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喜劇  作者: 新原氷澄
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喜劇 Chapter.6

錦糸町が人生の愁嘆場なら、壁に暗いシミのついたあの楽屋はなんだろう。人に夢を見せる者と、寂しい漂泊者とを選り分け、幸福な空想に耽る冷たい病室。拍手の残響と、ひとり分の沈黙を抱えて戻る人のいない教会。笑いにかける熱量と冷めた現実が交わる交差点——薄く汚れと倦怠を帯びたその部屋は、劇場の片隅で人生を始めて、堂々と真ん中に座ることもなく、出番を粛々とこなして帰っていく人々にも、そっと名前を与えてくれる——賑やかしの寄席も、名を冠した独演会も、いつかすべてが夢のように消えて、後には何も残らない。芸人の仮面を被って舞台を大音声で満たす彼らが、そんなことを認めはしないだろうが。

 認めれば終わってしまう。笑いが人を救っていると信じられなければ、彼らは死んでしまう。そんな人間を殺さずにすむように在る、悲しくも切実な場所を、友成翠(ともなりあき)は他に知らなかった。


「あの子らどや、友成」


 髪のセットをしている御舟洒落(みふねしゃらく)師匠が鏡越しに訊いた。

 今日の劇場は、先日よりもかなり規模が大きい。東の大師匠二人に与えられた楽屋も、腕が触れ合わない快適な広さだった。師匠が望まなければ、大部屋の楽屋しか当たらないような小さな劇場の仕事は断っても良いのだが、御舟洒落・洒然(しゃぜん)師匠は積極的に小さな劇場の公演に出たがった。ここ数年は「恩返し」と言って、過去に出演させてくれた劇場の仕事は、どんなに些少なギャラでも出てくれた。七年師匠たちに付き従っている友成にも、まだ分からない感覚だ。


「先日以来ですが、お電話の声は元気そうでしたよ。今日の午後、この舞台がはけたら会うことになっています。YouTubeチャンネルの撮影機材をお貸しする約束なんです」


「え~ワシらも行ったらあかん?」


「駄目ですよ。配信前に飲まされたら使い物にならなくなりますから」


 ちぇーと子供のように唇を尖らせる洒落師匠の隣で、洒然師匠が笑っている。


「ちょっとぐらいの酒は気つけ薬やで、友成」


「日本人の四十パーセントは先天的にアルコールに耐性を持たない体質だと言います。まったく酒を飲めない人も四パーセント程度いるそうですよ、洒然師匠」


 友成は西中島南方の二人に酒が飲めるか訊いたことはなかったが、青崎の神経質そうな完璧主義と、伊丹の常識的で平凡な印象を見た限りでは、人前に出る時に飲酒をするタイプには見えなかった。今の芸人には、誰に言われずとも自制できる強さが求められる。友成は彼らがそうあってくれればいいと願い続けているが、いざとなれば「矯正」のために実力を行使することになったとしても後悔はしない。

 友成翠は常識にとらわれる。友成翠はその中でしか想像力を広げられない。だから彼は、自分に笑いの才能が欠けていると思っている。破天荒に芸の道を生き通す昭和の爆笑王、喜劇王の生きざまなど、彼は決して理解しない。そんな芸人をマネジメントで御し切ることに力を尽くすくらいなら、友成にはもっと向いている仕事がいくらでもある。もし仕事上巡り合うことがあったら、彼は速やかに上長に申し出てマネジメントから手を引くだろう。それは冷たさではなく、互いに不運を回避する賢明な方策だと思っていた。

 そんな友成を、職場の同僚や辞めていった芸人たちは、畏怖を込めて「死神」と呼んだ。彼は理屈でものを考え、できうる限り正しい判断をしているつもりだったが、時々間違ったことをしている気にもなった。静かに沈んだ感情を持て余す夜は、心の中で看取った人の墓に花を手向け、祈りを奉げた。そのことを誰に打ち明けることもなかった。


