕事は専ら、魔化した者や依頼された者を葬送する事なんだそうだ」
あんまりにも沈んでいく彼の表情を見るに見かねてレイルは茶化した。
「で、彼女に告白したのか?」
「だーかーら! そうじゃない」
宿題が終わったノートに突っ伏し、ファーラはごねたように言った。
「それにもうレーヴェは居ないから。今日の朝に出て行った」
「えー?」
「何もしなければ、もうこのまま父さん、逝くだろうから。最後の確認だけには来るって」
「それじゃあ、その時が告り時だなあ。そこ逃したら一生言えないんじゃないか?」
「違うから、それ」
恋をしているか? ファーラは間違いなく彼女に心、奪われていた。
だが何も考えず、命じられるままにその力を使うなど尋常じゃない。
綺麗なだけの殺傷人形。
何故そんなモノに恋をしてしまったのか、自分ですら理解に苦しむ。
恋に理由は要らないが、この場合、その理由を知って消し去ってしまう方が良いのだと、直感的にファーラは思っている。しかし心が千切られる様に彼女との別れが嫌だった。
だが、のめり込むのは怖かった。
彼女の血まみれとも気付かぬその手を取って、愛をささやいた所でその胸に届くかも定かではない。
「で、お前は籠ってこれを書いていたのか?」
ファーラは話題を変更しようと立ち上がり、釣り下がっていた紙を一枚、手に取った。
「いつも魔法を使おうとすると、こんなものが頭に吹き込んでくるんだよ」
「ああ、授業中の落書き!」
「そうそう。いつも追求する間がなかったから、今回突き詰めてみたんだ。これを」
レイルはポケットに落としていた懐中時計を取り出す。
きらきらと光る丸い表面に浮き彫りされた月桂樹の中、鳥が遊び、天界の文字と言われる上界の古代文字が計算された図形の中に配置されている。チャリ……と鎖がレイルの手の中で鳴った。
「あの水晶、ユリの「玉」だったんだな」
「お前、「玉」なんてどこで聞いたんだ?」
「元々はお前が言ってたろ。だから魔道士長に聞いた」
最も情報が出て来そうな人物の名を上げる。
お前の兄ちゃんから……と言うのは避けた。父親が亡くなれば兄自身が刃物を持ってファーラを傷つける事はないだろう。
枯れ枝のようなその手が刃物を持ったところで、ファーラに返り討ちに合うだけだ。
「成人式でもらう身分証には魔法系の「狩り」を相殺できる力があるんだって。それと同じ力がこの時計にあるって聞いたから、分解したら何かわかるんじゃないかと思って」
「で、何かわかったのか?」
「「球封じ」は空間魔法だって事。対象の肉体を傷つける事なく、自らが作った球を体内に侵入させ、「玉」を囲って、空間を歪めて取り出す魔法だって事が……」
「はぁ? そうなのか?」
この後レイルは色々と説明したが、ファーラには良くわからなかった。
彼は「球封じ」を使えるが、レイルの言うような空間魔法だと、考えてはやらない。欲しい物を欲しいとして奪う方法がそれなだけ。
ファーラはユリの「玉」を奪った者に「球封じ」をかけようとしたが、失敗に終わっている。それは彼がそれを空間魔法だと言う認識がなかったから、失敗したわけではない。
父親との相似に気付いて手元が狂ったただけの事。術としては、それが何であるか知る事は二の次だ。
レイルは自分が魔法具に込められた誰かの「想い」のような物が読める事も告げる。
今まで無秩序に頭になだれ込んできていた図形や文言は幻や杞憂ではなく、分析しさえすれば意味があるのだとファーラに言ったが理解されなかった。
「普通は秩序だった配列で体は成り立っているから。だから正しく整った見本があれば、それの通り組み換えすれば治るんじゃないかって」
「良くわからないな。組み立て図と材料があれば何でも作れるって事か?」
「基本的にはそうかもしれない。でもこの通りだから」
右手をぶらぶらさせる。
その力を行使するには、相当な代償が要るのだとそのケガが語っていた。
レイルはあの後、傷を自分で治そうとしたり、移動させたり出来ないか試してみたが、全く効果はない。
想いのようなモノが足りないのかもしれないとレイルは思った。
「で、このゴミ袋の山、捨てるのか?」
「資源ゴミに出すって。それまで邪魔だから置いておくように言われて。部屋が狭いだろーゴメンな」
「いや、でもこんなに書いたのにゴミって言うのもなんだな」
「ああ。もう全部覚えたから要らないし」
「これ? 全部??????? 文字は? 読めるのか?」
「いやーそれはわからないけど。形だけ覚えた」
ファーラは重みのあるゴミ袋の山を見やった。レイルが頭がいいのは知っているが、これほどの意味不明な形や図形を記憶できるものだろうか?
