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喜劇  作者: 新原氷澄
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喜劇 Chapter.5

 ひとつのスポットライトが、空気中に舞う埃と、それから騒々しい宇宙を照らしている。間口六メートルの小さな闇の上で、人工の火星や彗星がいくつも瞬いている。人の息遣いや走り回る音が響く空の舞台は、そこだけ空気が薄くなったかのように冷たく張り詰めていた。

 客席と舞台の間にある目に見えない境界を、青崎は一人客席から見つめていた。日常との決別と、非日常への入り口。若さゆえの蛮勇で無策を笑い飛ばし、ひたすら自分の芸を磨き、栄誉を受けた過去の日の事が、今は夢のようだった。あの時は輝いて見えた場所が、今は底の見えない奈落のように口を開けていた。

 彼は再びそこに身を投げ出すために、なんでも差し出した。望んでそうしたはずだった。あちら側へ行くために払った代償の数は、両手の指を折って数えても足りない。それは心労となって胸に降り積もり、微かな痛みとなって背骨の間を軋ませ、底知れない不安となって眠りを妨げた。ぎこちなく両手の指を曲げ、また開いてみて、体が動くことに驚きを感じる。吐息は微かに震えていた。


「演者さんですね? まもなくリハーサルが始まりますので、舞台裏にお集まりください」


 スタッフが気づいて声をかけたのをきっかけに、重い瞼を上げる。まだここにいたかった。何者でもない自分を実感していたかった。肩に掛けたジャケットが重く感じた。


「青崎」


 客席を駆け抜ける靴音の後に、伊丹の声がした。


「よかった、お前リハーサル前にどこ行ったんかと……」


 伊丹は袖を捲って時間を確認し、安堵の息を吐いた。


「煙草の帰りに迷った」


 言い訳を口にする間も、スピーカーから流れる出囃子が鼓膜を震わせる。


「ここ、結構複雑やもんな。俺も大分ウロウロしたわ」


 息を詰めて空の舞台を見つめる青崎の横に立つ。こういう時、伊丹は決して急かさない。必ず辛抱強く、青崎の心が動くのを待つ。


「青崎、俺帰ってええかな?」


「え? お前帰んの」


「緊張して腹痛いし、吐き気もするし奥歯ガチガチ鳴るし」


「……」


「満身創痍や。正直帰りたい」


 完璧な寝不足と極度の緊張が伝わるよう、伊丹は耳を平手で叩き、目を閉じた。これから舞台に上がるとは思えない悄然とした顔を見ているうちに、青崎はなんだか笑えてきた。


「俺も帰りたいわ。漫才なんか客席から見とるのが一番面白いんやから。こんなとこ立ってなんかやるなんて、阿呆の考えることやで」


「ほんまやな。バックレてここで二人座っといたろか」


「一番手がバックレて最前座っとったら、絶対怒られるな」


「最低やな。舞台から物飛んでくるぞ」


「俺やったら、配信カメラでバックレた奴の顔抜いて晒し上げる」


「今日配信なくて良かった~」


「……今日の掴みこれでええな」


「せやな」


 ジャケットの袖に腕を通す。肩を回すと、長い腕に血が通っていく。その様を伊丹は黙って見ていた。


「初めてお前と舞台立った時、客何人やったっけ」


「高校の文化祭やったかなぁ。五十人くらいやと思うで」


「ほんで新人賞取ったときは何人やった?」


「あん時はキャパ三百って聞いたな」


「ここのキャパが百十席か。こっちのが全然小さいんやな」


「やのに全然今の方が体震えるな」


「な」


 昔から芸人が多く住む中野区の、小さな劇場だった。改修と改築の合間を縫いながら、今日も公演が行われる。梅雨の晴れ間のように、束の間舞台の緞帳が上がる。楽屋はたった一つしかなく、軋む客席がすべて埋まることの方が希な会場だ。それでも、この会場が一体となって揺れる日を夢見て芸人たちは舞台に立つ。