「友成、今日はもう行ってええで」


「私らここの劇場慣れてるしな。お前もちょっと窮屈なスーツ脱いでから行っておいで」


「ですが……」


「おまはんのデータで客の流れは完璧に予想できとる。そやろ?」


「…………」


 御舟洒落・洒然師匠は、芸の為の逸脱など決してしない。自らの中にある太い芸の道の王道を行くのが彼らのやり方で、その安定感が友成にはなにより魅力的だった。今日の舞台も粛々とこなし、興行主が喜ぶ程度に客を楽しませてくれるだろう。

 御舟師匠からもう一度念を押されて、友成は渋々劇場の楽屋を辞した。時間にまだ余裕があったので、師匠の言う通り着替えて手土産でも買っていこうと思った。渋谷で行列を作っているドーナツ屋の列に滑り込み、久しぶりにぼんやりと思考を辿った。行列を待つ間、洒落ているがどこかくすんだ街の広告より気になるのは、当然西中島南方の二人のことだった。先日のライブ音源の評価は社内でも高く、珍しく何人かのマネージャーが手を挙げていた。御舟師匠たちの後ろ盾が効いているので、このまま何事もなければ友成が担当に収まるだろう。しかし自分が彼らの実力を引き出せるかどうか、注意深く判断をする必要があった。オンラインで会議をすることもできるのに、友成が彼らの家を訪れるのは、そんなことも理由のひとつだった。

 友成翠は奇跡を愛しているが、奇跡を信じたことはなかった。それでも、彼は願っていた。

 劇場の最前線に立つ者たちと同じくらいに、自分の予想を超えて現れるなにかを切実に欲していた。

 狭い舞台の上で起きる火花のような奇跡を。人の可能性を。そうでなければ、劇場の薄暗闇に棲みこむような仕事は務まらなかっただろう。

 友成は肩に重みを感じながら渋谷の街を出た。機材の重さだと思い込もうとしたが、このところ少し疲れているのは確かだった。御舟師匠たちは色素の薄い彼の瞳の中に、なにかを見抜いていたのかもしれない。

 地下鉄の窓に映る暗闇の中に、心が溶けていく。窓に映る人々と同じ、彼も灰色だった。

 茫洋と数駅をやり過ごした頃、不意にポケットが震えた。伊丹からのLINEだった。


「都営新宿線の住吉駅が最寄です。半蔵門線でもいけますよ」


 短くため息をついて、ようやくつり革を握っている手の感覚を思い出した。



「お疲れ様です」


「重かったでしょう。荷物持ちますよ」


 駅まで迎えに来てくれた伊丹が、手を差し出した。空いていない方の手には、大きな黒い傘を持っていた。友成は機材の代わりに、ドーナツが入った袋をそっと差し出した。


「いいんですか、めっちゃ食べたかったやつや……! あのえげつない行列並んでくれはったんですか」


「仕事が少し早く終わったので。今日、青崎さんは?」


「なんか集中して書いてやったから、声かけずに置いてきました。今頃「あいつどこ行ってん」てぼやいてますね、多分」


 駅のエスカレーターを上がり、地上にたどり着くとちょうど雨が上がった。青空と灰色の雲と雨の残りが混じりあう中、二人はきれいに差し込む陽の光に目を細めた。歩きながら話すのは他愛もないことだった。会話の中で年齢が一つ違いだということが分かり、「じゃあここからは敬語はなしで」と話がついた。友成が敬語で話すのが癖になっていると言うと、伊丹はそれもいいと柔らかく笑ってくれた。


「青崎~、友成来てくれたで」


「お邪魔します」


 玄関と続き間になっているダイニング、その真上にロフトがある。玄関の隣にはもう一部屋洋室があり、そこが伊丹の部屋兼居間になっていた。青いベッドカバーがかかったソファベッドのそばに荷物を下ろすと、ロフトの入り口から弦を弾くやわらかな音が零れ落ちた。