その辺りは半分冗談なのかも知れないと彼は思った。
「一緒に食べて行けばいいのに」
「いいえ、兄が待ってるし、父も放っておくわけにはいきませんから」
「しっかりしてるのね。でも無理しちゃだめよ?」
魚の煮つけを壊さない様に器に入れ、ゴボウの料理も二種類、別の容器に詰めた。あの後炊いたキノコごはんもオニギリにした。それを詰めた包みを小脇に抱えて、ファーラは家に戻って行く。
銀天使がいた間、全く出て来なかった兄の御機嫌取りもあって、料理を習い、持ち帰りたかったのだ。
「ファーラは兄さんの事、好き過ぎるだろ」
「何だ? 焼いてるのか?」
「違うだろ、ファーラ」
「まあ、レイル、そういう話だったの?」
「母さんまで混ぜ返さないで!」
笑いながらファーラを見送る。
「じゃあ、明日」
「またな」
どちらからともなく口にした、当たり前に交わされる別れの言葉。
誰が明日が来る事を約束したわけでもないのに。
明日も生きていられる保証はない、そんな少し前まで気にしていた事を考えずに生きられる幸せ。それを料理と一緒に抱えてファーラは帰路を辿った。
飛んで帰るといただき物を揺らしそうなので、バスに乗る。
ちょっと混んでいたが、程無く席に座ることが出来た。匂いがしない様に密封パックに入れてくれているが、レイルのうちで嗅いだ煮物の香しい匂いは鼻腔に張り付いていて、彼の気持ちを温かくした。
きっと兄も喜んで食べてくれるだろう。
レーヴェが言った通りなら、明日、夜には父が逝く。
学校を休み、ずっとついていたい気もしたが、傍に身内がいると死から逃れようとして、要らない苦しみにのたうちながら死ぬ事になるかも知れないと彼女は言った。
だから付き添うのは最後の数時間だけに限っていた。
「今、レーヴェは何してるんだろう?」
彼女は普通、葬送するヒトを何人も掛け持ちをしていると言う。
こうやって一人にかかる事はなく、風呂や食事などは周りから世話され、自分でやるのは歌を口ずさむ事だけ。
誰とは言わなかったが個人的に頼まれて、ファーラの父を看取りに来てくれた為、誰も補佐係がいなかったと言う。だからファーラの入っている風呂場に侵入という事になったらしい。
「また歌を……詠っているのかな」
寂しい彼女の鎮魂歌が響いてきた気がした。
空には厚いグレーの雲が覆いかぶさろうとし、太陽はまだ沈んでもないのにとても暗かった。
秋の終わりを告げ、冬の風がゆるゆると吹き出す夕暮れ。
その空気には雨のにおいが混じっていた。
「レイル。本気で医者になりたいの?」
「うん、そのつもり」
今までならば、目標の無さそうだったレイルに目的が出来たと喜ぶところだった。
だが今、彼は利き手の自由を失っている。医者と言う職業も幅は広いが、手が不自由と言うのは余り好まれた状態ではない。
勢い込んでメアリが話しかけた時、扉が重く叩かれた。
「?」
ドアスコープを覗くと、渋い緑の制服の者が立っていた。アレードかと思ったが、メアリはそれが複数であった事に、一瞬躊躇する。だが開けない理由は何もなかった。
ドアチェーンをかけるか迷ったが、どうせ開ける羽目にはなるだろうと彼女はそのまま彼らを出迎える。
「こんばんわ。どうされました?」
「ここはマハイル・グリーン教授の家ですね?」
「はい。マハイルは私の夫ですが」
「家宅捜索をさせてもらいたい」
「お待ちなさい!」
言葉は丁寧に、しかし有無を言わさず入り込もうとしたが、メアリは厳しく言うと付きつけられた紙を冷静に受け取った。
「中尉印ですね。家宅捜索で強引に押し入るつもりなら大佐印以上が必要ですよ」
「え?」
「私の父はラオ・デザークスです」
レイルの祖父にあたるメアリの父、アレードの上司、大将ラオ・デザークス。
警察内部は大きく、交通、強盗、傷害および殺人、麻薬、特殊犯罪の五部隊に分かれている。
