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喜劇  作者: 新原氷澄


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22/22

喜劇2 アンタゴニスト Chapter.3(後)

 斜陽に沈む猥雑の舞台と思われた歌舞伎町ホールは、開演直前になって満員の客で埋まった。そのほとんどが若い女性客、次いで若い男性客の姿もあることに、友成は静かに驚いた。区民ホールや地域の外郭団体が持つホールを借りて行う古風な漫才の興行とは、やはり一味違う。女性たちが手に「(みつる)くん」「吾輩は猫である」と書いた色とりどりの団扇やぬいぐるみを持ち、盛んにカメラで写真を撮っている姿は、アイドルのコンサート会場の高揚に近いように見えた。


「これ皆、「猫」さんのお客なんかな」


「せやろなぁ。下北の時より更にすごなってる気がするな」


 伊丹はスマートフォンを開いて、タイムラインの流れを見る。朝の十時に更新されたばかりの「吾輩は猫である」の非公式インフォが呟いた歌舞伎町タワーライブの告知が、凄まじい数のプレビューをたたき出していた。演台を目指して入ってくる客は漏れなくスマートフォンやカメラを手に携えており、合間に紛れ込んだ海外の客たちが、ちょっと異様な熱気に戸惑っていた。


 同業者に見られているとやりにくいだろうと相談をして、三人は演者から遠い三階にあがり、吹き抜けの上から舞台を眺めることにした。開場の五分前になると、あからさまに着なれないスーツを肩にかけた若手芸人が出てきて、通路の動線確保や鑑賞の注意事項を読み上げ始めたが、それに意味があるようには思えないほど、会場の混乱は深まっていた。


「もう始まるんやんな?」


「時間通りであれば」


 友成は時計を見るまでもなく、盤面から手首を撫でて頷いた。


「……この会場、ちょっとやばそうやな」


 青崎の肌感覚は正しかった。司会者からプログラムが発表されると、前のめりになっていた客たちの空気が簡単に緩んだ。「猫」が出るまでの客の白けた空気は、至近距離で舞台に上がる若手芸人たちの心を平気で折っていった。まばらな拍手、平然と交わされる私語、どこに向かっているのか分からないカメラの音。一秒も無駄な時間を過ごしたくない客と、自分の面白さに自信がない若手芸人の相性は、考えるまでもなく最悪だった。


「この空気の中で漫才するん、きっついなぁ」


 賞レースの水を打ったような沈黙は、息苦しいが耐えられる。しかし、誰も自分を待っていない、見ていない現場の仕事は、続ければ荷重がかかる、心が折れる。伊丹の眼差しが、漫才への好奇心から演者への同情へ変わっていくのも無理からぬことだった。スマートフォンを開くまでもなく、今この会場で演者に関心を持って、彼らに耳を傾けている者はほとんどいない。


「……「猫」はどうなるかな」


 青崎の呟きを聞いて、友成は無言で時計を見た。開演からやっと半分の時間が経っていた。隣で伊丹が「うう」と呻いた。「吾輩は猫である」が、今狭い会場中の期待を一身に背負っていることに、胃を痛めているに違いなかった。


 「猫」の前座を務める最後の芸人たちが、落胆しながら舞台をはけていった。


 最初に変わったのは、照明だった。舞台の上を駆け巡っていたライトがすべて消えて、つかの間の平穏が訪れた。ざわめいていた会場の雰囲気は、「吾輩は猫である」の名前が告げられると同時に、余計な音がすべて途絶えた。会場はもちろん、無関係に飲み食いしていた酔客たちの視線さえさらって、それは機械のシャットダウンと再起動のように、滑らかに、秩序だって行われた。最前線を陣取る人々が一斉にスマートフォンを傾けて、散らかったテーブルの上に置いた。


「あ、始まる」


 スポットライトが中空から舞台を貫いた。光の先には濃いスモークが炊かれ、一瞬の後に銀色の衣装を着た夏目が現れた。会場の空白に「きゃあ」という黄色い悲鳴が上がり、その声を飲み込むように客席から大きな拍手が聞こえた。


