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喜劇  作者: 新原氷澄
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喜劇 Chapter.4.5

 夜半の雨が残した湿気が、朝を駆け足で通り過ぎる。もう数日で梅雨が来る、と改札口で誰かが言った。秋葉原駅は、風のない冷たい朝だった。作り物の衝撃音(エフェクト)、不穏を掻き立てる壮大な音楽、毎日どこかで行われる工事の音、少女の人工音声が響く街で、ふいに聞こえた生身の声が、耳の奥に残った。


 船着き場が今も残る和泉橋の傍で、伊丹はぼんやりと流れる川の水面を見ていた。水は曇天と溶け合い、平凡な溝色をさらしていた。濁った水色が大阪道頓堀を思い出させた。人の多い街の川はどこも同じ色をしている。


 親水テラスの欄干にもたれながら、今朝家のそばですれ違ったフォーンパグのことを思い出す。風のない冷えた空気に抗うように、パグは道路に伏せていた。泥で汚れた短い手足が地面に貼り付き、くたびれた目がひとところに釘付けになっていた。飼い主が「阿呆犬」と呼んだその犬の名を、伊丹は知りたいと思った。その小さな耳から尻尾までを貫くひたむきな意志。なにかコントの題材になりそうな気がした。青崎の声が聴きたくなった。


「伊丹さん、さっきからおんなじとこ読んでません?」


「うわっ」


 背後からの声に竦みあがった。


「コーヒー買ってきましたけど」


「……ありがとうございます」


 後輩の緑川は持っていたカップを差し出しながら、伊丹の手元を覗き込んだ。


「『ミゼレーレ』、あんまり面白くなかったですか」


「いや、そんなことはないと思う……」


 名文家ジャン=クリストフ・グランジェに失礼だと思いながら、本を鞄に仕舞う。


「それじゃあ別の本買いに行きます? 書泉ブックタワー寄りますか」


「……いえ、まだ家に頼んだのがあるんで。それより緑川くんの行きたいところ行きましょう」


「そうですか。じゃあ遠慮なく」


 緑川はさらりと髪を靡かせて、電気街の方へ歩き出した。年次で言うと二年後輩にあたるが、伊丹より三つ年上の二十九歳で、綺麗な長髪を伸ばしている男。中性的な心地よい声音と鋭い観察力を併せ持つ彼は、伊丹と並んで立つと、淡々とした声で「退屈そうですね」と言った。


「えっ」


「最近僕の書いたシナリオにも、当たり障りないことしか言ってくれないじゃないですか。前は三校までバチバチのコメントくれてたのに」


「そんなつもりはないんや……ないんですが」


「あ、また関西弁」


「えっ」


「伊丹さん、最近時々関西弁になりますね。前は標準語だったのに。やっぱりなんかあったんですか」


 緑川は前を歩きながら、一人でどんどん推理を展開していった。


「恋人に子供ができたとか、どっかから引き抜きかかったとか、家族が死んで里心が付いたとか、その辺りですか。どうですか」


「い、いや、違います。恋人おらへんし、引き抜かれてもないし、家族も生きてます。緑川くんにはかなわんな……」 


 緑川には「名探偵」というあだ名がついている。殺人事件の謎を追うゲームのシナリオを担当する彼は、作中の探偵たちに匹敵する理知と想像力を持っている。その想像力は現実世界でも留まらず、時折突飛な空想を展開して周囲を驚かせることがあった。思考の底が掴みきれないこの後輩が、伊丹は少し苦手だった。


「僕に言いたくないんなら全然良いんですけど。ちょっと調子悪いとかだったら、協力しますよ」


「……ありがとう。心配かけて申し訳ない」


「いえ全然。伊丹さんがいなくなったら、僕がメインシナリオや〜」


 下手な関西弁と軽口がこぼれる。伊丹が戦慄したのを見て、緑川は「冗談ですよ」と笑わずに言った。


「緑川くん、メインシナリオやりたい……?」


「いや、伊丹さんが引き抜かれでもしない限り、進んでやりたくはないですね。イベントシナリオの方が好き勝手できて好きです」


「あー、それは、俺からも見てもそうですね」


 緑川は、聞かれたことにはなんでも率直に答えてくれる。伊丹はその正直さを好ましいと思う。


「伊丹さんが書くシナリオが好きっていうのもありますけどね。適当にぶん投げたのも上手に本筋に生かしてくれるし」


「それはまあ、俺の仕事なんで」


「実際見事だと思ってますよ。僕と外部ライターがなにやっても任せられる安心感」


「ははは……ありがとうございます……」


 緑川の言葉は、伊丹の内心に嬉しさと、それに相反する感情を残した。今の伊丹は、なにかあるごとに青崎の顔を思い出し、コントのネタについて考えている。言葉を繰りながらも真摯に街の移り変わりを掴もうとしている緑川の隣に立つと、そろそろ「まともな社会人」の暖簾もおろさざるを得ないところまで来ているのではないか。