「……あぁ、おかえり」


「お前何してんの」


「ちょっと聴いて」


 撥で三味線の弦をすくう度、トン、テンシャンと軽快な音がする。少しテンポの遅い、丁寧な音運びが、友成の耳の奥に染み込んでいる鼓の音を呼び起こした。ぴんと張った弦の音が静まると、今日のリハーサルで聞いた師匠たちの声まで蘇ってきた。


「御舟師匠の出囃子やん」


「結構でけてるやろ」


「お前、おい、ちょっと」


 伊丹が下からロフトの入り口を覗いて、青崎を雑に呼びつけた。青崎は抱えていた三味線を膝から下してケースの中に収め、それからゆっくりと階下に降りてきた。


「意外と弾けるもんやな、三味線」


「ええ~? お前なんでいきなり三味線なんか弾き出すの?」


「師匠たちの度肝抜いたろと思って」


 青崎が口の端でニヤリと笑った。


「俺の度肝を先に抜いてくれたよ! あの三味線、おかんが置きっぱなしにしてたやつか。なぁ、三味線はええとして鼓はどうすんのよ」


「お前がやんねん。今から」


 青崎が断言すると、伊丹は眼鏡の上から目を押さえて「うー」と短く唸った。それから「どこで買えんねん、鼓……島村楽器で売ってんのかな……」と天を仰いだ。友成は伊丹を気の毒に思いながら「事務所にあったかもしれません」と言った。


「え! ほんまに。貸してもらえるやろか。いや、覚えられるか分からんけども」


「覚えろ。百回ぐらい聞いたら覚えられる」


 端で二人の会話を聞きながら、実際に事務所の倉庫で鼓を見た記憶はなかったが、必要なら経費で買おうと思った。御舟師匠に芸で挑んだ漫才師たちは数多くいたはずだが、出囃子から自分たちのものにしようとした漫才師は初めてだろう。古風な師匠たちは、一層この弟子たちを愛するだろうと思った。


「家の中から鼓と三味線の音聞こえてくるてどう考えても変やろ……まぁええわ、お前が変なのは前からや。今更俺が言うても聞かへんやろし」


「安心せぇ。家の中から聞こえてくる時点でお前も一蓮托生で変なやつや」


「安心できるか! せめて音で苦情こんようにせなな……」


 友成は黙って伊丹の嘆きを聞いていたが、内心感心していた。人の目を気にしない青崎の無体の結果を、伊丹はきちんと引き受けている。伊丹には相方の傍若無人を見て見ぬふりしない覚悟がある。


「チャリ物と言って三味線で滑稽な音を出す芸もあります。……今時の芸人さんで演る人はほとんどいませんが」


「ほら、友成も言うてるやないか」


「三味線はええわいな、見た目もかっこええしよ。こっちは鼓やぞ。鼓と着物のコンビ芸の芸人さんしかおらんやろ、ほとんど独占稼業や。……青崎がトチって、ピンで出やなあかん時に使えるかなぁ……いや使えるか?」


 人生で一度も向き合うことのなかったはずの鼓に文句を言いながらも、伊丹の口調は軽かった。青崎の無茶に付き合っていけるだけの素質と実力を、彼も密かに隠し持っているのだった。

 首をひねっている伊丹を放っておいたまま、青崎が友成の方へ向き直った。


「来てくれてありがとう。ゆっくり話してみたいと思ってたんや」


「僕とですか……?」


「俺等と変わらん年であの御舟師匠たちに付いて行ってんねやろ。どないしとるんか聞きたい」


 青崎の眼が友成の姿形を空間から切り離すように刺していく。眼差しは強かったが、友成は不快には思わなかった。


「ええてええて、立ったまま話さんで。座ってくれ友成。お茶いれるから青崎も座っとれ」


 伊丹が間に割って入り、そのまま台所へ向かった。友成はテーブルの上に残されたドーナツの包みを解いた。長い指が器用に動くのを、青崎は静かに見ていた。


「青崎さん、ドーナツお好きですか?」


「……多分? 俺はあんまり食わんけど、伊丹は喜ぶと思う」


「このドーナツ、御舟師匠の好物なんですよ」


 冷えた黒曜に似た質感の眼が見開かれる。紙袋の形、ドーナツの色、ふんわりとしたクリームの質感まで、その眼が空間に溢れる情報すべてを読み取ろうとするのを友成は感じた。


