喜劇 Chapter.6.5
月が天に昇り、叢雲が空を覆う頃、最上階にロフトのあるビルの一室は、夜の静寂を忘れて、笑いと気安さの入り交じった空気を醸していた。伊丹と青崎は洋室にあったモニターをロフトに運び込み、友成に配信機材をセットしてもらうと、一緒に運び込んだゲーム機の電源ボタンを入れた。はめ殺し窓の向こうから子供が風呂ではしゃぐ声が聞こえていた。
友成はゲームをほとんどしたことがないと正直に告白した。そんな友達を学生時代一人も持たなかったことも。伊丹はコントローラーの持ち方から丁寧に教えてやり、青崎はぎこちない友成の操作を黙って見守った。二人は一度もコントローラーを握ることなく、無用な横槍と助言を送り、友成が次第にゲームにのめり込んでいく姿を微笑ましく眺めた。
「……ははっ、なんでもできる男が、こうも簡単にやられると痛快やな」
「これ、青崎。友成がかわいそうやろ」
「いえ、これで三回連続ですからね。言われても仕方ないです」
普段は感情を抑えている静かな声が、波間に浮かんで消えるように不安定に響いた。
「伊丹さん、戦略でなんとかなりませんか?」
「これボス戦やから船に戻って強化できんのよな。雑魚は落ち着いて倒せるようになってきてる。後はボスのキースと距離とって、ゲージがたまったら三角押すタイミングをはかって……」
「待ってください、メモします」
「メモするほどのことか。伊丹、手本見せたれ」
「アホか、自分で勝たな意味ないやんけ。なぁ友成」
コントローラーを握る手に、友成がこれまで知らなかった力が籠もる。
「勝つまでやります」
「よう言うた! 俺も勝つまで付き合う」
方向キーと四種類のボタンを組み合わせて押すだけのバトルアクションゲーム。落ち着いていれば正しく反応できる身体の動きも、華々しく光るエフェクトと相手の動作に翻弄されて、焦りからミスを生んだ。全ての物の動きを最後まで見てから動きたい友成には不得手な分野だった。
だが、不思議とやめたいとは思わなかった。温かく励ましてくれる伊丹と、時々茶々を入れながら見守ってくれる青崎の声が、何度でもリトライボタンを選ばせた。
「……勝……ちました?」
「やった! ようやった!」
「やるやん。もう無理かと思ったわ」
「回復アイテムを使うタイミングの指示が良かったんです」
先にハイタッチの手を伸ばしたのは青崎だった。伊丹は両腕を天に突き上げて、自分のことのように喜んだ。
「次の章どうする? せっかくやからホノルルシティ行ってほしいけどなぁ」
「そこには何があるんですか」
「海賊団の仲間を集めるねん。海賊ランク上げて、街の写真を撮りまくって、船の改造もして……やることまだまだいっぱいあるで」
「ここはまだ序章なんですね。ワクワクします」
「どうせもう終電ないやろ、好きなだけやったらええわ」
「え! もうそんな時間か。腹減ったと思った」
「よく考えたら、おやつのドーナツしか食べてませんね」
「晩飯にしょう。なんか食いに行くか」
「駅前まで出れば何某か開いてる店あるかな。外出るなら着替えてこよかな」
伊丹が先にロフトの階段を降りて行った。青崎はのんびりと両腕を伸ばして肩を解している。ロフトが青崎の私室になっていることを思い出して、友成はゆっくりと部屋の中を眺めてみた。十五畳ほどの部屋に収められた、三味線のケース、木目が見えるアイアンのテーブル、古いものから新しいものまで探偵小説やノワール小説が並んだ本棚、黒い保温ポット、数着の服が収められた小さなガラスの戸棚、青崎が寄りかかっている大きなクッション。青崎自身の私物は少なそうに見えたが、置かれているものたちとの距離がほどよく保たれていて、ここには確かに青崎の居場所があるように見えた。
「……この部屋、なんだか居心地がいいですね」
「せやろ。なんか書く時はここが一番落ち着く」
