表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
喜劇  作者: 新原氷澄


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

27/28

喜劇2 アンタゴニスト Chapter.4(後)


 その夜は、まだ雨の匂いを漂わせていた。水底から浚った銀色が窓の格子を飾り、雨を孕んだ風が時折部屋を揺らした。青崎は一人で居間に座っていた。手元のスマートフォンでメモを書きながら、丸いカップの形を確かめるように、時々指でなぞる。カップはとうに冷えていて、珈琲の代わりに、今は水が入っていた。首にかけたヘッドホンは、ずっと無音だった。青崎の眼は手元に広げたネタ帳とスマートフォンの上をゆっくりと左右に揺れていたが、神経質な耳は、戸外のエレベーターが上がってくる音を絶えず気にしていた。何度か肩透かしをくらった後、聞きなれたエレベーターの駆動音に、ふっと息を吐いた。壁一枚距てた玄関先で、伊丹がポケットの鍵を探す気配を感じながら、青崎はヘッドホンを外し、珈琲のカップを持って部屋を出た。


「ただいまー」


 玄関に響く伊丹の声に、青崎は短い返事で答えた。伊丹が玄関で上着にかかった雨を落とす、ぱらぱらという音がした。青崎は何気ない風を装いながら、耳に残った「ただいま」と、いつもの声を頭の中で比較した。普段無意識でやっている人との間合いを測る技術を、意識的に行った。友の声は、少し疲れていて、尚快活だった。青崎は伊丹の顔を見ないまま、シンクの前にたたずんでいた。


 上着を置いた伊丹は真っ直ぐ台所へ入ってきた。


「あれ、友成も来てたん」


「ん」


 シンクに置かれた紺と青碧色の丸いカップは、昔伊丹が骨董市で手に入れたもので、いつからか紺が青崎のもの、青碧は友成の専用と決まっていた。


 青崎はカップの中に入っていた水をシンクに捨てて、その水音が排水管へ落ちていくのをじっと聞き続けていた。銀色の表面についた細かな傷が鈍い光を放つ、庶民じみた水琴窟だったが、青崎には心を澄ませる時間が必要だった。


「……橙が一人でふらふらどっか行きそうやったから、友成と二人で引き留めてな。三人で一杯飲んで、それから帰した。友成は企画通ったからフライヤーのラフ作るて、うち来て一緒に作業して、それから帰ってったな」


「雲雀と友成が飲みに付き合うなんて、珍しいなぁ」


「捨てられた犬みたいな顔してんの、歌舞伎町に置いて帰られへんやろ。どこ引っ張り込まれるか分からん」


 橙の気持ちも分かるしな、と青崎は心の中でそっと付け足す。今日が最後の日かもしれないと、明日への不安を抱えながら相方の返事を待つ間など、とても素面でいられない。いずれ終わるとしても、安居酒屋で頬杖をついてぼんやりと相方の話をする時間が、橙には救いだった。酒と他愛もない思い出話と愚痴で、橙が辛うじて正気に留まっているのを確かめてから、二人は家に戻ってきた。友成はフライヤーを作るという名目で、日常に戻る静かな時間を共にしてくれた。


「そうか。二人ともご苦労さん」


 伊丹は深くは聞かずに、ねぎらいの言葉だけ呟いて、台所で手を洗いだした。小柄な体躯の割に長い指が、青崎の視界で、細く出した冷たい水に打たれた。


「そっちは?」


 青崎の押し殺した声の中に潜むものを、伊丹は砂時計の粒を受け止めるように手のひらに落とした。内に押し隠していたごく微量の不安が、石鹸の泡と混ざって泡立っていく。ビルの五階にあるこの部屋を包むように強い風が吹いて、頭の上の換気扇が空回りする音がした。


「あんまり良うなかった。……辞めるていうのだけは、まだ早いと思ったから引き留めたけど、どないなるか俺にも分からんなぁ」


「……そうか」


 伊丹は、九朗の内部の泥沼に足を踏み入れたことを、青崎には話さなかった。今の一言だけで、青崎が過去の傷を思い出したのが分かったから。橙の隣で、青崎がどんな顔をしていたのか、伊丹は目に見えるような気がして、黙っていられなくなった。


