第55話 千年の沈黙、解き放たれる刻
衝撃に弾かれ、冷たい石床を転がったヴァルドの視界は、白く濁っていた。
耳鳴りの奥底で、何かが粉々に砕け散る音が響く。
それは石か、自身の骨か、あるいは――守り抜こうとした心そのものか。
だが、指先にはまだ、確かな重みが残っていた。
無意識のうちに死守していた、大剣の柄。
「……まだ、離すな。お前の剣は、折れていない」
低く、どこか懐かしい響きがした。
弾かれたように顔を上げる。
混濁する意識の向こう、陽炎のように揺らめきながら立っていたのは――父だった。
幼き日に喪ったはずの、鋼のように屈強なその背中が、今、確かにそこにある。
戦場で幾度も見た、静謐なまでの横顔。全身を血に染めながらも、決して正義を、そして剣を捨てなかった男。
「父さ、ん……?」
幻影は微かに、誇らしげに微笑んだ。そしてヴァルドの手の上から、大剣の柄にそっと自らの掌を重ねる。
「恐れるな。お前はもう、一人で戦っているのではない」
その瞬間、鉛のように重かった腕に、爆発的な力が奔った。
いや――それは力が戻ったのではない。かつて豪傑の傭兵と呼ばれた男の魂が、今、息子へと託されたのだ。
「行け、ヴァルド!」
次の刹那、ヴァルドは地を蹴り、咆哮とともに大剣を振り抜いた。
空を裂く銀光。限界を超えた一振りが、超越者として君臨していたアルグレイドの右腕を、その傲慢さごと斬り飛ばす。
「――っ、ぐぅ……ッ!!」
初めて、アルグレイドの口から、苦悶と怒りに濁った獣の如き声が漏れた。
「……許さん、許さんぞ虫ケラどもめ……!」
欠損した腕から溢れ出す魔力が、制御を失い、暴走する大嵐となって膨れ上がる。
放たれた破壊の全体魔法が空間そのものを叩き潰し、瓦礫の雨を降らせた。
ヴァルドも、グレンも、ラグナも、そして立ち上がったすべての人々が、再び暴力的な衝撃に飲み込まれ、床に沈む。
――今度こそ、もう終わりなのか。
暗転しかけた意識のなか、金属が床を引きずる、かすかな音が届いた。
ゆっくりと、揺らぎながらも一つの影が立ち上がる。
ミリュアだった。
呼吸は途切れ絶えで、全身は朱に濡れている。
それでも、彼女の手は短剣を離さず、射抜くような眼差しでアルグレイドを捉えていた。
「……ヴァルド、聞こえるか」
その声に、ヴァルドはかろうじて顔を上げる。
「わらわは……まだ、終わらせてなどおらぬ。まだ、立てるのじゃ」
アルグレイドが、忌々しげに、あるいは未知の脅威を覚えたかのように彼女を見下ろす。
「……貴様。それが不死としての、執念か」
「違う」
ミリュアは震える足で、一歩、断固たる歩みを踏み出した。
「これは、永き時を……誰かのために生きてきた者の、意志じゃ!」
ミリュアが千年以上もの永き時を、陽の当たらぬ森の奥底で過ごしてきたのは——
決して、怯えていたからではなかった。
すべてはこの瞬間のため。
この呪われた連鎖を断ち切り、すべてを終わらせる、その時のためだけに彼女は息を潜めてきたのだ。
抑えに抑え、魂の檻に閉じ込めてきた魔力が、ついにその封印を解かれる。
刹那、ミリュアの小さな身体から、おぞましいほどに濃密で純粋な魔力が噴き上がった。
大気は悲鳴を上げて軋み、堅牢な城の広間そのものが、耐えかねたようにぐらりと歪む。
ヴァルドは、ただ息を呑むことしかできなかった。
――これほどまでの、天を焦がすような魔力を。彼女は今まで、たった一人で隠し続けてきたというのか。
荒れ狂う魔力の中心で、ミリュアはゆっくりと振り返り、ヴァルドを見つめた。
その瞳に宿っているのは、敵への戦意ではない。陽だまりのような、どこまでも穏やかで深い情愛だった。
「のう、ヴァルド……」
それは、長い長い旅路の終わりに、愛しき者へ語りかけるような優しい響きだった。
「わらわはな……お主に、あの人を重ねておったのじゃ」
ヴァルドの胸が、万力で締めつけられるように疼いた。
「守れなかった命。届かなかった想い。果たせなかった約束……わらわが零してきた過去のすべてを、お主の背中に見ておった」
ミリュアは、少女のように微かに微笑んだ。
「じゃが、もう違う。お主は……お主自身の手で、ちゃんと強くなった。正しく誰かを守れる騎士に、育ってくれた。それが……何より嬉しかったのじゃよ」
震える手で、ミリュアは短剣を鞘に収めた。
そして、祈るように、静かに両手を胸の前で合わせる。
――詠唱が、始まった。
それは、一節ごとに世界の理を書き換えていくような、重く長い調べだった。
言葉が積み重なるたびに魔圧は増大し、空間が限界を超えて悲鳴を上げる。
その場にいる誰もが直感した。
それは——術者の命そのものを対価とする、禁忌の魔術だということを。
「ミリュア……何をするつもりだ!? やめろ、ミリュア……ッ!!」
ヴァルドの絶叫さえ、もはや彼女の耳には届かない。
ただ前だけを見据え、彼女は聖歌を紡ぐように詠唱を続ける。
その背中はどこまでも小さく、今にも消えてしまいそうなほど儚い。
それでも、世界そのものを背負い、運命へと立ち向かうその姿は、何よりも気高く満ち足りていた。
禁断の言霊が、ついに後戻りのできない深淵へと踏み込もうとしていた。