 彼らがどれだけ血と汗を流してその舞台に立つのか、誰も知らない。隠れて血反吐を吐き、それでも舞台の上では芸人の顔をして人を笑わせる。


「俺らのお客さん一人も来てへんかったらどうする?」


「次の路上ライブでネタにしよ。「中央総武線一本やないですか! なんで誰も来てくれはらへんかったんですか!」って泣いたろ」


「錦糸町のお客さんらやったら、それ見て笑ってくれはるわな」


 手痛い失敗であっても、誰かが笑ってくれると思うと、ふっと肩の力が抜けた。今日はもう大丈夫だと、二人とも思った。


「西中島南方さん! リハ始めます!」


「すみません! 今行きます」


 伊丹が反射的に出した声が、狭い舞台の天井まで届いた。


「行くか、青崎」


「行ったろやないか」


「しょっぱなから今日一客席沸かしてくれてええんやで?」


 靴の踵が透き通った音を立てる。舞台へ向かう青崎の唇に不敵な笑みが浮かんだ。


「俺らに任しとけや」


 *


 拍手の余韻を噛みしめながら、舞台袖を抜け、控室に向かう。前髪の下の汗を拭ってから上を向くと、鼻の奥がつんとした。勝手に涙が出るのを、伊丹はそっと拳で拭いた。一粒の雫が頬を零れ落ちた後は、石清水のようにじわじわと湧いてきた。青崎は無言で微笑を見せた。


「お客さんようけ来てくれはったやんけ」


 東京でもらった一番大きな拍手が、舞台をはけた後も耳の奥に残っている。


「はいどうもー」「ようお越しくださいました」と口上を繰り返している間、青崎と伊丹は観客ひとりひとりの顔を確かめていった。優しいざわめきの中、知った顔と目が合うたびに、像がぼやけていく。必死で笑顔を作った。


「あんなに温かいと思わんかった」


 涙もろい伊丹の顔がぐずぐずに崩れているのを、青崎は見ないふりをした。しかし舞台衣装が汚れると思ったので、早めにハンカチを渡してやった。


「東京でもろた財産やな」


 これまで方々で積み上げた、騒々しくも美しい、脆いようで固い信頼が、二人を漫才師にしてくれた。


「……おい、そろそろ泣き止まんと、楽屋入られへんやないか」


「すまんすまん。先入っといてくれ。ちょっと立て直すわ」


 伊丹を外に置いて、青崎一人で楽屋に入る。演者と思われるスーツを着た人々が、モニターにくぎ付けになっていた。若者から年配まで意外に幅広い年齢層の人々が、一様に静かな興奮に包まれている姿は、ちょっと見られる景色ではない。輪の中心にいた白髪の漫才師が振り返り、青崎に「お疲れさん」と大きな声をかけた。そこから口々にねぎらいの言葉が楽屋を飾った。


「お疲れ様です」 


 挨拶の後、青崎が言葉に詰まっていると、


「今日が初舞台っちゅう関西の子やろ。ようやった」


 部屋の隅の椅子に腰掛けていたもう一人の白髪の漫才師が言った。


「ありがとうございます。……恐縮です」


 青崎は深く頭を下げたまま、二人の老漫才師の言葉を聞いた。今日の出演者は全員初対面だったが、もちろん顔は覚えている。白髪の老漫才師はトリを務める「御舟洒落(みふねしゃらく)洒然(しゃぜん)」——東の大師匠と呼ばれ、長年芸事一本で飯を食っている百戦錬磨の兵。そんな人たちが自分たちのような木端芸人のことを知ってくれていることに、青崎は軽い驚きを覚えた。この楽屋の漫才師たちは、自分を仲間として迎えてくれている。


「友成、今日はどうや」


「あの子らに負けてられんで」


 老漫才師たちは、部屋に入って来たばかりの黒いスーツ姿の男に声をかけた。彼は黒革の手帳を開いて、


「外気温三十二度、室温二十四度、湿度六〇パーセント。晴れたので客の入りは良いようです。入客数は約九十。いつもより三十代から四十代の客が多いのは新人の西中島南方さんのおかげでしょうか。舞台正面の音はクリアですが、横からの音があまり良くありません。後ほどマイクの調整に入ります。洒落師匠、腰の具合は大丈夫ですか? マイクの高さを若干下げておきます。逆に出囃子は音が大きいので、控えてもらいましょう。ライトの角度は完璧です。今日の出番順なら途中退場は少ないでしょう。お二人が最後に大きな笑いを作ってくださることを期待しています」


