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喜劇  作者: 新原氷澄


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喜劇2 アンタゴニスト Chapter.4(中)


 冬の匂いが微かにする風が通る細路地を爪先上がりに上がっていくと、木綿の暖簾をかけた木造長屋の前に出た。暖簾の隙間から、湯気の動きに合わせてか細くカタカタ音を立てる硝子戸と、丸椅子が並ぶ店内が見える。店の右手側に小上がり付きの卓が二つあって、一人でちびちびと酒を飲んでいる客が二組いる。丸椅子の卓と、主が立つカウンターの前には客がなかったが、主の顔は、寸胴鍋からもうもうと立つ湯気に被ってよく見えなかった。


 うどんの湯気を顔に浴びながら店に入ると、九朗は店主からも酔客からも遠い壁際の一席を選んだ。小さな声と共に指し示された席を見て、伊丹もうんと頷いた。卓の上にはお茶のポットと丹塗りの箸箱がおかれていた。カウンターの上には、ネギや天かすが盛られた丼鉢が並んでいる。ここはセルフサービスなのだろうかと伊丹が考えていると、九朗がスマートフォンを出し、卓上に置かれたQRコードを読み込んでいた。卓上にも壁にもメニューがない理由が、伊丹にもやっとわかった。


 店主が湯呑を二つ持って現れた。店主は九朗の顔を憶えているらしく、薄い笑みを一瞬だけ投げかけた。九朗もスマートフォンから斜めに顔を上げて、軽く会釈をした。九朗が少しだけ頬を動かして笑顔らしきものを作ったのが、対面の伊丹の目に映った。九朗は鼻をすすって、またスマートフォンの方へ戻っていった。伊丹は店主がしている鼈甲色の眼鏡の縁を眺めながら、「お勧めとかありますか」と何気なく聞いた。店主はすぐに話し出そうとしたが、一瞬咽せて顔をしかめ、コホンと軽く咳払いをしてから、「明太クリーム鶏天うどん」が今日はよく出ると教えてくれた。香川のうどん屋に期待したメニューではなかったが、伊丹はあっさりと「美味そうですね。それにします」と言った。九朗が無言のままスマートフォンで注文を入れた。


 硝子戸の内側には、白墨で龍が描かれていた。龍は硝子戸いっぱいに体をよじらせ、鋭い爪の掌中に珠を握っていた。白墨が擦り硝子のようになって、その絵はいかにも風流だった。店の中は二階を吹き抜けにしているので天井が高く、カウンターからの見通しも良く、いかにも仕舞屋をうまく改装して現代風に仕上げていた。しかし、どこか寂しい雰囲気が、消えないシミのようにこびりついていた。

 注文を終えると、九朗はスマートフォンを伏せて、椅子の上で小さく身を屈めた。丸まるのが癖なのだろうかと伊丹が考えていると、九朗は眼の高さにある吊り下げランプに目を細め、溜め息をついた。


「……こんな時に腹が減るのって、なんか恥ずかしくて」


「そうか? 飯は食えた方がいいやろ」


「……そうかなぁ」


 九朗は視線を斜めに投げて、掠れた声で呟いた。伊丹は自分の目の前に置かれていた湯呑を取り上げて、口をつけた。中身は温かいコーン茶だった。それを九朗にも勧めてやりながら、伊丹はささくれだった九朗の心に寄り添うように、言葉を整えた。


「夜になったら、——一人になったら、どうせ泣きたくなる。だから明るいとこにおるうちは、飯食って、話して、気楽にしとこ。気落ちすることがあっても、ずっと落ち込んどかなあかんことなんてないねん」


 背後で湯が沸く音、麺の茹で汁を切る音がする。九朗が顔を上げると、心配そうに眉を下げている伊丹の顔が、次に釜の前に立っている店主の顔が目に入った。店主は料理の手を止めずに、何度か九朗の方を伺ってくれていたのに、目が合うと初めて気づいたかのように、また軽く会釈をした。