「配信機材を部屋に入れてしまって良かったんですか?」
青崎は眠そうな目を更に細めて、光っているディスプレイを眺めた。
「もうこいつも仲間やろ」
その言葉は、友成の胸の内に温かい余韻をふんわりと残した。
「ソフトとゲーム機を買って、家で練習しようかと思ってたんですが」
「金もったいないわ。ここでやったらええねん」
「そうですよね。このセーブデータはここでしか積み上げられませんから」
画面の中で海賊の帽子を被った男が、得意げに笑っている。記憶喪失の男が「キャプテン」として成長するまでの間、友成の心にも微妙な変化が起きていた。それは本当に小さく、しかし後戻りのできない変化だった。
「また遊びに来させてください」
「うん。いつでもおいで」
「はい」
「お前他の芸人さんも見てるから、仕事忙しいやろけど」
「西中さんの配信のためって言って出てきますよ」
青崎は小気味よさそうに「それはええな」と言って笑った。
「青崎ー友成ー」
階下から伊丹の声がする。
「伊丹、俺もう眠い。飯いらん」
「お前はまたー! そういうことをー! 俺ら腹減ったよ」
「伊丹さん、僕一緒に行きます。なにか買ってきますね」
友成は首元のループタイを解いて、ポケットの中に入れながら、青崎を振り返った。
「お前らが選ぶならなんでもええわ」
眠気に負けた青崎に手をひらひらさせて送り出され、二人は夜の街へ出た。住宅街の中にある猿江町の夜は静かに寝静まっている。
「お疲れのところにお邪魔してしまいましたか」
「いやー。青崎、最近昼も夜もなんか書いてるんよなぁ。あれ台本やと思うんやけど、なにをあんなに追い詰められとるんか……」
「伊丹さんも何も聞いてないんですか」
「いや。……知っとる。知っとるけど、ちょっと無謀が過ぎるっていうか」
素直にコンビニへ向かう道ではなく、伊丹は少し迂回する道を選んだ。友成は黙って後について歩いた。ビルの二階から漏れる明かりが、小さな光の環を地面に投げかけている。月はとうに雲の向こうに沈んだ。
「御舟師匠のこと、青崎はほんまに尊敬しとると思うんよ。漫才のことだけじゃなく、人柄も好きなんちゃうかなぁ」
「そうですね。僕もそう思います」
「師匠の芸を全部受け継いで、その上で自分の漫才をやりたい。……多分そんなこと考えてるんやと思う」
星もなく、風もない夜だった。ひやりとした夜の呼吸が肌に張り付いて、二人の足取りを重くした。
「師匠が重ねてきた年月の重さは分かってる。それでも今、今の師匠を超えるものを作りたいって、青崎は言うてた」
「……いつもながら無謀で、大胆不敵ですね」
「せやろ。あいつほんまにおもろいわ」
伊丹悠介は、ひっそりと覚悟を湛えた顔をした。青崎雲雀の相方で、その芸に惚れこみ、地獄までも共に行こうとする男の顔を、友成は違う世界の実像として見た。
「めっちゃおもろいもん書くから、信じたってほしい。あいつの馬鹿で無謀な思い付きは、きっとたくさんの人の心に響くから」
「……勿論です。僕は西中島南方を信じていますよ」
しみじみと、ありがとうな、と礼を言った。
「良かったら、また息抜きさせに来たってくれ」
「はい」
コンビニの窓ガラスから溢れる光が二人を出迎えた。
「帰ったらもう寝てるやろうなぁ」
「もう夜中の一時ですもんね。普通の人も寝ている時間です」
「友成は? 明日仕事?」
アップルウォッチを光に晒して視線を走らせた。
「いえ、休みです」
「ふへへ、ええなぁ。俺も休み」
「じゃあ、帰ったらホノルルシティ行きましょうか」
「せやな。馬鹿ほどレベル上げて青崎驚かしたろ」
二人は部屋に戻ってから、居間のPCモニターでゲームを続けた。ゲームが上手くなっても、後で録画を見た青崎に文句を言われるとわかっていても、この夜ごと手を離すのが、まだ名残惜しかった。