第51話 裏切りの一閃
呼吸ができず、視界が白く滲む。
ミリュアは必死に指を動かし、短剣の柄に手をかけた。
「……もう、父ではない。皮を借りた“不死”じゃ」
かつてフェンに告げた言葉が、胸の奥で何度も反芻される。
あのときは、迷いなく言えたはずなのに。
ミリュアは歯を食いしばり、短剣を引き抜く。
震える腕を無理やり持ち上げ、母の胸へと突き立てようとする。
その瞬間だった。
短剣を目にした女が、はっとしたように目を見開く。
虚ろだった瞳に、微かな揺らぎが走る。
掴んでいた指の力が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
「……ミ……リュ……」
かすれた声が、確かに名前を呼んだ。
ミリュアの動きが止まる。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
これは幻か、それとも――。
次の瞬間、女の魔力が荒れ狂う。
自我と不死の呪いが拮抗し、空気が震え、ホール全体が軋んだ。
「母さま……!」
ミリュアの叫びに応えるように、女は苦しげに顔を歪める。
その唇が、もう一度だけ動いた。
守るように。
託すように。
――そして、その腕が、ゆっくりとミリュアを突き放す。
「今だ……ミリュア!」
母が作った、ほんの刹那の隙。
それは、確かに――
ミリュアのために、残されたものだった。
――ミリュアは、叫んだ。
「うああああああああっ!」
迷いも、躊躇も、すべてを振り切るように。
叫び声とともに、短剣を――母の胸へと突き立てた。
刃が、確かな手応えをもって沈み込む。
聖銀が触れた瞬間、女の体を覆っていた魔力が悲鳴を上げた。
「――っ……!」
母の口から、息が零れる。
その瞳から、不死の濁りが砕け散るように消えていき、代わりに――懐かしい、優しい空色が戻った。
血が、胸元から溢れ出す。
冷たい石床に、赤が広がっていく。
母は、もう抵抗しなかった。
短剣を握るミリュアの手に、そっと自分の手を重ねる。
「……ミ、リュ……ア……」
かすかな声。
それは、呪いでも命令でもない。
確かに、母の声だった。
「……ごめん……な……さ……」
その言葉を最後に、母の体から力が抜け落ちる。
操られていた巨大な不死兵たちが、一斉に動きを止め、次々と崩れ落ちていった。
ホールに、重い音が響く。
そして――静寂。
ミリュアは、その場に崩れ落ちた。
短剣を握ったまま、床に膝をつき、俯く。
肩が、小さく震える。
声は、もう出なかった。
ヴァルドが、そっと近くに膝をつく。
グレンも距離を保ちながら、静かに頭を下げた。
誰も、急かさない。
誰も、言葉を挟まない。
やがて――
ミリュアは、深く息を吸い、ゆっくりと立ち上がった。
涙の跡が残る頬を、袖で乱暴に拭う。
短剣を、ぎゅっと握り直す。
「……終わった」
その声は、かすれてはいたが、確かに前を向いていた。
ミリュアは顔を上げる。
もう、母の姿はない。
だが――託された想いだけは、胸の奥に、はっきりと残っていた。
「行くぞ、ヴァルド、グレン」
震えは残っている。
それでも、足は止まらなかった。
――戦いは、まだ終わっていない。
◇
最上階へと続く階段の手前、広いホールに足を踏み入れた、その瞬間だった。
「見つけましたぞ! ようやく落ち合えました!」
明るい声。聞き慣れた調子。
「ダリス……」
名を呼んだ、その刹那。
ダリスの足取りが、わずかに沈む。
次の瞬間には、距離がなかった。
踏み込み。
閃光のように走る刃。
鈍い衝撃が、ヴァルドの胸を貫いた。
「……な、に……!?」
息が詰まる。
力が抜け、膝が崩れ落ちる。
刺さった小刀は、心臓をわずかに外していた。
それでも、焼けるような痛みとともに、じんわりと血が滲んでいた。
刃に走る、嫌な輝き。
(まさか――聖銀!?)
「ヴァルド!?」
ミリュアが叫び、駆け寄ろうとする。
グレンも一歩踏み出すが、その前に――
ダリスが、静かに距離を取った。
いつもの軽い調子は消え、目だけが冷えている。
「おやおや……ずいぶん驚いておられますな」
その声は、落ち着ききっていた。
「ダリス……どういう、ことじゃ……」
ミリュアの声が震える。
ダリスは肩をすくめ、小刀を一度、布で拭った。
「役目を果たしただけですぞ。最初から、こうなる運命でしたからな」
ヴァルドは歯を食いしばり、床に手をつく。
血が、石の上に滴り落ちる。
「……最初から、だと……?」
「ええ。わたくしはアルグレイド様の命で、あなた方を導くために送り込まれた」
淡々とした告白。
そこに、迷いも後悔もなかった。
「信頼を得て、要所まで連れてきて……最も効果的な場所で、仕留める。それだけのことですぞ」
ミリュアの瞳が、信じられないものを見るように見開かれる。
「……嘘じゃ……今までの旅は……」
「すべて、計算のうちですな」
ダリスはそう言って、薄く笑った。
ヴァルドは、震える腕で立ち上がろうとする。
だが、傷がそれを許さない。
「動くでない……!」
ミリュアが素早く回復魔法を唱え、ヴァルドの傷を癒していく。
「まだ、時間がかかりそうじゃ……グレン、頼む、ここは……!」
ミリュアの声に応えるように、グレンは一歩前に出て、ヴァルドの大剣をしっかりと構えた。
「任せよ」
三人の視線が一瞬だけ交わる――
裏切り者に対する怒りと、まだ終わらぬ戦いへの決意が、そこに刻まれていた。