 小川が流れるようなささやかな声で情報を並べていった。最後まで聞き終えた洒落師匠は顎を撫でて「期待なんかするな、確信しとけ」と大笑いした。


「失礼しました。あ、西中島南方の青崎さん。初めまして」


 黒いスーツの男は表情を変えずに、青崎に向かって名刺を差し出した。


「御舟洒落・洒然のマネージャーを務めます、友成翠(ともなりあき)と申します」


「おおきに。友成さん、よろしくお願いします」 


「友成で結構です」


 端然とした佇まいの男だった。年齢は二十代後半、感情の起伏を覆い隠すような楚々とした静けさが、彼を実際よりもいっそう背高に、遠い存在に見せていた。灰色の瞳は氷の湖面のように澄み渡り、ただそこにあるだけで、見る者の呼吸を整えさせる。黒いスーツとネクタイは織り目ひとつ崩れず、塵も寄せつけない。人の気配が濃密な楽屋にあっても、彼の周辺だけは夜明けの静謐のような空気が漂っていた。


「すまん、青崎。遅なった」


 ようやく楽屋に入ってきた伊丹の前に、音もなく友成の腕が伸びる。白い掌の上に、いつの間にか小さな保冷剤が載せられていた。伊丹が反射的に手を差し出したのを確認してから、そっと指を離して、


「どうぞ。目を冷やしてください」


「お、おおきに。お手間かけてすみません」


「これが仕事なので、お気遣いなく」


 伊丹の目元の腫れを確かめるように顔を覗きこむと、友成は薄い唇に微笑みを作った。


「面白かったです。会場の空気が固い中、よくウケてましたね」


「ありがとうございます。見ててくれはったんですか?」


 友成はわずかに首をかしげてから、「漫才、好きなので」と控えめな声で答えた。


「ははは。確かにな。友成は漫才好きやな」


「師匠、なにか仰りたいことでもあるんですか」


 友成の切れ長の目がぴしゃりと洒落師匠の笑い顔をはねのける。


「いや、お前つまらん漫才師に手厳しいのになぁ」


「南口か北口かしらんけど、気に入られたのぉ」


 伊丹は氷の冷たさで顔を引き攣らせながら、大きな口を開けて笑っている洒然師匠に向かって、「西中島南方の、伊丹です……」と名乗り直した。


「お前ら、師匠はおらんのかい?」


「関西出のペーペーが東京でどないして飯食っとんねん」


「……師匠はおりませんので、木端芸人らし泥水啜りながらやらしてもうとります」


 恐れながら、という静かな口調で青崎が答えた。


「ははは! 木端芸人か、ええこっちゃ」


「今時物好きやのぉ」


 本当に愉快そうに笑う人たちだ、と伊丹は思った。瘦せた体の内側のどこにそんな力があるのか、はっきりと聞きやすい声が場をゆるやかに支配する。豊かな髪には年老いてなお枯れない生命力が、笑い皺一本一本には柔和な人柄が刻まれていた。しかし青崎を見つめるその眼には、芸人の一番辛い時代をしっかり味わって大きくなってきた人たちだけが持つ、密やかな悲哀が漂った。激しい海流に揉まれ、時に骨を折りながら、栄養のあるものはなんでも喰らって成長を重ねた大魚の気骨。味がある芸人というのは、きっとこういう人たちのことを言うのだろう。


「お前ら、東京に師匠おらへんのやったら、ワシらとこ来けえ」


「私らも生まれは大阪やしな。困った時はおいで」


 青崎はゆっくりと顔を上げて、視界の中に伊丹の顔を探した。そんな優しいことを人に言われたことがないからどうしていいのかわからない、そんな風に伊丹は表情を読み取った。

