喜劇 Chapter.4
冷えた空気で肺を満たし、煙とともにゆっくり吐き出す。白雨の香りと煙草の匂いが交じり合い、腹の底まで夜が沈み込んだ。薄明かりに照らされた喫煙所の中で、青崎と並んで物も言わずに煙草を吸った。最初の一本がまもなく灰になり、もう一本くれと言うつもりで青崎に手を出すと、掌の上に一本の煙草が置かれた。
「え」
「お兄さん、さっきそこで漫才してはったでしょ?」
白い手袋をつけた男が、指先を優雅に動かし、煙草の箱を胸ポケットに仕舞った。半袖のワイシャツと二の腕の間だけがうっすら日に焼けている。伊丹が慌てて頭を下げると、男は帽子の庇の下の顔を機嫌よさそうにゆるめて、
「いや面白かった~ええもん見せてもらいました」
「い、いえ、すんません、お騒がせしました」
伊丹が頭を下げる度、耳にかけたままだったヘッドセットマイクが、不格好に揺れる。男も併せて頷き返し、双方頭を下げ合った。
「いえ、こっちこそ。すんません、久しぶりに関西弁聞いて、なんか懐かしなって。本格的な漫才なんか、もう何年も聞いてへんなぁって思ってました」
そう言いながら、煙草に続けて火もくれた。背をどんどん丸めていく伊丹の後ろから、青崎も顔を覗かせ、伊丹が煙を吸う間に話を継いだ。
「お兄さん、関西からこっち出てきはったんですか」
いたわるような囁き声で聞いた。
「そう、そう。大学でこっち来たら、そのまま居ついてもうてね。職場は東の人が多いから、使う機会もなくなってなぁ」
青崎につられて、どんどん関西弁になっていく。もの柔らかな独特のイントネーションがその人の顔をどんどん子供の表情にしていった。
「ほな、良かったらまた聞きにきてください。俺ら毎週ここでやりますんで」
また伊丹の意見など一切聞かずに、青崎は次の予定を勝手に入れる。しかし、伊丹も強いて否定しなかった。
「また来ます。何さんやったっけ?」
「西中島南方の、青崎と伊丹です」
「西中島南方て、御堂筋線やったっけ。うわぁ懐かしいな」
「面白かったです」ともう一度繰り返し、手を振りながら男は去っていった。伊丹はもらった煙草を何度も握り直し、意識して呼吸を深くした。
青崎は視界に溢れる明るい街の灯を見上げながら、いつもより優しい声で言った。
「錦糸町の人って優しいなぁ」
「全然知らんかった。俺五年もここの前通ってんのにな」
それ以上なにも言えずに空を見ると、月が透き通った暗闇の真ん中に見えた。
「俺も煙草切らしとけば良かったな」
喫煙所の透明な壁に描いてある「本所七不思議消えずの行灯」の文字を見るともなしに眺めながら青崎は細い煙を吐く。
伊丹は腹の底から湧き上がってくるくすぐったさを堪えられなくなった。
「……面白かったってよ、なぁ青崎。俺、ぶっちぎりで今年一番嬉しいわ」
「それは、俺も言うてもらったことにしてええんよな?」
「そらそやろ。一人で漫才でけんからな」
*
「緊張した……新人賞もろた時とおんなじくらい緊張したわぁ。あん時の胃がひっくり返る感じ味わったら、もうなんでもいけると思っとったのに」
家の床に会社用の鞄を床に下しながら、伊丹はどっと疲れを感じた。人前に出るために久しぶりに使った肩や腰の筋肉が悲鳴を上げていた。
「そんな顔してたな」
「お前なんで緊張せんねん」
「ネタ二本で二時間も稽古してトチることあるかいな。目瞑っててもできるやろ」
「しゃあしゃあと言うてくれる……お前なんか食べるか」
青崎はため息のような曖昧な返事をした。その声にも、少し疲れがにじんでいた。 伊丹は「じゃあチャーハンな」と勝手に決めて、台所で手を清めた。
「審査員。今日の点数は」
「四十点。……いや二十点」
「相変わらず辛いのお」
「そうか?」
「お前から七十点以上もろたことないわ」
「お客さんは集まってくれたけど、もっと巻き込めた。せっかく間隔取りやすいところで店広げたのに、横にばっかり広がって前後の意識が弱かった。……久しぶりの漫才でちょっと楽しくなりすぎた」
「お前も楽しかったんやんけ」
「そんなん当たり前やないか」
その辺りで冷やご飯を炒める工程が終わった。青崎が持っていたスマホで動画チェックをしている横にチャーハンの皿を差し出すと、動画を止めて「いただきます」と手を合わせた。
