喜劇 Chapter.3
夜の底を、救急車の音が鋭く切り裂いた。甲高い悲鳴のように鼓膜を震わせる音に、青崎雲雀は気付いた。パソコンから顔を上げて、はめごろしになっているロフトの窓に手を伸ばし、空気の震えを伝える隙間をそっと塞ぐ。パソコンの画面に浮かぶ数字を見て、もう一時間もすれば、住宅地を縦横に走り回る新聞配達のバイクの音が聞こえる、と思った。星が眠りにつく前に、キリが良いところまで書き上げたい。
春の風が途切れると、孤独の音がいっそう深く身体に染み込んだ。カタカタと音を立てるキーボードと、ディスプレイの光が、彼の世界を極限まで小さく、素晴らしく濃密なものへと削ぎ落としていく。それは毒薬の黝くろい球に似て確かに美しいものに違いないのだが、隙のない美しさが、誰にも伝わることのない孤独や苦悩を滲ませていた。幾度もバックスペースキーを押して、その倦怠を拭おうと無駄な努力をしてから、ため息をつく。煙草を探して暗闇の中を手探りし、代わりに指先にぶつかったノートを、何となく拾い上げた。自分とは違う利き手でペンを握り込むような指の形が、一瞬目の前に浮かんで消えた。
中途半端な大きさの紙片が何枚か挟まっていて、バラバラと崩れてしまいそうなそれは、いくつかの場面と断片のメモだった。色の違うペンで走り書きしたものや、何度も消しゴムをかけて書いた跡がある。続きを残して途絶えた言葉は、青崎の心に静かな波紋を投げかけた。
それは、青崎がずっと前に見失った白い地図の導だった。朝の光がまだ届かないこの部屋に差し込むひとすじの眩しい光だった。
青崎の眼は丁寧にその軌跡をなぞり、ひとつひとつシーンの情景を辿っていく。最後まで読んでしまうと、言葉を全部拾い集めようとして、また最初に戻った。青崎よりも少し臆病で、人間が好きで、はるかに優しく世界を眺めている眼差しが、白地の地図に色を滲ませていった。
暗くなったキーボードを押し、画面の明かりを灯すと、今度は迷いなく書き始めた。今なら理解できるかもしれない。眩しすぎたこの世界の白と黒以外の色彩を、自分のものにできるかもしれない。
その導がある限り、彼はどこへでも行ける気がした。
*
翌朝、伊丹悠介は台所に立って思案をしていた。
三角屋根のロフトの入り口を見上げると、青崎はすでに起きている気配があった。ただ段差を二、三段上がって、なにか話しかければ声が届くだろうが、なにも言うべき言葉を思いつかなかった。
北向きの窓から聞こえてくる鳥の鳴き声、家を出て出勤や通学をする人、ゴミ回収の車が立てる朝の喧騒の中に、微かにパソコンのキーを打つ音が聞こえてくる。なにかを打ち込み、思案し、戻ったり進めたりしながら、青崎はなにかを形作ろうとしている。そのキータイプが早ければ早いほど、そこに伊丹の居場所はないという気がした。昨日の約束も、今日から始まる日常も、青崎の視界をただ通り過ぎているだけなのかもしれない。
ひとつ溜め息を吐いて、「鍵ここに置いていくから、ちゃんと持って出ろよ」と聞こえるように声をかけて、小さな食器棚の上に鍵を置いて家を出た。
二人の生活は、言葉少なに始まった。
伊丹の部屋は、住宅街の一角にある五階建ての古びたビルの最上階にある。猿江町には昔ながらの木材加工所や建設会社が並び、広い間口の社屋からは、日々トラックが出入りを繰り返している。扇橋のたもとの小さな保育園からは、木材を削る音に混じって子供たちの笑い声が響き、街の至るところで機械の稼働音と人の声が絡み合っている。
青崎の暮らしに、そんな喧騒がどんな影を落としているのか、伊丹は黙って考えた。
鰻の寝床のように奥に長いロフトの一部屋。手を伸ばせば触れられる低い天井。そこに青崎の生活はすべて収束していた。錦糸町のロッカーから持ってきたボストンバッグ、肩に掛けた黒いバッグ、ノートパソコン一台。あまりにも少ない荷物の中には、静寂と空虚が沈んでいた。生活の輪郭は淡く、形にならなかった。この部屋で唯一、居場所を持っていたのは、小さな文机に置かれた落語の台本集くらいのものだった。
職場に毎日出社する義務はないが、伊丹はとりあえず毎日電車に乗った。一つには、青崎の異様な集中力を恐れた。他方で、自分がなにを恐れているのか考えることを恐れてもいた。伊丹がなにか話し出そうとしても、青崎の返事はいつも曖昧でそれが夜の砂漠に佇むような静かな孤独を深めていった。青崎の冷たく整った顔に浮かんでいるのは、熱病に浮かされた夜の戦慄と、蜃気楼の彼方にある茫漠だった。青崎と久しぶりに漫才の話をできればいい、それだけの気持ちだったのに、いつの間にか伊丹の方が二人の関係性を決める言葉に拘泥している。その問題を自分で口にするのは、ひどくバツが悪かった。
「今日、外で飯食おう。ちょっと相談がある」
静かな部屋から抜け出そうとメッセージを送ると、すぐに短い返事が返ってきた。
「俺も話したいことがある」
*