 友成がそっと背中を押してくれたので、伊丹も青崎と共に師匠の前に出て行って、深く頭を下げた。


「よろしゅうお願いします!」


「お()の申します」


「友成、面倒見たれな」


「……優しくしたほうが良いんですよね?」


「優しくしたれって言うたらできんのか?」


「お前は親切やが優しくはないぞ」


 師匠たちは二人仲良く首を傾げた。友成は特に反論しないまま、僅かに眉を歪めた。


「まぁ、こいつ嘘は絶対つかんから。信用してちゃんと聞いたらええ塩梅に行くわ」


「二人とも未熟者なんで、厳しい頼みます」


 青崎は再び友成に頭を下げる。その時楽屋にいた他の芸人たちがにわかにざわついた気がしたのは、伊丹の気のせいだろうか。


「承知しました。僕が一旦預かりますね。師匠方、別室の鍵借りてきてますので、そろそろご移動を」


「おう」


「ありがとうな友成」


 洒落師匠と洒然師匠が部屋を出ていく後ろ姿に一礼してから、友成は二人を振り返った。


「まずは客席でお勉強会しましょうか」


 *


 友成に導かれて、客席の後方出口から中を覗く。できる限り気配を消して、最後部の空いた席へ身を滑り込ませた。観客に気づかれぬよう、ジャケットを脱ぐ。

 友成は直立した背筋をわずかに傾け、前方を凝視していた。ときおり息を噛み殺したように、ふっと笑う気配がある。彼の「漫才が好きだ」という言葉に、嘘はなさそうだった。

 三人はしばらく無言のまま、芸を味わい、丁寧に拍手を送ることだけに専念していた。客席の空気も、すっかりほぐれている。伊丹の胸もようやく穏やかになりかけたそのとき——三味線と鼓による、優美な出囃子が始まった。空間の余白が埋まっていくと同時に、空気がすっと張りつめた。


「……すご」


 伊丹がこぼした言葉を、青崎もまた心の中で繰り返した。強く打ち鳴らされる拍手、熱を孕んだざわめき、舞台を照らすスポットライトの白さ。「トリ」に相応しい場の熱が、あっという間に劇場内に立ち上る。 

 共に白髪を湛える御舟洒落・洒然は、おっとりと歩いてマイクの前まで進む。

 まるで散歩の途中のような、のんびりとした歩幅でふわりと漂いながら、観客の視線をさらっていく。

 開口一番、洒然師匠がささやくように言った。


「見た?」


「見た。見た。かわええな~! 西中島南方!」


「な。一番手にええのん来て、お客さん今日嬉しかったでしょ」


「ワシらも裏で聞いててね、久しぶりに笑いましたわ。いやー、アホでよかった」


「なんやしゅっとした男前でね、気に食わんわ~と思ったら、真正のアホやもんなぁ。青崎くん、残念な男前やったね!」


「相方はまともなんかなぁと思ったら、あいつもアホやったね。伊丹くん? 裏でめっちゃ泣いとったの見たで」


 客が朗らかに沸いた。伊丹の背中には冷たい汗が伝った。


「なんで漫才しにきて泣くことがあるん! 人を笑わせろって言うてんのよ」


「そこが可愛いんやんなぁ。初舞台で感激して大泣き、若者らしくてええこっちゃ。いや、ワシも昔はあんなに可愛かったかと思ってな……」


「お前は全然可愛くなかったよ!」


「え? 可愛くなかった? こんなちっちゃい頃……」


「その当時は漫才やってない! 相方の私もこんなちっちゃい頃やからね」


 二人の老漫才師が語り続ける間、客席の笑い声は絶えることがなかった。空気は最初から彼らのものだった。笑いが沸くたびに、泣き顔をネタにされるたびに、伊丹の胃の腑は爪を立てるように痛んだ。二か月間磨き上げた渾身のネタが、あっさり「掴み」として奪われていく。笑うべきだったのか、泣くべきだったのか。気がつけば拍手を送り、二人が頭を下げるのを見守っていた。


「面白いでしょ」


 手を叩きながら友成がぽつりと呟く。唇には冷笑が浮かんでいた。


「お客さんがあなた方の漫才を気に入っていたのを見て、火が点いたんでしょうね。あなた方の出番のあと、すぐにネタ合わせ用の部屋を押さえられていました」


「俺らと話してから三十分も経ってないですよ」


「こんなん……勝てるわけない」


 青崎が両手の中に顔を埋め、ぽつりと呻いた。漫才師・青崎雲雀を象徴する、あの挑戦的な眼差しも、今は不甲斐なく歪んでいる。拳で太腿を何度も叩きながら、低く、苦い声を吐いた。


