喜劇2 アンタゴニスト Chapter.5(前)
「九朗くん、次の劇場出番いつ?」
一通のメッセージが、寝起きの大鳥九朗にぼんやりとした痛撃を食らわした。ある晴れた午後のことだった。メッセージを開いて、下向きにフリックしてみるが、これまでのやりとりの履歴はない。つまり、誰とも知らない人から、初めての通信で、唐突に痛い所を突かれたということになる。
九朗は頭の中で返信文を考えた。「どちら様ですか?」「次の予定はありません。ごめんなさい」「解散するんです」――心の中で呟いた後、架空の文字消去ボタンを押す。その言葉は口に出せない。今はまだ。
メッセージを送ってきた人がどんな人か、興味がないでもないが、わざわざインスタグラムを開いて見る気は起きなかった。九朗はベッドに寝そべったまま、スマートフォンを枕に押し込んで、眼を閉じた。早朝からの体力を奪うバイトが終わった後で、まだ幾らでも寝られる気がした。
左手で灰色の冬の光を遮る。手の甲についた一センチほどの擦過傷が、髪に触れてざらりと音を立てた。ぎざぎざした傷の表面を、右手の手のひらでなぞると、微かな痛みが走る。指先が無意識でかさぶたを剥ごうと動く。――しかし、心地よい痒みを感じる手前で、九朗は爪先の力の方向を変えた。そしてもそもそと布団から起き上がると、デスクの小さな引き出しを開けて、絆創膏を取り出した。
「芸人はな、怪我とか不調とかほったらかしにしたらあかん。お客さん安心して笑われへんやろ」
伊丹の優しい声が、曖昧になっている九朗の輪郭を少しだけはっきりさせてくれる。二人でうどんを食べた夜、九朗の頬にいつの間にかついた小さな傷を思いやって伊丹の鞄から出てきた小さな箱が、そのまま九朗のお守りになった。
十二月の半ばになっても、部屋の中はほんの少し暖かった。九朗はもう一度布団の中に返っていく体の可塑性を感じながら、枕の下に押し込んだスマートフォンを探った。電源ボタンを押すと、一通のメッセージが目に入った。
内臓が跳ねるような心地がした。それは九朗が待ちかねた答えだった。九朗は自然とその場に正座をして、PDFを開いた。自分が書いたネタの行間に、赤のペンでコメントが挿入されていた。読みやすい角のない字で書いてある。九朗はむさぼるように文字を読み始めた。九朗の下がった両肩にほんの少し自信をくれる称賛と、時に突飛なアイディアも肯定する温かい励ましで、ほとんど真っ赤になった三枚綴りの紙を、九朗は何度も拡大し、時々呟きながら読んだ。息をするのも忘れて読み耽った後、一通のメッセージが届いていることに気づいた。
「次は顔合わしてネタ合わせしよな。ごはんちゃんと食べるんやで」
同じ短い言葉で、「次」という言葉が入っているのに、こんなにも感情の揺れ幅が違う。九朗の明日を心配してくれているその人の存在が、真っ暗な未来に灯を掲げてくれる。閉塞した神経が、息を吹き返した気がした。
九朗はすぐに伊丹に返信のメッセージを送った。
「ありがとうございます。ネタ合わせ楽しみです。今日の夜とかはどうですか」
すぐに既読がついて、「OK」と軽くスタンプが返ってきた。そして、どこで見つけてきたのか「うどん」という謎のスタンプも送られてきた。九朗はちょっと笑って、うどんのスタンプの返事に「今日はおでんの気分です」というスタンプを送りつけた。そして薄いベッドの上から降りると、段ボールの上に積んである中から、少しマシな服を取り出して着直した。痩せた背中をぐっとそらすと、骨の隙間がパキッと乾いた音を立てた。九朗の内側で抑圧されていた静かな祈りが、まだ霙雨の感触に身を震わせながら、地面の下で新芽が芽吹くように、ゆっくりと自由になっていった。地面の下には、肉の痕跡をまだ残している生々しい骨が埋まっているとしても、その時の九朗は幸せだった。烏の羽ばたき音が、薄い窓の向こう、無花果の葉陰から上空へと飛翔していった。