「三年目て、伸び悩んで解散するコンビ多いよなぁ。劇場で出番もらえても、知名度上がらんで集客苦労して、新人としては見てもらえんでプレッシャーだけかかって……俺らん時もなんぼでもおったな」


「そうかもしらん」


「雲雀はどやった? 解散したいと思うことあったか」


 吊り下げ棚の脇に吊るしたタオルで手を拭いながら、伊丹は青崎の視線の動きを探った。青崎は一切目を合わせないで、そっけなく「一回もないな」と言った。


 青崎の声には迷いがなかった。だから、伊丹の口からも本音が漏れた。


「俺もないわ。お前とどんな漫才やろかって、そればっかり考えとったな」


 青崎は袖をまくり上げて、白い手首を電燈の下に晒した。青い血管が、白い大理石の内側を走る模様のように光った。ひんやりとした空気が、肌の上を剃刀のように通っていく。


「二人で大阪行って、けちょんけちょんにされて兵庫帰って来て、次の週には新しいの稽古して、またボコボコに言われて凹んで。お前はしょっちゅう帰りの電車で泣いて……」


「余計なこと思い出さんでええねん。ほんで、お前も時々泣いてたやろ」


 的確な伊丹の指摘にも、青崎はけろりとして、眉を動かすことさえしなかったが、唇の端に懐かしそうな笑みが浮かんだ。


「厳しかったけど、いつか絶対面白いと言わしたるて思ってたから、辞めたいとか考えてる時間すら惜しかった。あん時が一番漫才師として生きてる気がしたな」


「俺ら、ええお客さんと先輩に恵まれてたからな」


 二人は狭いシンクの長辺と短辺に沿って立ち、洗い桶の中で水に浸っているカップ二つを眺めていた。


 コンビを結成して六年目、解散していた時期も含めれば十一年、気づけば人生の半分を共にしてきたこの二人は、互いの存在を全く感知しないで生きていくことは、もはや想像できなくなっていた。伊丹は「自分が相方じゃなくても、青崎が面白いと思ってもらえるなら」などと言いながら誰よりも自己研鑽をしたし、青崎は自分には伊丹が必要だと隠さなくなった。そんな二人でも、芸人の背後につき纏う忌まわしい死神の顔は、まだ生々しく覚えていた。橙と九朗がすれ違っていくことは必定でも、どこかで止められないかと考えていた。烏滸がましさとお節介はもちろん理解した上で、自分たちが感じた痛みを、桜桃には味わってほしくなかった。


「あの二人、解散してほしくないな。辛い時一緒にやってきた相方がいなくなるんは、やっぱり堪えるよ」


「……せやな」


 青崎は橙が落ち着きなく革靴の爪先で地面を蹴る仕草を、伊丹は泣きすぎて熱くなった九朗の背中の熱を思っていた。


「九朗、話してみたらネタいろいろ出してきてな。まだやりたいことがあるって言うてた。自分のやりたいこと突き詰めたら、橙と腹割って話す勇気も出るかもしれんと思ってな」


「そのためにお前も首突っ込むん? 自分の仕事も舞台もあるし、そんな暇でもないやろ」


「……やっぱりあかんかなぁ?」


 青崎は初めて伊丹の顔を見た。その眼が思いがけず真摯なので、伊丹は相槌に用意していた言葉を呑み、青崎の表情の移ろいを見ていた。記憶の中を探る目線、なんらかの不服、色のない不安、唇を固く引き結ぶ抵抗、そして微笑。青崎は黙ったまま語る。その微笑の裏にある感情は「信頼」だと、伊丹は知っていた。