「何点」
「人が作った飯に点数なんかつけられるか」
「お前それ自分が作ったネタもおんなじやで」
青崎の表情がやっと少し凪いだ。
「じゃあ、お前は百点やったんか?」
「西中の復活ライブとしては、悪くない出来やったと思ってる。最初遠巻きにしてたお客さんが近寄ってきてくれはったし、前の方も楽しそうやった」
「何点」
「お前の新ネタが二本見れたから、今日は二百点」
「甘々やな」
その瞬間、ほんの一瞬だけ、泣き笑いのような表情が浮かんだ。伊丹はスプーンを口に運んで、口元の緩みを無言で抑えた。
「食ったら動画見ながら反省会やるからな」
「へえへえ」
「今日が二百点やったら、次はもっと上目指してやるぞ」
「やっぱり心底漫才馬鹿やな」と伊丹は内心で安堵した。その空気は、二人が囲む小さな食卓の中心で、仄かにあたたかく揺れていた。
*
二本目にやったラーメン屋のコントに差し掛かったところで、青崎が動画を止めた。
「それにしても、気づかんもんかいな」
「なにがや。お前漫才だけやなくてコントも書けるんやって?」
「ちゃう。このネタ考えたのお前やで」
「えっ」
青崎は立ち上がると、ロフトの階段を上がって、一冊のノートを持って戻って来た。
「借りた。台詞とかはちょっと変えてるけど、大筋お前が書いたまんまや」
「あ、あー……完全に忘れとった。こんなんいつ書いたんやろ」
強いて忘れようとしたのか、時の流れがそうさせたのか、はっきりと思い出せない。しかし青崎からノートを受け取った後、微かに寂しい心地がした。
「……お前、誰かと組むつもりやったんか?」
自分の字を目で追っていると、青崎の細い硬質な指先が視界の隅を過った。
「いやー? 俺はお前以外とお笑いできる気ぃせんかったからな」
伊丹が顔を上げても、青崎の指先に伝わる震えは消えなかった。
「ほんなら一人で書いてたんか」
「五年間、会社でシナリオライターやってる間にな。別に趣味で書くんも悪くないやろ。頭ん中でどういう展開にしょうかって考えてるだけでも楽しいもんや」
何度も自分に言い聞かせてきた言葉なのに、何故か喉の奥で詰まる感じがした。
「……ほんまにそれだけか?」
青崎に問い詰められると、自分自身につき続けた嘘を自覚せざるを得なかった。頭の中で想像するコントの相方は、いつも決まっていた。東京で青崎の影を探したことは、一度や二度ではなかった。
「そらまぁ、お前がおったらええなとは思ってたよ。お前が読んでどんな顔するか、見てみたいもんやなと思ってた」
「言葉の流れとか間の取り方がちゃんとこなれてる。ちゃんとした奴がやれば真っ当にウケる、ええ脚本やと思う。俺は人のネタいじるん好きちゃうけど、これは自分でやりたいと思った」
「べた褒めやないか」
「ほんまに面白かったんや」
青崎の端正な表情をわずかに歪めていた静かな苦しみが、ようやく晴れていくのを伊丹は肌で感じた。
「俺、これからもお前の書いたコントやりたいわ」
「ほんまか」
「ああ」
伊丹は照れ隠しに、自分の目の前にある紙片をそっと青崎の方に押しやった。
「ほな、そのノートは好きに使うてくれてかまわん。お前のやりやすいように直してくれ」
「分かった」と言うと、青崎はまたロフトの階段を上がっていった。そして、今度は両手いっぱいにノートを抱えて降りてきた。「漫才」とそっけない角の尖った文字が表紙に書かれていた。
「これ、俺が書き溜めた奴な。お前はなんぼかコントに直したり、コント漫才にしてみてくれ」
「今からこれ読むんか? 正気か。何冊あると思ってんねん。」
「しゃあないやんけ。お前が面白いコントなんか書くから、西中の芸の幅が広がってもた。あーあ。全部お前のせい」
「俺のせいじゃないわ! お前かってこれ、俺とやるの前提のネタやん。解散した後もめちゃめちゃ新ネタ作ってるやんけ、アホなんか」
「ピンネタ作るより、お前とやる漫才書く方がおもろかったんじゃ」
二人は夜の間で声を潜めながら、台所のテーブルを挟んで互いを罵り合った。そして机の上いっぱいに広げた空想を種に、熱にうかされたように次のライブについていつまでも話し合った。湯沸かしケトルが何度も沸騰音を立て、珈琲のお代わりを促した。
その日から、青崎は夜が来るのを寂しいと思わなくなった。