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喜劇  作者: 新原氷澄


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喜劇2 アンタゴニスト Chapter.4(前)

 伊丹と九朗を乗せた電車が、白夜のように仄暗い西大島駅に着いた。スマートフォンの画面を光らせると、十六時を少し過ぎていた。伊丹は肩に寄りかかってうつらうつらしていた九朗の腕を優しく揺すり、「着いたで」と声をかけた。

 九朗は首をかくんと俯けてから、はっとして立ち上がり、頼りなく左右に揺れた。


「無理すると、また倒れるぞ」


 九朗は何も見えていない目を、開かない電車の出口に向けて、「帰りたい……」と呟いた。伊丹は後ろから九朗を支え、ホームから地上へ向かう通路へ押し出してやった。紙のように薄い秋物のジャケットを着た九朗の体は、中身も同じくらい軽く薄っぺらくて、それが伊丹を切ない気持ちにさせた。階段の手すりにずり下がるようになると、九朗は少し気が付いたのか、うわごとのように「すみません」と繰り返した。伊丹は「今はなんも気にするな」と答えて、通行人を巻き込んで転ぶことだけはないようにと、真っ直ぐに前を見据えていた。


 地下鉄の階段を登り切り、薄暮の街の下に出ると、九朗は深いため息を吐いた。見慣れた景色の中に戻ってきて、安心したのかもしれない。膝の上に手をついて休んでいる九朗の手を離し、伊丹も軽く息を吐いた。「一人で帰れるか」と尋ねかけたが、駅前には流れの早い大きな交差点があり、歩道の脇に吐瀉物を流した跡があるのを見ると、結局言葉を飲み込んだ。


「家、駅から近いか? タクシー呼んだ方がいい?」


 九朗は半分閉じていた目を開け、薄い瞼越しに、住所を告げた。伊丹は再び九朗の腕を肩に載せ、とぼとぼと歩き出した。スマートフォンで見た時は十分少々だった道のりが、一歩歩くごとに重さを増して、伊丹の肩に圧し掛かった。暖かい日曜日の夕方に散歩を楽しんでいる人々の目をいたずらに騒がせたり、歩道に満ちている黄金色の落ち葉に時々足を取られたりしながら、二人はゆっくりと住宅地の中に入っていった。その土地に或るのはほとんどが二階建ての民家ばかりで、昔からずっと同じ暮らしが続いていることが、余所者の伊丹にも分かった。


 九朗の家を探して辺りを眺めていると、九朗の細長い腕が、路地の奥にあるミントグリーンの縦長の建物を指さした。ずれ下がった眼鏡の角度を直しながら、伊丹はその建物を見上げてみた。近づくにつれ、壁面のミントグリーンが緑青を帯びてくすんでいるのが分かった。薄いスレート屋根は歪んで波打っていて、三階まで上る階段と、半地下へ向かう階段は錆び汚れている。二人が足取りを支えあうようにして上る階段は、カツンカツンと不快な甲高い音を立てた。街路から吹き込んだ落ち葉の成れの果ての茶色い紙屑のようなものが、その足元にまとわりついた。


 冷たい銀色の扉を開け、転がり込むように家の中に入った。アパートの左半分を覆う無花果の木が擦れる大きな音はそこで途切れたが、代わりに欝々した沈黙が二人を包んだ。カーテンが秋の残照を遮っているせいかもしれない。ひとつには、埃の積もった銀色の段ボール箱が積まれて、テーブルや仕切りの代わりをしているせいもあるだろうか。西向きの窓のそばにベッドがポツンと置かれていて、その枕元に背丈の低い本棚がある。小さな棚の中はほとんど空っぽだった。おそらく、そこに入るはずの物たちは、段ボールの中に大人しく収まっているのだろう。ネイビーのラップトップが一台、ぽつりと置いてあった。この部屋には、食べ物の気配がほとんどなかった。冬の朝のように薄い陰影をまとっていて、明かりをつけても気の滅入る部屋だった。


「九朗、あとちょっと頑張れるか」


 伊丹が九朗の背を優しく叩くと、九朗は弱弱しく返事をした。おそらく「はい」と言ったのだと解釈して、伊丹は玄関で蹲ったまま動かなくなった九朗の体をひっぱりあげて、ベッドの中へ押し込んだ。そして九朗が着ていた上着を脱がせて、くしゃくしゃに丸まっていた布団を肩までかけてやった。


 伊丹が世話を焼くのを終えると、九朗はひっそりと鼻をすすった。何度かその音を聞いているうちに、伊丹はそっと目を逸らした。九朗は薄い枕に顔をうずめて、嗚咽を嚙み殺し噛み殺し、小さくなって泣いているのだった。


