氷室饅頭 ~告白
梅雨の湿気が、窓の外を白く曇らせている。
冷房は入っているのに、どこか空気はやわらかく、重い。六月の終わり特有の匂いだと、大樹は思う。
そこへ支店長が菓子箱を抱えて現れた。
「は~い、今年もこの季節が来ましたよ。一つずつどうぞ」
箱の蓋が開いた瞬間、視線が集まる。
白、ピンク、黄、緑。艶のある丸い饅頭がきれいに並んでいる。
「『氷室饅頭』だ」
紫音の声が弾む。
氷室饅頭。
ググった中の知識としてはある。だが、実物を見るのは初めてだ。
「おっ、『板屋』のだ。今年は俺の好きな店~」
そんなに違うものなのか、と大樹は内心で首をかしげる。
葵ものぞき込みながら言う。
「子供の頃はすごい嬉しかったんだけどね~」
「じゃあ、葵さんいらないですね。その分、俺もらっていいですか?」
「もらうわよ。ま、私は食べ慣れてる『美福』の方が好きだけどね」
鈴木が笑う。
「金沢の人は良く言うけど、今でもその感覚はよくわからんわ。どの店も普通に美味いと思うんだけどなあ」
大樹は箱をまじまじと見つめた。
四色。しかも黄色はカボチャ餡らしい。
「・・・これ、初めて見ました」
正直に言うと、鈴木が肩を叩いた。
「大樹さんも話のタネに一つ食べておいた方がいい。知らんと話しにならんからな。この時期、市内のあちこちの店で、同じ商品が売ってるんだよ。今なら『氷室饅頭』」
「でも、同じじゃないんですよ」
紫音が即座に言い返す。
「その店によって微妙に味が違うんですから。多分、砂糖の量とか蒸し時間とかのせいでしょうね」
「蒸し時間まで言う?」
葵が笑う。
本気なのか冗談なのか分からないやり取り。けれど、そのわかっている人達の輪の中に、自分がいる事が少し不思議だった。大樹は、迷った末にピンクを手に取る。
無難だと思ったからだ。
その時、鈴木が箱の中を見渡す。
「持って行ってない子は~」
少し間。
「彩さんがいませんね」
名前が出た瞬間、意識が一瞬だけそちらに向く。
「ああ・・・」
気のない素振りで言う。
「じゃあ、俺がもらっておこう」
紫音がすぐに手を伸ばす。
「残しておかなくても?」
思わず口をついて出た。自分でもなぜ気になったのか、わからない。
葵がふっと笑う。
「あー彩さんはね、ああ見えて好き嫌いがはっきりしてるの。確か『板屋』なら『こもかぶり』」
紫音がうなずく。
「定番、『中田屋のきんつば』、『松葉屋の栗蒸し羊羹』、『圓八のあんころ』……」
次々と店名が出る。
大樹は軽く目を瞬いた。
「・・・すみません、何の話です?」
正直に聞くと、葵が説明する。
「大多数が美味しいって言ってる所。だから“どこどこの店の何々”って言われてる」
「『氷室饅頭』は美味しい所はいろいろあるんですけど、『どこどこの店の氷室饅頭』とはあんまり言わないですね」
紫音が続ける。
「それで、どこの店もまあまあ美味しいってなると、それぞれにお気に入りができる」
「彩さんもそれです」
箱を閉じながら紫音が言う。
彩さん。
職場ではいつも苗字で呼ばれる。線を引いたような距離。
けれど、時々視線が合うと、ほんの少しだけ柔らかくなる。あの目は・・・嫌いではない。
「俺はさっきも言ったけど、氷室饅頭なら『板屋』。黄色のカボチャ餡が一番好きですね」
紫音が黄色を取る。
「私は『美福』ね。食べ慣れてるのが一番」
鈴木が苦笑する。
「地元民のこの手の話は、話半分に聞いておいた方がいいぞ。昔信じて、客先で『どの店も美味しいですよね』って言ったら大変な目にあった」
「何があったんですか?」
「『氷室饅頭は森八だろ』って機嫌を損ねた」
葵が笑う。
「その話を家に帰ってしたら、『次にその会社に行った時、うちの氷室饅頭は水本のでしたって言っておきなさい』って言われてな……訳もわからずその通り言ったら、機嫌は直ったんだが。未だによくわからん」
紫音が声を立てて笑う。
「『水本』は『森八』で修業したご主人がやってるんですよ」
「余計ややこしいな」
鈴木が頭をかく。
そのやり取りを聞きながら、大樹はふと考える。もし彩がここにいたら、どんな顔をするだろう。少し困ったように、でもちゃんと聞いて、きっと最後に小さく笑う。
あの人は、距離を取っているようでいて、ちゃんと見ている。
自分が話す時も、視線を外さない。
嫌われてはいない。それどころか・・・。
そこまで考えて、思考を止める。
手の中のピンクの饅頭を見る。まだ食べていない。けれど、すでにこの土地の物語が詰まっている気がする。
「・・・とりあえず、まずは食べてみます」
ゆっくりとかじる。
しっとりとした生地。
やさしい甘さ。
「どう?」
紫音が身を乗り出す。
少し考えて、笑う。
「正直、違いはまだわからないです。でも・・・」
もう一口。
「こういう話を聞きながら食べると、なんか特別ですね」
甘さが、ゆっくりと広がる。
この街の事も。
この会社の事も。
そして・・・あの、少しだけ不器用な人の事も。
知らない事ばかりだ。
けれど。
知りたい、と思っている自分に、大樹はまだ気づかないふりをした。
ピンクの甘さが、まだ舌の奥に残っている。
その時、入口のドアが開く音がした。反射みたいに顔を上げる。
彩さん。
