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喜劇  作者: 新原氷澄
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喜劇 Chapter.7

 終わりのない、悲しい海の浅瀬を、ずっと彷徨っている。

 いつの頃からか、彼/彼女は一人だった。暗闇の中で、知らない誰かの声を聴いていた。それは常に心の外にあり、寄り添うことは決してなかった。

 嘆きは遥か遠くか、自分の身体の内側だけに反響した。意思の向かう先はなく、苛立ちだけが募った。満たす当てのない破壊衝動は容易く臓器の底を焼いた。

 内側の肉と血管を食い荒らしながら、一人で立ち上がらなければならなかった。世界を滅ぼそうとした孤独な科学者の肩に、己の影を重ねた。

 彼/彼女のボニーアンドクライドは、暗い海の底を漂っている。救いは、未だ見つかっていない。


 灯明星(あかしあかり) は音楽学校の入り口で身分証明書をかざした。警備員は目視で確認すると、「ご苦労様です」と低い声で呟いた。

 日本で有数の歴史を持つ音楽大学は、かつて木造だった校舎の面影を残らず捨て、大きな長方形が幾何学のように組まれたガラス張りの建物で構成されている。灯明は教務課の前にある美しい銀色のエレベーターの前に進んだ。エレベーターを待つ間、百六十センチに満たない灯明の頭上をサン=サーンスの軽やかな音が通り過ぎて行った。


灯明先生(あかしせんせい)


 振り返ると、友成翠とカメラマンの鬼束がいた。


「おはようございます、友成さん。鬼束くん」


 鬼束の好奇心をそれとなく遮るように「打ち合わせご苦労様です」と友成が丁寧に頭を下げてくれた。


「随分お早いんですね」


「気分転換を兼ねて早めに来ました。昨日から徹夜でして」


「あまりご無理なさらないでください」


 友成は灯明の手の中にある珈琲を見て、柔らかいため息を吐いた。


「お二人は撮影ですか」


「ええ、ここの五階のラウンジを撮影で使わせてもらう約束なんです。いつもスタジオ撮影だと、撮ってる俺が飽きちゃいますから」


 被っている黒いキャップの角度を少し直して、人懐っこい笑顔を見せた。灯明は、カメラマンらしい男だと思った。


「ガラス張りの綺麗なラウンジですよね。いい写真が撮れそう」


「そうなんすよ〜光の当たり加減良くて。灯明先生も一枚撮ります?」


「いえ、私は結構」


 軽い鬼束の言葉を聞き流し、珈琲カップに口をつけた。話すことはもう残っていない。構成作家の灯明が最新の宣材写真にこだわる必要はないし、しばらく前から体重の増加が止まらないことまで人に話さなくてもいい。


「じゃ、俺たちここなんで」


 エレベーターが着くと、鬼束と友成は真っすぐにラウンジへ向かった。


「灯明先生、二時に教室へ伺います」


「はい、よろしく友成さん」


 二人と別れて、灯明は長い廊下を歩いた。会社が会議室として借り受けている教室へ向かう。

 明るい日差しが差す教室でレッスンをしている学生たちを眺めながら、仕事の脳をゆっくりと起動させる。思考を占めているのは、企画の初期から携わっている「中野サンプラザ復活演芸祭」のことだった。

 サンプラザホールの復活と、御舟師匠の引退公演が微妙な歪みを生んでいるのが気になっている。

 命を吹き返すものと、滅びゆくもの。幕開けと幕引き。客に何を伝え、どんな余韻を残すのか。

 はっきりと答えがでないまま、企画会議の日を迎えてしまった。


 とはいえ、建て付けはすでに決まっていて、灯明の構成を妨げるようなこだわりは、組織の中に見当たらなかった。宣伝は区の担当者を立てつつ、引きのある演者の顔をなるべく前面に出せば、灯明にまで批判の矛が向くことはない。危険な挑戦をするまでもない。無難以上の結果を望むほどに欲深くもなかった。


 隣の教室から聞こえてくるピアノの音にじっと耳を澄ませ、精神の乱れを整える。

 静寂より深い落ち着きが灯明の身体をゆっくりと包んでいく。ため息とともに、その思考も静かに沈んでいく。 

 なにか過去の記憶を思い出しそうな予感を振り払うために、タブレットに入っている企画書を広げた。

 出演者のほとんどは劇場で会ったことがある若手から中堅の芸人たちだったが、一組知らない顔があった。

 スマートフォンを取り出し、彼らの名前を検索する。案の定、新大阪の隣駅の地名が上位に出る。検索ワードに「漫才」と加えると、ようやくYouTubeのチャンネルや、ファンのつぶやきが見つかった。