「どっか入りましょうか。展示会行くまでまだ少しありますよね」


「あ、うん。緑川くんなに食べます?」


「珈琲以外のものならなんでも……あ、待って、わがまま言って良いですか? 竹むらの粟ぜんざいと揚げまんじゅう食べたいです」


「神田の方か。もちろん、いいですよ」


 万世橋まで戻り、マーチエキュートの前を抜け、神田方面へ向かった。夜になると輝くだろうあんこう鍋の店頭ランプの前を通る頃には、開店時間直前になっていた。暖簾がかかる前からお客さんが二、三人待っている。


「楽しみ〜」


「緑川くん、甘いもん好きなんですね」


「この間リモート会議で大村さんが話してるの聞いてから、行きたくて行きたくて。僕、山形から上京して一番最初に入った店が「竹むら」なんです。その時池波正太郎に心酔してまして」


「あー。そういえば「鬼平」モチーフのシナリオ、ありましたね。あれ面白かった。一本目にして傑作だった」


「それ、初めて聞きましたよ。めちゃくちゃ赤入れられた思い出しかないです」


「面白いと思えばこそですよ」


 秋葉原に来るのが久しぶりなら、竹むらに来るのも随分久しぶりだった。「志る古 竹むら」の看板を出す二階家は、一般家屋より天井が高い商家らしい建物で、そのため店内には程よく日の光が入った。店に入って左側に観光客が好む座敷、右にテーブルの席があり、二人はどっしりとして居心地のいいテーブルで向き合った。薄く汗をかいた額を拭って、息をついてから桜湯をすする。


「あ、しょっぱい」


「そうそう、ここの桜湯は塩味が利いてる」


 甘いものとしょっぱいもの交互に楽しめるようにという店の配慮が嬉しい。まもなくクリームあんみつと粟ぜんざい、揚げまんじゅうが届いた。


「伊丹さん、さっきの話、続きしても?」


「……はい、緑川くんが良いなら」


「てっきり仕事辞めたいのかと思ってたんですけど、違います?」


「辞めたいとまで気持ちが固まってるわけではないけど、揺れてるのは確かかな……」


 粟ぜんざいの香りが伊丹のところまで漂ってくる。天井が高い建物のせいだろうか。川面のそばより空気が澄んでいる気がした。


「それって、例の漫才師目指してる居候さんと関係してます?」


 青崎の話題が急に出て、声が上ずりそうになった。「漫才師を目指してる」のフレーズが頭につくのは、対外的には青崎一人ということになっている。


「それもなくはないです」


「伊丹さんも漫才やりたいんですか?」


「……俺は自分の才能ってまるで信じてなくて。凡人の俺は、そういう夢を見られることさえ羨ましい。叶う叶わんは別にして、俺も夢が見れたらいいなぁって思います」


「……伊丹さん」


 緑川は箸を揃えてお椀の上に置き、神妙な顔で言った。


「伊丹さんは全然凡人じゃないですよ」


「……いやいや」


「普通の凡人はね、いきなり自宅近くで出待ちしていた男を家に入れたりしないんですよ。お笑い芸人になりたいなんて二十歳くらいの子が言う夢を聞いて「いいなぁ」とも思わない」


「それは、あの、青崎はほとんど幼馴染で。あいつ、高校出た後2年くらい俺の実家に住んでたんですよ。そういうこともあって、うちの親からも心配されとって、親の伝手でちょっと広い家借りたくらいで……」


「分かりました。その人のこと、めっちゃ好きなんですね」


「好きっていうかただの腐れ縁……いや、才能は確かにあると思うけど……」


 伊丹は今まで一度も、青崎の才能を疑ったことがない。高校の教室で「青崎、お前おもろいなぁ」「おおきに」と言い合っていた頃から、青崎が芸人になるイメージは確固として存在していた。しかし、自分がその隣に欠かさずいるというビジョンが像を結ぶことはなかった。


 なのに青崎は、伊丹に漫才をやろうと言う。


「……才能で夢を見られるあいつが羨ましいです」


「あなたがそれを言いますか」


 緑川は笑わなかった。クリームあんみつと粟ぜんざいの前に、神田川の如き隔たりが生まれた気がした。


「かくいう僕も、才能とか天才という言葉には懐疑的な方です」


 冷たい空気を溶かすように、緑川が舌を出して見せた。顔を上げると、店内の音が戻ってきた。緑川の後ろで、母親の肩に載せられた子どもが、こちらに手を振っていた。緑川は後ろを振り返って「バイバイ」と小さく声をかけてから、伊丹の方へ向き直り、


「才能がないから挑戦しちゃいけないとは思いません。年齢の遅い早いも些末な問題だと思います。才能じゃなかったものは努力で補えばいい。僕はそうやって這い上がりましたから」


 余計な音をすべて断ち切って、伊丹の目の中に希望を探した。


「伊丹さん、今決めちゃいましょうよ」


「な、なにを?」


「居候さんがお笑いの天才なら、伊丹さんは努力の天才になればいいんです。漫才って、二人でやるものでしょう? 天才的な閃きで人を圧倒する輝きを放てなくても、努力でその才能を支える夢を見ることはできませんか?」