 拍手が止むと、夏目は毛先に向かって青に染まった髪をそっと肩に乗せた。長い指には大きな宝石が付いたリングが何本も絡みついていた。その指で銀色のスタンドマイクを手繰り寄せ、夏目はアカペラで歌を歌い始めた。それは或る映画の主題歌だった。青崎と伊丹も、この歌舞伎町タワーに来る直前に壁面ディスプレイで広告を見ていたのに、その歌が夏目のために作られたとしか信じられなかった。漣のような感動が会場を伝播していった。


 夏目は曲のサビからAメロ、またサビへと繋げて、まったくの無音のまま歌い切った。歌い終わりに小さく息をして、眦を上向きに跳ね上げた綺麗な目を閉じると、最初よりも大きな拍手と口笛が会場に響いた。伊丹は「すごい」という声を小さく漏らした。青崎も同じ感嘆を飲み込んだ。たった数分のコントのために、歌声と容姿を作り込み、歌手になり切ることがどれくらい難しいのか、その数十秒の重みを一番肌身で感じているのは、同じ芸人である彼らに相違なかった。吸い込まれるように夏目を見つめ続けていると、夏目は銀色に染めた睫の先をふっと持ち上げて、伊丹の目を見た。百人を超す人が詰めかける会場でも、夏目は伊丹を見つけ出して、なにかを訴えていた。それが何なのか伊丹には分からないが、夏目の求めているものが、伊丹の掌中にある。たった一瞬の、切実な眼だった。


 夏目の両手がそっとマイクから離れ、視線の糸もほどけた。と同時に、夏目の赤い唇からどす黒い血が溢れた。コポ、と金魚のように泡を吐き出しながら、夏目はその場に崩れ落ちた。


「マミちゃん!!!」


 客の目に入らない死角から、舞台の中心に勢いよく滑り込んできた中村が、倒れる夏目を受け止めようとして、一緒に転がった。亀裂のような笑いと驚きの悲鳴が入り混じった。会場が混乱する中、中村は転がり続けて床に縋るような姿勢になりながら夏目の身体を支えようとした。


「マミちゃん、しっかり、マミちゃん!!」


 中村の衣装はチェックのシャツとジーンズというラフさで、二人のコントラストだけで滑稽な場面だった。夏目は中村の腕の中に収まり、切れ切れに別れの言葉を吐いていった。切ない音色の音楽が自然に差し込まれ、チェックのシャツを着てライブを見に来る冴えない男に片思いをしていたという「マミちゃん」の恋情が自然にあふれだした。


「どうしても自分からは言えなかったの、こんなことになるなら……」


「ごめん、僕本当に一ファンとしてマミちゃんが好きで……」


「ううん。最期ぐらいって、ちょっと期待しちゃったけど……それだけだから」


「本当にごめん、恋愛対象としてはちょっと考えてなくて……」


「うん、分かってるから。何度も言わなくて良いから。本当に脈ないんだね」


「だって、ほら、僕こんなだし。マミちゃんみたいな人とは釣り合わないよ」


「ふふ……中村くんのそういう謙虚なところが、好きだったの……」


「ライブで見るマミちゃんは本当に素敵なんだけど、普段スナックのママやってるマミちゃんはちょっと……」


「なんで今そういうこと言うのよ」


「ごめん、ハイボール飲みながら振り付きできゃんちゅー歌う姿が本当にキツくて」


「好きな歌歌ってなにが悪いのよ。いいじゃない、きゃんちゅー可愛いし」


「マミちゃん二十九歳だよね? ちょっとキツいな~って自分で思わなかった?」


「なんでよ、紅白出場歌手は皆のものでしょ。なんでそこまで言われないといけないのよ。中村くんに迷惑かけてないし」


「僕の中で、マミちゃんは孤高の歌姫のイメージがあったから……だから、マミちゃんに恋するなんて考えもしなかった」


「……中村くんて、本当に不器用な人なのね」


 そっと微笑むと同時に、再び咳き込んで血を吐く。不吉な赤が二人の衣装を同じ色に染めていく。終わりが近いことを予感しながら、観客たちは二人の舞台から目が離せなくなっている。