大将ラオ・デザークスは特殊犯罪課、ブルーリボンのトップだ。
今ここに居る彼らの袖のリボンは紫、麻薬犯罪課パープルリボンの警官だとメアリにはわかったが、さすがにトップの名は通っていた。
一瞬、彼らに緊張が走る。だが尖った、いびつな五つ角の星を2つ付けた中尉は怯まなかった。
「私はこの隊を仕切っているルクアと申します。現在内密で動いております。ご協力と言う形で、家の中を見せていただく事は出来ませんか」
「それは…」
「マハイル教授の無実を証明できるかもしれません」
「あの人の容疑は?」
「容疑がかかっているのはアレード・セリバー少将です。ただ彼に加担していないかという事で、内偵している段階です」
「アレードが?」
何度も連絡しているが、二人とも所在不明だ。自分の父も忙しい立場のヒト、名前は出したもののそう易々と使っていいとは思えない。
そして、この男は内密とは言ったが、強制的に家宅捜索できる風を装ったやり方は好ましくない。だが悪い事はしていないと信じるメアリは、戸口を開放する前に彼らに約束させる。
「この家は土足厳禁です。物は壊さない。手袋を付けてならば触るのは許可しますが、荒らさないで下さい。静かに、大声は出さない。それから子供がいるので驚かさないで。今の所これだけですが、態度が悪ければ条件追加します。あくまでも協力です」
彼女の許可を得た彼らは靴を脱ぎ、グリーン家に足を踏み入れる。
子供がいるので驚かさないで、と彼女に言われたが、驚かされたのは彼らの方だった。
そこに居たのは無表情で彼らを見つめる紫水晶瞳に、濃い黄金髪の少年。
地獄の魔王のみが持つ色。彼らからすれば豆粒のような幼い少年、その気配で気圧されかけたのを警官達は押し殺し、捜索に入る。
まずは一階、両親の寝室、キッチンやダイニング、ゲストルームに、マハイルのプレハブ小屋や書斎などにあたった。だが期待した物は出て来ず、二階と言う話になった。
一番奥の部屋から入ろうとした警官が声を上げる。
「奥さん、この部屋は?」
「その部屋は……」
レイルをちらと見て、メアリは押し黙った。
そこは開かずの間だ。
レイルが知る限り、この部屋が開いたのは見た事がない。彼の不在中に掃除はしているだろうが、一度も入った事はなかった。
そこはレイルの知らぬ兄の部屋だった。
メアリは複雑な事情で天使界を去っている息子の事を、まだレイルに話す気はない。レイルに一階にいるように命じると、鍵を取り、階段を上がろうとした。
しかし彼女の脚は、レイルに部屋に入った警官の声で止められる。
「こここ……子供部屋にありました! それも……大量に!」
彼が掴んで降りてきたのはレイルの書いた、わけのわからない文字と記号の紙。鬼の首を取ったかのように勢い込んで中尉に差し出す。
「これを描いたのは?」
メアリはレイルの元に走り寄ろうとした。だがその体を押さえつけられ、その動きは封じられた。
「母さん!」
「レイル!」
「連れて行け!」
何の弁解も聞かなかった。
紫水晶瞳の光に一瞬躊躇した警官がレイルの相手だったが、そもそも彼が怖いと思うのは「魔王ではないか」と言う幻想に過ぎない。
現実の世界ではレイルは小さい子供で、何の脅しにもならない。
二人に素早く縄がかかり、その口に轡を噛まされ、手荒く彼らの捕獲用水晶に放り込まれた。
水晶の中に入った途端、力が吸い取られるような、押しつぶされるような圧力で、レイルは酷いめまいを覚える。
遠くで堰を切ったような雷鳴と雨音が響いたが、彼の耳には届かなかった。
出来るだけ読める作品にしていきたいと思いますので、
ご指摘、感想などいただけましたら幸いです。
感想を相互希望の方は、
当方の活動報告などをご覧になり、ご連絡下さいませ。