「あかんて言うたってお前のお節介は治らんやろ。……ほな、気ぃ済むまでやってこい」


 伊丹の顔にも、仄明るい安らぎの色が灯った。


「俺と九朗のこと、友成に聞いた?」


「うん」


 うどん屋から出る前に、伊丹はイベントへの参加を友成に申し出ていた。桜桃の九朗を相方に選び、コントを一本披露する。準備期間中に九朗と橙が冷静になり、コンビ関係を見直す時間になればいい。伊丹が理由を説明すると、友成はいつものように整然と了承してくれたが、昼間の揉め事を見ていた彼の声からは、やわらかな安堵が伝わってきた。


 青崎はスポンジを手にとって、指に力を入れて泡を作った。長い指が白い泡に覆われていくのを伊丹はぼんやりと見ていた。青崎はまた伊丹から目を逸らした。


「雲雀は、俺と九朗が組むの、嫌やったりする?」


「嫌」


 青崎の返答は、予想外に早かった。二文字の拒否には意志があり、同時に諦観があった。青崎の強い意思表示は、伊丹の意志をゆっくりと手折りかけた。

 自分のこんな反応は予想してなかったんやなと、能天気な伊丹に抗議の視線をぶつけると、伊丹は「ごめん」と素直に謝った。青崎は深い溜め息を隠さなかった。


「……嫌やけど、今回は譲ったるわ。あいつら解散したら、こっちも寝覚め悪い」


「おおきに、心広い相方で助かる。灯明先生のイベントの間だけな、ちょっと協力してくれ」


「ほんまに今回だけやぞ、この貸しは高くつくからなって九朗に言うとけ」


「わかったわかった」


 先に相方を取られたのは伊丹なのに、いつの間にか伊丹が頭を下げることになっている。それを理不尽とも言わず、嫌な気もせず受け止めた。


「雲雀はどうなん。中村くんと一緒にやるんやろ。あの人は他の若手とは、ちょっと違うやろ」


「…………」


 黒曜のように奥底から光っていた目が、風雨を予感して曇った。まだ水気の残っている手で髪をかき上げて、小さく溜め息をついている青崎の背中を、伊丹は笑いながら手のひらで撫でてやった。


「頭キレるしおもろいのは認める。ネタも雰囲気もいい、観客まで巻き込むあの空気感はなかなかほかの芸人には出せんと思う……、けど」


「雲雀とは全然違うタイプよな。気は合わなそうや」


「……それだけじゃない。あいつは俺と本気でやるんやったら、自分のスタイル捨ててでも合わせてくるやろう。それは技術と自分の芯があるからできることや。すごいやつやと思う。……でも、俺のやりたいお笑いとは、方向が違う。同じ舞台に立つんやったら、こっちが食うか、食われるかの勝負になる」


 洗い終わったカップをシンクの底に置き、水栓を開く。冷たい水が指の間をそっと落ちていった。


 伊丹からすると、これは密やかな驚きだった。青崎が耳の上の髪を持ち上げる以上の興味関心を人に抱き、分析まで試みている。そして、自分の中に受け入れがたい価値観と葛藤しながらも、他者の才能を認めて、笑いの糧にしようとしている。


 伊丹は両手をカーディガンのポケットに突っ込んで、青崎の懊悩を見守った。心中には、熱のある期待と得体のしれなさが混ざり、複雑な模様を描いていた。相方である以上に、伊丹は青崎の芸を信じていた。指先に走る興奮は、そのためのものだと思った。


 青崎は短くない時間、目を閉じたまま考え込み、やがて首を左右に振って、迷いを水に放った。


「大阪におったら、ああいう師匠たちとは違う性質のバケモンとは会われへんかったやろう。いずれぶつかるんやったら、今ぶつかっといた方がいい」


「雲雀がそう言うんやったら、俺は応援するよ。頑張れ。うちの雲雀が一番面白いってとこ見せてこい」


「……あー……でも、ネタ作りがめんどくさい……」


 大理石でできた彫像の陰影を持つ滑らかな首が、ゆっくりと下を向いた。


「え、なんで?」


 暇さえあればネタを作っているか、人のネタを見ている青崎が、今まで一度も聞いたことがない言葉を吐いた。伊丹が驚愕していると、青崎はスマートフォンを出して、画面を伊丹に差し出した。未読のままの通知が十数件溜まっていて、ちょうど今も立て続けにメッセージが届いたところだった。