「マミちゃん……しっかりして、マミちゃん!」


「ねぇ、中村くん、もしも来世があったら……今度こそ私と踊ってね。何度誘っても、あなたは舞台に上がってくれなかったけど、あなたと踊ってみたかったの」


「うん……うん……」


 夏目は最後の台詞を言うと、満足そうに目を閉じ、項垂れた。中村の慟哭が三階の吹き抜けまで響いた。今度は青崎も耳を塞がないで、最後の一息まで受け止めた。


 夏目の身体をそっと床に横たえると、中村はゆらりと立ち上がり、舞台の中央へと動いた。緊張が頂点に達した舞台で、中村が何をやるのか、会場全体が前のめりになって見ている。


 舞台の中央に立った中村は、しなやかに巨体を滑らせ、肉のついた指で宙の一点を差す。青崎は中村と目が合った気がした。しかしその眼は、なにも見てはいなかった。


「マミちゃん……僕、踊るよ」


 中村の指先を差す一点のスポットライトから、光の洪水が広がった。


「いくよっせ~の!」


 女性の掛け声とともに、どこからともなく現れたフリフリの衣装を身に着けた女性たちが舞台に上がり込む。


「倍~の倍のfight!」


「倍倍fight by CANDY TUNE(キャンディーチューン)!」


 あらゆる方面に愛嬌をふりまくダンスと歌がはじまり、会場の空気があっという間に音楽に飲まれる。赤黒いシミがついた衣装はいつの間にか舞台から消えていて、中村も装飾過多なアイドルのドレスを身に着けていた。アイドルとは程遠い中村の体形に合わせて誂えてあるのか、衣装もキレのいい動きを阻害しない。ダンサーと一緒に一糸乱れぬ完璧なダンスを披露し、距離の近さでお客を引き込んで、今この場所は完全に「猫」の独擅場になった。


「ありがと~!」


 客席から沸いた大きな拍手の中で手を振っている中村のそばに、いつの間にか夏目が立っていた。まだ口元から血を滴らせたまま、幽霊らしく寂しげにぽつりと、


「倍倍FIGHTじゃなくてJANE DOEのイメージだったの」


「あ、ほんとに?」


 中村が笑うと大きな笑いが生まれ、そこで幕切れがきた。中村と夏目は、舞台を囲む三方に「ありがとうございました」と頭を下げ、紙吹雪の舞う中を歩いてはけていった。笑いと混乱と感動を作り出した王者の退場シーンを、観客たちは満足して見送り、そして彼らが消えると同時に席を立った。青崎と伊丹がいる三階の吹き抜け横にもその流れは届いて、一見の客たちさえ「終わった」空気だと察してゲームコーナーや飲酒スペースへ去っていく。伊丹は縋るように友成の顔を見たが、友成も「まだ、時間残っていますよね」と言うしかなかった。


 「猫」よりも先に出てきた芸人たちの焦燥も激しかったが、その後に出てきた芸人たちはもっと弱弱しかった。舞台前面の客が去り、さりとて立ち見の客が埋めてくれるわけでもなく、空元気で威勢よく出て来たものの次第にボケの声が弱くなり、ツッコミの大声だけが響くという最悪の数分間を披露したコンビもいた。三人は最後まで吹き抜けの上からライブを見ていたが、「猫」が去った後は舞台の空白がより一層目立つような気がした。紙吹雪の名残が、誰も見ていない演者の足元を寂しく彩っていた。


「……帰るか」


 最後の演者に拍手を送ってから、青崎が言った。歌舞伎町タワーのライブは誰がどう見ても「猫」の圧勝だった。それ以外の演者たちは、速やかに今日のことを忘れたいと思っているに違いなかった。青崎と伊丹も、自分たちが出演した舞台ではないのに、同じような胸の痛みを覚えていた。しかし伊丹は顔をあげて、


「ちょっと待って、この後話したい人おるんや」


「夏目さんですか?」


 友成の質問に、伊丹は首を振った。


「いや、「桜桃おうとう」の九朗(くろう)。なんか今日、ちょっと様子変やった」


 「桜桃」は「猫」の後二番目に出てきた若手のコンビで、ツッコミの橙とボケの九朗の二人から成る。二人とも芸歴は三年目で、今日は中途半端に舞台慣れした感性で客席の温度感を読み違えて滑っていた、というのが友成の内心の見立てだったが、そのことは口に出さずに、「では僕も一緒に行きますよ」と言った。青崎はなにも言わずに後ろからついてきた。


