婚約破棄されたので刺繍を続けていただけなのに、なぜか元婚約者が私の作品を探しているようです
「ローラ・ウェルズ伯爵令嬢。私は君との婚約を解消したい」
春の夜会でそう告げられたとき、私は静かに頷いた。
彼の隣には美しい令嬢が立っていた。
地味な私とは全く違う。
きっと新しい恋人なのだろう。
だが実は。
この夜会が開かれる前には、私はもう気づいていた。
エドワード様が私を見る時間が、愛が減っていたことに。
きっともう別の方に心奪われているだろうことに。
以前なら「その本は面白かった?」と尋ねてくださったのに、いつの頃からか会話は形式的なものばかりになっていた。
私が贈った手製の栞も、次に会ったときにはどこかへ消えていた。
それを責めたことはない。
人の気持ちは縛れないと知っていたからだ。
ただ、少しだけ寂しかった。
だから彼がゆっくり私に近づいてきた時。
彼の隣に見知らぬ令嬢が立っているのを見たときも、不思議なほど驚かなかった。
ああ、やはりそうだったのね。
そんな思いのほうが先に浮かんだのである。
エドワード様はどこか緊張したような顔で私を見ている。
怒鳴られると思ったのかもしれない。
けれど私は微笑んだ。
「承知いたしました」
その瞬間、エドワード様のほうが驚いた顔をした。
私は少しだけ胸が痛んだ。
声も少し震えていたように思う。
それでも最後まで礼をして、その場を後にした。
会場から出る直前。
彼がホッとしたように息を吐いていたのが見えてしまった。
そして、隣のご令嬢と仲睦まじそうに手を繋ぎ、中に入っていく。
その姿を見るとやっぱり。
涙が一筋流れる。
それでも。
涙を拭い、堂々とこの場を後にした。
◇
私は昔から刺繍が好きだった。
子供の頃から花や鳥を縫うのが好きで、暇さえあれば針を持っていた。
エドワード様と婚約してからもそれは変わらなかった。
趣味として刺繍を続けていた。
それなりに上手くなったと自負している。
エドワード様への贈り物も何度も作った。
ハンカチ。
栞。
手袋の縁飾り。
けれど彼はさほど興味を示さなかった。
「ありがとう」
そう言って受け取る。
それだけだった。
最初の方はもう少し嬉しがっていたと思う。
けれど、ここ最近はありがとうすらなかった。
だから婚約破棄されたあとも、私は変わらず刺繍を続けていた。
むしろそっちに没頭し続けた。
◇
三か月後。
婚約破棄の傷もかなり癒えた頃。
私は友人のお茶会に招かれていた。
指定されたサロンに入ると、既に人がいっぱい居た。
とりあえず、主催たる友人に挨拶してから、空いている場所に座る。
そして、ハンカチを取り出し、額の汗を軽く拭きとる。
すると、隣に座っていたご夫人が私のハンカチを見て声を上げる。
「まあ、そのすずらんの刺繍、あなたが?」
「はい」
「なんて可愛らしいの」
「ありがとうございます」
裏表のないその言葉に頬を染めながら感謝を告げる。
すると、徐々に周囲の夫人たちも集まってきた。
「見せてちょうだい」
「色使いが素敵ね」
「刺繍ならではの良さが出ているわ」
私は少し照れながらハンカチを差し出した。
そして、そのままいくつも飛び出してくる問いに対し答え始めるのだった。
その日は大盛り上がりでお茶会は終了した。
結局、私は今までの作品のことを語りつくすことになった。
基本私が手掛けてきたのは小物類。
淑女教育の合間をぬって作り上げた物。
店に出せるレベルの、本物の職人が作ったものには及ばないと自負している。
ただ。
話すたびにリアクションがもらえたのは初めてであり、ついつい話し込んでしまった。
「興が乗ってしゃべりすぎましたわ」
少し反省。
だがきっと問題はないだろう。
私のただの趣味が、大きな話題の一環となったのはとてもうれしいことだから。
すると数日後。
あの話居たとある夫人から手紙が届く。
『娘の誕生日に栞を縫っていただけませんか』
さらに別の夫人からも。
『あなたの刺繍を見てみたいです』
私は驚いた。
職人のものの方ができがよいことは自分でもわかっている。
彼らと比べると見劣りしてしまう。
それなのに私の作品を褒めてくださったり、求めてくださっている。
本当に本当に嬉しかった。
手紙に了承の返事を書くとすぐさま作品制作に取り掛かる。
人にあげるもの。
そう考えて、丁寧に丁寧に作品を作り上げていく。
自分のものでもなく。
求められていない物でもない。
やる気に比例して、作品の制作速度はどんどん上がっていった。
◇
そんな日々がしばらく続いた。
気づけば少しずつ、人との縁が広がっていた。
心の底から信頼できる人も出来てきた。
毎日がとても楽しくて仕方がなくなっていた。
その頃。
エドワードは苛立っていた。
新しい婚約者との生活は思ったほど楽しくない。
華やかな女性だった。
会話も上手い。
