第56話 光を抱いて歩む者たち
ミリュアの詠唱が、ついに終止符を打った。
刹那――世界そのものが、息を呑んだ。
彼女の小さな身体を核として、眩い光が幾重にも重なり合い、絶対的な領域を描きながら膨張していく。
その光は白ではない。深紅と蒼、そして神々しい金色が螺旋となって混ざり合う、この世のものとは思えぬ魔力の奔流。
大気は震え、強固な石床が断末魔のような悲鳴を上げて砕け散る。
放たれた魔力は物理的な熱を帯び、触れる以前に魂が灼かれるような錯覚さえもたらした。
「――馬鹿な、これほどの……理を外れた力が……!」
アルグレイドが驚愕を叫ぶ間もなく、光は爆ぜた。
それはもはや、音ですらなかった。
衝撃そのものが世界を塗り潰し、意識を白く染め上げる。
凄まじい熱波の濁流が広間を貫き、絶対の武を誇った聖銀の巨槍さえも、一瞬で赤熱し、形を失い、塵へと砕け散った。
床に刻まれた不浄の魔法陣は次々と焼き切られ、石壁は溶け、空間の在り方そのものが根こそぎ焼失していく。
それは炎ではない。
“存在の概念ごと無へ帰す魔力”
アルグレイドの異形の身体が、内側から黒くひび割れていく。
不死の再生能力すらも、圧倒的な光に上書きされ、否定され、もはや一欠片の細胞すら存在を保てない。
「認めん……認めぬぞ……! この私が、このような……!」
その叫びは、光の咆哮のなかに掻き消えた。
神の如き威容を誇った異形の巨躯は、内側から砂の城が崩れるように音もなく瓦解し、灰色の粒子へと変わっていく。
それは無残な敗北というより、永すぎた時を止めていた呪縛が解け、あるべき「無」へと還っていくかのようだった。
風もないのに、その塵は光の残滓を纏いながら、淡く、天へと向かってふわりと舞い上がる。
かつて彼を縛っていた執着も、冷酷な野心も、すべては夜に溶ける幻影となって——。
一筋の銀光が空を裂くように消えた後には、彼がそこに存在した証さえ、どこにも残されてはいなかった。
訪れたのは、深い沈黙だった。
焼け焦げた広間に残ったのは、呆然と立ち尽くす仲間たちと、すべての力を使い果たし、今にも消え入りそうなミリュアだけだった。
「ミリュア!」
最初に駆け寄ったのはグレンだった。
「馬鹿者が……これほどの無茶をして……!」
「……ミリュア……! よく、頑張ったわね。本当に、よく……」
メルティは溢れる涙を拭いもせず、祈るような声でその名を呼んだ。
「お前は……我ら一族の、最高の誇りだ」
ラグナは右拳を左胸に当て、折れた角を伏せて深く頭を下げる。
「……これ以上の戦士を、俺は生涯拝むことはねえだろうな」
バルグの低い声には、救えなかった己への悔恨が苦く滲んでいた。
「……ありがとう、ミリュア……!」
フェンは小さく、しかし真っ直ぐな言葉を、彼女の背中に贈った。
静寂が降り積もるなか、ヴァルドはミリュアの前にゆっくりと膝をついた。
戦い抜いた証である傷だらけの手で、壊れものをいたわるように、そっと彼女の小さな手を包み込む。
「……ミリュア。ずっとたった一人で、この重荷を背負ってきたんだな」
触れた指先の冷たさに、ヴァルドは祈るように力を込める。
「森に身を潜めていたのも、刃を振るわなかったのも……ミリュアが臆病だったからじゃない。すべて、今日この時のために、力を、命を繋ごうとしていたんだ。そうだろう?」
微かに震えるミリュアの睫毛を見つめ、ヴァルドは一言ずつ、彼女の魂に刻みつけるように言葉を紡ぐ。
「ミリュアの母上が命を懸けて守ろうとしたものも、ミリュアが千年の闇の中で信じ続けた想いも……そのすべてを、俺は確かに受け取った。この掌に、確かに残っている」
溢れ出しそうになる感情を堪え、震える声を整えて、ヴァルドは静かに続けた。
「だから、もう大丈夫だ。ミリュアが……絶望の淵で繋ぎ止めてくれた希望は、これからは俺たちが生きて、繋いで、守り抜いていく。ミリュアが誇りに思い、夢見た未来を――俺は、決して裏切らない」
その誓いを聞き届けた瞬間、ミリュアの頬に、柔らかな光が差したように見えた。
それは、永い永い使命から解き放たれ、ただ一人の少女に戻ったような、無垢で満ち足りた微笑みだった。
そうして彼女は、最愛の騎士に看取られながら、穏やかな眠りにつくように静かに瞳を閉じた。
◇
静寂が支配する広間の奥、ひび割れた高い窓から、ひと筋の光が差し込んだ。
それは、永い夜の終わりを告げる、清冽な「本当の夜明け」の光だった。
青白く冷たかった雪原の色が、刻一刻と淡い黄金色に染まっていく。
光は粉々に砕け散った石床を照らし、宙を舞う埃さえも、まるで祝福の輝きのようにきらめかせた。
ヴァルドは、ミリュアの静かな寝顔を見つめたまま、その光の中にいた。
まぶたの裏に焼き付いた激闘の残像が、朝の光に洗われ、ゆっくりと溶けていく。
頬を撫でる風にはもう、禍々しい魔力の匂いも、死の予感も混ざっていない。
ただ、新雪の清々しい香りと、生命の息吹だけがそこにあった。
「……夜が、明けたんだな」
誰にともなく溢れたヴァルドの声に、グレンやラグナ、そして背後に立つ民たちが顔を上げる。
彼らの傷ついた身体を、昇り始めた太陽が等しく暖かく包み込んでいく。それは戦い抜いた者たちだけに与えられた、静謐な抱擁だった。
振り返れば、そこにはまだ崩れ落ちた壁や、癒えぬ傷跡が無数に残っている。
しかし、眩いばかりに輝き始めた地平線を見つめる彼らの瞳には、絶望の影はもうどこにもなかった。
世界を覆っていた呪縛は、今、完全に解かれたのだ。
新しく始まった一日の光が、彼らの歩むべき道を、白く、どこまでも真っ直ぐに照らし出していた。