 再び控室へ向かう道のりを三人で歩いていると、楽屋前の白い通路で声高に言い争っている人々がいた。伊丹が先頭を切って駆けつけてみると、争っているように見えて、騒いでいるのは一人だけだった。


「なんで、あの程度のアドリブで固まんねん。お前何年お笑いやっとんねんボケ!!」


「……ご、ごめん……」


「前の人のネタちょっと弄っただけやろ、そんな難しいことか? なあ。いっつもしょうもない苦笑いで誤魔化しとるけどよ」


「…………舞台上がったら頭真っ白になってしまって……」


「そんなん俺も一緒や。「猫」さんの後で緊張せん奴なんかおるか。ほんでも俺ら芸人やろ、爪痕残してなんぼやろ!」


「……ごめん……」


 言いがかりをつけている方が、会話の半分が相手の「ごめん」で終わっていることに気づいたのか、二人の争いを見ている青崎や伊丹に気づいたのか、ようやく諍いが終わった。


「……煙草吸うてくる」


 早口の関西弁で相手を面罵していた金髪の青年――橙は、暗い眼をしている相方から目を背けて、喫煙所の方向に向かって早歩きで去っていった。その後ろ姿に、誰も声をかけなかった。相方の九朗は疲れ果てたように、トイレの隣の壁にずるずると滑り落ち、黒い上着の背中を白く汚した。


「……九朗、大丈夫か」


 伊丹は隣にしゃがんで、そっと肩に手を置いてやった。九朗は泣きそうな顔で伊丹の顔を見た。


「伊丹さん……」


「お疲れさん。よう頑張ってたよ」


 客にウケなかったことは事実だから、「よかった」とは言えない。それでも客の心になにか残そうと奮闘したことをねぎらってやりたいと、伊丹は思った。本来であれば、それは相方である橙の役目であるはずが、当の相方とは大喧嘩を演じていて、それはとても望めそうになかった。自分の言葉が九朗に届くのは、本当に伝えたいことの何分の一だろうと思いながら、それでも言わずにはいられなかった。


「…………」


 九朗の薄い唇が微かに動いた。


「ん?」


「……気持ち悪い」


 伊丹の腕に縋ったその手は、指先まで真っ白になっていた。唇から血の気が消え、座っている姿勢を保つのも覚束なくなった。


「大丈夫ですか」


「貧血っぽいな。友成、温かいお茶かなんか買ってきてやってくれるか」


「分かりました」


 友成が足音を響かせて離れていく。伊丹は冷えていく九朗の手をさすりながら、腕の力を抜かないよう重心を保った。幸か不幸か白い廊下の人通りは絶え、バックヤードの冷たいリノリウムの床に二人は取り残された。


「あれ? 雲雀……」


 伊丹は九朗のことに集中していて、相方の姿を見失ったことに気が付いた。視界の隅で見落とした動きを、記憶を逆再生して思い返してみる。橙の大きな足音が去った後、上着の裾を翻してその後を追った長身の背中を見つけた。


「橙……」


 腕の中で九朗が呻いた。目を開けられないような激しい発作の中で、まだ相方のことを案じている九朗のことを、心から不憫だと思いながら、伊丹は敢えて明るい声を出した。


「大丈夫や。橙のことは俺の相方に任せとけ」


 九朗は浅い息を繰り返して、力のない微笑を見せた。伊丹は祈るような気持ちで、二人が去った先を視線で辿った。



 歌舞伎町タワーには喫煙所がない。瀬尾橙(せのおだいだい)がそのことに気がついたのは、上階へ向かうエレベーターの待合所前だった。二階フロアに喫煙所がないことは知っていたが、どこかの階にはあるだろうという目算が外れて、橙は小さく舌打ちをした。その音に、目の前にいた女性がビクッと身を竦ませた。彼は自分が立てる物音が人よりも大きいことを自覚していたが、今は人に配慮している余裕がないと自分に言い訳をして、目を合わせないように浅く頭を下げた。スマートフォンの画面を爪で叩きながら、喫煙所を探す。近くの公園まで少し距離があることが分かり、二度目の舌打ちを飲み込む。そんな些細なことで、更に神経が尖るのを感じた。