 兵庫県出身、高校の同級生コンビ。関西の賞レースで結果を残しながら、一度解散して五年後に再結成。芸歴は五年と少し。

 東京での知名度は、ほとんどない。灯明は画面を見つめたまま、心のどこかで彼らを憐れんでいた。

 憐憫。スポットライトの下でなければ息ができないということは、これからの人生のほとんどの時間、まともに呼吸ができないということだ。

 舞台の上に希望などない。

 喜劇的な一幕が終わり、その光が天上に消えていくその瞬間から、彼らの不幸が始まる。それだけのことにすぎない。

 タネも仕掛けもない、単純な仕掛けで悲劇を生む装置。灯明は舞台をそう捉えている。 

 人生の大半は、灯明自身のそれも含めて、スポットライトの当たらない場所で進行する。

 脇役たちの世界、板の下の世界では、身を屈め、小さくなり、気配を消し、慎ましく優しく穏やかにあることが求められる。

 脇役を演じる術をもたない者を、社会は評価しない。板の上と下、その間に立つ灯明は、人の残酷さをよく知っている。

 

 板の隙間を埋めるものは、圧倒的な才能――それだけ。

 ただ一つ、衆目に羨望を抱かせるもの。人を驚嘆せしめる静かな狂気。

 それが何より難しいと知りながら、灯明は探す。

 タブレットの向こう側にある電子の海に何度も潜り、まがい物を選別し、撮影時の空気を味わう。

 導となるのは、それを発見した時の歓喜。幾度も徒労を繰り返した後――ある時、灯明は微笑した。

 石の仮面のように硬くなった表情が小さく綻んだ。自分でも分かるほど、はっきりと。


 壁掛け時計の針が進むのを待ちきれず、灯明はそっと廊下に出た。心と足音が逸るのを感じる。

 情報機器操作室に沿った廊下を抜けると、再びラウンジが見えてきた。


「鬼束さん、すみません、どんな顔したらいいのか分からなくて……」


「伊丹くんはそのままで。優しく垂れた眉が良い感じ。青崎くん、もうちょい笑って」


「……伊丹、おもろい顔して笑わせて」


「無茶ぶりすんなや! おもろい顔ってなんや……どないしたらええねん」


「……ははっ、お前の困ってる顔ウケるな」


「地顔じゃ。これでウケるな、失礼な」


「あー、今の良い感じです。そのまま!」


 静かだったラウンジが温度を持っている。その熱の中心にいるのが、西中島南方の二人だった。

 黒髪で背の高い方が青崎雲雀、茶髪で眼鏡をかけているのが伊丹悠介。

 灯明は二人の姿を目に映しながら、彼らの名前と声を記憶に照らした。


「青崎さん、もう少し伊丹さんに寄りかかれますか? そう、腕を伊丹さんの肩にかけて……」


「こんな感じ?」


 友成の指示に従って、スーツの腕が伊丹の肩に回る。


「あぁ、良いですね。このカットもう何枚か行きましょう」


「了解」


「アホ、青崎、重い。加減せぇ」


「マネージャーの言うことは聞かなあかんやろ?」


「顔引きつってる、伊丹くん」


「すんません!」


 周りで見ている人達の輪から、自然な笑いが溢れる。天性の光。人の眼を集めてやまない魅力があった。

 「伊丹さんも背中に腕を回すといいですよ」と友成が指示をして、ようやく構図が決まった。


「はいお疲れ~。一旦チェック入りますね。楽にしてていいよ」


 鬼束の了承に従って、伊丹は文字通り肩の重荷を下ろした。青崎は手持無沙汰なのか、指先を弦を弾く形に変える。そこへ灯明はそっと近づいた。


「西中島南方さん……ですよね」


 友成が気づいて、すぐに間に入ってくれた。


「青崎さん、伊丹さん。こちらは構成作家の灯明先生です。「中野サンプラザ復活演芸祭」も灯明先生のご担当ですよ」


灯明星(あかしあかり)です。初めまして」


 深く頭を下げる向こうで、二人の背筋が伸びる気配がする。


「西中島南方の、伊丹と青崎です。この度はお世話になります」


「青崎さんは、舞台袖で何度かお会いしてますね」


「ああ、はい。多分灯明先生は覚えてはらへんと思うけど……」


「いえいえ、覚えてますよ。あの食い入るように舞台を見つめる眼は、なかなか忘れがたいものでした」


 背の高い青崎が、軽く屈んでくれる気配がした。灯明も挑み返した。


「YouTubeチャンネルでやってた三味線は、物になりそうですか」


「本番までには完璧にします。神聖な出囃子をいじるなって怒られんかとそれだけ思うてますけど」


「大丈夫ですよ。むしろ、私は御舟師匠たちの横で出囃子をやってほしいと思いました」


「え! そんなん俺らみたいなペーペーがやってええんですか」