「…………」


「努力の才能もなかったら、その時はすっぱり諦めたら良い」


 緑川の言った言葉を、何度も頭の中で繰り返し考えた。特別じゃない自分が青崎の才を支える。そんなことができたら。


「……それは、めちゃくちゃ良いかもしれませんね」


「伊丹さん、やっぱり凡人じゃないなぁ」


 日向で微睡む猫のように、ゆっくりと目を細めながら笑った。


「ちなみに、さっきあげた三つの可能性の話、覚えてますか」


「覚えてますよ。恋人に子供ができた、引き抜きの話が来た、家族が亡くなったから地元に帰る」


「あれ僕の話なんですよ」


「えっ!? そんなん先言うてくださいよ!」


「なんか悩んでる風だったからタイミング見てました。ちなみに結婚して、引き抜きには応じず、彼女ともどもリモートに切り替えて働く予定です」


「……待って、いままでの会話全部伏線!? 話がうますぎてエグいな!」


「シナリオライターですから〜ちゃんと本当のことしか言ってないですよ」


「あかん、展示会どうでもよくなってきた。詳しく教えてくださいよ」


 変わり者の後輩は、したり顔でピースサインを見せてから、揚げまんじゅうに戻っていった。伊丹は人の幸福を溶かして煮詰めたような赤えんどう豆を、少しずつ噛み締めていった。


*


 家に帰ると、青崎がロフトの階段に座って読書をしていた。幅広の階段の上には何冊か本が積んである。伊丹の見覚えのある本もあった。


「お前むちゃくちゃ本読むんやなぁ」


「まぁ、仕事柄そうやな。面白い本あったか?」


「戦没者の銅像作るっていうでかい詐欺仕掛けてから車に飛び込む話が面白かった」


「その作者の本全部おもろいで。後でしまってあるやつ出したるわ」


 部屋で私服に着替えて台所へ戻ると、米の炊ける匂いがした。


「米炊いてくれたん?」


「炊飯器くらいしかまともに使えんけど」


「いや助かるわ。ありがとう」


 青崎は伊丹の顔をじっと見た。


「お前今日どっかで俺の悪口言うたやろ」


「なんやねん急に」


「お前が素直にありがとうとか言う時、大体ろくでもないこと言うてんねん」


「いやそんなことはない! ちょっと真面目な話しとっただけや」


「漫才に使えそうな話か? どんなもんか聞かせろ」


 青崎は持っていた本を閉じて、食卓の方へ身を乗り出した。


「えー、ほな、ちょっとだけな。俺の後輩に緑川くんていう子がおってなぁ」


「ほぉ。髪の毛緑色に染めたりしてる?」


「自分から名字に寄せてくことそんなないやろ。ほなお前も青髪にしとかなあかんやないか」


「ステレオタイプの押し付けよくないで」


「お前が言い出したんやんけ! ステレオタイプでもないし……とにかく普通に黒髪……あ待って、緑川くんめっちゃ髪サラサラで、こんな長い髪をハーフアップにしてるねん」


「そこそこ尖ったやつやんけ。その緑川くんがどないしてん」


「なんか相談したいことあるって言い出してな。俺も先輩として話聞いたらなあかんなぁって」


「そら聞いたらなあかんわ。先輩としてバシッと相談乗ったれ」


 そこまで一息に漫才の掛け合いをして、伊丹は青崎の顔を見上げた。


「お前今日どうしたんや」


「寄席で見た出囃子が拍手の人らの漫才がおもろかったから真似してみよと思って」


 坊主頭と髪の長い男性のコンビがすぐに伊丹の頭の中に浮かぶ。青崎は口調まで上手く似せていた。


「それでそんなコテコテの関西弁なんかい」


「ネタ覚えてきたから後で見したるわ」


「ボケとツッコミ二人分? 芸達者やなぁ」


「他の演者のも大体覚えてる。面白かったとこだけ掻い摘んで演ったるわ」


 好きが高じて異能の才を発揮している異端者の真似はできない。それでも、今までの自分なら諦めていた隔絶を、伊丹は自分の足で超えようと決めた。


「お前が聞いてきたの、俺もできるだけ覚えたいからメモとらしてくれ。ネタ作るのに役立つやろ、たぶん」


 青崎はしばらく黙ってから、長い睫毛を伏せて呟いた。


「お前も今日熱あるんとちゃうか」


「失礼なことを言うな」


「もしくは俺の夢かも知らん。漫才のオチとしてはちょっと弱いけどなぁ」


「ちょっとやる気出しただけでめちゃくちゃ絡まれるやん。止めよかな」


 普段表情がほとんど変わらない青崎が、少しだけ肩を揺らした気配がした。伊丹は下を向いて笑いを堪えながら、「嘘やて。ちゃんとやるからもっと話してんか」と続きを促した。



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