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婚約破棄されたので刺繍を続けていただけなのに、なぜか元婚約者が私の作品を探しているようです

作者: 黒色鮎
掲載日:2026/09/23

 

「ローラ・ウェルズ伯爵令嬢。私は君との婚約を解消したい」


 春の夜会でそう告げられたとき、私は静かに頷いた。


 彼の隣には美しい令嬢が立っていた。

 地味な私とは全く違う。

 きっと新しい恋人なのだろう。

 

 だが実は。

 この夜会が開かれる前には、私はもう気づいていた。


 エドワード様が私を見る時間が、愛が減っていたことに。

 きっともう別の方に心奪われているだろうことに。

 

 以前なら「その本は面白かった?」と尋ねてくださったのに、いつの頃からか会話は形式的なものばかりになっていた。

 私が贈った手製の栞も、次に会ったときにはどこかへ消えていた。


 それを責めたことはない。

 人の気持ちは縛れないと知っていたからだ。


 ただ、少しだけ寂しかった。


 だから彼がゆっくり私に近づいてきた時。

 彼の隣に見知らぬ令嬢が立っているのを見たときも、不思議なほど驚かなかった。

 ああ、やはりそうだったのね。

 そんな思いのほうが先に浮かんだのである。

 

 エドワード様はどこか緊張したような顔で私を見ている。

 怒鳴られると思ったのかもしれない。

 けれど私は微笑んだ。


「承知いたしました」


 その瞬間、エドワード様のほうが驚いた顔をした。


 私は少しだけ胸が痛んだ。

 声も少し震えていたように思う。

 それでも最後まで礼をして、その場を後にした。


 会場から出る直前。

 彼がホッとしたように息を吐いていたのが見えてしまった。

 そして、隣のご令嬢と仲睦まじそうに手を繋ぎ、中に入っていく。


 その姿を見るとやっぱり。

 涙が一筋流れる。


 それでも。

 涙を拭い、堂々とこの場を後にした。





 ◇


 私は昔から刺繍が好きだった。

 子供の頃から花や鳥を縫うのが好きで、暇さえあれば針を持っていた。


 エドワード様と婚約してからもそれは変わらなかった。

 趣味として刺繍を続けていた。

 それなりに上手くなったと自負している。


 エドワード様への贈り物も何度も作った。

 ハンカチ。

 栞。

 手袋の縁飾り。


 けれど彼はさほど興味を示さなかった。


「ありがとう」


 そう言って受け取る。

 それだけだった。


 最初の方はもう少し嬉しがっていたと思う。

 けれど、ここ最近はありがとうすらなかった。


 だから婚約破棄されたあとも、私は変わらず刺繍を続けていた。

 むしろそっちに没頭し続けた。





 ◇


 三か月後。

 婚約破棄の傷もかなり癒えた頃。

 私は友人のお茶会に招かれていた。


 指定されたサロンに入ると、既に人がいっぱい居た。

 とりあえず、主催たる友人に挨拶してから、空いている場所に座る。


 そして、ハンカチを取り出し、額の汗を軽く拭きとる。

 すると、隣に座っていたご夫人が私のハンカチを見て声を上げる。


「まあ、そのすずらんの刺繍、あなたが?」

「はい」

「なんて可愛らしいの」

「ありがとうございます」


 裏表のないその言葉に頬を染めながら感謝を告げる。

 すると、徐々に周囲の夫人たちも集まってきた。


「見せてちょうだい」

「色使いが素敵ね」

「刺繍ならではの良さが出ているわ」


 私は少し照れながらハンカチを差し出した。

 そして、そのままいくつも飛び出してくる問いに対し答え始めるのだった。




 その日は大盛り上がりでお茶会は終了した。

 結局、私は今までの作品のことを語りつくすことになった。

 

 基本私が手掛けてきたのは小物類。

 淑女教育の合間をぬって作り上げた物。

 店に出せるレベルの、本物の職人が作ったものには及ばないと自負している。


 ただ。

 話すたびにリアクションがもらえたのは初めてであり、ついつい話し込んでしまった。


「興が乗ってしゃべりすぎましたわ」


 少し反省。

 だがきっと問題はないだろう。


 私のただの趣味が、大きな話題の一環となったのはとてもうれしいことだから。

 

 すると数日後。

 あの話居たとある夫人から手紙が届く。


『娘の誕生日に栞を縫っていただけませんか』


 さらに別の夫人からも。


『あなたの刺繍を見てみたいです』


 私は驚いた。


 職人のものの方ができがよいことは自分でもわかっている。

 彼らと比べると見劣りしてしまう。


 それなのに私の作品を褒めてくださったり、求めてくださっている。

 本当に本当に嬉しかった。


 手紙に了承の返事を書くとすぐさま作品制作に取り掛かる。


 人にあげるもの。

 そう考えて、丁寧に丁寧に作品を作り上げていく。


 自分のものでもなく。

 求められていない物でもない。

 やる気に比例して、作品の制作速度はどんどん上がっていった。




 ◇


 そんな日々がしばらく続いた。

 