 驚きのあまり大きくなった声を、伊丹は自分の手で遮った。


「舞台で生演奏に勝るものはないですからね。その分プレッシャーがかかると思いますけど」


「師匠たちの最後の出囃子を、俺たちが……」


 深く呼吸をしてから、青崎は「やらしてもらいます」とはっきりと返事をした。


「伊丹さん、鼓は間に合いますか」


 友成は気づかわしげに言ったが、その声に不安の気配はなかった。


「……青崎が言うた以上、俺も完璧に仕上げます。日和ってる場合じゃなさそうや」


「助かります。ついでに、漫才のネタについてもプランがあるんですが、乗ってくれますか?」


 灯明の提案に、二人は顔を合わせずに、同時に頷いた。


「先生がおもろなると思うことなら、なんでも仰ってください」


「師匠への恩返しもかかっとるんです。俺らにできることなら」


 二人の熱が、灯明の静かな海に光を灯していく。


「……やっぱり面白い人たちだった」


 深海の底から、初めて声が返ってきた気がした。


「友成さん、今日の会議、お二人にも参加してもらっていいですよね」


「そう仰るからには、なにか腹案が?」


「はい。西中島南方さんには、イベントの起爆剤になってもらいたい」


 友成は「ふむ」と小さく呟いて、「あと二カ月でどれだけ露出を増やせるかが勝負ですね」と冷静な計算を口にした。

 友成の緻密な思考は、すでに灯明のプランを予見しているようだった。


「間に合いますか?」


「間に合わせます。お仕事のある伊丹さんには、睡眠時間を削ってもらうことになるかもしれませんが」


「そんなもん、なんぼでも削ってください。なぁ青崎」


「……あぁ。あのバケモン倒すのに、無傷でおれるとは思ってない」


「嬉しいです、御舟師匠たちを化物と呼ぶ人たちと仕事ができて。あの人たちの偉大な芸を理解してくれる人でなければ、きっとこの仕掛けは成功させられない」


 青崎の整った面に、一瞬だけ淡い微笑が走った。それは灯明への尊敬の念によるものだった。


「青崎さん。師匠たちの漫才、袖で聞いて覚えてますよね」


「はい」


「あれ、根こそぎ全部盗んでもらっていいですか」


「はい」


 青崎は何も聞かなかった。どころか、当然という顔をして無茶振りに応えた。


「師匠らの芸を踏み台に、俺らの台本を作る」


「そうです。出番の十組全部でそれができたら、面白いと思いませんか」


「最高や。絶対おもろいことなる」


 隣に立つ青崎の腕が興奮で震えるのを、伊丹は肌で感じた。


「あなた方の面白さへのこだわりを、全部台本に乗せてください。それが活きる構成にしてみせます」


「伊丹、やるよな?」


 青崎は相変わらず、伊丹の顔を見ない。ただその熱だけが、隣にいる伊丹に伝わっている。


「やらしてもらいます」


「では、根回しは僕の役目ですね」


 友成も涼しい顔で役目を負う。

 火花が散るような空気の中、シャッターを切る音がした。


「やー、面白くなりそうですね。撮りがいありそう」


 友成と灯明が同時に鬼束のカメラの方向へ向いた。


「鬼束さんにも当日カメラで入ってもらいましょうか」


「むしろ、当日までの様子を撮っておいてもらうのはどうですか?」


「本番だけじゃなくて打ち合わせやリハも?」


「はい。全部SNSで流して、お客さんも巻き込んでいきましょう」


「大仕事になってきたなぁ」


「鬼束くんならできますよね」


 周囲に火種を分け与え、火を大きくする。人の呼気をはらんだ炎は、いつしか大きな熱を生む。灯明星の真骨頂。


「せ、せめてスケジュール押さえてからにしてもらっても?」


「スケジュールくらい空けなさい。これから彼らが主役になる所を特等席で見られるんですよ」


 鬼束と灯明は足元で気安く小突き合った。鬼束は開きかけた手帳を結局閉じて、灯明の言葉を信じた。


「灯明先生が作るイベントは面白いから、仕方ないっすね」


 副カメラマンも押さえます、そう言って鬼束はスマートフォンを握り、後ろを向いた。


「では、また会議でお会いしましょう」


 さっと踵を返して、元来た廊下を戻っていく。撮影を忘れた青年たちの話し合いは、背後で続いていた。

 廊下の角を曲がって人影が絶えた時、美しい音楽に合わせて足が勝手にピルエットを描くのを、灯明は止めることができなかった。

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