『青崎くんと漫才できるの本当に楽しみにしてる!』


『早速だけど明日打ち合わせどう? オンラインでいいから!』


 メッセージの頭だけを読んで、青崎は画面を暗転させた。伊丹の耳に痛烈な舌打ちが聞こえた。


「フライヤーのデザイン送ったってから、ずっとこれや。うっとおしいことこの上ない」


「すごいなぁ、中村くん」


 青崎の感情をこれほど昂らせ、追い詰める芸人を、伊丹は他に知らない。青崎の急所を抉る能力を、中村は天性の感覚で持っているのかもしれない。それだけに青崎も中村を天敵と認識していて、尊敬する灯明先生と中村が手を組まなければ、決して関わらないでいたはずだった。


「友成に間に入ってもらう?」


「仮にそうしたって、ネタ合わせで顔合わせるのは避けられへんやろうし……腹括るしかないのは分かってるんやけど」


「まぁ、うん。一時的とはいえ、コンビ組んだ以上は宿命やな。俺にも手伝えることあったら、なんか手伝うから……」


「それはあかん」


 青崎はゆっくり背筋を伸ばして、高いところから伊丹の顔を見下ろした。


「他のやつとやる以上、相方と言えどお前は観客側や。ネタばらしはせん」


「おお、てことは雲雀の新作見れるんか」


「当然や。お前が爆笑するようなネタ作るからな、当日まで楽しみにしとれ」


「ええなぁ~舞台袖でお前のネタ見れるなんて、たまには別の人と組んでもらうのもええもんや」


 能天気な歓喜の声が気に入らなかったのか、青崎は冷たい水のしずくを伊丹の顔に浴びせた。眼鏡のレンズについた水滴を拭くために、伊丹は部屋に入って行った。


「雲雀のアホ~、そんな態度でお前誰にでも許されると思うなよ」


「アホとちゃう。ちゃんと相手見てやってる」


「……余計性質(タチ)が悪いやないか! 相方を大事にせぇ」


 大事にしとらんかったらこの時間まで起きて待っとかへんやろ、と青崎は心中で返事をして、後は黙っていた。


「雲雀、まだなんか書いたりする? 俺ネタ作りたいから、珈琲淹れるけど」 


「一杯くれ」


 伊丹は文句を言ったらすぐに気が晴れて、背の低い食器棚の中から自分用の[[rb:鴇羽色>ときはいろ]]のカップを出した。青崎は紺のカップをその隣に置いた。 


 電気ポットのお湯が沸く音が聞こえ始めた。


 青崎と伊丹は階段の上にある屋根裏部屋に入って行って、別々の机で背中を向けあってネタ作りを始めた。伊丹は折りたたみ式の猫足がついた小さい座卓と、スマートフォンとうどん屋で書き留めたメモを、青崎は重い天板がついた木とアイアンのテーブルにパソコンを広げた。温かい空気を閉じ込めて離さないその部屋では、珈琲がゆっくりと冷めていった。


 やがてか細く音を立てていた雨が止み、空はぐるると地響きのような音を立てた。伊丹は顔を上げて、こんな静かで温かい夜に、不思議なくらい怖いと思った。強い風で雲が晴れて、天窓から入る青い光の内側に、彼の相方がいる。それは一人分だけの儚いスポットライトで、部屋の中の何物も照らさなかった。


 名前を呼ぼうかと思ったが、その後何を話していいか分からなかった。いつもの与太話も、頭の中で絡まって口まで降りてこなかった。伊丹はデスクランプの笠越しに、いつまでも相方の背中を見ていた。彼はこの日常が変わらないことを願っていた。心の底から、それさえあれば欲しいものはないと思った。もちろん、その願いがどこにも届かないことも、とうに分かっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