 九朗は黒いパーカーの胸をぎゅっと押さえた。言ってはいけない。言ってはいけないと何度も思っているのに、それは細い煙のように、魂が抜けるように、唇から零れ落ちた。


「伊丹さんが、俺の相方やったらよかったのに」


「なはは、ありがと」


 伊丹が優しい笑い声を立てるのが耳に入ったのか、店主の顔の皺がそっと和らいだ。九朗は涙を飲み込む為に、コーン茶を飲んだ。とうもろこし特有の香ばしさは、鼻が詰まっていて感じられなかったが、舌先に伝わる温度は、心地よいものだった。

 まもなく店主が丼を運んできた。九朗の前には、大根おろしと大葉が添えられたちくわの磯部揚げが乗った皿と、釜玉うどんが置かれた。


「おお、そっちも美味そう」


「ここの磯部揚げほんまに美味いです」


「うわぁ、鶏天もサクサクや。たまらんな~」


 衣が音を立てながら、二人の口に吸い込まれていく。油が滴り、衣の中に閉じ込められた食べ物の風味が喉の奥でぶつかって旨味になる。その愉快な音が、夜のうどん屋の店内に優しく響いた。自分が美味いと思っているものを人に美味い美味いと褒められると、面映ゆくも愉快になるということを、九朗は初めて知った。


 伊丹はかぼすの汁を片手で絞りながら、ふと腕時計の文字盤を見た。腕時計についている振動機能が袖口で音を立てるので、電話が鳴っているのだと九朗も気づいた。九朗が無言のまま手のひらを差し出し、(出てください)と合図すると、伊丹はちょっといやそうな顔をした後、(ごめん)とハンドサインを返して、手を拭いてから店の外に出ていった。


 伊丹の上着が動きに合わせて翻るのを目で見送った後、硝子戸が閉じられると同時に、薄い硝子が震えるのを、九朗は見た。この店は、冬になると寒そうだと思う。秋と冬の間の季節でさえ、硝子は風にか細く揺れ、木格子の隙間から湯気が漏れている。今の住居は半年前に引っ越したばかりで、この店で過ごす冬の景色を九朗は知らない。店主が夏の間中着倒していたTシャツは、どうなるだろうか。店の名前が背中に入っているあのロゴTシャツに、冬用はあるのだろうか。そんな事を考えながら、箸を握る自分の手元に目を落とす。袖が少し伸びた黒のパーカーは、昨年の冬にその当時の彼女に買ってもらったもので、彼女と別れて以来、服を買おうとすら思わなくなった。髪も伸びっぱなしになっていて、そんなボロボロの状態で舞台に出てウケようなんて、考えが甘すぎると、ようやく気がついた。あの子はどこかで元気でやっているだろうか。一緒にバイトしてたキャバクラ、絶対向いてなかったよな。もう辞めてるといいな。たとえ続けていたとしても、自分に止める権利はないけど。


 鼻をすすりながら、うどんを食べる。中途半端な生活に耐えかねて、黒服のバイトを辞めて、逃げるように引っ越しをして、それ以降彼女のことをまともに思い出した記憶はなかった。引っ越しの荷ほどきをすると、どんどん彼女の思い出が出てくるから、箱を開けるのも嫌になり、開けない箱の上で色の乏しい生活を展開するしかなかった。それは家を出ても、舞台に立っても、九朗の心のどこかで重石になっていた。灰色の段ボール十三箱分の重石を、九朗は一人で抱え続けていた。——伊丹が不可抗力的にあの部屋に入るまでは。


 むちむちしたコシの強いうどんを啜る。何度も通っていたのに、初めてのように美味いと思った。しばらく夢中で食べていて、伊丹が戻っていたことにも気づかなかった。伊丹は少しのあいだ無言で九朗の動きを眺めていた。九朗には兄がいないが、兄がいるとすれば、こんな風だったのだろうかと思わせてくれる、優しい眼差しだった。


「明太クリームうどんもちょっと食べるか?」


「いいんですか。ほなちょっとだけ」


 九朗はこれまでほかのメニューを食べたことも、誰かを連れてきたこともなかった。この店は静かな生活の一部であり、お笑い芸人としての自分をきり離せる、貴重な空間だった。