五月四日の十八時、祝日休みに拘らない会社に勤めている伊丹は、青崎と初めて会った日と同じ格好で錦糸町のフーフー飯店に行った。予約の名前を告げると、窓際の席へと案内された。窓越しに梟の置物を眺めていると、すぐに青崎が来た。革靴の先端が店の敷居を跨ぐと、賑やかな店内が一瞬、水を打ったように静まった。青崎は見慣れない品の良い青いスーツを纏っていた。
「待たしたか」
「お、おお。時間ぴったりや」
まとわりつく視線をなんとも思っていない顔で、青崎は言った。
「時間だけは絶対守れって、昔よう言われたな」
最初で最後のマネージャーだった皆川さんという人の教えだった。当時初老だった皆川さんは今もマネージャーを続けているだろうか。ふと思い出していると、青崎の格好は当時の舞台衣装とよく似ていた。短い髪をきちんとセットして、どんなに強い照明を浴びても涼しい顔をしている男だった。
青崎はジャケットの前のボタンを留めなおし、静かな眼を伊丹に向けた。その視線から逃げるように、伊丹はメニュー表を青崎に差し出した。
「さ、さて。何食う。なんでも美味いけど、餃子が一番美味いで」
「伊丹、今日ライブやるぞ」
「は?」
「あ、じゃあ茹で餃子と焼き餃子1皿ずつ。あとウーロン茶」
青崎は近寄って来た店員に手を挙げて、勝手に話を進めていく。
「お前もスーツやからちょうどええな。後でマイク買お」
「なん、なんで?」
開いた口がふさがらない伊丹に、長い指を突き付けて言った。
「芸人が漫才やらんでなにをすんねん」
「待て待てぇ! お前話に脈絡ないねん。いきなりどこでなにをやらかそうとしてんねん。俺には説明せぇ」
「俺とお前でライブやる。そこの駅前で」
不服気な顔を見せられても、伊丹は引かなかった。この男の尋常ならざる言動にどこまで振り回されるのか、黙ってついていくと「芸人地獄」という深淵に引きずり込まれる気がした。いや、もう半ば引きずり込まれているのか。
青崎は胸ポケットから煙草を出しかけて、辺りに視線を投げてから、残念そうにその箱を指先で押した。
そして、懐のポケットからA六サイズのノートを出した。
「ネタができた」
「ネタって、当時のじゃなくて、今書いたんか」
伊丹はノートを手に取って開いた。当時と変わらない、妙に角の尖った青崎の字が並んでいた。ネタを書く時はパソコンで推敲作業をするが、最後の清書だけは絶対手書きしていた。その几帳面さが、今更伊丹の胸に嬉しさを呼び起こす。
「……あかんのか?」
「あかんことはないけどよ」
夜から明け方にかけての真意が分かったことは喜ばしい。ネタの中身も気になる。しかし、伊丹にはまず大切なものが二つ欠けていた。
「完全に出鼻をくじかれた気分よ、俺は」
もう一つは自信や。と心の中で付け加えると「……はははっ」と声を立てて笑われた。別に笑わせるつもりはなかったが、青崎の温度の低い頬に色がついたのは嬉しかった。ちょうど餃子が卓の上に並んだ。
「あ、お連れ様もお飲み物」
男性の店員が、青崎に飲まれて伊丹の飲み物を問わなかったことにようやく気付いた。「あ……クラフトジンジャーひとつ」承知しました、と頭を下げると、しなやかな身のこなしで狭い座席の間を抜けていった。
「でっかい公園あるのはええな。声出してネタ合わせできる」
頭の中に地図を浮かべるまでもなく、フーフー飯店のすぐ傍にある錦糸町公園のことを指しているのだとわかった。夜中まで人通りが多く、桜を中心に樹木が豊富な公園だ。桜見物の客が引いた五月なら、明るいところでネタ合わせをしても邪魔にならない。
「……ほんまにやるんか?」
「今日都合がつかんのか」
「俺はまだ心の準備ができてない」
「それは待っとったら整うもんなんか」
青崎の言葉は正論だった。どこかで踏ん切りをつけなければ、前には進めない。伊丹が黙っていると、青崎はノートを指先で押した。
「まず読んでみてくれ」
湯気が立っている餃子が目の前にあるのに、「冷める前に食べよう」ではなく「先にネタを読め」という。そのブレない姿勢と、無駄のない精神にぶつかる度、伊丹はこの男を密かに尊敬してしまう。社会的には間違いなく不適合者で、その傲慢さゆえに多くを失ってきたに違いない。それでも、今ここで己の偽らざる我欲を押し通せる強さを、伊丹は好きだった。
「読むから、お前追加でなんか頼んでおいてくれ」
クラフトジンジャーの表面に浮いたレモンを沈めて、一口飲んでから覚悟を決めた。ページを捲りながら、ここからしばらく、食べ物の味はしないだろうと思った。気に入っていたスーツも、もう会社に着ていけない。奇跡的に青崎の隣に立つに相応しい衣装を選んでしまったばかりに! なのに、腹の底からこみ上げる愉快な気持ちが、全ての一般人的葛藤を台無しにしていた。
「どないや」
「お前、これ最高やな! めちゃめちゃおもろいわ」
「せやろ。餃子もうまいなぁ」
梟の後ろ頭を飛び越えた先、芸人地獄の一丁目で、顔なじみの悪魔が「お帰り」と囁くのが聞こえた。