「おい、ちょっと待て」


 歌舞伎町タワーを出て右に曲がろうとしたところで、後ろから肩を掴まれた。手荒なキャッチかと思ったら、見知った顔の相手だったので少し驚いて、足が止まった。


「お前、衣装のまま大久保公園行く気か」


「……青崎さん、なんでここにおるんですか」


「ライブ見に来ただけや」


 橙が渋々振り返ると、青崎は掴んだ肩を離し、手を下した。そして、自分でもなぜ掴んだのか分からない、というように、じっと掌を見ていた。


「……ほんで、俺になんか用ですか」


「……別に」


 そう言いながら、青崎は橙の行く先を塞いだまま、退こうとはしない。瞬きの少ない眼は、まだ怒りの衝動を残している橙の神経の端々を追尾していた。


 青崎に止められなくとも、橙自身も、戻って九朗に謝った方がいいということは分かっていた。しかし、九朗が舞台で見せた弱々しい態度を許せない気持ちもまた、彼が芸人として見過ごすことのできないものだった。橙の内側で色温度の違う二つの炎が、混じり合わずにいつまでも燻っていた。


「暇か、橙」


「えっ……暇……って言うか、その」


「煙草吸えるとこやったら、喫茶店でもええのやろ」


 青崎は背を向けて、さっさと歩きだした。橙は否を言う隙を逃し、結局青崎の後について、セブンイレブンの二階にあるルノアールに入った。


「……珈琲一杯八百円」


 時給千三百円の身に余る贅沢だと思い、重いため息を吐いた。今日の出演料が幾らか入ってくるとしても、東京で暮らす若手芸人の厳しい経済状況は変わらないだろう。


 青崎は静かに珈琲を二つ頼むと、「一杯だけやったら奢ったる。二杯目は自分で払え」と言った。


 大正時代の雰囲気を感じる丸いソファに身を沈めながら、「新宿にはこんな綺麗なとこあるねや」と橙は独り言を呟いた。バイト先か、劇場か、あばら家のどれかしか行く先がない木っ端芸人らしい、貧しい感想だった。


 青崎は「大阪にはないんやっけな、ルノアール。珈琲美味いで」と会話に応じた。橙にはそれが意外だった。下北のシアター、中野の小劇場など、これまでも現場では何度か顔を合わせているのに、ゆっくり二人で会話したことはなかった。青崎は必要事以外、現場で滅多に口を開かない。もっと冷たい人だと思っていたのに、自分を追いかけてきて話をしようとしてくれる。しかも青崎の間合いに入ると、不思議と居心地が良いのだった。


「……なんで俺に声かけてくれたんですか」


「だから、別に理由なんかない」


「会場で一番滑ってたからですか」


 青崎は鋭く光る眼を僅かに橙から逸らして、つややかに光るテーブルの端を睨んだ。


「……あんな程度で滑ったの滑らんのって、しょうもない。俺らもっとエグい現場なんぼも見てきとる」


 優しい慰めの言葉は吐かない。しかし、年上の芸人として、同じ痛みを理解してくれている気がした。


「お前ら二階の客相手にするので精いっぱいで、上の方ほとんど見とらんかったやろ。三階は下よりも賑やかやったで。拍手してくれる人もおったし」


「……そうですか」


 青崎の静かな声を聞いていると、腹の底にため込んだ怒りが冷えていく感じがした。冷静になるにつれて、記憶の中の風景が鮮明になった。「猫」の舞台でお腹いっぱいになった人々の明るい顔、通りすがりの客の反応、九朗の焦り、怒りがこもった自分の声。それらを冷めた目で見ているもう一人の自分。


 橙はソファに背中を預けて、天井に向かってため息を吐き出した。青崎は黙っていた。


「青崎さん」


「なに」


「俺らの漫才、どうでした?」


「…………」


 思い出したように、珈琲に口をつけた。ふうと息を吹きかけると、珈琲の香りが柔らかく空気に沈む。橙は一瞬、「吾輩は猫である」の舞台で炊かれた濃いスモークを思い出して胸がつまったが、飲み下して唇を引き結んだ。