それなのに、なぜか周囲との関係がぎこちない。
夜会でもそうだった。
話が続かない。
微妙な沈黙が生まれる。
以前はこんなことはなかった。
ある日、友人に言われた。
「最近の君は余裕がないな」
「そんなことはない」
「あるさ」
友人は苦笑した。
「ローラ嬢がいなくなってから変わった」
またその名前だ。
最近よく耳にする。
社交界で出会った夫人たちが彼女の刺繍を褒めている。
若い令嬢たちは彼女とのお茶会を楽しみにしている。
なぜだ。
ただの地味な令嬢だったはずなのに。
彼は拳を握りしめて立ち尽くすばかりであった。
さらに数週間後。
エドワードは思いがけないものを見つけた。
取引先の侯爵家だった。
商談が終わり、玄関に向かって歩いていると、その家の夫人とすれ違った。
彼女は大切そうに栞と本を持っていた。
どこか見覚えがあった。
「申し訳ありません、その栞を詳しく見せていただいても?」
快く貸してくれたことに対し、感謝を述べてそれを観察する。
淡い青い花の刺繍。
どこかで見たことがある。
「この栞は?」
夫人が笑顔になる。
「ローラ様の作品ですの」
胸がざわついた。
また、またか。
「――そういえば」
昔、自分も似た物をもらった気がした。
どこへやっただろう。
書斎か。
引き出しか。
それとも捨てたのか。
思い出せない。
◇
帰宅後、エドワードは真っ先に書庫を探した。
引き出しを開ける。
箱を漁る。
そこで青い栞を見つけた。
押し花の模様。
細かな刺繍。
間違いない。
ローラが作ったものだった。
裏側には小さな文字が縫われている。
『大切な時間のお供になりますように』
言葉を失った。
いつ作ったものだろう。
わからない。
受け取ったはずなのに。
見てもいなかった。
それからだった。
気になってしまったのは。
夜会でローラの名前を聞く。
茶会でローラの名前を聞く。
夫人たちが微笑みながら彼女を語る。
皆が言う。
「一緒にいると落ち着く」
「気遣いが自然なの」
「また会いたくなる方よね」
昔の自分は何を見ていたのだろう。
美しいとか地味だとか。
そんなことばかりだった。
半年後。
庭園で偶然ローラと再会した。
彼女は木陰で刺繍をしていた。
春の日差しが髪を照らしている。
以前と同じ穏やかな姿だった。
思わず声を掛ける。
「久しぶりだな」
「お久しぶりです」
彼女は柔らかく微笑んだ。
エドワードは胸が痛んだ。
自分だけが変わってしまった気がした。
だがそれと同時に微かな高揚感も感じた。
「その刺繍は?」
「友人のお子様への贈り物です」
見ると、小さな鳥が縫われていた。
驚くほど丁寧だった。
職人が作ったように綺麗だった。
「昔から上手だったのか」
ローラは少し笑う。
少し寂しそうに。
「いいえ。失敗ばかりでした」
「そうなのか」
「続けていただけです」
――贈る相手の事を思えば辞めようなんて、思いませんでしたから。
だから続けられました。
言葉と共に春風が吹く。
その言葉が妙に心に残った。
続けていただけ。
本当にそうなのだろう。
彼女は変わっていない。
昔から同じだった。
変わったのは、自分の見方だけだった。
「ローラ」
気づけば呼び止めていた。
「なんでしょう」
「もし、もう一度やり直せるなら――」
言葉が震えた。
ローラは少しだけ目を伏せた。
そして穏やかに首を横に振る。
「申し訳ありません」
その声音は優しかった。
だから余計に苦しい。
「理由を聞いてもいいか」
少しの沈黙。
彼女は微笑む。
「私は婚約破棄されたことを恨んではいません」
「……」
「ですが、あの日に戻りたいとも思わないのです」
エドワードは何も言えなかった。
彼女は続ける。
「今の私は、人とのご縁に恵まれています」
風が吹く。
そのとき向こうから一人の青年が歩いてきた。
「ローラ嬢、お待たせしました」
穏やかな声だった。
ローラの表情が自然に明るくなる。
それだけで十分だった。
二人の空気を見れば分かる。
自分はもう過去の人間なのだと。
「それに貴方様にも素敵な婚約者がいらっしゃるじゃないですか」
言葉は出なかった。
それでは、と断りを入れて去っていく後ろ姿を見ながら、エドワードは立ち尽くしていた。
手の中には古い栞がある。
栞を見つけた日からずっと持っていたもの。
押し花の刺繍。
小さな願い。
『大切な時間のお供になりますように』
あの日、自分はそれを見もしなかった。
彼女の込めた思いすらも。
ただ自分が見ていなかっただけ。
だが今さら気づいても遅い。
風に揺れる栞を見つめながら、エドワードは初めて理解した。
失われたのは婚約者ではない。
自分を大切に想ってくれていた人だったのだと。
しかし、その人はもう前を向いて歩いている。
だから彼は栞を胸にしまい、静かに目を閉じた。
二度と戻らない春のために。