 明太子の色に染まった麺とふわふわのクリームを和えて、一筋のうどんを箸で持ち上げると、伊丹は「もっと取ってええのに」と言った。うどんは、釜玉うどんの器の中に少し触れて、黄身の黄色が赤い麺に絡んだ。それを九朗が口に運んでいる間、まだ湯気が立っている丼を前に、伊丹は何事か考え込んでいた。


「なんかありました? ……あ、電話」


「んー」


 伊丹は困ったように眉をハの字にして、長い間箸の表面に指を滑らせていた。そして、店内の硝子戸に視線を巡らせて、坪庭に植えてあるソヨゴの木をぼうっと眺め出した。店の若さを表すかのように、ソヨゴは細々としているが、雌雄二株が寄り添って、葉の数を賑やかにしていた。地面に刺さったいくつかの間接照明が、優しい木闇を作り、白い砂利石が慎ましくその葉陰を受け止めていた。


「あ、話したくなかったら、全然。気にせんといてください。聞かんかったことにします」


「ううん。……そうやなぁ、九朗にも見てもらおうかな」


 戻ってきてから、手の中で持て余していたスマートフォンを、伊丹はテーブルの上においた。何度か操作をして、画面を九朗の方へ向ける。九朗がその画面の中を覗き込んでいる間、伊丹はうどんを一口食べた。「美味い」という言葉に違いはなかったが、さっきの弾けるような喜びが欠けていた。九朗は最初に一瞥したチラシの画像を指でスクロールし、タイトルを読み、ひとまとめになっている企画書のPDFもよく読んだ。何度読んでも、九朗にはその内容が飲み込めなかった。文字の意味は理解できているが、飲み込もうとすると、喉に突っかかるような気がした。


「チラシはまだ仮のデザインらしいけど、企画の大筋は変わらんと思う」


「これ、伊丹さんええて言うたんですか」


 伊丹は九朗の湯呑が空になっているのに気づいて、卓上のポットから、コーン茶をもう一杯注いでくれた。その間、九朗はずっと伊丹の顔を見ていた。その顔は、青崎の横にいる時とも、劇場の控室で座っている時とも、今日の九朗を支えてくれた時とも違う、どこか遠い、寂しい場所を探している顔だった。


「俺に止める権利ある筋の話でもないし」


「や、相方じゃないですか。嫌やったら、嫌やて言うていいと思います」


 暗転したスマートフォンの画面をトンと叩いて、伊丹はもう一度画面を見つめた。そこに表示されているのは、あるイベントのチラシ——「吾輩は猫である」の中村不撓と「西中島南方」の青崎雲雀が一夜限りのコンビを組むという、ただそれだけのことが、仰々しい飾り文字で喧伝されていた。画面を拡大すると、「ユニットコント・シャッフル漫才、出演者多数」という文字が読み取れるが、客が見たいのはそんなものではない。若手漫才師の中でも群を抜いて人気の高い中村と青崎が演じる、本物の才能のぶつかり合いを、観客は欲しているはずだった。


「青崎さんは、なんて言うてはるんですか」


「あいつはなんも言わへんよ。友成が吟味して持ってきた仕事は粛々と受けるっていうスタンスやから」


「じゃあ、伊丹さんもなんも言わへんのですか」


「俺は——そうやなぁ、うーん。ちょっと愚痴ぐらいは言うかも。聞いてくれる人がおったら」


 そういうと伊丹は、そっと店内の音を探すように耳を傾けた。酔客が二人、いつの間にか向かい合わせになって何か荒唐無稽なことを論じていた。店主は入って来たばかりの客に、QRコードでの注文を説明しているところだった。

 九朗は器を丁寧に正面から避けてから、卓の上に身を乗り出した。


「俺に話してください」


「九朗、なんか急に元気になったな」


「関西帰りたい病に釜玉うどんが効きました」


「ふは。初めて聞く病名やけど、治って良かったな」


「だから伊丹さんの話聞かしてください」


 九朗が卓の上に載せた腕を引かないことがわかると、伊丹は手早くうどんを食べきって、「ごちそうさまでした」と小さく呟いた。そして、眼鏡の奥の真ん丸な眼を動かして、九朗の長い前髪の下に視線を留めた。