「ドーナツだけじゃなくて、流行ってるものは基本なんでも試してみようとされます。だから寄席での受けは滅法強い。老若男女それぞれに向けて刺さる球をこまめに放ってきますから」


「……さすがやな。それくらいできやな長年生き残ってこられんわな」


 友成も深く頷く。


「天才的な勘で世の中の風を読む漫才師というのも、いなくはないです。お客の微妙な顔色を即座に読みとって話の流れを変えてしまう漫才師。青崎さんは多分そちらに近いですよね、貴方は眼が良いし、俯瞰でも客席が見えているタイプと推察します。ですが、師匠たちの引き出しの中のものを増やしておいて適宜取り出す技術も、身につけておくと芸の幅が広がると思いますよ」


「……ありがとう、そういうの言うてもらえると助かるわ」


 青崎は目を伏せて、丁寧に頭を下げた。相対する友成も、背筋を伸ばしてテーブルの縁まで下げる。


「いいえ、どういたしまして」


「御舟師匠たちの芸、引退までできる限り生で見たいと思ってるんや。今日来てくれたら予定を聞こうと思っとった」


「公演の予定表とバックパスをご用意します。裏から入って袖で聞いていればいいですよ。顔を見せてくださったら、師匠たちも喜びます」


「ああっ、お前また自分だけそういうことを」


 冷茶が入ったグラスを持ってきた伊丹が口をへの字に曲げて抵抗した。青崎の細い指がゆったりとグラスを摘まんで机の上に運んだ。


「お前も来たかったらこればええやないか」


「俺平日はさすがにそんな頻繁に休めんよ。御舟師匠らは夜の公演はあんまりやりはらへんみたいやし……うう、社会人辛いなぁ」


「では、僕が持っている師匠の音源をお貸ししますね。寄席の雰囲気全部を味わえるわけではないですが、勉強にはなると思いますよ」


「おおきに! ほんまに助かる」


「お二人の足並みが揃わなかったら、漫才はできませんからね。自分一人だけが頑張っても駄目だと、よく自覚してください」


 友成は至極柔らかい声を意識して口にしたが、青崎は僅かに眉を顰め、掌の甲でそっと唇を隠した。当たり前の忠告が青崎の心に響いている。それだけで伊丹の心に感動が満ちる。


「友成、俺ら友成がいてくれへんかったらやっていかれへん……」


 大事そうに友成の両肩を叩く。真に迫った伊丹の哀願に、友成は笑って応えた。


「ご希望に添えたようでなによりです」


「お礼にこのドーナツをどうぞ」


「いただいたものをもてなし顔でしれっと出すな。ほんでお前、これめっちゃ買うの大変なドーナツやからな、ありがたくいただけよ」


 青崎が耳の上の髪をかき上げかけた——その手が途中で止まり、そっとドーナツの方へ指先を向けた。


「お、お前が食べるん珍しな」


 無造作に、さふ、さふと小さな音を立てて食はんでいく。内側のクリームから立ち上る甘い空気が、少しだけ青崎の唇をほどいた。一度零れてしまった笑みは唇を離しても戻らず、手土産を持ってきた友成の方へ向けられた。その顔が友成にとってどれほど嬉しいものか、青崎はきっと気づいていない。


「うん、美味い。お前も食べ」


「そらもちろんいただきますよ」


 伊丹は不思議そうな顔のまま一口齧り、すぐに「うま!」と歓声を上げた。

 友成には、二人の手の中にあるドーナツの粉砂糖が光って見えた。そして、それは雨上がりの虹のようにあざやかで、あまりに目映かった。

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