「めっちゃ面白かった……くそぉふざけんなボケ」


 人を笑わせることに命を懸けている男の敗北宣言を、伊丹は驚愕の眼で見た。人のネタで声を上げて笑っているのも初めて聞いた。それほどに、世界の厚みが違った。


「出ましょう。近くにいるのがバレたら、舞台に呼ばれますよ」


 あの二人なら、伊丹と青崎を呼んで晒し物にすることになんら躊躇いを覚えないだろう。そこまで計算した上で、友成は客席に二人を通したのだった。


「舞台上で泣かされたいのなら止めませんけど。これ以上あの人ら調子に乗せたら僕でもどうなるか分かりませんよ」


「い、いえ。何言われるか分かったもんやない。青崎、一旦、一旦出よう」


 青崎の代わりにジャケットを拾い上げて、一足先に出口へ向かう。青崎は照明が明るくなりかけている舞台を、最後の瞬間まで睨みつけていた。


「くそぉ、悔しい。負けた、負けた」


「トリの師匠に勝てる気でおったんがびっくりや。あんなもん五十年先まで無理やで」


 御舟洒落・洒然と同じだけの歳月を積んだとしても、果たしてその域に届くかどうかはわからない。本気で歯噛みできるだけ、青崎のほうがやはり天才に近いのかもしれない——伊丹は内心でそんなことを思った。


「死んで勝ち逃げなんかズルいやんけ。あの人らが生きてるうちに勝たな」


 珍しく苛立ちを露わにし、突っかかるように歩く青崎をいなしながら、楽屋への通用口を探した。

 ロビーに溢れた客の中から「西中なんとかってあの子らよね」と誰かが声を上げる。その瞬間、いくつもの視線と歓声が波のように押し寄せてくる。伊丹の背筋がくすぐったく波打つ。


「うう、辱めもええとこや」


「青崎さん、伊丹さん、一度外へ出ましょうか。今日は楽屋周りも人が集まっているようです」


 楽屋に戻れず、友成に導かれるまま、階段をそっと下った。扉を開けた先には、雲の裂け目から射す白金色の陽と、アスファルトを焦がす夏の匂いが広がっていた。


「あっついな……」


「すみません、友成さんまで巻き込んでしまって」


「友成でいいですよ。……あれを見て、まだ本気で師匠たちに勝ちたいと思ってますか?」


 灰色の眼差しが、淡くも深い熱を灯す。その眼が、もう引き返せない地点に来てしまったことを、伊丹と青崎に教えていた。


「お笑いに中庸はない。俺はトップを取りに行きたい」


「俺は青崎が一番面白いって証明したい、です」


 友成がゆっくりと振り返った。微笑を浮かべていたが、それは慈しみとは無縁の、金属がきしむような不協和音の産物だった。


「師匠が見込んだだけありますね」


 街路樹の葉擦れの下、友成は踊るように道路をわたり、観客の波から抜けていく。二人はあっという間にただの青崎と伊丹に戻ったが、その目だけは爛々と光りつづけていた。


「あそこに見えるのが、中野サンプラザです」


 真っ直ぐに指を伸ばして、白い三角形の建物を指し示す。芸人の文化を支えた街の遺構として残る、中野区のシンボル。


「建て替え工事を中断してるって聞きましたけど」


「ええ、解体は事実上の凍結です。水面下であそこのホールを再建する計画が立っています」


 夕暮れに傾いた空が、街を光と陰で二分する。友成の小さな横顔にも、その境界線がゆっくりと落ちていた。


「あそこで「サンプラザ復活演芸祭」と銘打って、師匠たちをはじめ、中野区の芸人が集う催しを行う予定です」


「そんなこと、俺らに言うても良いんですか?」


 青崎の問いかけに、友成は短く頷いた。風に舞う髪を指で抑えながら、


「あなた達にも出演してもらいたいと思っています。そこで、師匠たちに引導を渡してやってほしいんです」


「まさか」


「引退は、もう随分前から決まっていました。あとは、その花道に、誰を据えるかが懸案でした」


「俺らみたいなもんでええんですか……?」


「師匠が生きてるうちに勝ちたいんでしょう? 復活祭はせいぜい二か月後ですよ」


 その問いかけは、自分の言葉がそのまま刃になって返ってきたようだった。


「舞台で、あなた方の弱点と長所はほぼ把握しました。正しい分析のもとに対策を組めば、必ず今まで以上に大きな笑いを生み出せます。僕はあなた方のポテンシャルを信じてみたい」


 友成の目が、青崎と同じ硬質な光を孕んでいた。


「西中島南方さん。僕とお笑いの怪物を倒しに行きませんか」




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