外回り帰りだろう。薄いグレージュのブラウスに黒のテーパードパンツ。
湿気を含んだ空気を連れて、静かに室内へ入ってくる。
前髪がわずかに頬に貼りついている。そんな細部にばかり、不自然なくらいに目が行く。
「あ、お疲れさまです」
いつもの、きちんと距離を保った声。
返事をする前に、気づけば体が先に立ち上がっていた。
「お疲れさまです。今、氷室饅頭配ってて」
気持ちだけが先走って、声がわずかに弾む。箱を持つ手に、意味もなく力が入る。
「まだありますよ。よかったら」
それだけでいいはずなのに、言葉が止まらない。
「俺、初めて食べたんですけど。思ってたより甘さがやさしくて。ピンク、結構美味しかったです」
なぜ感想まで報告しているのか。聞かれてもいないのに。自分でもわからない。わかりたくないだけだと心の底では、わかっている。
「『板屋』らしいです。黄色はカボチャ餡で、紫音がすごい推してました」
余計な情報を重ねる。会話の糸が切れないように、細い糸を次々と投げるみたいに。
彩が箱をのぞき込む。
その横顔を、つい目で追ってしまう。少し屈む。その動きに合わせて、無意識に体もわずかに前へ寄せる。
ふわり、と熱を帯びた空気にふれた。
外気を含んだ空気に混じって、微かな汗の匂いと、ほのかに甘い香りが届く。強くはない。ただ、近づいたからわかる距離の匂い。
喉が渇く。鼓動が一拍、強く跳ねる。腹の奥が重く沈む。
まずい。
視界の端で、首筋にうっすらと光る汗が見えた。
ブラウスの襟元、わずかに開いたその奥を、見てはいけないと思いながら一瞬だけ視線が滑る。体温が、急に上がる。熱が、腹の底に溜まっていく。理屈じゃなく、男としての本能がざわめく。
まずい。
そう思うのに、距離を取れない。
ほんの数十センチ。
この横顔を。
この首筋を。
この距離を。
簡単に共有されたくない。
ほんの数秒の沈黙が、自分のもののように思えてくる。
もし、ここで他の誰かが割り込んだら。笑って譲れるだろうか。・・・多分、無理だ。
そんな自分に、薄く笑う。
壊したいわけじゃない。
奪いたいわけでもない。
「どれがいいと思います?」
聞く必要のない問いまで口にしてしまう。
彩は少し迷ってから言う。
「・・・じゃあ、ピンクを」
「ですよね」
思わず、笑みがこぼれる。いつもの笑顔に、溜まっていく熱をうまく隠す。
「俺もそれにしました」
同じ色。それだけの事でささやかな共有になる。
彩が袋を開ける。細い指先が、包みをほどく。その指先を、無意識に見ている自分に気づく。
「もし甘さが物足りなかったら、黄色もあります」
まだ続ける。
自分でも少し可笑しい。
彩は小さく笑った。
「まずはこれ、いただきます」
その笑顔を向けられた瞬間、胸の奥がじんわり温かくなる。
ただ饅頭を勧めただけ。それなのに、何かをもらった気がしている。
●●
誠は、その光景を斜め後ろから眺めていた。
わかりやすい。
普段は落ち着いている大樹が、今日は違う。
彩が戻った瞬間の反応。
一拍も置かず立ち上がる動き。声のトーンがわずかに下がり、柔らかくなる。
相手の表情を、いちいち確認している。
笑ったか。
困っていないか。
話は続いているか。
尻尾でもあれば、騒がしく揺れていそうだ。
「どうした?」
いつの間にか葵がデスクに戻ってきていた。
向こうでは鈴木の声が続いている。
「今の時期、『若鮎』っていう菓子もあってな・・・」
「・・・どうもしません」
葵は即答する。
けれど視線は、無意識にあちらへ戻る。
誠は小さく息をつく。
「俺、ああいうのできないわ。無理~」
半分本音だ。あそこまで迷いなく近づけるのは、才能だと思う。
紫音もいつの間にか戻ってきている。
「誠さんのキャラじゃないでしょ」
「だよな」
誠は苦笑しながらも、目は逸らさない。
大樹は鈴木の話に相槌を打ちながらも、体の向きがほんの僅かに彩の方へ傾いている。
彩が饅頭を口に運ぶと、ほんの一瞬、目がそちらへ動く。
待っている。
反応を。
彩が「美味しいです」と小さく言う。
その瞬間の、大樹の表情。
誠は見逃さなかった。
ああ、これはもう。
紫音がぼそりと呟く。
「わかりやす・・・」
言い切らない。
葵はマグカップを持ったまま、飲むでもなく、机に置くでもなく。
指先に、わずかに力が入っている。
視線は落としているが、焦点は合っていない。
さっきまで会話に混ざっていたはずなのに、今はほんの少し、遅れている。
向こうで彩さんが笑う。
ほんの小さな声。その瞬間だけ、葵のまぶたがぴくりと動いた。
誠はそれを見逃さない。
「どうもしません」と即答した声は、早すぎた。否定する準備を、あらかじめしていたみたいに。強がりだとまでは言わない。
けれど。
マグカップを持つ手が、白くなるほど力んでいる。
机に置く。
音が、わずかに強い。
それだけで十分だった。
葵は何も言わない。ただ、視線を戻さない。見ないという選択。
それもまた、わかりやすい。
誠は、静かに目を細める。
なるほど。
こっちも、か。
止める理由もない。
助言する義理もない。
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