 伊丹は何も言葉がなくて、雑誌と衣服と段ボールの間にある小さな空間に座っていた。しばらくその音を聞きながら、九朗は今日の失敗だけではなくて、もうずっと限界だったのだと、静かに悟った。そこにいて、できることはもう何もないはずだったが、伊丹の足は動かなかった。九朗を押しつぶしているのは、失敗それ自体の重さではなくて、彼が持つなけなしのプライドだった。これまで九朗を舞台に押し上げてくれていた人の期待や希望といったものが、光が、九朗の視界を真黒に塗りつぶしている。芸人を続けるという選択肢が、目の前から消えていく絶望感。相方に背を向けられ、瞬時に自分に向かう失望感。声を上げて泣くことができない九朗の気持ちが、伊丹は理解できた。なにか言ってやりたい、力になってやれることならなんでもやってやりたいと思ったが、伊丹の思いが届く気配はなかった。


 こんな時、九朗の本当の気持ちを分かってやれるのは、相方の橙以外いないはずだった。しかし、橙はここにはいない。恐らく、この廃人一歩手前のような部屋に入ったこともなく、見た目よりはるかに深い九朗の絶望を、見たこともないのだろうと思った。九朗と橙の共通点はお笑いが好きなこと、その一点だけで、そのほかのすべての点で異なっている。九朗の内側に響く悲鳴を、橙が聞くことが出来なくても、それは橙一人の責任ではない。それでも――相方と呼び合う人の間で、舞台の上でたった一人信頼できる相手との間に、救いがあってほしかった。それは他の誰とも代替できない、特別なものだと、伊丹は信じていた。

 指先に力を込める。画面が光るのが分かる。そっと指先で相手を選び、文字を打ち込む。「助けて」

 友にすがりたい気持ちを呑み込んで、伊丹はスマートフォンの画面を閉じた。自分の相方ならなんというか、眉間に皺を寄せて懸命に考えた。隣に青崎がいなくても、声が、視線が、真っ直ぐに前を見つめる横顔が、瞼の奥に浮かんだ。


 半ば自動的に、伊丹は九朗が包まっている布団の上に手を伸ばした。綿の少ない布の下にある人間の身体が、一瞬強張ったのが分かった。手のひらでぽんぽんと撫で続け、同じ言葉を心の中で繰り返した。


 普段は極めて言葉数の少ない青崎が、伊丹と過ごした時間の中で身につけた最小限の仕草。伊丹は優しさを添えて、それを九朗にも差し出した。不器用に触れるリズムもそのままで。九朗の骨ばった肩の力が、少しずつ和らいでいった。袖口で鼻をすする懸命な努力を感じると、ティッシュの箱を布団の中に突っ込んでやった。唐突な親切に、九朗が微かに笑った。涙でぐずぐずになった笑い声と、逃げ惑うような「エヘン、エヘン」と咳込む音が混じって、日暮れの温度になった部屋の隅で響いた。伊丹はなにも言わなかった。泣き啜る声が遠くなっていくのを確かめて、手を引っ込めた。気がつくと夜闇が控えめに部屋に影を落としていた。


「……お腹へらへんか、九朗」


 布団の中の九朗が頷いた。食欲があるなら、少しは元気になる余地がある。短い廊下にあるキッチンを振り返ってみたが、食器さえほとんど揃っていないし、電熱器が据えられたキッチン台には、使った気配もない。それでも電子レンジがあったので、伊丹は少しほっとして、「なんか買って戻ってくるから、ちょっと寝とき」と声をかけた。

 伊丹がそっと立ち上がると、


「……伊丹さん」


 九朗が小さな声で名前を呼んだ。


「うん?」


 「俺なんかもう見捨ててください」という自暴自棄と、「ありがとうございます」という月並みな感謝が、九朗の舌先に並んでいた。それは彼の胃を重くし、指先を冷やし、首の後ろを締め付けた。九朗の心は空っぽで、伊丹の優しい相槌だけが、わずかな温かさを湛えて反響していた。その温かさを手放す勇気が出なくて、九朗はまた言葉を飲み込んだ。くしゃくしゃになったティッシュが指先に触れて、情けなさが募った。


「うどん、食べたいです」


「ええなぁ、あったかいうどんにしよか」


 九朗は大きな二酸化炭素の塊になった溜め息を吐き出し、布団のようにくしゃくしゃになった顔を枕に押しつけて、目元の熱を拭おうと努力した。


「……この近く、美味いうどん屋あるんです。香川のうどん屋」


「え、めっちゃ羨ましい。ええなぁ」


「店教えるんで……あとちょっとだけ待ってください」


 伊丹は少しだけ返事を保留して、それから静かに笑った。


「ええよ。二人で一緒に食べに行こう。腹空かして待っとくわ」

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