「俺は青崎の才能がいろんな人に認められるのが嬉しい。これまではモデルの仕事が多かったけど、お笑いの仕事でも、これからそういうことが増えていくやろうって思ってるよ」


「……寂しないですか」


「寂しい。でも、おんなじか、それよりちょっと嬉しい」


 九朗はチラシを見た時に、最初に感じた不安を口にした。


「伊丹さんは、青崎さんが他の人と組むことになっても良い……?」


「うーん。即答したいけど、難しいなぁ」


 伊丹は軽く苦笑したが、九朗の目から視線を動かさなかった。


「俺よりも青崎のこと理解して、あいつのためを思って色々言うてやるやつが居るなら、それでもええんかもしれん。て、言えるくらいの覚悟もっとかなあかんのやろけど」


 多分、伊丹は九朗が質問をする何年も前に、その答えを出し終えている。伊丹の声が落ち着いて静かに空間の中に溶けていく理由を思った。


「俺は今のところ、あいつの隣を誰にも譲る気ないよ。あいつが一番面白くなるのは俺の隣やって、見てる人がそう思ってくれるように、勉強してネタ書いてやっとるつもり。……まだまだ未熟やけどな」


「……伊丹さんは、大丈夫なんですか。そんな、オムライスとケチャップみたいな関係で」


「おお、言い得て妙やな。デミグラスソースかけたり、ホワイトソースかけたり、いろいろやるけど、やっぱりケチャップが一番に落ち着くよな」


「俺は和風ソースが一番好きです」


「ケチャップじゃないんかい。なんやったんやこの会話」


 伊丹がこの話を笑い話にして、オチまでつけてくれたのを、九朗は複雑な思いで聞いた。伊丹にとっては、今起こっている青崎への注目も、自分が透明化してしまうほどの献身も、ずっと前に通り過ぎてきた葛藤の中にあったことで、だから伊丹はそれを笑い飛ばすことさえできてしまう。


 完璧主義の、見るからに天才肌の、笑いに全てを賭けている恐るべき才能の塊「青崎雲雀」を伊丹が御せるのは、覚悟と自負があるからだ。相方を輝かせるためならどんなことも厭わないという覚悟と、こいつが面白いことは自分が一番知っているという強い自負。その両方を持っているから、西中島南方は強い。二人の放つ光と影のコントラストが強ければ強いほど、舞台は面白くなる。


「橙と九朗は?」


 不意に降ってきた質問が、九朗の思考を動かした。九朗は頭の中に浮かんだものを、素直に口にした。


「……胡椒の味しかせんニラ玉と、具のない卵スープ」


「切ないこと言うなよ。具はちゃんと入ってるて」


「いや。俺なんか、卵の残像と、ネギなんかゴミなんかようわからんもん浮いてる、中華調味料と油の混合物です……」


「卑下の仕方が独特やなぁ」


 芸人らしいておもろいけどな、と伊丹は笑いながら言ってくれた。九朗にとって居心地のよい距離から、優しく発言を拾ってくれる。九朗は青崎が羨ましくなると同時に、自分と橙はなぜこうなれなかったのだろうと思った。桜桃(かれら)には、目指す目標も、互いの才能を認め合う瞬間もなかった。橙は辛うじて舞台の上でのパフォーマンスに執着を持っているが、毎回サイコロの出目に祈りをかけるような博打なところがあり、その出力は安定しなかった。九朗は勢いで飛び出す橙の空回りの跡を拭いきれず、出番は大抵消化不良に終わった。それを面白いと言ってくれる客もいたが、三八マイクの右と左は、いつまでたっても別の国のように遠いのだった。


 九朗はスマートフォンの電源ボタンを押してみた。数時間前に、橙からのメッセージが一通届いている。内容はたった一言、「話したいことがある」——なにを話すことがあるねんと、十中八九解散の話だろうと、顔が曇るのを止められなかった。