「……俺が言うのは余計なことやと思うけど」


「ええです、言うてください」


「……今のままやとあかんやろな。お前の相方、叱られた犬みたいにしょんぼりして、言葉が出んくなってもうてる。あいつの持ち味は、やわらかくて掴みどころのない変なボケやろ。話のオチがどこ行くんかわからん空気が面白いのに、お前の攻撃的なツッコミが、勢いで面白さを殺してもうてる」


「あー、あー、……やっぱり」


「お前のツッコミ、俺は嫌いじゃないけど。……お前は光が強すぎるタイプなんやろな」


 橙が青崎の視線の中に読んだものは、同情だった。静かで温かい眼差しだと思った。


「俺がもっと九朗に合わしてやったら……いやぁでも、あそこで弱いツッコミしても、客には届かんやろし、あの時は、場が静まり返っていくのが怖くて」


「せやな。生の舞台の、ああいう空気が一番怖い」


「ほんまに、周り皆死んでるんちゃうかって……いややっぱり俺が死んでるんやろかって、あんなにはよ終わってくれと思った漫才初めてです」


「……お前はようやってたよ」


「ほんまですか?」


「俺はちゃんと笑えたで。違う場所やったら、もっと笑えたやろう」


 青崎の飾らない言葉が、橙の傷にそっと触れた。それが傷なのだと、気づかないように目を逸らしていた痛みが、そこにあることを教えてくれた。橙の目に、薄く涙の膜が浮かんだ。


「俺ら、合うてないんですかね」


「今はそうかも知らん。相方はどない言うてんの」


「……あいつ、自分の気持ち言うの、得意やないんです。俺はいらちやし鈍いから、あいつの気持ち聞かんと進めてしもて、結局現場で失敗して……って、今まで何回もやっとるんです」


「そんだけ自分らで分かってるんやったら、俺から言うことないわ」


「俺は……俺は……」


 天辺近くがまだらな金髪を搔きむしって頭を抱えている間、青崎はなにも言わなかった。ただ、真剣な眼で橙の顔を見ていた。


「もう辞めたいか?」


「……辞めたほうがいいですか」


「いや、辞めん方がいい」


 それは意外な言葉だった。「辞めたいんやったら辞めてしまえ」と言われるのを覚悟していた橙は、青崎の表情を伺った。青崎は先ほどとなにも変わらない、澄んだ眼差しで橙を見ていた。


「お前はなんで芸人なったん。他になんもでけへんからやろ。お前の道はこっち、芸人以外ないよ」


 橙は、これまで青崎とほとんど会話をしてこなかった。しかし、舞台と袖では何度も互いの芸を見ていた。青崎のそれは一流の、芸以外に賭けるもののない人間が見せる、悲壮なまでの執念が作り出す一瞬の青い火花だった。それと同じものを、青崎は自分の芸にも感じてくれている。胸がすくような爽快感があった。


「……俺、九朗に謝らんとダメですね」


「そうやな。今のままやったら後悔しそうや」


 勢いで腰を浮かして、橙は店の出口を探した。青崎は黙々と珈琲を飲んでいた。一度も手を付けていない珈琲は、既に湯気の温度を失っていたが、良い香りはまだ鼻先に残っていた。橙はもう一度ソファに座ると、熱くもないカップを慎重に持ち上げて、音を立てないようにそっと口に運んだ。


「……珈琲飲んだら、謝りに行きます」


「それがええと思う」


 珈琲を飲み終わり、店内の音楽に耳を澄ましている青崎に、「吸わへんのですか」と聞くと、「辞めたんや」と言った。橙が「俺も辞めよかな」と心の中で短く葛藤している間、「誰かともう少し話したいとき、ちょうどええんやんなぁ」と言いながら、懐かしそうにテーブルの上の箱を眺めた。橙はだんだん青崎の人となりが分かり始めてきた。