 気づけば少しずつ、人との縁が広がっていた。

 心の底から信頼できる人も出来てきた。

 毎日がとても楽しくて仕方がなくなっていた。




 その頃。

 エドワードは苛立っていた。


 新しい婚約者との生活は思ったほど楽しくない。


 華やかな女性だった。

 会話も上手い。

 それなのに、なぜか周囲との関係がぎこちない。


 夜会でもそうだった。

 話が続かない。

 微妙な沈黙が生まれる。

 以前はこんなことはなかった。


 ある日、友人に言われた。


「最近の君は余裕がないな」

「そんなことはない」

「あるさ」


 友人は苦笑した。


「ローラ嬢がいなくなってから変わった」


 またその名前だ。

 最近よく耳にする。


 社交界で出会った夫人たちが彼女の刺繍を褒めている。

 若い令嬢たちは彼女とのお茶会を楽しみにしている。

 

 なぜだ。

 ただの地味な令嬢だったはずなのに。


 彼は拳を握りしめて立ち尽くすばかりであった。




 さらに数週間後。

 エドワードは思いがけないものを見つけた。


 取引先の侯爵家だった。


 商談が終わり、玄関に向かって歩いていると、その家の夫人とすれ違った。

 彼女は大切そうに栞と本を持っていた。


 どこか見覚えがあった。


「申し訳ありません、その栞を詳しく見せていただいても?」


 快く貸してくれたことに対し、感謝を述べてそれを観察する。


 淡い青い花の刺繍。


 どこかで見たことがある。


「この栞は?」


 夫人が笑顔になる。


「ローラ様の作品ですの」


 胸がざわついた。

 また、またか。


 「――そういえば」


 昔、自分も似た物をもらった気がした。


 どこへやっただろう。

 書斎か。

 引き出しか。

 それとも捨てたのか。


 思い出せない。





 ◇


 帰宅後、エドワードは真っ先に書庫を探した。


 引き出しを開ける。

 箱を漁る。


 そこで青い栞を見つけた。


 押し花の模様。

 細かな刺繍。


 間違いない。

 ローラが作ったものだった。


 裏側には小さな文字が縫われている。


『大切な時間のお供になりますように』


 言葉を失った。


 いつ作ったものだろう。

 わからない。


 受け取ったはずなのに。

 見てもいなかった。




 それからだった。

 気になってしまったのは。


 夜会でローラの名前を聞く。

 茶会でローラの名前を聞く。

 夫人たちが微笑みながら彼女を語る。

 皆が言う。


「一緒にいると落ち着く」

「気遣いが自然なの」

「また会いたくなる方よね」


 昔の自分は何を見ていたのだろう。

 美しいとか地味だとか。

 そんなことばかりだった。




 半年後。

 庭園で偶然ローラと再会した。


 彼女は木陰で刺繍をしていた。

 春の日差しが髪を照らしている。

 以前と同じ穏やかな姿だった。

 

 思わず声を掛ける。


「久しぶりだな」

「お久しぶりです」


 彼女は柔らかく微笑んだ。


 エドワードは胸が痛んだ。

 自分だけが変わってしまった気がした。

 だがそれと同時に微かな高揚感も感じた。


「その刺繍は?」

「友人のお子様への贈り物です」


 見ると、小さな鳥が縫われていた。

 驚くほど丁寧だった。

 職人が作ったように綺麗だった。


「昔から上手だったのか」


 ローラは少し笑う。

 少し寂しそうに。


「いいえ。失敗ばかりでした」

「そうなのか」

「続けていただけです」


 ――贈る相手の事を思えば辞めようなんて、思いませんでしたから。

 だから続けられました。

 言葉と共に春風が吹く。


 その言葉が妙に心に残った。


 続けていただけ。

 本当にそうなのだろう。


 彼女は変わっていない。

 昔から同じだった。


 変わったのは、自分の見方だけだった。


「ローラ」


 気づけば呼び止めていた。


「なんでしょう」

「もし、もう一度やり直せるなら――」


 言葉が震えた。

 ローラは少しだけ目を伏せた。


 そして穏やかに首を横に振る。


「申し訳ありません」


 その声音は優しかった。

 だから余計に苦しい。


「理由を聞いてもいいか」


 少しの沈黙。

 彼女は微笑む。


「私は婚約破棄されたことを恨んではいません」

「……」

「ですが、あの日に戻りたいとも思わないのです」


 エドワードは何も言えなかった。

 彼女は続ける。


「今の私は、人とのご縁に恵まれています」


 風が吹く。

 そのとき向こうから一人の青年が歩いてきた。


「ローラ嬢、お待たせしました」


 穏やかな声だった。

 ローラの表情が自然に明るくなる。


 それだけで十分だった。

 二人の空気を見れば分かる。

 自分はもう過去の人間なのだと。


「それに貴方様にも素敵な婚約者がいらっしゃるじゃないですか」


 言葉は出なかった。

 それでは、と断りを入れて去っていく後ろ姿を見ながら、エドワードは立ち尽くしていた。


 手の中には古い栞がある。

 栞を見つけた日からずっと持っていたもの。

 押し花の刺繍。

 小さな願い。


『大切な時間のお供になりますように』


 あの日、自分はそれを見もしなかった。

 彼女の込めた思いすらも。


 ただ自分が見ていなかっただけ。

 だが今さら気づいても遅い。


 風に揺れる栞を見つめながら、エドワードは初めて理解した。


 失われたのは婚約者ではない。

 自分を大切に想ってくれていた人だったのだと。

 しかし、その人はもう前を向いて歩いている。

 だから彼は栞を胸にしまい、静かに目を閉じた。


 二度と戻らない春のために。

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