 そんな九朗を見て、伊丹はそっと身を乗り出した。


「なぁ、九朗。さっきの話まだ有効?」


「関西帰りたい病ですか? 大阪都構想が埼玉辺りまで進んだら、完治するかも……」


 適当なことを口走りながら、目の縁にじわっと浮かぶ涙を拭った。パーカーの袖を握り込むと、伊丹はその上にポケットティッシュを置いてくれた。


「関東で焼きたてのりくろーおじさん食べれるようになったらちょっと嬉しいけど、それよりもうちょい前の話」


「……俺、多分相方にも見捨てられたとこで、今芸人かどうかも怪しいです」


 もし時間を戻せたら、と思う。橙の持つ舞台への執着や、どんな瞬間も笑いを取ろうとするがむしゃらな努力を、もっと肯定してやれたのだろうか。

 そう思う一方で、自分のやりたかったお笑いはなんだったのだろうと、不意に疑問が胸に迫る。舞台の上に残してきた未練が、九朗を引き留める。

 伊丹はそれを「今更」と笑ったりしないで、未練の形を一緒に見つめてくれた。


「それでも、俺は九朗がええよ。九朗とやってみたい」


 伊丹は、ずっと九朗が押し込めていた箱の中身を知っている。それを自分の前でさらけ出していいと、言ってくれているのだと思った。

 ポケットティッシュが卓の上に雪のように積もった。九朗は笑おうとしていたが、なかなかその努力は実らなかった。


「伊丹さんが、そう言ってくれるんやったら」


 涙で腫れた頬を手のひらで拭う間に、ひとつふたつ頷いた。その度に、ひりひりする後悔が胸の奥から湧いてきた。

 伊丹はそっと九朗の肩に手で触れて、無言のままでいた。店主はカウンターの下から出したティッシュの箱を、伊丹に見えるように隣の卓の上に置いて、またカウンターの中へ戻って行った。机の上においてある空の丼には、見て見ぬふりをした。


「……ずっとやってみたいコントがあったんです。橙とはうまいことできそうになくて、形にせんかったけど、頭の中にずっとあって」


「結論から言うね。”それ、絶対面白い”」


 九朗は咄嗟に口を押さえて笑った。九朗が声を立てて笑うのを、伊丹は初めて安心した気持ちで眺めた。


「伊丹さん、ChatGPTの真似とかするんや」


「そら、取れる笑いは取っていきたいやん。せっかく芸人やってるんやから」


 伊丹にとって当たり前のひと言が、九朗の萎縮した心を慰めた。そして、何を喪っても人を笑わせようとする限り自分は芸人なのだと、九朗の矜持を静かに震わせた。


「コントなら俺も書くの手伝えるよ。一緒にネタ考えよ」


「いいんですか」


「もちろん。九朗はなにが好きで、なにが嫌い? 聞かしてよ」


 好奇心に輝く伊丹の目が、九朗を優しく動かした。


「ここのうどん屋の黒蜜わらび餅がめっちゃ好きで、嫌いなものは蕎麦湯です」


「俄然食べたなってきた。頼んでから考えよか?」


 店内の様子をずっと見守っていた店主は、秋の雨が再び降り始めたことを、今入ってきた客たちの動きから知った。店の隅では、黒いパーカーの青年と、眼鏡をかけた茶髪の青年が、活発になにか言い合っている。黒いパーカーの青年は、夏頃から常連になってくれたばかりで、店主が思うにいつも少し寂しそうで、物静かで憂いを帯びた顔が、茶髪の青年の言葉でくしゃくしゃになったり、優しく破顔するのが意外だった。


 店主が黒蜜わらび餅とお茶のお代わりを持っていくと、二人はそれぞれ丁寧に頭を下げてそれを受け取ると、また元の会話に戻っていった。茶髪の青年の手元では尋常ではない速さでメモが消費されていた。黒いパーカーの青年は、白い頬を子供のように輝かせていた。


 夜は劫々と更けていく。懐かしい関西弁の会話に、時々ふっと笑いをこぼしながら、店主は硝子戸の龍が動かないよう、そっと願った。

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