埋もれた才能
趣味のピアノで演奏会に呼んでもらえる機会が増えてきた。専門はシンセサイザーの演奏とか作曲とかなのだが。いろんな音を創り出していくのがシンセサイザーの魅力だけれど、音色一本で音楽を作り出していくピアノを演奏するのは、自分にとって大きな勉強になるから。
「いやあ、町田先生に出ていただけるなんて光栄ですよ」
まだ28の小娘を捕まえて町田“先生”扱いとは。間違いなく父の七光りである。本橋音大声楽部の教授。私は器楽部の講師なのである。おべんちゃらばかり言ってくる主催者は放っておこう。
ブラックのドレス、気合いを入れる演奏会のときに身につける色はブラックと決めている。今日弾くのはシューベルトとベートーヴェンだった。そのまま今日使うピアノが置いてあるステージへと案内される。
真っ黒いピアノ。スタインウェイですよ、と主催者が耳打ちしてくれた。私は客席に目を向けていたが、その声につられてピアノを見て、固まった。私が見たのはピアノでも主催者でも、周りで挨拶してくれる役員でもなかった。
「……何をしているの、こんなところで」
私が発した第一声に、周囲のひとたちは一瞬、私が誰に向けて話しかけているかわからなかったことだろう。しかし、とても聡明なそのひとは、自分に掛けられた言葉だと瞬時に悟り、顔を上げた。私を一瞥すると、誰なのか理解したらしい。調律だけど、とだけ答えた。
「それは見ればわかる。なんで?」
「なんでって、今日のあたしの仕事、これだから。終わりました」
最後のひとことは私の隣にいる主催者にかけられたものだった。彼女は手早く調律道具を片づけると、お疲れ様でした、と言って去っていく。確認はしないのだ。あくまで自分の仕事に自信を持っているその様子。
「響!」
私が声をかけると、彼女は疲れた様子で振り返る。日本最高峰の音楽大学、本橋音楽大学の作曲学部作曲学科を首席で卒業した彼女だが、まさか調律師などという仕事をしているとは思わなかった。学生時代、ほぼすべての楽器を演奏しこなし、作曲活動も順調そのもの。本橋音大始まって以来の管弦楽団学生指揮者に就任したなどの伝説も多いのだ。
「あなた、演奏活動は?!」
私の声に思わず力が入るのも無理はない。
「あたしはただのインストショップの店長ですから。もしよろしければご利用ください。はい、どうぞ」
彼女は無造作にポケットから名刺を取り出して私に渡すと、お疲れ様でした、を繰り返しながら去っていく。角が少しだけよれた名刺には、
『Composed Shop “Hibiki” owner Hibiki Kinoshita』
の文字が並んでいる。
織部響。ほんの5年くらい前なら、この筋で知らないひとがいない位有名な音楽家だった。
「先生、調律師の方とお知り合いでしたか。大変腕がいいということで今回初めてお願いしたんですが……」
主催者の言葉に苦笑する。腕がいいとかよくないとかの問題ではない。完璧な絶対音感の持ち主なのだ。技術さえあれば、響にとって調律などたやすいだろう。
「彼女、“織部響”よ。知らない?」
「ええっ?!」
試しに振った話題に、主催者はかなり激しく動揺した。知っているところを見ると、ただの道楽でこの演奏会を開いたのではないことは十分理解できる。
「確か、音楽コンクールで何度も優勝してましたよね。でも苗字が違いますけど、確か木下さんと……」
「詳しいことはわからないけど、間違いないわ。私同級生だから、大学の」
主催者とそんな話をしているうちに、響の背中はみるみる小さくなり、やがて見えなくなってしまった。
どうしてあふれるばかりの才能を封印してしまったのかわからない。少なくとも“織部響”は、コンポーザーとして、アレンジャーとして、プレイヤーとして、音楽家としての明るい未来が待っているはずだった。
しかし今は……。私は教壇にも立ち、コンポーザー兼シンセサイザープレイヤーとして活動してもいる。もう相手にはすまい。
……相手には。
その日1日、私の眼前には“織部響”の影が遠くでずっとちらつき続けたのだった。