「青崎さん、珈琲お代わり三百円ですって」


「うわぁ、それはズルいなぁ。ええなぁ」


 二人はメニューを広げて、見慣れないご馳走に目を走らせた。この際、値段の数字は無視することにした。


「この固いプリンも美味そうなんですよ」


「ええんちゃうの、頼んでみたら。奢らへんけど」


「奢らんでええけど、食うてる間もうちょっと話してて下さいよ」


「……ほな二個頼むか」


 「猫」のことも「鴉」のことも忘れて、二人はとりとめのない会話をした。店を出て、冬の匂いがする風に横顔を吹かれる頃には、橙の憂いは洗い流されていた。人の流れの早い歌舞伎町タワーなら、今から戻っても、彼が舞台で屈辱を味わったことを覚えている者はいないだろうと、気楽な気持ちになった。目算の通り、誰にも会わずに控室前の廊下まで戻ることができたが、そこで待っていたのは友成一人だった。


「友成。伊丹は?」


「九朗さんの調子が戻らなくて。心配だから送っていくと言って、先に出られました」


 友成の声は平坦だった。しかし橙は動揺を堪えきれずに唇を噛んだあと、深く項垂れた。


「橙、大丈夫やて。なんかあったら俺にも連絡きとるわ」


 青崎はスマートフォンの画面を撫でて、メッセージを確認した。伊丹からは「橙のこと頼むな」と一言、それを伊丹らしいと青崎は思った。


「もう一つ、お耳に入れておきたいことがあります」


「なに?」


 友成はそっと声を潜めて、「灯明(あかし)先生が中心になって、近々新しい企画を立ち上げるようなんです」と言った。青崎は珍しく前のめりになって口を開いた。


「あの人の仕掛けやったら、是非出たいな」


「誰ですか?」


 青崎の静かな高揚につられて、橙も顔を上げた。


「構成作家の灯明先生。あの人も芸のこととなると厳しいけど、面白い人やで。一回出さしてもらったら分かる」


「青崎さんはそう仰ると思っていたのですが……そこに中村さんが一枚嚙んでいると聞いたので、返事を一旦保留したんです」


「中村が……?」


 中村の言動を思い返す。青崎は一顧だにしなかったが、中村はしつこく「自分と漫才をやろう。同じ舞台でやりあおう」と繰り返していた。あれは社交的な中村流の挨拶などではなく、実は本気で舞台上でやり合うことを望んでいたのかもしれないと気がついた。


「ええやろう。向こうがその気なら、こっちも本気で叩き潰しに行く」


「ほんとに!!?」


 青崎の背後で、扉が勢いよく音を立てて開いた。控室で撤収作業をしていたらしい、大荷物を抱えた中村と目が合った。


「青崎くんが本気で僕と向き合ってくれるなんて嬉し~~!」


「余計なこと言わんかったらよかった……」


 勝手に手を取って、固く握り締めてくる中村の手を無理やり引き剝がすのに、青崎は随分苦労した。


「君たちは、いずれ僕ら世代を代表するコンビになるんじゃないかと思ってたんだよね。だから、早いうちにぶつかっておきたかった」


 底に冷ややかな感情を秘めていたことを感じさせる、冷静な声で中村は言った。すぐ後ろにいた夏目は、何の感情も抱いていない静かな眼で、相対する二人を見ていた。


「また会おうね、青崎くん。次はLINEのID教えてね♡」


「一生教えん。はよ帰れ」


 中村は舞台で見せた以上の愛嬌を振りまきながら帰っていった。「猫」の二人が廊下の曲がり角に消えていく後ろ姿を見送りながら、橙は小さな異変に気づいた。握り込んだ爪の先が掌に食い込んでいた。それは拙い自分の芸を初めて尊敬する人に認めてもらったことによって生まれた、本当に小さな誇りだった。同時に、これまでよりも大きな恐怖も感じた。今見送った廊下をそのまま進んでいくと、得体のしれないものが急に現れそうな気がした。白い廊下の奥に、地上の喧騒はなかった。


 そんな思いをやはり見透かしているのか、青崎は軽く橙の背中を掌で叩いた。青崎の横顔を見上げると、その眼は敵と対峙する勇者のように、ほの明るくきらめいていた。


「芸人てほんまにおもろい仕事やな」


 やっぱり、この人も化け物だと思った。橙から見れば、どいつもこいつも、正気の沙汰じゃない。——そう思いながら、まだ怖気て震えている手を、今度は自分の意志で強く握った。橙は、自分が芸人として生きることを、強く願った。あるいは、自分の狂気を信じようとしていた。それはとても厳かで悲壮な決意だと、友成は思った。



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